2015年9月30日水曜日

ヤマセミ、この1枚!#22 Selected photo of Crested kingfisher #22

  昨日報じられたNASA(=アメリカ航空宇宙局)の情報として、現在の火星に液体状態の水が存在する事から何らかの生命体が居る可能性が高まったと報道された。これ以外にも何らかの自然に出来たモノとしては理解しにくい構造物(地球で言えば人工的な・・・)の画像も色々な想像を掻き立てるに充分な数が発見されている。

 しかしSFファンの夢が現実になるのと同時に、筆者は恐ろしい想像をしてしまう。今まではこの全宇宙において地球以外の生命体は空想の世界の産物でしかなかった。物理的な証拠が無い為「居る可能性は皆無ではないが・・・」程度の認識で居た。だからこそ無責任な空想SFの世界が広がっていたのだ。しかし、もし火星に生物意が居る証拠が画像なりサンプル収集なりで確実になった場合どういう事になるか?

 現在太陽系の惑星は水金地火木土天海の8個の惑星と1個の準惑星(=冥王星)だが、このうち2個に生命体があるという事は2/8の確率、つまり最大で惑星4個に1個生命体が居る可能性が有る事になる。惑星の衛星まで含めるとさらに確立が高まる可能性もある。

 事実、木星の衛星エウロパ、土製の衛星エンケラドスなどにも非常に高い可能性があるため、人間より高度な知能か否かは別として、結構この太陽系・宇宙には結構ウジャウジャ生命体が居る事になったりする。この確率が高まる方が驚きに値すると思うのだが如何だろう?

 ・・・という事で、9月最後のこの1枚・ヤマセミはこれ!


 川辺川に掛かる架線上でくつろぐヤマセミつがい。この胸の褐色が見事な個体(オス)は2度も繁殖中の雛を天敵青大将にやられ、波乱万丈な生き様で観察者の間でも一番人気のオス、地元の一部では愛称・川辺川太郎と呼ばれている。

2015年9月29日火曜日

9月のオナガ、この1枚!#2 Selected photo of Azure-winged Magpie in September. #2.

 9月もいよいよ明日で終わり。昨夜はメディアの報道で「スーパームーン」をこぞって見上げた方も多かったのではないだろうか?今や中秋の名月やお月見、などよりスーパームーンという報道の方が人々を動かすと言う・・・時代もどんどん変ってしまっている。基本的に夕陽を綺麗に愛でる西向きのホテルやリゾートは非常に多い。日本は横に長い国土なので夕陽の名所は全国各地至る所に在るが、東向きで満月を愛でる名所は意外に少ない。

 海に夕焼けと共に沈む夕陽を愛でる日本人の旅の楽しみ方は勿論判るが、毎日楽しめないが、海から上がる満月を愛でる旅も在って良いのではないだろうか?年に何日も無いかもしれないがそれだけに貴重な旅になろうとおもう。

 9月になってこのブログでも一度アップしたオナガ!3日前に再び近所で騒々しく鳴いたのでツッカケを履いて後を追った。隣の大学の樹の梢で数羽が群れていた。

 今日の1枚は、オナガの飛翔。シルエットにするとやはりカササギに似ているカラスの仲間。








2015年9月28日月曜日

ヤマセミ、この1枚!#21 Selected photo of Crested kingfisher. #21.

 インターネットの普及やSNSの氾濫で、情報が新聞テレビといった既存媒体より早くなって、時代の変化そのもののスピードも異様に早く感ずる。人々の関心、言葉(日本語)の解釈・意味、広告業界や官僚に多い知ったかぶりの横文字(英語)置き換え多用の氾濫などなど・・・。

 そんな中でスマホなどタブレット型端末の普及により、今までの携帯電話を絶滅危惧種・ガラパゴス諸島の特殊生物のように見下げた嘲笑した呼び方に「ガラ系」と云うのが在る。スポーツの世界にもコレに似た国家的イベントが存在する。「国民体育大会=国体」がそれだ。戦後日本の復旧を狙い全国各都道府県を持ち回りで毎年夏・秋・冬に開催してきた由緒あるスポーツの祭典だ。

 全国植樹祭、全国豊かな海づくり大会、と並んで天皇皇后両陛下ご臨席の国内3大イベントだ。大手広告代理店勤務中はこの3大イベントの企画運営・の遂行担当を狙い毎年プレゼンテーションを繰り返したものだ。ほぼ電通・博報堂の大手2社の独占的大型イベントとなってはいるが、実質全国メディアにそれが報道される事は無くなって来ている。いわばガラ系イベントの代表格と言ってよいだろう。

 昨日9月27日付の朝刊に9月26日(土)天皇皇后両陛下をお迎えして今年の国体が和歌山で開かれた事を報じていた。和歌山国体と言えば1971年に横浜の大学のサッカー部員だった時、神奈川のサッカー代表出場権を掛けた神奈川県知事杯で実業団の東芝(川崎)と延長戦でも決着が付かず同時優勝して代表権を共有したが、東芝には全日本代表が3名も居た為我が大学は選手を出す事を遠慮した経緯があった。思いで深い国体だった。

 しかし、あれから44年!国体というスポーツの祭典のメディア報道の扱われ方の酷さよ!ブラジルサッカー選手・ネイマールの脱税記事の半分も無いのが、現在の国体の存在感なのだ。「日本新記録は国体から二度と生まれない!」と明言したアスリートが居たが、国体の存在そのものは今のままではそう長く在るまい。

読売新聞の最終見開きの真ん中あたりにごく小さく扱われている(小さく赤く枠で囲ってある部分)のが国体開催の記事。

上の記事の拡大。隣のネイマールの記事の半分も無い!時代は変っていくのだ。


という事で、平日のレギュラー、ヤマセミ画像、この1枚・・・・・今日はコレ!


早朝、球磨川に掛かる架線ワイヤー(今は無い)から豪快に20mダイブするヤマセミ。




2015年9月27日日曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #10.広告代理店『中央宣興』時代その7

  前回の生・吉永小百合すれ違い事件は、思わぬ反響を呼んでしまった。2名の旧友から「何故、今まで黙っていた?」「生の彼女を拝めると寿命が10年延びるんだぞ!」・・・・って、吉永小百合は観音様か?

