2015年10月24日土曜日

団塊世代のための自費出版の勧め。 Recommendation of self-publishing for the baby-boom generation .

   一月ほど前に今年も日本自費出版文化大賞にエントリーした「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」が2部門で入選した事。同時に8月1日付けのこのブログで「連絡を頂いて暫くは「実はあれは間違いでした」という追っかけの通知が来やしないかとビクビクした。」と書いた。なんと!まさかそれが一部現実になった。実行委員会のほうから「2部門は間違いで1部門での入選となります・・。大変申しわけございません。」という。自分の無意識の予知能力に驚いてしまった。

8月1日付け当ブログ= http://yamasemiweb.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html

 うっかりブログにそんな事を書いてしまったが為に・・・ではないとは思うが、若い頃だったら「ふざけんなよ!」と怒り心頭だったろう。しかし65年以上人間をやっていると自分でも驚くほどクールで「あーそうっすか、では既に送って登録した国会図書館ほかメディアなどその本を進呈した所のリストをお送りしますので、そちらから受賞は1部門でしたと訂正とお詫びを連絡してください。」と言って実行委員会への電話を切った。しかし呆れた話だと笑ってしまった。この手の文化財団というかNPOとしても組織体としてレベルが低すぎる。

 まさかとは思うが、バックに出版社も印刷会社もついていない完全個人レベルで執筆・出版するような本に、あまり高い評価をするなと委員の中から横槍でも入ったのだろうか?

 今回の「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」は、このブログに毎週末、土日に限って掲載し続け溜まった分、ネット上のブログを拾い読みするよりはるかに楽だろうと、学生時代のパートに限って、縦書きの印刷物にしたものなのだ。執筆・資料画像発掘・レイアウトも自分で行い、入稿デジタル処理のみ永年の親友でデジタル・フィニッシュのプロの染谷氏(プラス・エール主宰)に頼んだだけだから日本の出版界・印刷業界には殆ど貢献していないのももっともな話だ。自費出版文化賞の賞を決定する団体のスポンサーに一度もお金を落とすような造り方をしていないから、入賞を一つくらい減らされても致し方ないところかもしれない。
今回日本自費出版文化賞で入選を頂いた「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」

 野鳥の写真集・「江津湖の野鳥」「川辺川・球磨川流域の山翡翠」に引き続き3年連続で違うジャンルで入賞したのは非常に稀有な事らしいので、名誉と思わなければいけないだろう。 こういったアナログの出版物はパソコン・IT・ネット環境の発展と共にどんどん廃れて行くと思われて来たが、実は音楽産業界や物販・店舗販売ほどは退化していないという。
2013年から3年連続で入選を頂いた。


過去自費出版した野鳥関連の写真集(全て無償配布した非売品)

 これは何故か?人間特に日本人はその文化の発展と共に「文字」を読む・理解す習性は右からの立て読みだった。脳の構造がそうなっているのかどうかは知らないが、やはり横書きより縦書きをゆっくり自分のペースで読むことが性に合っているらしい。
 なおかつ縦書きの印刷物、特にエッセイとか物語の場合、読者が「話」の進行に合わせ独自に自分の頭の中に舞台背景や主人公の顔などを自由に想像して作り上げ、自分だけの世界でその「話」を映像的に具現化していくものらしい。だから、小説やエッセイには挿絵や写真が少ないのだろう。勿論実話的・記録的な話しの場合はこの限りではない。

 『団塊世代のヤマセミ狂い外伝』もネット上のブログ投稿では資料写真その他を多用している。ある意味証拠写真として、更には当時まだ生まれていなかった方が読む場合に備えて、言葉の説明だけではイメージできない場合の資料として掲載している。しかし、それがアナログの印刷物になった途端、絵や写真資料は邪魔なのだという事が良く判った。これは思いも寄らぬ事だったが、自分で本にしてみて校正のため何度も読んで知った事だった。

