茨城県の方からも、やはりヤマセミの数が減少しているとのコメントを戴いた。シラスの壁など無い関東エリアでは遙かに生息は難しいと思われる。ご心配に成っておられる気持ちは大変良く理解できる。
さて、文句を言うのは誰にでも出来ること。最近はSNSで己の姿が見えないことを良いことに、他人の意見や行動を非難ばかりする卑怯な投稿が多い。自分の案、代替え案を持っていなければ非難したり、反論する資格がないことは世界の常識だ。海外でディベート(討論)に参加して自分の案・代替え案を持たずに、他人の意見や堤案を非難だけする様な者は一発退場か「卑怯者」と馬鹿にされ、笑い者にされてしまう。
人吉市のヤマセミ保護に関して、事実を上げて意見を述べたからには具体的なヤマセミの保護案・解決方法案を述べなければ、単なるメディア叩き、クレーマーに成ってしまう。勿論長年ヤマセミを観てきて、具体的ヤマセミ保護案が在ればこそ、先日の投稿になったわけだ。
人吉市におけるヤマセミ保護提案 その1.
人吉市市内および近郊でヤマセミが採餌したり羽休めしたり、さらには交尾行動を行う場所として、球磨川およびその支流にかかるワイヤー架線が非常に重要で在ることがこの7年間の観察で判っている。これは撮影した画像、数万枚で証明が出来る。
今は無い球磨川本流の架線上での交尾 2014年
球磨川支流の架線上での交尾 2013年
かって、くまがわ荘側右岸とひまわり亭側左岸を結んでいたワイヤー架線。
かっては毎朝この架線上からダイブして採餌するシーンを見せてくれた。
もうこの架線は無い上、くまがわ荘も無くなってしまった
ほぼ毎朝確認できた架線上のヤマセミつがい。
もう一つ、この架線の真ん中に留まるヤマセミは、広い球磨川の両岸からほぼ100mの距離に当たり、目当てに来られた撮影者・観光客・バードウォッチャーが何百人居ても脅威に感じないので、十分に観察できた。ある意味、市の鳥に制定された今こそ「在れば良いのに!」という架線なのだ。
同時にヤマセミにとっても猛禽類などを遠くから目視できる為、余裕を持って待避できたのだ、だからこそ球磨川の吹きさらしのど真ん中で、平気で交尾行動が出来たのだ。実は広い川の真ん中の架線上は、ヤマセミにとっても他の野鳥にとっても非常に都合の良い、しかも確実に安全な場所だといえる。
従って、撤去されたこれら架線を再度張ることで、ヤマセミの保護とヤマセミ目当ての観察者へのサービスを同時に出来る訳だ。幾ら掛かるか判らないが、民間の募金でこれが出来るので在れば、明日からでも運動を立ち上げたいと思っている。勿論行政・国交省球磨川河川土木事務所等の理解・応援が在れば我が国で初めてのヤマセミと人間の共創が成り立つ意味で画期的なことになるだろう。
人吉市におけるヤマセミ保護提案 その2.
もう一つは、先日の人吉城趾前(木山の淵)のカヌー練習領域のヤマセミ保護ゾーン(右岸・城趾側30m)の設定。川幅水流部分130~150mの内たったの30mを制限するだけ、それもほんの繁殖期5月~7月の間だけだ。
何も何万人に周知徹底する必要は無い。毎週クラブ活動でカヌーを楽しむほんの100名程度が理解・協力してくれれば良いことだ。30m人吉城趾側を漕げないことで、カヌー練習が出来ない事などあり得ないだろう?
球磨川は日本でも有数の急流だ、市内部分でも他に流れの速い瀬はいくらでも在るし、中川原公園脇でも練習は出来よう。ヤマセミは中川原公園で幼鳥教育はしないから、其処に艇庫を作れば、駐車場も在るので練習や大会も楽なのでは無いだろうか?大雨増水時はあらかじめ判るので、事前の待避作業は十分可能だろう。
Googleマップを拝借して判りやすく現状と提案内容を示した。
こんな簡単なことすら出来なければ、ヤマセミを市の鳥に制定した意義もかすんでしまう。オオタカの営巣地が在る事で、1996年クロスカントリースキー競技会場を替えた長野オリンピックの長野県に比較され、自然保護団体が動き出せば、世間、日本中の視線を浴びることになってしまうかもしれない。
ヤマセミやすべての野鳥の生息サポート(実は保護という言葉はあまり好きではない)は、ただ第三者的に優等生的な意見(=自分はただ言うだけで行動が伴わない)を提唱したり叫ぶだけではなく、どうすれば生息環境が改善されるかの具体案を提示し、行動が伴わなければ意味がないと思うのだが如何だろう?
繰り返すが、その提案が出来るのはヤマセミの生態・実態を自分で観察・理解できてこその事である事を記しておきたい。
そういう点で、筆者は永年クロツラヘラサギの保護・生息サポートを国際的なグループと共同してされている、八代市にお住いの高野茂樹博士からいろいろな事を学ばせて頂いている。
これらは現在作成中の早稲田大学への論文レポートへ掲載する。現状改善の具体的な解決案を出すまでが「人吉市におけるヤマセミと人間の共創」研究の根幹だからだ。現象だけレポートするのでは何も変わらない。物事が人間にとっても自然にとっても良くなる提案をしてこそ研究する意味があると思っている。