2026年6月13日土曜日

団塊世代は深大寺植物園のオオタカの繁殖失敗を残念に思う。 The baby boomer generation is disappointed by the failure of the goshawk breeding program at Jindaiji Botanical Garden.

  筆者は昨年2025年、神代植物園でのオオタカ営巣~繁殖の状況を3か月通って観察・撮影した。

 今年の営巣樹は昨年の樹から20mと離れていない同じエリアに在った。今年は先月5月10日辺りから営巣樹を確認して週に一度のペースで通ってみたが、昨年より角度的に巣の雰囲気を観察しにくく見物人もさほど多くなかった。

 筆者は巣の中の様子やオオタカ幼鳥の巣立ちまでは熱心に撮影できていたので、今年は巣には近づかず、5~60m離れた広い場所で待機し、オス親からメス親への獲物の受け渡しだけを撮影したくて通い、ほぼ大願成就出来た。したがって去年ほどは通っていないし巣には近づかなかった。

 しかし、時が経つにつれヒナも孵り餌を欲しがって鳴きだしてから少し様子がおかしくなった。

 高いヒマラヤスギの上から巣を監視する親鳥の監視時間が昨年とどうも違うのだ。昨年は2時間でも3時間でも同じ場所から巣の様子を見ながらオスの給餌を待っていたのだが、今年はやたら出歩いて(飛び回って)巣の監視を怠る事が多かった上、カラスの群れにモビングされてヒマラヤスギへ戻ってくることも多かった。特に6月に入ってからは頻繁だったし、最後に撮影できた6月7日もそうだった。


数羽のカラスに追われて監視台のヒマラヤスギへ戻ることが増えた。

 巣の様子からすると親鳥がいないときにカラスに襲われてヒナ二羽が殺られたのだと推察する。自然の摂理、弱肉強食の世界なのでどうしようもないとは思うが、巣の周りで見上げる見物人が日増しに増えることで利口で知恵のあるカラスが巣のヒナの様子を理解したのではないかという推察も成り立つ。

北側から最後のカット

2026年6月7日最後のカット(南側から)


北側から見た巣6月7日、明らかにヒナのものと思われる白い産毛が散乱している。イタチやテンも針葉樹のてっぺんまでいとも簡単に登れるので、カラスだけが犯人とは思えないが、経緯を見る限りカラスの線が一番濃いように感じた。

 ましてや昨年に比べ巣を監視するメスの親鳥の頻度・時間が短い今年の場合致し方ないのかもしれなかった。

 ひょっとすると今年再度の繁殖があるかもしれない。期待したいが過去に例がないようなので来年に期待ということになろう。

2026年6月7日が最後の観察だった。この羽根が落ちていたがAIでググると猛禽類、フクロウの羽根という答えも出た。フクロウが襲った確率もゼロではないような気がした。

2026年6月12日金曜日

団塊世代は住宅街でのモズの育雛・給餌を観察している。 Baby boomers are observing shrikes raising their chicks and feeding them in residential areas.

  筆者は東京西部の緑地帯で営巣中のオオタカの観察を昨年に引き続き行っているが、同時にここ数日我が家から100mの距離の住宅街で別の種類の野鳥の子育てを観察している。
 その野鳥とはモズ。そうあの発音では二音なのに漢字で書くと「百舌鳥」・・と三文字になる面白い野鳥だ。香具師(やし)、山毛欅(ブナ)などと同じで数少ない日本語。

 モズは全国に分布する。通常種のほかオオモズ(奥日光、人吉)、タカサゴモズ(熊本)、アカモズ(長野)、オオカラモズ(北海道千歳)、などで遭遇し撮影できている。

それが、我が家から歩いて100mの住宅街に残る畑中心にモズ一家が現在繁殖・子育て中なのだ。毎朝夕の愛犬散歩で観察可能なのでコンデジを持ち歩いて撮影させてもらっている。
 筆者2006年頃から野鳥を観察してきてモズのつがいの写真はいくらでも撮ったが、繁殖している場面に出遭ったことがなかった。
 NHKの自然系の番組でもモズの繁殖の一部始終を見た記憶があったが、地方の里山でのシチュエーションだった。今流行りの生成AIGoogle AIでチェックしてもこう出ている。

 しかし我が家は三鷹市のはずれで小金井市との市境に存在する。れっきとした住宅街だ。
20年前まではあちこちに畑も在ったが、現在は上空から見てもどんどん宅地化が進み広い畑は減少している。
傍に川は流れていない、水場は大丈夫だろうか?2~3月の渇水期には我が家のベランダの水を飲みに来たこともある。

 そんな中住宅街でモズが繁殖しているのに遭遇。数年前から居ついていたモズ親だと思うがついに今年繁殖に成功したようだ。

 神代植物園のオオタカが今年は繁殖に失敗したことが今日午前中行ってみて判明した。2羽いたヒナがカラスにやられたようだ。詳細は別のブログで今後レポートしたい。

 ・・・ということで、繁殖・子育て中のモズのファミリーをご紹介。
モズのオス親、今回の採餌→即給餌行動はすべて個のオスだった。

餌をせがんでうるさく鳴くヒナを従えて一塊になるファミリー

欲しがるポーズはどの種の野鳥とも同じだ。

青虫を持ってくればもう大変

あぶれたヒナは余計高い声で餌をせがむ

親鳥が餌を持ってくると羽を広げて震わせるヒナ

羽を広げてせがむのは他の野鳥も同じようだ

向きが重なってしまったが、給餌の瞬間

餌を与えるとヒナは少し落ち着く

生きのいい芋虫はこの時期畑にはたくさん発生している。

1晩明けて翌朝の住宅街左上と右下にヒナがいる。

左上では給餌された餌をヒナがついばんでいる

ヒナが「お替り欲しい!」と言っている

で、親が次の餌を捜すともうヒナは早く早くとせかす。

しばらくこれが続くと思われる。上手くいくように祈ろう!