 ネットで野鳥中心のWEBサイトやブログを観ていると、羨ましいほどの珍しい野鳥の写真を山ほど掲載されている方が全国に沢山居る。毎日カメラを担いであちこち行かれているのだろうと思う。しかし、その画像はWEBサイトやブログで公開投稿するだけなのだろうか?もしそうであれば非常にもったいない事だと思う。

 此のブログのメインWEBサイト=YAMASEMI WEBの頭の部分でも説明したが、筆者の昔から仲良かった写真撮影仲間が3.11東日本大震災でたまたま沿岸地域に行っていて被災し、行方不明になったままだ。
 一人は祭りの写真中心、もう一人は山と高原の写真中心の優れたフォトグラファーだったが、パソコンの中に大量の画像データを残したまま逝ってしまったと思われる。

 双方とも家人はその後彼らのパソコンを触れず、そのままにしているという。このままだと、せっかくの良い写真が未来永劫世の中に出ずじまいのまま埋もれてしまう事になる。 彼らの撮り溜めた写真には筆者のような生態観察の記録画像と異なって、コンテストに入賞したり、カメラ雑誌で取り上げられたりするような、非常に芸術性の高い画像があるような気がしてならない。

 こういったケース以外にも、せっかく一つの道を追求し、自分なりに努力した結果を皆さんは我が子なり親しい友人に成果として残す事は考えたりしないのだろうか?

 芸能人や政治家のような厚かましい程の積極性は性に合わないという考えもあるだろう。しかし、自分の生きて来た証を、何らかの具体的アナログ記録で残す行為は非常に良い事だと思うが如何だろう。
 デジタルデータはあくまで電気信号がメモリーされて居るだけでバーチャル・つまり仮想の記録だ。コンセントを抜いてしまえば消え去るはかないモノだ。その点アナログの印刷物は入稿した原稿自体がデジタル・データで残るし、印刷物は手に持って人に紹介も出来る。
 野鳥の写真を撮られている方々は、是非ご自分自慢の撮影画像を写真集にされたら如何だろう?60ページB5サイズで印刷費1冊2000円程度から制作可能だ。

 つい最近も団塊世代の友達が一人でグレイハウンドという長距離バスで2ヶ月間アメリカを縦断した。その際の写真を簡単にまとめた写真集にしたのだが、1冊2000円くらいで10冊作成し大変記念になると喜んでいた。世界にたった1冊の自分の写真集をこの世に残す・・・どうだろう?

筆者と同い年団塊世代の野球狂いが、アメリカ大リーグの試合を追ってシカゴからマイアミまで長距離バス「グレイハウンド」に乗って2ヶ月間一人旅。勇気の要ることだが、その途中各地デジカメ撮影をした画像を編集・出版したもの。一生の記念になったと喜んでいただけた。既に次作を思案中とか。

 もし、「我も試してみたい!」と思われた方には、このWEBサイトのお問い合わせコーナーから相談を受けたまわろうと思う。好きでやっていることなので筆者自身は印刷実費以外頂くつもりは無い。



2015年10月23日金曜日

草紅葉の中でのノビタキ採餌争い! A battle of Stonechat foraging in the grass autumn leaves !

 今日のブログはノビタキの雄と雌、空中採餌の争いの瞬間。虫など幾らでも飛んでいると思うのだが、その虫を巡って争う姿を撮れたのは嬉しかった。最初に雄が良い位置で虫を追ったが空振り!その後の虫の動きから目を離さなかった後続のメスが見事に捕らえた。

 やはり野鳥の撮影は生態の一部、動きがあってこそ面白いのではないかと思っている。珍しい野鳥が居た!撮った!だけではいずれ行き詰ろう。鳥類図鑑を自分で造ってみたいというのもまた一つの野鳥に対する考えだし、子供の頃の切手のコレクションと同じで友達が持っていない(撮っていない)珍しい切手(野鳥)を集め自慢するのも一つの悦びだろう。決して悪い事ではない。

