2014年4月30日水曜日

キレンジャクの群れに遭遇!奥日光戦場ヶ原で2日間で3回!その2.  I met group of Bohemian Waxwing at Senjogahara of NIkko today and yesterday. Part2.

 過去においてレンジャク系は3か所で遭遇している。最初は2006年2月に熊本県八代市の八代城址において初めてヒレンジャクに遭遇。ヤドリギの実を食べたのだろう20羽程の小群のうち数羽が粘着性の糞を垂らしながら枝に留まっていた。か細いリン、リンと言う鳴き声だった。

 二度目は乗鞍岳中腹でやはりヤドリギに群がる20羽程のヒレンジャク小群だった。それ以降ヤドリギのある場所を注意深くその季節になるとチェックしたのだが、3か所目は奥日光戦場ヶ原だった。湯河沿いのズミの木やカラマツの梢に少し多めの3~40羽の群れで飛来するキレンジャクを過去3回ほど目視していたが、今回2日間に渡り3度の遭遇でやっと満足のいく画像を収録出来たのは幸せだった。

 今日ご紹介のキレンジャク群れは28日の2度の遭遇。気が付いたら40羽程の群れのど真ん中に入っていた。左右前後からリーンリーンと辺りを圧する線の細い鳴き声の合唱に囲まれ最初は何だろうと不気味にさえ感ずるほどだった。今までの遭遇が高い樹木の梢だった為、目の髙さで視られるキレンジャクのその姿と声の綺麗さにしばし感動した。

 キレンジャクは意外に撮影者を気にせず、何度もこちらに向かって飛来し頭をかすめて飛んで行くので羽音をしっかり確認できるほどだった。顔付とその姿勢の良さから秦の始皇帝の愛玩鳥だったという話も本当に聞こえてくる。

 かすかに残ったズミの実を咥えていた。もうすぐ海を渡って大陸に帰るのだろう。是非また来年来てほしい。ヒレンジャクが混じっている事もあると聞くが、まだ全部の画像をチェックできていないので数羽混ざっている可能性もある。

この湯川に沢山生えているズミの木はお気に入りらしい、早朝とお昼頃2度の集いに遭遇。

もっとも望ましいポーズを取ってくれた。何時も撮影に夢中になっているヤマセミとは対極のカラフルさだが、その冠羽と言い鋭い目つきと言いユニークさにおいては一緒だ。

まだ残っているズミの実を咥えているが食べたか否かまでは判らない。

湿原独特のコケともカビとも思える被覆物質に覆われたズミが戦場ヶ原での主食か?

※次回はキレンジャクの飛翔シーンだけを集めてみようと思う。




 

2014年4月29日火曜日

キレンジャクの群れに遭遇!奥日光戦場ヶ原で2日間で3回! I met group of Bohemian Waxwing at Senjogahara of NIkko today and yesterday.

 3日前、4月27日(日)から奥日光戦場ヶ原で野鳥撮影に挑んでいたが、今回はなかなかの収穫が在った。今まで奥日光は5月の連休の後、5月半ばに訪れていたが、今年は4月末に行ってみた所、冬が寒く長かった割には意外なほどの収穫でラッキーだった。特に今まで行けば何処かで見かけては居たものの、きちんと画像として収録できていなかったキレンジャクの群れに戦場ヶ原の木道で2日間に3度も行き当たり非常に幸運だった。

 とにかく熊は怖かったものの朝一番6時前に赤湯の駐車場に車を停めて、木道を湯滝に向かって歩き始めた。日の出が随分早い為朝6時前でも陽の光は充分。クマ避けの鈴だけが鳴り響く中いざという時の為の太めの一脚を手に左右に目を凝らしながら、野鳥の声と動きに注視しつつ木道を進んだ。

 昨日の早朝は大型の白いフクロウ系の野鳥が林間を低く飛んで消えたのを目撃!阿蘇の外輪山で1月に観たコミミズクが可愛い大きさに感ずるほどの大きな野鳥だった。それが今朝はなんと交尾している場面を目視でき、林間の奥なのでAFが迷ってしまいピンが在ってシャッターが下りてくれたのが、交尾終了後雄が飛んで消える所だった。詳細はまた後日報告したい。