 そんなに大変な事なのかとネットで良く調べたら、彼女は眼がど近眼で遠くが良く見えないという事らしい。それで、何処ででも出逢った人に失礼があってはいけないので、道端で人に出遭うと、だれ彼かまわず相手が判らなくても、関係がありそうだと思うと、とにかくお辞儀をする癖が在るのだと数年経ってTVのインタビューで知った。

 それにもう一つ重要なポイントが在ったのだ。吉永小百合さんは今筆者が関係している早稲田大学の卒業生で、大のラグビー好きだという事なのだ!たぶん今英国でやっているラグビーのワールドカップも眠たい目をこすりながら毎回観戦しているに違いない!
1960年代以降、ずーっと日本人団塊世代男性全体の憧れ。 Googole画像より

 それで、今になって判った事!あれから35年!当日の私は何を着て自転車に乗ってたか?そう、前回説明したとおりラグビージャージだったのだ!
街中だろうが、峠越えだろうが、追い抜く車から見えやすいようにラグジャを着た。

 六本木の街中の交差点の向こう側で、ラグビージャージを着て自転車を横に携えた若者?がいるのに出逢ったのだ吉永さんは。今になって思うに彼女がこちらを見ていたというのは、そのラグビージャージを興味深く見ていたのに違いないのだ。近眼の彼女には交差点の向こうからこちらの顔つきなど見える訳が無い!間違っても「ちょっといい男ね?」じゃなくって、目が悪くても判別可能な派手な横縞ラガーシャツを視て「何でラグビージャージなんか着て、こんな所で自転車押しているんだろう・・・?」コレが正解に違いない。35年経って二度も顔を赤らめる筆者だった。
筆者は何処へ行くにも自転車に乗る際はラグビージャージを着た。雑誌ポパイより 

 と、同時に当日の事が走馬灯のように芋蔓式に思い出されてきた。わざわざ三鷹から自転車で行った理由は単なる移動手段として自転車を使ったのではなく、筆者の自転車そのものを撮影する為だったのだ。つまりロードレーサー(=自転車)を撮影し、その画像を大きく伸ばしてそれをベースにイラストレーターがスーパーリアリズム手法でエアブラシで作画するのだった。だから全てのベースになる本物の自転車が細部のメカニズムチェックの為必要だったのだ、思い出した。

 つまりそのまま自転車本体もイラストレーターのアトリエに運ばれたのだ。そういえばホンダプジョーの駅貼りポスターを改めて良く視て、イラスト原画はフレームサイズやアッセンブル部品が筆者の自転車そのままだという事に気が付いた。どうやら後輪の変速機も個性的な縦型で当時一番人気のイタリア製カンパニョーロの物が描かれている。
 サドルも自分が使っているものそのままだった。久しぶりにポスターの原画を見てみて色々な事が判ってきて35年間の時空が一気に縮まった気がした。

 一方で、前回出てきた雑誌ポパイの自転車特集RUN RUN RUNは1981年1月にVAN時代の同期・内坂庸夫氏の声掛かりでお手伝いしたもの、宣伝部宣伝課から読売新聞のムック本企画プロジェクト「スキーライフ」発刊メンバーに選抜された雑誌出版界に在っては、当時既に新進気鋭のエディターになっていた人物。少しこの時の話をしてみよう。
ある意味、日本の若者をアウトドアに向けたエポックメーキング的雑誌。

雑誌ポパイ 自転車特集 1981年発行

 一人で40ページ以上の企画を任され、数々のスタッフをコントロールしながら特集をまとめるのは相当に大変だ。限られた時間に限られたスペースでジャーナリストとしてのテーマ表現をしつつ、なおかつスポンサーが広告出稿したくなるような魅力も盛り込まねば成らないのだから、複雑だ。 彼・内坂氏はそれをいとも簡単に長良川の鵜飼が鵜を上手くさばいて鮎を獲らせるがごとくスタッフを使いこなすのだった。

 この編集者達が凄いのは、昼間は取材撮影、夜は原稿書き!いわゆるビジネスマンと違って出勤・退勤などという時間の縛りが無いのだ。出版社のエディターたちは実に良く働く。こちらは中央宣興で昼間広告代理店マンをやりながら、仕事明けのアフターファイブに歩いて銀座1丁目から歌舞伎座裏の銀座3丁目マガジンハウスまで通うのが、臨時編集スタッフとしてのこの頃の二足のわらじ状態の毎日だった。土日はもう関係なかった。

 さすが、平凡パンチでブレイクした平凡出版(=マガジンハウスと名を改めるのは1983年)編集部には色々な芸能人や著名カメラマンが連日ひっきりなしに出入りしていた。片岡義男の文庫本でハワイのサーフィンシーンや味わいのあるハワイの文化風俗を掲載して大ファンになった佐藤秀明さん、浅井 愼平さんなど、一方で女性やヌードで有名になった篠山紀信、立木 義浩など、テレビや雑誌でしか見たことがない人々がうようよ出入りしていた。
 在る時など小さなエレベーター前で、エレベーターホール中に響き渡る大きな声でしべリまくる脂ぎった背の低い若者がいるので、思わず「うるさいっ!」と言った。そうしたら「スミマセン、しゃべるのが商売なモンで・・」と顔を上げたのが片岡鶴太郎だった。何かオーストラリアで夜中に歩き回るオポッサムの様な動物を思わせる風貌だった。
浅井 愼平さんの文庫本

 この自転車特集の取材では軽井沢~旧中仙道にロケバスで1泊2日の撮影ロケがあって同行した。大柄な馬場祐介さんというカメラマンが色々な角度から撮影をして、横で見ていて大変勉強になった。ロケバスの屋根の上から撮ったり、崖が崩れそうな林道に入り込んで、長玉(=望遠レンズ)で狙ったり、その後の自分の写真撮影に非常に勉強になった。この頃プロのカメラマンさん達の撮影方法、段取りは全て横でメモって置いたので今でも相当役に立っている。
自転車特集・撮影ロケ中の馬場祐介カメラマン

 色々なカメラマンと一緒に仕事をしたが、やはり馬場祐介さん、恩田義則さんに随分学ばせてもらった。この頃小学館から創刊されたBE-PALという都会型アウトドアの月刊誌の手伝いもしたが、そちらでは一色一成さんというカメラマンのスタジオでの仕事を学ばせて頂いた。

2015年9月26日土曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #9.」広告代理店『中央宣興』時代その6.