 しかし、やはり筆者は思うのだ、「居たから撮る、出たから撮る」だけではその野鳥をファインダーを通じてしか見ていないことになりゃしないだろうか?画角の狭い超望遠レンズやデジスコだけでは野鳥の本当の生態・魅力は判らないような気がする。筆者は極力肉眼で野鳥の動き、周りの環境含めてその野鳥が今何をしようとしているのか?この次の動作は?と予測する観察の仕方を行っている。特に採餌中はそのエリアから急に居なくなる事はあまり無い。撮影チャンスは何度も訪れるという経験をしている。

 こちらから野鳥を視認できたという事は、向こうは相当前からこちらを確認できていると思って間違いない。ただ脅威を感じていないから飛び立っていないだけだ。野鳥の先祖は皆恐竜だ、動くものに反応する。だから迷彩服を着て動かなければ相手もこちらを視てはいるものの脅威とは感じないのだろう。極楽鳥撮影で有名なティム・レイマン氏と話す機会があって、筆者の「川辺川・球磨川流域の山翡翠」という写真集と彼の極楽鳥の写真集を交換した際、撮影時の話をしたらまったく意見が合って嬉しかった。やはり迷彩の上下を着て、撮影する数倍の時間を事前の観察に費やすとの事。

で、そのノビタキの採餌バトル・・・。勿論ピンは来ていないは背景は草紅葉でピンク色だし可笑しな画像に違いないが、ただ綺麗なノビタキの写真よりははるかに面白いと思う。






 各カットに実況中継のような説明は要らないだろう。ただ争ったのではなく、メスが虫を捕獲しようとした所に後ろから来た雄がちょっかいを出しただけなのかもしれない。しかし2カット目のオスの口が開いている所を見るとオスも虫を捕獲し、実はその虫とくっついていたもう一匹を後続のメスが見つけて捕獲したのかも知れない。可能性は幾らでもあるのが自然界の面白さではないだろうか?




2015年10月22日木曜日

紅葉時期の奥日光戦場ヶ原・環境調査と自然。 Foliage season Okunikko Senjogahara and environmental research and nature.

 紅葉ピーク直前の奥日光戦場ヶ原の各機関合同環境調査に参加し、野鳥の生態中心に観察・撮影したが、今日はその全体的なレポートをしようと思う。昨年も同時期同じ調査があったのだが、NHK総合TVの生中継が入ったりして現場は騒然としていた。木道に何本ものケーブルを張り渡し、三本松駐車場には大型の中継車や移動アンテナ車が来て、相当大掛かりな中継を行った。

 その内容が期待を裏切る非常に残念なものだった事はこのブログ上でも昨年既報の通りだ。

 しかし、今年はそういう「邪魔」は入らず、色々なNPO、ボランティアグループ、野鳥グループ、大学などの研究機関が参加してそれなりのジャンルで環境調査を行った。特に戦場ヶ原の一角に演習林を持つ宇都宮大学の農学部などは本格的な調査を行ったようだ。この農学部の森林科学科は日本でも有数の森林に関する専門研究機関だ。

 一方で、湯の湖から流れ出て、途中に湯滝、龍頭の滝を形成し中禅寺湖へ下る湯川はその独特の環境下で常に保全に努められている知名度の高い清流だ。この川の保全は環境庁だけでは無く、この川で限られた期間フライフィッシングを楽しむ関東エリアの有志グループなどが定期的にゴミ拾い等を行っている。今回はその活動等も同時期行われた。

 紅葉時期の自然と共に紹介してみたい。

まずスタートは赤沼。朝8時には満車の赤沼駐車場。この赤沼茶屋はバス停も兼ねている。

三脚を持たず、50-500mmをサスペンダーで吊るし、カメラ専用迷彩デイパックにサブ機とサブズームを背負って出発。双眼鏡・昼食・飲料・熊鈴は必須。総重量12kg。これで約15kmを進む。