 今日はとにかく出遭えて3回目のキレンジャクの群れ。旭川や北国では住宅街に大群で押し寄せたりするようだが、昨日今日の群れは40羽程の中規模の群れだった。街中で観るのとはずいぶん違うようだが、高原の枯れ枝に一列になっているのもなかなかのものだった。

 2回に分けて報告する予定だが、とりあえず今日は戦場ヶ原の木道の真上に位置するカラマツの上下2段の高枝に並んで留まっていた。最初は太陽に対して全くの逆光の位置だったが、そーっと木道を歩いて群れの太陽側に回り込み順光で撮影できた。割にこのキレンジャクは大自然の中では人間の存在をあまり気にするでもなく、まっすぐ撮影者に向かって飛んでくるようだ。

最初に視たのが見上げたこの画像。逆光だったが何とか撮影できた。尾羽の黄色が目立つ。


群れの真下をくぐって太陽の側に出て振り返っての撮影がこれ、10分間ほどこの状態が続いた。

少しズームアップして500mmで画面いっぱいに枝の部分を取りこんだ。

順次五月雨式にこちらに向かって飛んで来て、頭上を抜けて湯川の対岸方向へ移動始めた。

そのうちの1羽を上の画像に引き続き追ってみた、手前への移動物にAFを合わせるのは苦難。

最後に残った2羽、「お前行けよ!」「いやお前こそ先に!」と言っている・・・のではない。

※3日間眼を皿のように見開いて瞬きせず鳥視をした挙句に撮影し、夜は夜で撮影画像のチェックでパソコンを見てドライアイになってしまい眼が痛くてたまらない。しばらくブログのアップが不定期な時間になるがご容赦いただきたい。






2014年4月28日月曜日

戦場ヶ原でキビタキ!夕方6時。 I took several photos of Narcissus Flycatcher at NIkko Senjogahara yesterday.

 奥日光初日の昨日夕方、日が長くなった分夕方遅くまで野鳥が活動するだろうことを予測しつつ戦場ヶ原の一番奥、湯滝付近まで車で移動。湯川沿いに1kmほど下ってみた。
 すると混合種の小鳥群に出遭い、エナガ、ヒガラ、シジュウカラ、に交じってキビタキが現れたのには驚かされた。まだ囀りは聴かれず物静かなキビタキだった。

 通常キビタキはその一種独特の鳴き声で場所を特定してきたが、今回は目視の方が先だった。
迷彩服のこちらを警戒しつつも動かない。

30分以上同じエリアでフライングキャッチで羽虫をとらえていた。

すぐ足元を泳ぐ定着したオシドリのつがい。

通年で湯川で暮らしているとの事。



奥日光戦場ヶ原で一日3種類のルリ色系撮影。 I took three kind photos of blue subjects on today.

 今日から奥日光で植物関連の野外実習。合間に日光東大植物園、奥日光戦場ヶ原で野鳥探し。
偶然の産物!今日一日で瑠璃色の被写体3タイプの画像をゲット出来た。オオルリ、ルリビタキ、ルリタテハ。最後のルリタテハだけは蝶だがルリと名のある被写体を一日で撮影できるなど考えもしなかった。

 オオルリはまだ囀りが本格的ではなく高い梢で移動するだけ。午後遅くに湯川上流部で出遭ったキビタキも音声なし。まだ囀りには早いのか?ミソサザイだけがやたら囀ってやかましいほどだった。オシドリのつがいが湯川には通年でいるとの事。画像もバッチリ撮影できた。キビタキその他順次発表の予定。明日の夕方以降天気が下り坂になるらしい。日の出から10時までが勝負だが
何が出るか?クマ避けの鈴を付けて木道を目指そう。

オオルリは梢の上部を移動するので撮りにくい。

5月も半ばを越えれば目の高さに留まってくれる。完全に羽根を広げた画像も有るがまた次回。

ルリビタキはいつも見かける湯川沿いではなく笹薮の樹林帯にたくさんいた。

雄が目立ってたくさん居るがメスは抱卵中だろうか?

林間は暗いので飛翔シーンはこれが限界!

これが蝶のルリ様、ルリタテハ。ブルーの瑠璃色のラインが印象的。片方の羽根はレンズに対して垂直の角度になってしまっている。









2014年4月27日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #36.」 ●東京オリンピック その1.