 スイス国境方面のモンべりアールに在るプジョーのメイン工場への2泊3日の打ち合わせ出張は行きも帰りも散々な目に遭ってしまったが、その成果は大したものだった。
 工場のエンジニア達の心もしっかりと掴んでしまい、お土産にとジュラルミン・パイプの超軽いフレームを個人的にとプレゼントしてくれたのだった。勿論ホンダの販売促進部に持って行ってこのフレームのロードレーサーを販売しないかと進言したが、量産できるのが2年先だという事と、アッセンブルして完成車にすると1台30万円以上することが判明した為中止になった。当時イタリアの名車コルナゴ、ビアンキ、デ・ローザなど職人気質が生んだ職人芸の作品が30万円台で充分買えたので、いわば大手メーカーのプジョーを30万円出して買いたい消費者がどれほどいるか予想が付かなかったのだ。

 この世界で初めてのジュラルミン・フレームの自転車はフランスの部品をアッセンブルして完成車とした。後に博報堂へ転職後、自転車が3台もあるので葉山在住の森戸ウインド仲間でもある後輩に暫く乗っていて良いよと預けた事があった。しかし後に縁在って博報堂に転職斡旋し同僚になった彼だったが、自転車は貰ったものと勝手に解釈し、こちらの知らない第3者に気前良く上げてしまい2度と戻ってこなかった。残念なことをした。ジュラルミン・フレームの価値を知らない素人に預けたのが大失敗だった。

 暫くして、この出張でホンダがプジョーから輸入する商品群のラインナップが揃ったので、売り出しのプロジェクトが組まれた。勿論そのプロジェクトの中心として色々なアイディアを出すことが出来で、自分としても仕事冥利に尽きる記憶に残る仕事になった。

 まず、広告宣伝戦略としては、ホンダの全国のディーラー店頭が一番の情報チャンネルとなる事から、店頭ポスターとカタログを充実させる事でメインの枠はすぐに整った。勿論一般のサイクルショップもチャネルとしては重要だったが、自転車屋として後発のホンダが売るプジョーを実績のあるブリヂストンサイクルや丸石自転車、宮田自転車を押しのけて売ってくれるとはとても思えなかった。そこでまずは話題づくりに徹する事として山手線・中央線など国電(まだJRになっていない)の通勤駅の駅貼りポスターでスタートさせることになった。

 この頃はちょうど1970年頃から始まった「ディスカバー・ジャパン」の後継キャンペーン「エキゾティック・ジャパン」が始まる直前で、国鉄の駅貼りB倍ポスターが盛んにヒットしていた。同時に広告宣伝クリエイティブの世界ではスーパーリアリズムというエアーブラシを使った手法でメタリックなイラスト画が注目されていた。
 そこで、普通なら自転車の商品物撮り撮影で造るポスターを、このスーパーリアリズムのイラスト画で造ろうと提案した。この案はホンダの技術者達には大好評で一発で決定してしまった。ホンダ販売促進部長ともピッタリ意見が合い関係者一同ワクワクしながらイラスト画の上がりを待ったのを良く覚えている。
イラストレーターの名前は記憶にないが、自分も貰えなかった。B倍判ポスター。

ホンダ・プジョーのカタログパンフレット。当時のホンダ担当の中央宣興営業マンが大切に持っていてくれたお陰でこうして紹介できる。貴重なモノ。(市川亨氏 所)

 この駅貼りB倍ポスターの威力は大したものだった。
ポスターが出来上がって暫くして、都内の主だった駅にコレが貼られた。特に私鉄の乗換駅には必ず貼りだされたと思う。そうして2日経った頃ニュースが入ってきた。国鉄目黒駅でポスターを剥がして持ち去ろうとした中年のおじさんが捕まったというのだ。どうして、誰が?と詳細を訊いたら驚いた事に剥がしたのは自転車屋のオーナーだったという。
 どうしても欲しかったと、1時間掛けて画鋲を少しづつ外したらしい。この話はホンダから聞いたもの。警察だか国鉄がポスターの本田技研工業の文字を見て連絡したらしい。
 勿論ホンダは大喜びで、その自転車屋のおじさんに別の新たな2枚のポスター現物をプレゼントしたと言う。中央宣興へもお褒めの言葉が在ったと言う。国鉄も自転車のポスターが剥がされると言う事件に相当面食らったと言う話を後に聞いた。何でもポスター泥棒の最高年齢記録だそうだ。

 メインビジュアルはこの話題満載のイラスト画でよかったが、数種類あるラインナップのカタログ用画像は六本木にある写真スタジオで撮影する事になった。勿論VANの時代から自転車で青山界隈まで通勤していたので、撮影の日六本木のスタジオまで三鷹の我が家から自転車で行ったのは当然の事だった。勿論いつものように目立つラグビージャージを着て、サイクルキャップをかぶって乗っていった。此処で実に面白い事が起こったのだ!

 原宿から表参道を直進、ヨックモックの前を通り、根津美術館の脇を直進で抜け、そのまま下り坂を西麻布の交差点まで降りて、後は六本木通りを溜池方面へ向かった。そうしてテレ朝通りの横断歩道で、自転車を降り手押しで信号待ちをしている時だった。道路の反対側からこちらをじーっと見ている女性が居た。凄く綺麗な人で見覚えがあるのだが、どうしても思い出せない。そうこうしている内に信号が青になり、こちらも向こうも横断歩道を渡り始めて見合ったまますれ違う事になったのだが、どうしても誰だったか思い出せなかった。

 そうして、まさにすれ違う時、その女性がお辞儀をしながら「こんにちは」と微笑みかけたのだ。反射的に「あ、こんにちは。」と返したが、まだ誰だか思い出せないで居た。
 撮影スタジオに入ってライトが一杯の大きなホリゾント(背景になる幅広のロール紙)
のセットを見て、女性を思い出した。顔が赤くなり、思わず声が出た「そうだ!吉永小百合だ!」


ちょうどNHKの夢千代日記に出演の頃で和装が多かった頃。 Google画像より


 

2015年9月25日金曜日

ヤマセミ、この1枚!#20 Selected photo of Crested kingfisher. #20.