              
我々は4名のパーティなので、最後尾を勤めながら前進。植物チェック担当、野鳥担当、動物の痕跡担当、全般担当等それぞれ役割分担は完璧だ。                   

              
野鳥チェックの筆者は撮影も兼ねるので、どうしても遅れがち。

休憩は小まめに取る。一日中歩く場合は定期的に時間で区切って休憩する。

昼食は朝のバイキングで自作したスペシャル・トーストサンドウィッチ。

大学等の研究室は湯川の水質検査・放射線調査を行っている模様。

湯川そのもののゴミ処理・除去作業をフィッシャーマン達がやっていた。「湯川な仲間」という関東の釣り仲間さん達。

千葉県等からの参加者も多いようだ。湯川の保全には相当息の長い活動をしている。

湯元にある休暇村日光のディナーは半端ではなかった。湯葉と栃木牛の会席料理?

日光霜降り高原の霜降り牛、高齢者は食べきれまい?

食事の後がまた大変。当日のレポートをまとめなければいけない。画像処理含めてパソコンとの勝負だ。3日間とうとうTVのスイッチを入れなかった。

しかし毎回思うが、休暇村って何故Wifiがロビーでしか通じないのだろう?南阿蘇の休暇村も良く泊まるがまったく同じ。何とかして欲しい、今は既にもう2015年だよ?通信インフラ遅れすぎ。





2015年10月21日水曜日

ノゴマの飛翔! 全国各地 Siberian rubythroat flying !

 ノゴマは本来北海道の草原で繁殖する夏鳥だが、渡りのシーズンには比較的全国各地で視られるようだ。奥日光戦場ヶ原はその渡りのコースになっていて、ベニヒワ、ギンザンマシコの目撃もあったそうだ。春先にはキレンジャクの小群も滞在する。

 北海道は道東の根室郊外へ行くと7月等夏季にはシシウドに留まる姿があちこちで見受けられる。下手をすればスズメより多い感じだ。この鳥は今の時期は囀らないので普通の二本足でとまっているが、繁殖期に囀る際はなぜか片足で留まっている事が多い。理由は未だに判らない。

 ノゴマの飛翔画像はあくまで遠いので参考・証拠画像でしかない。草紅葉の草原よりやはり本来の夏の緑色の草原の方が喉の朱色が鮮やかなのは言うまでもない。




以上奥日光戦場ヶ原でのノゴマ

採餌のためだろうかダイブの連写、これは2014年夏の根室での撮影。





2015年10月20日火曜日

奥日光戦場ヶ原レポート その11。 奥日光と阿蘇山のエゾビタキ比較! The Grey-streaked Flycatcher at Oku-Nikko wet-highland and Mt.Aso of Kumamoto Pref..

 昨日のエゾビタキの飛翔レポートには多くのアクセスを頂いて驚いている。なぜならこの時期そう出遭い難い野鳥でも無し、観察していれば採餌シーン等同じ所から余り移動しないので、比較的撮影しやすい野鳥アイテムの一つなのだが、遭遇するチャンスが意外に少ないのかもしれない。

 今日の画像は奥日光での枝とまりと2007年10月7日に熊本県の阿蘇山中・阿蘇みんなの森で撮影した画像を比較しながらアップしたい。当時2007年の画像は11月3日に行われた全国育樹祭運営の1ヶ月前予行演習で現地に滞在した時の画像。8年前のカメラ機材はまだまだ初歩的なものだったが、幸運だったのだろう、名前も知らぬままシャッターを押している。

奥日光戦場ヶ原今年の10月3日

同上、10月5日

同じく10月5日(上の画像と同じ個体)

2007年10月6日阿蘇山中

同上10月7日

同上10月7日、手前は広い芝生のメイン会場

いずれもご覧になってお判りのとおり、空抜けの画像になる開けた所に留まっている。このあたりが樹林帯の中で飛び交う同類のサメビタキ、コサメビタキ等と随分違う性格・生態を持っているのだと思った。







2015年10月19日月曜日

奥日光戦場ヶ原レポート その10。 エゾビタキの採餌! Foraging by flying catch of Grey-streaked Flycatcher at Oku-Nikko wet-highland.