 高校に入ってまずはサッカー部に入ろうと思っていた。小倉の附属小学校でボールを思いっきりけった感触が忘れられず、奥沢中学には無かった「サッカー部」という響きに期待していたのかもしれない。 
勿論当時はプロ野球が全盛の時代。入学した1964年のセ・リーグは阪神タイガースが優勝したが、翌年1965年から怒涛の9連覇を成し遂げる川上監督率いる読売ジャイアンツの王・長嶋の話題でテレビや新聞のスポーツ欄は満載だった。ちなみに王貞治選手自身の年間最多ホームラン記録55本はこの1964年に達成されたから、巨人全盛の頃だったのだろう。私の4歳違いの弟、憲彦のクラスメートに川上哲治監督の甥っ子が居たので、もちろん私も巨人ファンだった。
一方、サッカーはまだ日本国内では主要スポーツとしての市民権を得ておらず、もちろんJリーグなど有る訳も無いしスター選手も居なければ、ワールドカップ、ブンデスリーガ、セリエAなどという言葉すらマスコミには登場していなかった。しかし全員が90分間激しく動き回るサッカーは、味方の攻撃中にバッター以外ベンチで座っているような野球よりは落ち着きのない自分に向いていると思ったのだろう。

しかし、残念ながら校庭の狭い都心の広尾高校にはサッカー部が無かった!つくづく思うが、ヤマセミの撮影でいつも滞在する人吉市の県立人吉高校の敷地などたぶん広尾高校の3倍はあるだろう。学校の敷地の中を車の通れる道路が走っているなど信じられない広さだ。伝統と言い、施設の立派さと言い、これ程同じ高校で差が在って良いのかと思う程だ。これでは東京の公立高校からはスポーツの優秀なアスリートは今後もまず生まれまい。
入学1年前の都立広尾高校(下の部分のみ、上は渋谷区立広尾中学校)

 余談はさておき、そう云う事で、校庭の狭さを見てしまったら自分で新たにサッカー部を創る気力もなく、バレーボール部の誘いに乗って人生初めての運動系クラブに入部した。入って驚いたのだが、体育館でやるものだとばかり思っていたバレーボールのクラブ活動・練習を広尾高校では校庭でやっていた。当時金メダル候補、打倒ソ連でマスコミをにぎわしていたニチボウ貝塚の女子バレー部のテレビ・ドキュメントを見ても必ず体育館でやっていた。
ところが、我が母校では体育館が他のクラブで一杯だったからか、入部して殆どの練習は風が吹くと土埃で相手側のコートが見えなくなるような校庭の土の上で練習が行われた。あの大松監督の発明で有名になった回転レシーブもこの校庭の土の上でやる訳だから、ユニフォームの繊維の間には関東ローム層の赤土が毎日目一杯詰まってしまった。
しかし練習中のしごきだの辛い思いだのは、ここでは触れない。大体その類は書いても碌な内容にならない。体育系クラブは何処でもどんな種目でも皆似たようなものだし、つらい練習は有って当たり前だと思う。ただ、毎日暗くなるまで練習してバテて校庭に倒れ、寝ながら校門の方を見ると制服を着て鞄を下げて男女仲良く帰って行くクラスメートの姿が土埃の向こうに90度曲がった景色で見えたのを覚えている。
広尾高校バレー部同期卒業アルバムから。体育館ではなく校庭の土コートだった。

 私立のスポーツ強化校の様に、別に外部から優秀な選手を入れた訳でもなく、バレーボール部自体も決して強くは無かった。都の春秋トーナメント戦でも、午後の試合まで残るような事はめったになく、たいがい午前中に負けてしまい皆で黙ってラーメンかチャーハンを食べて帰る日が多かった。こういうスポーツ系のクラブは圧倒的に私立校が強かった。だから最近サッカーその他スポーツ部門で市立船橋などが強いのは奇跡的だと思う。
一番左のポスターだけは家に在ったのだがいつのまにか無くなってしまった。