 人の噂も75日と言うが、インターネットの発達はその日数を相当短縮したようだ。7月17日のオリンピックのメイン会場=国立競技場白紙撤回に始まり、9月1日のオリンピックエンブレムの白紙撤回など世の中を賑わす大きなニュースが一般メディア、ネットメディアかまわず飛び交った。

 しかし、9月25日の今日現在、ネット上も新聞等従来メディアも、この2件の問題を改めて取り上げる媒体は殆ど無い。当然人々の興味は安保法制国会通過やラグビー・英国ワールドカップでの日本チームの活躍ニュースだ。特に2020年東京オリンピック・エンブレムの白紙撤回はまだ25日しか経っていないのに、はるか昔の出来事のようだ。

 ラグビーの盛り上がりも、第2戦で実力差どおり日本がスコットランドに負けると、逆の意味で日本のメディアも秩序を取り戻してしまった様だ。

 ネットの発達でニュース・情報伝達は物凄く早くなった。昭和時代は半日単位のスピード、ラジオ、テレビ中継などで3~4時間の差で茶の間(今やそういうものは無いかもしれないが)に入った情報が、今は事が起こると数分後に発信され個人端末のスマホ等で、受け取る側がトイレの中だろうが電車に乗っていようが、何処にいようが数分あるいは数秒後に伝わる時代だ。

 この情報伝達の凄まじさを目の当たりにしたのが、集中豪雨で決壊した鬼怒川流域の救助劇だった。現場にいる被害者は堤防決壊も知らず、アッと言う間に迫る濁流に流され、情報無いまま屋根の上で救助を待つ、しかしその一部始終を安全なところで数千万人が情報端末で視ている。一方でその情報端末で仲間同士素早い情報交換を行い難を逃れた事実もある。

 今後はこれら情報端末を使いこなせる格差、クライシス・インフォメーション・デバイド(危機情報格差)が生死を決める時代になってくるのかもしれない。端末の機能と電源確保が重要に成ってくるだろう。

 
 今日のヤマセミ画像 この1枚はこの先観られる「ヤマセミの闘い!」の一こま


球磨川本流で鰻塚(川漁の仕掛け)の上で始まるヤマセミの死闘・初期段階。胸に褐色の部分が在り、主翼の裏が白いのがオス。まさにオスが2羽!。


 

2015年9月24日木曜日

ヤマセミ、この1枚!#19 Selected photo of Crested kingfisher. #19.

 北斗晶という元女子プロレスラーが乳癌で右乳房を全除去するという。こと、癌という厄介な病に関しては医学会において色々な学説や臨床例が在り、それぞれ「おいらが一番」「私の考えが絶対!」と医者同士が派閥もあってメディア上で激論を戦わせており、素人の私が読んでも何がなんだか良く判らない事が多すぎる。専門用語を羅列しやたら除去手術を勧める医師や高い抗がん剤投与を勧める医師がたくさん居り、それにより寿命を早めたり、地獄の苦しみを味わいながら亡くなって行く患者さんが多いと聞く。

 その一方で「ドクターX」のような年中「私は失敗しないので!」とか言いながら、やたら切りまくる手術をする女医のドラマがヒットしたりしている。世の中何処か狂ってやしないか?

 素人の私には癌と癌もどき(おでんのガンモドキの事ではない)の差は判らないが、江戸時代には癌で苦しみながら死んでいった人の記述が殆ど無い(=抗がん剤というものが存在していなかったから)・・・という話、健康な数値と言われる血圧のレベル数値がいつの間にかどんどん下げられている話、総コレストロール値が低い人より少し高めの人のほうが長寿・・・という判り易い話の方が身近に感じてしまう。勿論製薬会社と医者がつるんでいると言う話は本当の事だろう。

 酒屋と製薬会社は絶対に潰れ無い!という事実は両方とも人間の生活と健康に密接に関わりあっているからだろう。

 究極は、癌と言う病が発見された時、高い抗がん剤と入院費用にお金を使い、抗がん剤の強い副作用に苦しみながらベッドに横たわって生き長らえるのと、何の治療もせず自然の寿命に逆らわず例え癌であっても「これが自分の寿命と覚悟」を決め、普通に生活して枯れていくのとどちらが良いかの選択になると思う。自分的にはもちろん「無理に生かされる」より「自然に死を迎える」方を選択したいと考えている。そのために日々健康に気遣い、思い残すことなく「やれることは今やっておく・・・」に全力で努力している。今際の際にやり残し、おもい残しの後悔だけはしたくない。


  さて、今日にヤマセミの一枚は「強風時に岩にランディングするヤマセミ」連写画像!


球磨川本流で物凄い強風の日、風に流されながら岩に留まろうとするオス!

2015年9月23日水曜日

ヤマセミ、この1枚!#18 Selected photo of Crested kingfisher. #18.

 今日の夜、スポーツ界最大の奇跡!番狂わせと言われた先日のラグビー・ワールドカップ日本戦の第2戦・対スコットランド戦が在る。このスコットランド戦にもし日本が勝利すれば、世界は先日の南アフリカ戦が「偶然=フロック」の結果ではなく、本当に日本が強くなったのだと認め、今後日本チームに対する見方が変るだろう。日本戦の現地ブックメーカーの賭け率も大幅に変るだろう。

 先日の驚きと、その後のメディアの反応は、「日本は過去1勝しかしていない弱いチビ揃いの国、南アに勝てる訳が無い・・・」という前提での勝利だった事への反応だ。一部の日本メディアからは「女子レスリングで言えば、「モデルの華奢な桐谷美玲が吉田沙保里にフォール勝ちしてしまった」くらいのショックと例えられた程の出来事だったのだが、これにはそうなる条件が幾つかあったようだ。