 奥日光シリーズ第10弾は集まっているヒタキ類でも少し目立つエゾビタキに注目。サメビタキ、コサメビタキ、エゾビタキとこの似通った3種はネットを見てもその比較方法が沢山紹介されている。
 サメビタキとコサメビタキは似ているがエゾビタキは胸さえ見えれば直ぐにそのタテジマで判断可能だと思う。それに少しサメビタキやコサメビタキより大きいようだし・・・。

 個人的な経験値から言うと、他のヒタキ系が明るい森の樹林帯で動き回るのに対し、エゾビタキは明るく開けた場所を好むような気がする。特にフライングキャッチで採餌する際は何処からでも見える場所に留まり、こちらからも丸見えのことが多かった。今回もそうだった。

湯川沿いの6mほどの針葉樹のてっぺんに留まって何度もフライングしていた。

手前に飛んでくるのでなかなかピントが合わずに閉口した。たまに横に飛んだときの画像。

飛び立つと同時にブレーキを掛けて採餌!急旋回してくれた。

こちらは明るい白樺の林で木の芽につく虫を狙っているようだった。

盛んに枝先でホバリング中。






2015年10月18日日曜日

  「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #14.」ウインドサーフィンと筆者の最初の出遭い。その3

 逗子の浜辺で春分の日3月21日といえば、風は極寒の時期に比べれば多少暖かくは成っているものの、逆に海の水は相対的に年間で一番冷たく感ずる頃だろう。実は12月・1月の海の水は気温に比べてまだ夏の暖気が残っていて暖かく感ずるのだ。これは海に出ている人間にしか判らない。
 例えば、ウインドサーフィンを始めて数年が経ち、少しでも風が吹けば海へ行って乗っていた頃の話。正月元旦葉山の森戸神社へ初詣に行き、当然行って風が吹いていれば初乗りという事になる。1時間も乗れば冷たい風で手はカジカミ、素足だから足の指の感覚もなくなってしまう。森戸神社裏の岩場にあるネコの額のような砂地に戻ってきて岩の海底の波打ち際でまだ暖かい海水に手足をつけて暖めていると、その姿を石垣の上から見た初詣客たちが「気でも狂っているのか?あのウインドサーフィンの人達は?」と何度も不思議がられた経験をしている。
 実際この時期海に入ってウインドサーフィンに乗ってみると、何とお正月の海の水は温かいのだろうと思うのだ。
初夏のバーベキュー客たちで一杯の森戸神社裏の岩場。我々は此処から出入りしていた。夏が終わると誰一人来なくなる季節によって表情が全然変る場所だ。正面に富士山、江ノ島が見える。たとえ勤め先が変ろうと、25年間いつも週末は風さえあればこの場所に通ってウインドサーフィンでカッ飛んだ。

  そういう事だから、湘南の海でも年に数度「けあらし」(=気嵐)と呼ばれる現象が起こる時がある。筆者は25年間のウインドサーフィン経歴中2度だけ経験がある。本来この気嵐とは北海道で急に大気温度が下がった際に海水温との温度差で海面上に霧が出来る現象を言うのだが、葉山沖でもほんの3時間程この現象が起きた事がある。
気嵐で発生した霧の海をかっ飛ばせるのは、こうしたキックジャンプを楽しめるくらいのレベルに達してからでないと非常に危ない。1990年頃葉山森戸神社裏で筆者。

