筆者は5日前投稿したこのブログ「団塊世代は今まで自費出版した22冊を振り返ってみた。」で、「65歳になった頃(当時)うっかり今後10年の間に10冊の本(写真集)を出そうと思うと意気込みだけで書いてしまった。一瞬無理かとも思ったが、勢いでエイ~ヤッ!と書いてしまったのだ。」‥‥と綴った。
これは決して「貴方は良い意気込みだ」とか「凄いね!」と褒めてほしいからではなく、大学時代美術系を進んだ自分が何一つ自慢できる絵を描けたり、コンテストに出て入選したり出来ておらず、広告代理店時代での大きな仕事群は別として、個人としてクリエイター(自認)としての具体的作品・成果を何も残せていないのに気が付いたからだった。
これは小さい時から「モノを作ることが大好き」な自分としては由々しきことだった。
我が父は海軍兵学校教官時代、敵潜水艦の下で閃光弾を破裂させ、敵潜水艦の全容を上空からくっきりシルエットで見えるようにする「水中照明弾」なるものを発明した。我が祖母新庄よし子は「日本幼稚園史」なる学術誌を共同執筆し残している。
これは国会図書館の収蔵データだが、我が祖母新庄よし子の共著者=倉橋惣三氏は何と筆者がかって銀座2丁目の広告代理店に数年間在籍した際の同僚(現実的にSony Plaza Storeバレンタインデー・キャンペーンを一緒に行った)の爺様だったという奇遇な事実が存在する。
つまりこの学術書の共著者二人の孫が同じ会社で数十年後一緒に仕事をするという奇妙な運命下にある。これは、つい数年前判った事で同僚当時は考えもしなかった。
要は、人間生きているときは好きなことができる。しかし死んだ後墓石を見て(ある場合は)その人がどういう人だったか?何を成した人だったか?まるで印象に残らないのはつまらないと思うのだ。少なくとも何をした人かぐらいは知ってほしいと思うのだ。
我が父は息子の筆者に「自分はこういう事をした人間だ」と一言も伝えず58歳の若さで逝ってしまった。江戸時代まで大名だった家系の事、子爵で貴族院議員だった曾祖父新庄真陳(なおのぶ)が学習院出で野球の早慶戦の審判をやったなどという話も詳しくは聞いていない。
さらにはお茶の水幼稚園~京都大学を経て海軍技術将校としての活躍。江田島の海軍兵学校の教官で「坂の上の雲」の秋山真之の後輩だなどとは一言も教えなかった。ま、もっとも司馬遼太郎の「坂の上の雲」がメディア上で話題になったのは1978年文庫本になってからだから我が父の死後の話で本人は読んでいなかったのではないだろうかと推察する。
・・・・、だから筆者は自分の子供たちに「君たちの父親はこんなことをした人間」と書き残そうと思って「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」をブログで残し、PCやネットにとうとう接しない同級生など友人たちの頼みを聞いてアナログの縦書き本にして残したのだ。
同時にアマチュアながら最後の将軍徳川慶喜よろしく写真機(=カメラ)で撮影したものを手作りの写真集にして仲間に配ったのだ・・・くらいは残そうと思ったのだ。
これが「前向きに生きた君たちの父親なのだ!」というエビデンス(=証拠)として残れば御の字だと思う次第。
ところでTVのコマーシャルで「エビデンス」と棒読みで発した本木雅弘が女の子にイントネーションを「エビデンス」です・・と指摘され「下がります」と言うのがあるが、大嫌いだ。もはやエビデンスは棒読みで和製英語として定着している。それを指摘するならコーヒー、ホテル、パターンなどの英語も指摘しろと言いたい。すでに日本語として定着・通用している外来語を「指摘」などするんじゃない!