 知人がFB(Facebook)上でシェア投稿(丸写しで情報拡散)した現地で観戦した人のレポートを視ると、日本Vs南ア・戦は誰もが(主催者含めて)南アの勝ちと決め付けていた為、他の強豪同士の戦い、例えば南アVsオーストラリア、ニュージーランドVsイングランド(地元)のように大スタジアム超満員必須のカードとは違って、比較的小さなスタジアムで観戦入場券も安いそうだ。結局高い料金の対戦カードの試合を見られない人々が安くて手ごろな日本Vs南ア戦を観に来た、英国人は日本人に似て判官贔屓の国民性が在るので「弱い日本を応援しよう!」となかなか現地でも手に入らない日本チームの応援ユニフォームを来て観客席に座ったと言うのだ。決勝戦を予定しているロンドンのラグビーの聖地トッケイナムスタジアム(8万2千名収容)とは訳が違う。

 結果、賭けの大好きな英国においても100対1以上の掛け率で南アフリカ優位、というより賭けにもなりにくかったカードで大逆転が最期の最期に起きたと言う点でラグビー史上に残る出来事になったのだろう。1999年UEFA決勝戦で後半終了間際ロスタイムでマンチェスターユナイテッドが2点入れ、強豪バイエルン・ミュンヘンを破り優勝した事に匹敵するいつまでも語り継がれるだろう。ある面、ラグビーワールドカップへ皆を注目させる意味で、格好のスタートネタになった為、メディアの扱いも大きくなったような気もする。

 しかし、拮抗した強豪同士のゲームとしての奇跡ではなく、蟻が像を倒したような「あり得ない事象」に対する驚きが今回の感動であって、次回日本がスコットランドを破ったとしても同じ反応は起きない。「あの南アを破ったのだからスコットランドを破って当然だろう・・」という世界の反応は手のひらを返したような事になると思う。それだけに一生懸命、今夜の日本チームを応援したい。


・・・と、スポーツの話になると止まらない筆者だが、今日の一枚は「ヤマセミダイブの連続画像!」
ラグビーじゃないが、ダイビングのフォルムは美しい。動画だと良く見えないので連続連写で!


子育て中のメスのダイブ、採餌に必死なのだろうと思う。球磨川本流で。

2015年9月22日火曜日

9月のオナガ、この1枚!#1 Selected photo of Azure-winged Magpie in September. #1.

 今年は長雨、気温の異常で夏の始めの頃以来オナガが暫く姿を消していたが、昨日久方ぶりに姿を現した。このオナガがオオタカと思われる大型の猛禽類に捕獲されて国際基督教大学の森に消えて行ったのが7月だから、あれから2ヶ月振りになる。

 一方でそのオオタカも保護のおかげで数が増え「希少種」の指定が解除されると今朝のニュースで知った。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150921-00050143-yom-soci 

 今朝の1枚はそのオナガ。数羽の小群でやたらギャーギャー鳴きながら隣の森を移動していた。




今日のおまけ=阿蘇山爆発直後の空中動画。玄界灘上空でANA機上から撮影。



2015年9月21日月曜日

ヤマセミ、この1枚!#17 Selected photo of Crested kingfisher. #17.

 いつの間にかシルバーウイークとか呼ばれている秋の大型連休!シルバーと言うからてっきり老人の日絡みの連休の意味かと思いきや、春のゴールデンウイークに対する、シルバーだという、紛らわしい。

 今朝パソコンを開けて一瞬Facebookのメッセージを確認したら久しぶりに誰も開いていなかった。一日に数分しかFBを視ないのだが、主な友達20名が同時にFBを見ていない日は過去においてあまりなかった。さすが連休で皆何処かへ行っているのか、寝坊しているのか?連休くらいSNSから離れようと思ったのか、この現象は面白いと思った。

 
 
さて、今日のヤマセミこの1枚は、ヤマセミつがいとムクドリの群れの出遭い。


今はもう無い球磨川上のワイヤー架線上で出遭ったヤマセミのつがいとムクドリたち。この架線は野鳥達の憩いの場だったらしく、セキレイ系やカワセミとの同居画像も撮れている。



2015年9月20日日曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #8.」1979年銀座の広告代理店『中央宣興』就職その5

 フランス出張の1度は筆者のVAN時代の先輩でもあり、自転車の先生・堀俊治氏(現・ラムズ バイシクル主宰)も一緒に出張してもらい、真剣にプジョーの技術陣と日本向け輸出自転車の部品アッセンブルについて討論したことがあった。討論は確か2日間みっちりやったと思う。本田技研工業の通訳・輸出入専門の方を介しての日仏サイクル部品談義だった。
VAN時代の先輩であり、自転車に関しての師、堀俊治氏。 雑誌ポパイより

 我々が会議に参加する前は日本が輸入する自転車のフレームサイズが女性用であっても560~570mmもあり、とてもじゃ無いが乗れない大きなものだった。身長170cmの筆者が大体530mmだからとてもじゃ無いが、そのままでは日本国内では売れる訳が無かった。
 まず、これらのサイズに関して全て白紙に戻しサイズ構成を最初からやり直した。

 次にアッセンブルされている部品の選定が大変だった。基本的にある程度以上の自転車はフレーム部分をブランド会社が製作し、ハンドル、ペダル、ギヤ、サドル、変速機等はそれぞれ専門メーカーのものを選んでアッセンブルするのが当たり前だった。これに関しても我々が参加するまでの計画・仕様書では、ヨーロッパ各国や日本の部品がバラバラにアッセンブルされていた。此処で、会議で少し熱くなった双方の関係者の潤滑油になろうと演説をさせてもらった。5分で良いから沢山売るために話をさせて欲しいと・・・・。

 まず、日本人の心の話をした。日本の女性達のフランスと言う国に対する憧れは、アナタ方フランス人にはとても理解できないほど強いのだ。日本の女性に訊いてみるが良い、「海外旅行に行けるとしたら何処に行きたい?」簡単だ100人に聞けば90人以上はフランス・パリと答えるだろう。あのルーブル美術館のミロのビーナスが上野の美術館に来た時5時間も雨の中を並んで観た日本人を知っているか?
ミロのビーナスが上野に来た時の話は驚きを持って受け止められた。