 まるで膝から下が霧に隠れ、水面を走っているのだが雲の上を進んでいる様な気分になったので良く覚えている。但し、魚網や流れてくる障害物がまるで見えないので慎重に進まないと大怪我をしてしまう。現に養殖ワカメのロープにスケグ(=フィン)を引っ掛けフィンボックスごと駄目にしてしまった仲間が居た程だった。

 それは随分後の話で、まだこの時はウインドサーフィンそのものを視たばかりの状態で、乗っている人達の真っ黒なウエットスーツに驚くばかりだった。海から上がってくる皆は唇が紫色をしていたが、浜辺の焚き火に輪になって当たって暖を取っているのが見えた。
 そこで、其処に近寄ってリーダーと思しき人に色々ウインドサーフィンの事を聴いてみることにした。広告代理店用語で真面目に言えば「ヒヤリング」ってやつだ。

 そのヒヤリングした相手は真壁則克さんと言って、現在逗子海岸を仕切っている明るい真壁克昌氏のお兄さんだった。非常に丁寧にウインドサーフィンという物がどんなものなのかを説明してくれた。ウインドサーフィンのグループを「フリート」つまり艦隊・船団というような事から始まって、逗子フリートはそもそも伊勢勉さんという創生期のパイオニアが逗子に開設した事など歴史や人脈まで詳しく教わったのだった。

 この真壁兄弟は非常に逗子海岸を愛し大切にしているお二人で、地元でも有名なブラザー。初期の頃の第一人者の一人河原和代さん(=実は筆者にとって最初のウインドサーフィンの実技の先生)など当時の日本の先駆者が沢山居たフリートだ。

 逗子ウインドサーフィン・フリート創始者・伊勢勉氏はその時点では浜名湖で「てのまめ」というウインドサーフィンスクールを開設して普及活動の真っ最中だという事だった。
 この先輩とは1981年春に日立マリブをベースに実施された全日本選手権大会で初めてお逢いした。その後も事あるごとに懇意にして頂いたウインドサーフィン界における恩人の一人だ。

 1980年春分の日、逗子海岸でのウインドサーフィンとの出遭いは相当なインパクトを筆者に与えてくれた。仕事としては早速甲州街道笹塚にあったウインドサーフィンジャパンと初台にあった日本ウインドサーフィン協会へ何度も通うことになった。
 初台の日本ウインドサーフィン協会には北郷さんという事務局長と小林さん、それに秋枝さんという女性の事務職がいて、年中忙しそうだった。北郷敏明さんは数年前のウインドサーフィン全日本チャンピオンらしかったが、まだごくごく初期でさほどプレーヤー、競技選手は居なかった頃だろうとは思う。
 秋枝さんというすらっと背の高い女性は何と自宅が三鷹で、筆者とはバス停で1つしか違わなかった、ご近所さんだった。

 1981年の10月に沖縄名護市の海で行うことが決まっていたウインドサーフィン世界選手権大会本番まで、後1年半しかないという状況が1980年の4月の状況だった。スケジュールから行けば、’80年の10月に第7回全日本ウインドサーフィン選手権大会を翌年世界大会を予定している沖縄県・名護市で世界選手権プレ大会として開催し、本番の1981年には全日本選手権大会を春先に日立マリブで開催する事になっていた。

 最初にこのウインドサーフィンの件で出張したのは、遠く離れた鹿児島県の指宿だった。プレワールド大会と銘打ったこの大会は指宿ハイビスカスカップというような名前だったと記憶している。風の無い沖合いに沢山のウインドサーフィンのセイルが立ち並んでいていつになっても大会が開始されない雰囲気だった。
1980年春の鹿児島指宿海岸での大会Tシャツ。なんとまだ袖を通さずタグが付いたまま残っていた。色落ちしそうで一度も着なかったものと思われる。