 クラブ活動も3年間一応やりはしたが、やはり背の高い者が有利な種目だけに、直ぐに自分の限界を悟ってしまい、さほどのめり込んで夢中にはならなかった。ただ3年間バレーボールで鍛えた事が2つの点でその先の自分のスポーツ歴に大きな影響を与えている。その一つはジャンプ力、高校3年間の修練で垂直ジャンプで90cm以上跳べるようになっていた。これは中学校時代走り高跳びで学年大会2番になった素質がさらに伸びたのだと思う。
 この後70年安保騒動のさなか、東京教育大学で唯一入試を実施した代々木の体育学部を受験して合格(結局行かなかった)した際の実技・基礎体力のテストで効果を発揮した。垂直跳び90cmはオリンピック選手クラスだそうだ。教育大は入学後美術専攻科への転部が不可能と判り、再度受験して進学した横浜国立大学教育学部の第2候補体育科の入試実技の際も試験官から褒められた。(実際は第1希望の美術専攻科に入学)

もう一つは、大学で念願かなってサッカー部に入部した後、2年生からレギュラーになって対外試合・公式戦での在学中の通算ゴール数が足でのゴール数よりヘディングでの得点が上回っている事だ。つまりはバレーボールのアタックのジャンプタイミングがヘディングシュートのジャンプタイミングと全く同じだったのだ。要は飛んでくるボールを手で叩くか頭で叩くかの違いで非常にうまく行ったと云う事。そういえば高校時代コーチが居ない時に手ではなく頭と足でバレーボールをゲーム的に行った事が有ったのも思いだした。

どちらかというと目を吊り上げての運動部では無かったものの一度だけ、もの凄い誰も経験した事がないだろうという体験をする事が出来た。何とオリンピック直前に、あの大松監督が率いる「東洋の魔女=女子バレーボール日本代表チーム」が我が都立広尾高校の体育館に練習に来たのだ。日付は定かでは無いがオリンピック本番数週間前の日曜日だったろうか。都心のオリンピック競技場・選手村に近い体育館で手ごろな所が他に無かったのだろう。当然我がバレーボール部は有志で玉拾いで参加した。
大松式特訓はボール拾いしながら見ているだけで身が引き締まった。

 とにかく東洋の魔女たちはデカかった。補欠の選手だろうか、自分の前に立った時顔の前にお尻が来るような感じだった。驚いたのはそれだけでは無い。彼女たちの昼御飯に圧倒された。近所の中華料理屋から店屋物を取り寄せるのだが、一人でチャーハン大盛り+ラーメン+餃子2人前ペロリなのだ。誰だか名誉の為に個人名は控えるが皆も良く知っている中心選手だった。後片付けを手伝ったが米粒一つ、スプーン1杯のスープも残って無かった。その他、正選手ではなかったらしいが、滅茶苦茶美人で可愛いい選手が一人だけいて我々の間で評判になった。でも勇気を出して玉拾いの振りをして傍に行ったのだけれど、並んだ時こちらの頭が彼女の肩までしかなかったのでその場で諦めた。後に皆で話し合った「彼女は別の道に進んだ方が絶対幸せだよなー。」
大松博文監督は決して鬼ではなかったが笑顔を見たことは一度も無い。

あの日のボール拾いが少しでもこの金メダルに関与していたら嬉しい。

2日ほど玉拾いを手伝って最後に整列した時に、大松監督とキャプテンの河西昌枝選手が我々にお礼と挨拶をされた。その後大松監督、虫の居所が良かったのか、先生か誰かがお願いしたのか「一つだけ特訓をしてあげよう」と言ってくれた。もの凄い世界一の練習を観た後で「特訓?」思わず腰が引けたが、大松監督「確実に次の大会で効果が出るはず」と言うので全員で前に出た。そうしたら「今から球を顔のすぐ横目掛けて投げるから、レシーブなどしなくて良いからボールを避けたりせず、絶対に目をつぶらないように!」と言われた。一人一人前に出ると其処に向かってテレビで観たとおり審判用の脚立の上からボールをもの凄い勢いで投げつけてくる。耳の横を通り抜けるそのボールの空気圧と音は今でも覚えている。もちろん最初は当然眼をつぶってしまう。1人10球程度練習を付けてもらったが終りの頃は眼をつぶらずにボールを目で追えるようになっていた。こうして奇跡の大松特訓を受けた数少ない一般人になった訳だ。