 この男の私ですらフランス映画の大ファンで、好きな女優は沢山いる、フランソワーズ・アルヌール、カトリーヌ・ドゥヌーブ、マリナ・ブラディ、ジャクリーヌ・ササール、ミレーヌ・ドモンジョ、ジャンヌ・モロー・・・これだけ言った時、プジョー側のスタッフが皆笑顔になっているのを見逃さなかった。それで相手側を見回したら一人おでこが見事に禿げ上がったおじさんが一本指を立ててている、何かを忘れちゃ居ないか?と言う仕草に違いなかった。そこで一言!ブリジット・バルドー?と言ったら拍手が来た。
往年のフランス女優、全部言い当てられたら貴方も映画通?Google画像より

忘れた訳ではなかったが、ブリジットバルドー。 Google画像より

 此処まで盛り上げて最後にこう言った。これだけ日本人はフランスに憧れているし、フランスのプジョーの技術が世界NO1であることも良く知っている。私の同僚の自転車好きは、プジョーの高価なレース用ロードレーサーのレイノルズ531のパイプを、事ある毎に自慢してうるさい程だ。そのような日本で売るプジョーの自転車が丸ごとメイ・ドイン・フランスでなくてどうする?
VANの同志、横田哲男氏究極の名車プジョー・ロードレーサー。

 例えば何かの拍子に部品が壊れた場合、それがイタリー製だったら「何故だ?何故フランスの自転車の部品がイタリー製なのだ?」と間違いなくクレームになる。しかしその壊れた部品がフランス製であれば、「フランスの部品が壊れたのであればしょうがない・・・。」と納得してくれるだろう。
 この考え方に関しては、全然考えもしなかったのだろう。ざわざわとスタッフ同士で話し合っていたが、やはりプライドをくすぐられたのだろう、返ってきた答えは「ウイ!トレビアン!」だった。

 もう日・仏の国際親善は完璧だった。昼休みになって食堂にワイワイ、ガヤガヤ移動する際に別の背の高い年配のスタッフが傍に寄って来て小声でこう言った「アヌーク・エーメ」フランス語はまったく判らないが黙って親指を突き出した。ラテン系の男達の脳の中味が半分以上「女」で一杯である事を知ったのもこの時だった。
アヌーク・エーメ フランス人の好きな女優の代表らしい。Google画像より

 この日の晩餐会は特別のものだったし、生まれて初めてフレンチのフルコースを経験する事になった。きっとプジョーの特別接待用のレストランなのだろう。特別の個室で8人ほどで食事を摂った。この本場のフレンチ・フルコースは生まれて初めての経験が幾つもあった。

 まず、デザートに色々なチーズが山盛りで出てくるのを初めて経験した。デザートにチーズ?これは考えもしないことだった。遺伝的理由でアルコール分解酵素が無い筆者は、ワインも受け付けず(アルコール類全て)華やかな有名レストランでのディナー経験は殆ど無かったが、デザートにプリンやスウィーツが出てこなくて、あまり好きではないチーズが出て来る事に驚愕したのを良く覚えている。食文化の違いに愕然としたものだ。

 同時に、エスカルゴが大きな兜(カブト)のような金属の半球に沢山の窪みの付いたモノに乗せられてでてきた時には、何事か?と思った。しかしこの不気味な装置で焼いた?エスカルゴを食べたおかげで翌日から2日間七転八倒の苦しみを味わう事になるのだ。
ネットで探しても出て来ないが、こんな感じで鉄で出来ていてカブトの様な形だった。Google画像より

 食事が終わって、翌日の昼再度プジョーの関係者と打ち合わせを行い、そろそろ午後の飛行機でパリに戻ろうとする時に異変は起こった。腰が立たない!物凄い悪寒で気持ちが悪い!何なんだ?生まれて初めての経験だった。とにかく動けない。顔中から冷や汗が出てきて中央宣興パリ支局の同行者は救急車を呼ぼうとしたほどだった。いわゆる食あたり!だ。原因は生煮えのエスカルゴ!
 
 魚介類、特に貝類の大好きな筆者はエスカルゴの類の食感、ニンニクの効いたフランスのこの食材は数少ない好物として、前夜の晩餐会で喜んで食べたのだった。ただし、金属のエスカルゴ焼き器?の側面に在ったデンデンムシはまだ充分に火が通っていなかったらしい。これが原因だった。

 さっきチェックアウトしたばかりのホテルに戻り、ほぼ3時間こん睡状態で寝込んだ。物凄い熱だったらしい。うわごとも散々わめいていたらしい。パリに戻る飛行機は当然夜の便になったが機内で飛行中通して毛布2枚に包まってガタガタ震えていたのだった。この出張は行きも帰りもとんでもないフライトだった。

 何とかパリのホテル(フォーブル・サント・ノーレ裏のモンタボール)に戻って、着の身着のままベッドに入り込んで翌朝気が付いた時はベッドの中で大も小も失禁してしまっており、猫足の陶器で出来たバスタブにお湯を入れ、着の身着のまま浴槽に入って脱ぐしかなかった。もう散々な状態でパリのクラシックなホテルがまるで戦場の野営基地のようになってしまった。
この画像をさらにクラシックにした大きなものだった。 Google画像より

 少し体調が戻ったので、2時間以上掛けて、汚物でまみれた衣服を洗濯し、ランドリーサービスに出したが、2日後戻ってきた時は綺麗になってはいたものの匂いが消えておらず、全て廃棄してしまった。下痢も止まらず熱がまだ下がっていなかったが、パリで寝込むのは嫌なので熱を下げる努力をした。果物屋でオレンジを8個ほど買い込み、外皮は剥いたが中味は袋ごと食べて、コートを着て厚着してまだ明けきれない早朝のパリの石畳を走った走った。






2015年9月19日土曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #7.」1979年銀座の広告代理店『中央宣興』就職その4.