 風が無いので殆どのセイルが立ったままで、スローシャッターで撮影してもブレない程の状態だったのだが、その中で1艇だけ何故かスルスルスルと進むセイルが在って、「オーッ!あれだけ早いけれど・・・」と思ったら風の無いのに業を煮やした選手が手で海の水をかいて進んだらしかった。「プワォー!」とフォーンが鳴って、後でその選手は失格に成ったと聞いた。なんでも、あまりの無風で「こんな状態でレースをやること自体おかしい!」との抗議行動だったらしい。その選手は日本でもトップクラスの石渡祥元選手と言って、その後自分も入る湘南葉山フリートのリーダー格だった。 現在も葉山森戸海岸入口に在るウインドサーフィン・ショップ「YT&M」の経営者であり、皆から「ヨッチャン!」と慕われている店長さんだ。その後の筆者のウインドサーフィン人生に大きく影響を与え、先生として色々教わった方だ。
Google Mapで視た葉山YT&M 手前は旧134号線、この道を向かって右へ50mほど行くと葉山森戸神社入口の赤い鳥居が建っている。更にその先100m右に葉山森戸海岸デニーズがある。

 しかし、まだこの段階では筆者はウインドサーフィンには乗れていない。

  

2015年10月17日土曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #13.」ウインドサーフィンと筆者の最初の出遭い。その2.

 今はもう無い駐留米軍関係者専用ホテルの脇の海岸沿いに走る国道アンダーパスを抜け、少し灰色がかった湘南の広い浜の向こうを左右に横縞の三角帆が動いていた。その横縞はそれまでの真っ白なヨットのセイルとは幾分違う新しい海の雰囲気をかもし出していた・・・って当時ブーム全盛期に在った片岡義男風に表現してみたが、最初にウインドサーフィンというものを初めて視た頃の印象は間違いなくこんな感じだった。

 この頃は角川文庫・片岡義男のシリーズが大ヒットしていて、筆者が尊敬している佐藤秀明さんのハワイのエキゾチックな写真とあいまって団塊世代の男女の心をがっちりと捕まえていた。そのエッセイのタイトルのつけ方も団塊世代が思わずニヤリとするような、オールディズの洋楽ヒット曲のタイトルをそのまま使用したモノが多かった。「ロンサム・カウボーイ/エルビス・プレスリー」「ハロー・グッドバイ/ビートルズ」「夕陽に赤い帆/ビリー・ボーン管弦楽団」「ボビーに首ったけ/マーシー・ブレイン」「and I Love Her/ビートルズ」
エッセイ、小説、評論色々あるが、タイトルの付け方が団塊世代に受けた。

 こういうタイトルの付け方が片岡義男氏独自のアメリカ好きスタイルなのか、団塊世代に買いたくなるような気を起こさせる為の、マーケティング上の戦略なのか良く判らないが、具体的には中味に何の関係もないタイトル付けだったので、当時は後者の理由に寄るものだろうと決め付けていた。実はこれは未だにそう思っている。
1980年出版の「波乗りの島」

佐藤秀明さんのハワイの写真を観て以来、ハワイが病みつきに成った。


 こういった軽い片岡義男シリーズの物語を読んだり、ユーミン(荒井由美ー松任谷由美)の湘南を詠った曲を聴いて思わず「海を見たいわ!」の一言を呟いた途端、アッシー君達がその気になって彼女を乗せて湘南海岸沿いを目指すものだからもう大変!当時の湘南国道134号線は、週末に限らず夕方から夜は大渋滞が続いたものだ。逗子の渚橋近くのデニーズ等いつ行っても超満員でどうしようもない状態だった。謂わば毎日が週末って感じだろうか?
2009年9月、売り上げ全国一番だった逗子デニーズも閉店。今は「なぎさ橋珈琲店」。

 だからこの頃、東京や湘南を中心的に遊んだ1960年前後生まれの男女は、他の世代の年頃の男女関係とはちょっと異なる価値感・常識を持っていると言って間違いないだろう。 ブランド品を身につけて粋がる人種はいつの世にも居るものだが、他人の「生活レベル・持ち物・容姿・スキル(語学・絵心・学歴・資産)」などを羨ましがる「無いモノネダリ・欲張り症候群」が蔓延ったのもまさにこの頃全盛期を迎えたと言って良い。