 この2日間の経験は同じクラブに所属した者で誰が覚えているか判らないが貴重な経験だった。その数か月後のトーナメント戦でこの経験が役立つはずだったのだが、また午前中で負けて帰ってきてしまった。残念ながら世界の大松監督のせっかくの好意は生かされないまま終わってしまった。

2014年4月26日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #35.」 ●1964年は世界に誇る東海道新幹線開業の年。

昭和39年、西暦1964年は御存じの通り東京オリンピック開催の年。前年からの高校受験で周りの景色や世の中のオリンピック準備などほとんど目に入っていなかったが、合格発表の瞬間からあっという間に頭の中は俗世界の様々な情報・興味でトリビア状態になってしまった。

当然の事ながら一番気を引いたのは東海道新幹線の開通だった。これは小学校時代から鉄道が趣味の自分にとっては当然の事だった。つい先日他界した伯母が財界の縁なのかこの新幹線の試乗チケットをどこからか手に入れて贈ってくれた。小田原の手前の鴨宮という新幹線基地から東京方向へ20km程度の試験線を往復するテスト走行に乗せてもらった。この時の大失敗はせっかく撮影した写真をどこかに仕舞い失くしてしまった事で、今に至るまで悔やみっぱなしだ。


試乗会を行った場所を表示しているJR鴨宮駅の案内板

 とにかく、鉄道少年としては雲の上にも上る心地で、在来線の車両とは全然違う新しい車両の匂いを胸いっぱい吸い込んで編成の端から端まで走って脳に焼き付けた。特に先頭の大きな白い丸い物体は一体何だろう?高速で走るので大きなヘッドライトに違いないと思って行ってみたら、なんと連結器のカバーだった。先頭同士で繋ぐ事など考えもしなかったので、普通の列車の連結器が姿を見せた時はちょっと当てが外れがっかりした。
非常に趣味性の強い鉄道ファン専門誌

ちなみに試験車のカラーリングは2種類あって、窓のあたりに太い青い帯が連なっているお馴染みのタイプと、最近のN700系以降の窓付近が白っぽくて車体の上下にブルーのラインが入ったタイプが存在した。共通なのは先頭の運転席の窓ガラスが曲面ガラスでセンターにサッシが無いタイプだった。しかし量産系でこの特徴的な曲面ガラスが消えセンターサッシの平面ガラスが採用された。同時にカラーリングも窓付近に青い帯が走るタイプになってしまい少しがっかりとしたのを覚えている。
これがお気に入りのタイプAだったが不採用になってしまった。窓ガラスは曲面。

実際にこの新幹線に開業後乗ったのは1965年広尾高校2年生の秋、修学旅行で東京から名古屋駅までの乗車だった。目的地は関西・四国だったが名古屋まで新幹線、名古屋から神戸までは名神高速道路を大型貸切りバスで移動した。まだ渋滞があまりなかった頃なので時間通りに進めたのと、新幹線が新大阪止まりだった為そこから先のバス移動が短すぎるので名古屋からバスにしたモノと思われる。
神田の岩波書店横の鉄道関連資料が豊富な古本屋さんで購入¥4,500円也

名神高速道路自体は前年昭和38年に開通していたが高速バスはこの39年からだった。


バス料金の安さに時代の流れを感ずる。

 日本の国鉄は鉄道線路の幅で言うと狭軌にあたる世界でも最も狭い幅だったが、新幹線は標準軌と言われている幅で、今までに比べると随分幅広に感じた。これに対して京浜急行や関西の私鉄の多くは当初から標準軌を使用していた。1982年に大宮―盛岡間が開通した東北新幹線に乗った時、何と静かな新幹線だろうかと思った。理由は20年弱使い続けた東海道新幹線の道床が経年変化で相当痛んでいたのだと思う。一大補修工事の後見違えるようになめらかな走行に成ったので良く覚えている。これはあくまで個人的な意見だが、東北新幹線が1982年に開業して、その走行比較ができなかったらきっと東海道新幹線で大事故が起こっていたのではないだろうかと思う。