 中央宣興に入って暫くの間は、葉山マリーナの改装計画やドイツのヘアメイク化粧品メーカーの新ブランド立ち上げのプロジェクト(=Kadasプロジェクト)、ホンダが輸入する事になったフランスのプジョーの自転車の輸入プロジェクト等、比較的洋物、横文字の多いジャンルの仕事が多かった。それぞれに逸話が沢山残っている。

 1980年前半の日本はバブルが始まる少し前、インフレが進み貿易面でも輸出過多が問題になり始めていた。特に本田技研工業はヨーロッパに対するモペット用の小型エンジンの輸出過多になり、貿易収支バランスを取るため何かを輸入する必要に迫られた。欧州経済共同体(=EEC)の調停もあって、ホンダはフランスからプジョーの自転車を輸入する事になった。此処で問題が起きたそうだ。
最新のプジョーサイクル、WEBサイト「SUMAU」より

http://sumau.com/page_category/design/firstclass_brand/6761.html

 これは当時の本田技研工業販売促進部長から中央宣興の担当営業経由で漏れ聞いた話でよく覚えている。それによると、本田技研工業という会社はバイクが好き、あるいは創業者の本田宗一郎氏に憧れて、慕って入社した社員が殆どだ。2輪のバイクやその後開発した4輪の車においても一人で何冊もそれらについての本を書ける社員が幾らでも居る。しかし、しかしだ、自転車となるとトンと判らない。残念ながら詳しい奴が誰も居ないのだ・・・。という事だった。

 それがある日、この販促部長が愛読している雑誌ポパイの「自転車特集RunRunRun」を手にしたのがきっかけだったと言う。そこで中央宣興の担当営業マンが呼ばれ「この自転車特集を担当した新庄と言うのは君の所の社員か?」という事になり、ホンダの輸入するプジョー自転車の日本デビュー・プロジェクトのアドバイザーになって欲しいのだが?とリクエストされお鉢が回ってきたと言う訳だった。筆者はこのポパイの40ページ以上にわたる自転車特集に編集スタッフとしてどっぷり参加していたのだった。
1981年5月25日号 雑誌ポパイ・自転車特集号

ハウトゥーものに関しては筆者も実際モデルになってノウハウを提供。

今から34年前に既に車と自転車共存の大切さと方法を解説していた。街中での自転車乗りには目立つラグビージャージを着用!と薦めていた。これも直後のポパイ誌上におけるラグビージャージ特集に繋がっていく。

 古館一郎がその後に青山1丁目の奇跡!と絶叫した青山1丁目の角に建つ白いビルはまだ建っていなかった。何処で打ち合わせを行ったかまるで記憶に無い。しかし、社内のほぼ全員が作業服を着て居たような記憶がある。SONYもその昔品川の社屋に行った時そういった記憶があるので、やはり技術系・製造業の会社は皆そうだったのだろう。

 中央宣興で5本の指に入るスーパー営業市川亨氏のおかげで、我が人生史上に残る印象深い仕事をさせていただいて、今でも大変感謝している。この仕事のおかげでパリに3回、プジョー本社のモンべりアールへ2度も出張させて頂いた。おまけにそのうち一度は9人乗りの超ローカル飛行機がアルプスの山の麓に不時着すると言う滅多にできない経験をさせてくれた。

 既にシャルル・ド・ゴール空港が開港していて、日本からの出入りは其処だったが、スイスとの国境付近のモンべりアールにあるプジョーのメイン工場へは、昔からあるオルリー空港から小型機(ひょっとすると社用専用機?)で移動するのだった。9人乗りの小型双発機は、オルリー空港のメイン滑走路に出る途中の通路からそのまま飛び立ってしまうという、あきれるほど簡単なフライトだった。
確かな記憶は無いがこのような翼が上の双発プロペラ機だった。 Google画像

 パリから東の方向へ1時間ほど小型プロペラ機で飛んだのだが、気が付いたらいつの間にか霧の中を飛んでいた。暫く飛んだら右の窓の先に大きな針葉樹の先っぽが幾つか見えたと思った途端!バキッと大きな音と衝撃があって、翼の先が1mほど無くなっていた。エンジンはちゃんとした音で回っていたが徐々に高度を落とし、緑の牧草が一杯の丘のような急斜面にランディングして、着地した途端えらい勢いで揺れた。つまりは不時着した訳だ。まだ斜面の日陰には雪が残っており、寒いので一旦機外へ出たもののすぐに機内に戻って寒さをしのいだ。九死に一生と言うような緊迫感は無かったが実はヤバイ所だった。
不時着したのはこんな感じの牧草地だった。

 1時間ほど待ったろうか、山の下の方からピーポー、ピーポーとピンクパンサーの映画に出てくるようなフランスの黄色く塗られた警察の車が数台登って来るのが見えた。
 パリのホテルにカメラを置いてきたのがこれ程残念だと思ったことは無かった。プジョーの工場は撮影禁止だと言うので、カメラを置いてきたのだった。誰も怪我をしたわけでもなかったが、飛行機の翼がこんなにモロい物だとは知らなかった。



2015年9月18日金曜日

ヤマガラ、この1枚!#1 Selected photo of Varied tit #1.

 秋が早まり、自然界も急速に保存食の貯め込みに入ったのだろうか?川を泳ぐ豊富な生魚を通年で採餌していきぬくヤマセミと違い、ヤマガラなどは秋になると松の樹皮等に松の実、松ぼっくりの種等を備蓄する。今回はそういう生態をじっくり撮影した。

 小倉の足立山山麓は住宅街から歩いて5分、100万人都市に接していながら、野生のイノシシ、サンコウチョウ、オオルリ、アオバトなどが沢山いる不思議な環境。森林公園の赤松林は約100羽のヤマガラが木の実を備蓄中だ。

 一体何処から湧き出てきたのかと思うほどヤマガラが沢山居た。その昔小倉の祇園祭りの屋台でおみくじを引いてくれたあのヤマガラの子孫達だろうか?

 
撮影者の方は視るには視るが、あまり気にしないようだ。散歩の人が元々多い場所。

回りを気にして入るが、盗まれないように警戒しているようで面白い。

松ノ木の根元に近い樹皮の隙間に獲ってきた木の実を詰め込んでいた。


2015年9月17日木曜日

サメビタキ、この1枚!#1 Selected photo of Siberian flycatcher. #1.