 この流れがバブル絶頂期に向かって進む日本のテレビ界を潤すTVのトレンディドラマの氾濫へ繋がる。1986年「男女7人夏物語」「抱きしめたい」などから1991年の「東京ラブストーリー」へと繋がっていくのだ。
最近はトレンディドラマの辞典のような本まで出版されている。

 1987年に封切られたホイチョイ・プロダクションの「気まぐれコンセプト」からスピンアウト(=派生)した「私をスキーに連れて行って!」の映画上映でこれらこの頃の女性陣の勘違い症候群は完全ピークに達する。「私とスキーに行こうよ!」ではなくて「私をスキーに連れて行って!」というあたりが、当時の女性陣のそのつけ上がった女王様気分を表している何よりの証拠だろう。

 1980年に発表した田中康夫の「なんとなくクリスタル」がこのブームに火を付けた原点と言っても良いだろう。生活レベルや有名ブランド品の所有数を競い合うような、団塊世代のそれとはいささか趣の違う「優越感争い」が見られたのも印象に深いものが在る。

 大手広告代理店においても、この時期の新入社員はいわゆる不良社員が多く、薬物・クスリや性的な集団暴行、あるいは詐欺まがいの金銭トラブルなどの問題を起こす社員がメディアを騒がせた。其処まで行かずとも、達者なのは口だけでスキルも無く実行力に欠ける新入りが目立ったのも記憶に残っている。人事担当は入社志望者の一体何処を見ているのだ?と・・・。断っておくが、決してこれは当時自分が居た中央宣興や後に移った特定の広告代理店の事だけを言っているのではない。

 ホイチョイ・プロダクションの「気まぐれコンセプト」に出て来る広告代理店業界のバカ話を鵜呑みにして受験してくるアホが多かっただけだとは思うが、面接という関所を間違ってすり抜けて入ってきてしまう不良品も多かった時代なのだろう。そうなる原因が広告代理店という企業体の経営部門・管理部門に居る人間達の一般常識の無さ、責任感の無さ、倫理観の低さに在る事が判ったのは随分後の事だ。これに関しては随分後の方でまとめて述べたいと考えている。
 
 湘南・逗子海岸の砂浜からとんでもない方向へ話が飛んでしまったが、ウインドサーフィンに接し始めた時期の日本がどういう状況であったかを知って頂けた、あるいは思い出して頂けたのであれば、この回の内容は大成功だ。

2015年10月16日金曜日

奥日光戦場ヶ原レポート その9。 ヒガラの餌遊び! Funny foraging of Coal tit at Oku-Nikko wet-highland.

  ヒガラは基本的に山地の針葉樹林に多い。暖かい時期はまず平地には現れない。標高の高い所で出遭える小さなカラ類だ。2年前の厳冬期に武蔵野の野川自然観察園で撮影した記録があるが、まず普段眼にする事は無い。

 今回奥日光では毎日出遭えた。シジュウカラ、キバシリ、エナガ、コガラ、コゲラ等と混成群を形成してワイワイ言いながら移動していた。湯川沿いでは赤い実を付けた樹木で盛んにヒガラが実を突いていたのに遭遇。こちらを気にするでもなく、赤い実を弄んでいた。

 その他、色々なモノを啄ばんでいる様だったが、口に咥えてはうっかり鳴いてしまい、落としてみたりユーモラスな生態を暫く観察できた。

チョンチョンと嘴で突いたり、

横から覗いて、

足で触って赤い実を押したり・・・

振り子のように赤い実を揺らせて遊んでいた。

どう考えても遊んでいるように見えるのだが、自然界の生き物がそんな事するだろうか?時々カメラ目線でこちらをジーッと見ているような気もするが、距離3mの第1次接近遭遇だった。