話を元に戻そう・・。
すでに早逝した我が父より現在20年以上も長生きできていて65歳を過ぎた辺りからこの件に関して何かしなきゃと思っていたのだ。
筆者は1972年大学時代から世界中へ出張していろいろなものを見聞し、体験し、収集した物事は、他の渡航しなければ仕事にならない職業の人(総合商社サラリーマンやNHK自然映像取材陣)は別にして、一般の勤め人に比べれば相当な頻度に達しているとは思う。
ヨーロッパ中心に11か国、中国中心に3か国、北米、ハワイ、オーストラリア、ニュージーランドなど海洋国4か所。
USAのビザとパスポートの有効期間が違った頃は3冊合冊なんてことになっている。
各地で撮影した記念写真だけでも分厚い写真集が出来ようが、それではあまりに脳がないし面白くない。各観光地で買ったお土産の絵葉書のコレクションと同じ人並みで面白くない。
旅行に限らず音楽コンサートにしてもロック、クラシック共に仕事がらみ・知人出演者がらみで普通の人よりは2回のビートルズ公演含めてライブコンサート経験も多かった。唯一このジャンルに関しては高校時代と50歳時代に生バンドを経験したため、自分自身でも大小の聴衆の前で生演奏をご披露したことがあった。
1965年ビートルズブームの翌年高校2年生でコピーバンド。まだ日本のグループサウンズはブームになっていなかった。ちょうどスパイダースがデビューした年だった。
1965年高校文化祭で演奏、当時のビートルズの最新曲はHELPだった。自分たちのエレキのアンプはすべて手製、真空管の6BQ5のPPアンプと7189のPPアンプ。右端の筆者が抱えているベースギターは1年先輩の3年生が見かねて貸してくれたもの。
それから32年後、憧れのビートルズが使っていたグレッチやリッケンバッカーの本物を買えるようになってバンドを組んだが、メンバー皆さん声が出ず。
やむなくインストルメンタルのベンチャーズ・コピーバンドに・・・。
モズライトを手にしてレコードと同じ音色にニヤツいた頃。町田の小さな小屋で小学校・高校時代のクラスメートを招待して2時間弾きまくったこともあった。
一方で映画・演劇、美術展、写真展などの鑑賞、海外旅行・名所旧跡訪問は一般人の半分も経験していないと思う。こういうジャンルにおいては我が友に考えられないほどの男女の猛者がいるがまるで敵わない。
筆者は、子供の頃から明るい昼間に暗幕でわざわざ暗くして人の作り話動画(=映画)を観るのもあまり好きではなかった、記録映画や自然の不思議解明映像は別だが・・・。
むしろそんな時間が在ったら海や川・野原を走り廻って何かをしていたかった。後に知った己の軽度の「多動性自閉症」の理由によるものだったのだろう。
更には、よほど勉強してその世界と歴史を理解してから「場」に臨まないと(=観ない)とまるで判らない歌舞伎・能楽や浄瑠璃などの日本伝統芸能にもまるで興味が湧かなかった。それらを自分が一生懸命学んで感動し「通」ぶって何か言えるなんてとても自分にはできないと今でも思っている。
歌舞伎 Wikipediaより
歌舞伎座 同上
でも、これらはあくまで「受け身・消費」鑑賞の成果。お金と時間があって興味さえ湧けば誰にでも出来る「お金を払っての文化の消費行動、鑑賞体験」で、自分が豊かになるだけ、成った気になる満足感だけ。自分からは何も生み出せていない、残せていない・・・と筆者は思ったのだ。決して悪いことではないし、それができる身分を羨ましいとも思っている。
しかし筆者は生きている間に自分がいろいろな知識と見識を得て、審美眼と高度な文化を知った人になるだけでは人間として後に何も残せない・・・・というある種の恐怖、不満足感・達成感不足を筆者自身65歳にして強く感じたのだ。
1960年頃の米海軍人のグループTHE ESSEXの大ヒット曲 「Easier said than done 」「言うは易く、行うは難し」というのが在る。行動の伴わない「知っただけ・言うだけ」は駄目よ!って訳だ。
これをそのまま「人の成す技見て感動するだけで、自分では技やらないのはダーメダーメ!」が筆者の心情なのだ。
これらをベースに自分の撮った野鳥写真で、自分でデザイン・レイアウト(表紙周りと本文)した写真集を自宅のPCで画像処理し、入稿原稿を作成し、印刷屋への入稿・フィニッシュだけはプロの友人エディトリアル・デザイナーに依頼することを繰り返して作成・自費出版したのが積もり積もって22冊になったのだ。これが5日前のブログ内容。
基本的に筆者はアマチュアなのでプロの方々に対する尊敬の念は非常に強いものがある。逆に写真集を売ってなんぼの世界には入りたくない。プロの写真家さんのビジネスとしての厳しい裏側はよく知っているつもりだ。決して楽なものではない。
どんなジャンルでもプロという世界は厳しくて苦しいものだ。スノーボード、ウインドサーフィン、2つのスポーツを相当長く楽しんで、用品や関連商品のテスターを依頼され務めたことは何度もある。
ウインドサーフィンではセイルのテスト、マストのテスト、フィン(スケグ)のテストを幾度もやり、セイルの取り扱いで手を切り血だらけになったり、強風でマストが折れ風下へ流されたり、ジャンプしたらフィンが海藻を引っかけ折れてこれまた流されたり、命からがらだったことを何度も経験した。テストライダーは確かに経験したがプロという呼び方呼ばれ方は一度もしなかった。
1982年~2005年 1981沖縄ワールド運営、1985年~1995年ハワイのウエイブ大会運営
1990年ISFルスツワールド運営→1998年長野オリンピック・スノーボード競技委員参加
1990年~2010年 Burton品質レポーター
スノーボードでは特にウエアー部門でポケットのカバー、ジッパーの向き、ベルクロの強さなど日常の使用具合の良し悪しに関して幾度もレポートした。スノボもウインドもただ楽しむのではなく、創世記の生む側の苦労の手助けを少しでも出来たということに非常に満足している。プロではなくサポーターとしてだが・・・。
ただ目の前に在るものをお金を出して手に入れて楽しむのではなく、ギア(=道具)を提供され一緒になって作り上げていくのを楽しんできた点で秘かな自負がある。
その辺りに「消費・蓄積の喜び」と「クリエイト・作り出す悦び」の違いが少しづつ生まれていくのだろうか?筆者は後者に徹してきたことを非常に満足している。