 福岡・北九州でサメビタキのつがいをあちこちで見かけた。コサメビタキとサメビタキは判別が難しいとあちこちで言われているが、地元の方に訊いたら今福岡県の県北で見かけるのは皆サメビタキだそうだ。地味な野鳥だが今回はあちこちで見かけた。

 撮れた画像を良く見ると羽縁の幅(目立ち度合)や嘴裏の黄色幅等を見るとやはりサメビタキのようだ。本来夏季に本州中部以北で繁殖、九州は旅鳥として渡りの途中で暫く見られる。北九州小倉の足立山山麓ではこのサメビタキとエゾビタキが毎年ほぼ必ず見られる場所がある。昨年は今回と同じ場所でエゾビタキのフライングキャッチを何度も撮影した。

 今日の1枚はサメビタキ!

ペアで行動している。必ず同じ樹に戻ってくる。足立山森林公園で。

少し色の濃い個体と薄い個体が居るようだがオスメスの差だろうか?

話は変わって・・・・。

 2泊3日で福岡・北九州に友人を見舞ってきた。重病だが元気で少し安心した。自分にとって大切な人が現在同時に3名も全国各地で入院闘病している。これは結構辛い。数年間音信不通になっていても仲の良い関係の友ではなく、普段頻繁にコミュニケートしている身近な友が沢山の管に繋がれて病と闘っている姿を観ると、とりあえず何かしてやらないと・・・と考える。

 ヤマセミを撮影する際は、まずヤマセミが今何処で何をする時間だろうか?どういう状況なのだろうか考える。それを想像して、予想して自分の撮影プランを考える。これと同じで、親しい友が闘病している現状を良く考え、その友にとって自分のどういう行動が相手の役に立つだろうと考えるのだ。

 今回の北九州の友は普段本音で何でも言い合える仲なので、逆に向こうから「東京で3箇所でしか売っていない輸入チョコを腹いっぱい食べたい!頼む!」というので、都心へ2度通って2箱分バラ売りのチョコを買占め持って行った。突然判明した重病に自分自身へこんでいると言う。それと闘う為に必要なのだろう、御廉い御用だった。

 また10月末に行こうと思う。今度は何に出遭えるだろう?

2015年9月16日水曜日

ヤマセミ、この1枚!#16 Selected photo of Crested kingfisher. #16.

 昨日は福岡県内を動き回って中味の濃い一日だった。
朝、昔1950年代に小学生だった時代に通った西鉄バスで小倉の魚町から大谷池まで行った。その当時は大谷口行きだったが、大谷池の所まで行くようになったそうだ。そこから森林公園まで足立山周回道路を歩き、森林公園で野鳥を撮影。

 やたら、ヤマガラが居て松の落ち葉の間から松の実などを咥えて飛んでいく。上の方ではやはりヤマガラが松ぼっくりを突いては実だか種を咥えて飛んでいくことを繰り返していた。
 そのあと、門司駅まで歩いて移動。国道沿いの大きな病院に友達を見舞い、門司駅から香椎駅まで快速電車で移動。東京で日常使っているSUICAでピッ♪と乗降出来るので、東京から遠く離れている実感が湧かない。

 わざわざ香椎の駅に車で迎えてくれた小学校時代の旧友に感謝しつつ、和白干潟に行ったものの潮周りが悪く野鳥は見当たらなかった。そこでまだ行ったことのなかった志賀島を目指し移動。休暇村で一休み。休暇村の裏でコサメビタキのつがいを撮影。足立山とほぼ同じような野鳥が活動していた。

 博多駅まで送ってもらい18:00には小倉駅に戻り、駅のコンコースの植え込みで鳴いているマツムシをしばし動画収録・録音。一日を終了、しめて2万3千歩の撮影行。

 そういうわけで、今日のこの1枚はヤマセミではなく、ヤマガラ!



松林の地面では多くのヤマガラ、シジュウカラが採餌している。2年前、同じ場所でオオルリやエゾビタキを撮影した。松茸の様ないい香りがしたのだが、まさかこの赤松林で獲れるのか?



2015年9月15日火曜日

ヤマセミ、この1枚!#15 「突然ですが阿蘇山爆発の瞬間!上空から撮影」 The moment of active volcano, the Mount Aso explosion !

  阿蘇山が爆発した!偶然福岡空港に向かっていたANA243便の左側11Aに座っていた筆者は、北九州上空通過中懐かしの門司や小倉の街を撮影していた。で、何の気なしに地平線の方、つまり南の方角を観たら地平線の上に黒いシミの様なものがジワーッと広がっていくのが見えた。

 何だろうあれは?と最初はUFOか、気のせいか?と思った数秒後すぐに「火山の爆発では?」と思った。但し、直感的に浮かんだのは桜島だった。とりあえず手にしているコンデジで数カット撮影し、上空からの撮影だから今いる場所が何処の上空なのか判るような絵も必要だろうと、通過中の手前の地上と噴火の煙を同時に撮れるアングルを工夫した。少し余裕が出たので動画モードにして数秒撮影した。ホテルに入ってパソコンで視てみたら悪い条件ながら記録としては意味のある画像や映像になっていた。
 最近のコンパクトデジカメは解像度も良く、乗っている航空機の窓に間違ってピントが合いさえしなければ記録写真としては良い絵が撮れるので愛用している。

 ほかの乗客はまず気が付かなかっただろう。福岡空港に到着して携帯の電源を入れた途端!見舞う予定の旧友から「阿蘇山が爆発したぞ!」とメールが入っていた。そこで初めて、そうか桜島ではなく阿蘇山か!と納得すると同時に自分の運命の偶然の巡り会わせに感謝した。

 阿蘇山は、2007年の全国育樹祭を広告代理店時代プロデュースした場所だし、冬季には外輪山や南阿蘇野草園へ色々な猛禽類その他の野鳥を撮影に行く場所なので、非常に身近なのだ。

今日はヤマセミの代わりに爆発直後の阿蘇山空撮画像をお届け!

航空機の窓を通しての画像で直線距離で120km離れているためこれが限界。

気が付いて一番最初のショット!北九州上空だった。



右の川は遠賀川。したがってこの画像は折尾あたりの上空か?

手前は玄界灘。右手が福岡空港方面。この段階では阿蘇山の爆発とは知らなかった。