日本テレビ系列で毎夜「今日の出来事」という10分枠のニュース番組が在って、その頭のタイトルバックは当初ビジネス特急こだま号だったが、1964年以降は新幹線がこちらに向かって突進してくる動画だった。この新幹線開業が10月1日、東京オリンピック開会式が10月10日。この10月に向けて東京が世界の東京に成るために都内あちこちで突貫工事が進んでいた。広尾高校の下校時に渋谷に抜ける通り道の渋谷警察前の大きな交差点は大きなスパンの長い歩道橋が出来ていた。歩くと揺れた。出来た当時この上で揺らせて遊んでいて気持ち悪くなって戻した奴がいた程。この歩道橋は今でも健在で相変わらず揺れ続けている。

首都高のこの路線がほんの部分開通したのが10月頭だったと思う。この頃の渋谷は東急文化会館にプラネタリウムが在り、映画館が数か所入っていた。地下では毎日曜日だったか牧伸二司会の大正テレビ寄席が行われていた。ナタリー・ウッドとウォーレン・ビーティの映画「草原の輝き」、映画「ニュールンベルグ裁判」映画「荒野の七人」映画「2001年宇宙の旅」など数多くのロードショーをこの映画館で観た。東急文化会館の1階には喫茶ユーハイムも在ったが、もっぱら隣のビルの喫茶フランセに入って東郷青児の絵に囲まれながら珈琲を飲んだ覚えが何度もある。
東郷青児の絵が沢山飾ってあった店内だが平成18年に閉店した。

新幹線に限らずこの1964年という年は、日本のあちこちで日本の夜明けの様に新しい交通インフラ関連がスタートしている。此処に掲げるのは10年ほど前に神田の古本屋街で手に入れた記念乗車券などだが、東京だけではなく関西においても新しい路線やダイヤ改正が行われていたので驚いた。
短い距離の特急だが東京から行く時には新幹線乗継が簡単で非常に便利。

この地下鉄の駅は随分暗いと思ったが今はどうだろう?




2014年4月25日金曜日

今日は野川でカメラテスト! Today I tested my new camera and lens.

 オバマ大統領が都心を行ったり来たりしているので、今日は都心には出ないで地元で新しいフルサイズカメラと超望遠レンズの相性をテストした。前回の4月頭の人吉撮影行の時はカメラボディの方の基本設定をいい加減にたため2倍のエクステンダーを付けて1000mm望遠にした際の画像がどうもしっくりこなかった。画素数設定をミスってしまい、泣くに鳴けなかった、トホホ状態だった。

 週末の奥日光・戦場ヶ原=宇都宮大学研修林での研究活動のついでに行う探鳥・撮影の雪道走行準備で車の点検を頼む間にいつもの野川でカメラの手持ち撮影テストを行った。被写体はいつでも必ず居てくれるカワセミやその他の野鳥。

ハシボソカラスだってこうして凛々しく枝に留まると結構カッコ良い野鳥だ。1000mm手持ち。

これも1000mm手持ちで野川対岸逆光のカワセミ雌だが思いのほか良い画質で撮れた。


子育てで非常に色あせボロボロ状態だが一生懸命餌を狙っていた。目の前に蜂だか虻だか飛んでも全然気にせず餌魚を鋭い眼で追っていた。

餌が視難いのか、近くの小川に架かる橋の橋桁に留まった。

暫らく餌を追ってこちらが重いレンズで手が震えそうになる頃ダイブ。

P(=オート)セッティングにしたのでシャッタースピードは非常に遅い。1000mm・f11・1/500






2014年4月24日木曜日

野鳥の顔アップ!-2. Zoom up of the Wild bird faces.Part-2.

 昨日に引き続き、野鳥の顔アップ・第2弾。今日は主に英国で撮影した野鳥たちのアップ画像。まだCanonのカメラではなくOlympusの解像度の低いタイプの頃の画像なのでクリヤーではないが、その顔付の面白さを楽しんで頂ければ嬉しい。

 
英名Gold finch 和名:ゴシキヒワ

カラスで一番小さなニシコクマルガラス。俳優のジャック・ニコルソンを想い出してしまった。

ハイイロガン 昨日のカリガネに何処と無く似ているような気がする。

Common Wood Pigeon ウッドピジョン 日本の鳩に比べて大型だ。

Blackbird クロウタドリ、繁殖期なのだろうミミズを頬張っている。

最後は国産のイソヒヨドリの雄