2026年6月10日水曜日

団塊世代は思うのだが、前向きな生き様とは何? The baby boomers often wonder, what exactly is a positive way of life?

  筆者は5日前投稿したこのブログ団塊世代は今まで自費出版した22冊を振り返ってみた。で、「65歳になった頃(当時)うっかり今後10年の間に10冊の本(写真集)を出そうと思うと意気込みだけで書いてしまった。一瞬無理かとも思ったが、勢いでエイ~ヤッ!と書いてしまったのだ。」‥‥と綴った。

 これは決して「貴方は良い意気込みだ」とか「凄いね!」と褒めてほしいからではなく、大学時代美術系を進んだ自分が何一つ自慢できる絵を描けたり、コンテストに出て入選したり出来ておらず、広告代理店時代での大きな仕事群は別として、個人としてクリエイター(自認)としての具体的作品・成果を何も残せていないのに気が付いたからだった。

 これは小さい時から「モノを作ることが大好き」な自分としては由々しきことだった。

 我が父は海軍兵学校教官時代、敵潜水艦の下で閃光弾を破裂させ、敵潜水艦の全容を上空からくっきりシルエットで見えるようにする「水中照明弾」なるものを発明した。我が祖母新庄よし子は「日本幼稚園史」なる学術誌を共同執筆し残している。

これは国会図書館の収蔵データだが、我が祖母新庄よし子の共著者=倉橋惣三氏は何と筆者がかって銀座2丁目の広告代理店に数年間在籍した際の同僚(現実的にSony Plaza Storeバレンタインデー・キャンペーンを一緒に行った)の爺様だったという奇遇な事実が存在する。

 つまりこの学術書の共著者二人の孫が同じ会社で数十年後一緒に仕事をするという奇妙な運命下にある。これは、つい数年前判った事で同僚当時は考えもしなかった。

 要は、人間生きているときは好きなことができる。しかし死んだ後墓石を見て(ある場合は)その人がどういう人だったか?何を成した人だったか?まるで印象に残らないのはつまらないと思うのだ。少なくとも何をした人かぐらいは知ってほしいと思うのだ。

 我が父は息子の筆者に「自分はこういう事をした人間だ」と一言も伝えず58歳の若さで逝ってしまった。江戸時代まで大名だった家系の事、子爵で貴族院議員だった曾祖父新庄直陳(なおのぶ)が学習院出で野球の早慶戦の審判をやったなどという話も詳しくは聞いていない。
 さらにはお茶の水幼稚園~京都大学を経て海軍技術将校としての活躍。江田島の海軍兵学校の教官で「坂の上の雲」の秋山真之の後輩だなどとは一言も教えなかった。ま、もっとも司馬遼太郎の「坂の上の雲」がメディア上で話題になったのは1978年文庫本になってからだから我が父の死後の話で本人は読んでいなかったのではないだろうかと推察する。

 ・・・・、だから筆者は自分の子供たちに「君たちの父親はこんなことをした人間」と書き残そうと思って「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」をブログで残し、PCやネットにとうとう接しない同級生など友人たちの頼みを聞いてアナログの縦書き本にして残したのだ。

 同時にアマチュアながら最後の将軍徳川慶喜よろしく写真機(=カメラ)で撮影したものを手作りの写真集にして仲間に配ったのだ・・・くらいは残そうと思ったのだ。

 これが「前向きに生きた君たちの父親なのだ!」というエビデンス(=証拠)として残れば御の字だと思う次第。

 ところでTVのコマーシャルで「エビデンス」と棒読みで発した本木雅弘が女の子にイントネーションを「ビデンス」です・・と指摘され「下がります」と言わされるのがあるが、大嫌いだ。もはやエビデンスは棒読みで和製英語として定着している。それを指摘するならーヒー、ホル、ターンなどの英語も指摘しろと言いたい。すでに日本語として定着・通用している外来語を「指摘」などするんじゃない!
 
 話を元に戻そう・・。

 すでに早逝した我が父より現在20年以上も長生きできていて65歳を過ぎた辺りからこの件に関して何かしなきゃと思っていたのだ。

 筆者は1972年大学時代から世界中へ出張していろいろなものを見聞し、体験し、収集した物事は、他の渡航しなければ仕事にならない職業の人(総合商社サラリーマンやNHK自然映像取材陣)は別にして、一般の勤め人に比べれば相当な頻度・量に達しているとは思う。

 ヨーロッパ中心に11か国、中国中心に3か国、北米、ハワイ、オーストラリア、ニュージーランドなど海洋国4か所。
USAのビザとパスポートの有効期間が違った頃は3冊合冊なんてことになっている。

 各地で撮影した記念写真だけでも分厚い写真集が出来ようが、それではあまりに能がないし面白くない。各観光地で買ったお土産の絵葉書のコレクションと同じ人並みで面白くない。

 旅行に限らず音楽コンサートにしてもロック、クラシック共に仕事がらみ・知人出演者がらみで普通の人よりは2回のビートルズ公演含めてライブコンサート経験も多かった。唯一このジャンルに関しては高校時代と50歳時代に生バンドを経験したため、自分自身でも大小の聴衆の前で生演奏をご披露したことがあった。
1965年ビートルズブームの翌年高校2年生でコピーバンド。まだ日本のグループサウンズはブームになっていなかった。ちょうどスパイダースがデビューした年だった。

1965年高校文化祭で演奏、当時のビートルズの最新曲はHELPだった。自分たちのエレキのアンプはすべて手製、真空管の6BQ5のPPアンプと7189のPPアンプ。右端の筆者が抱えているベースギターは1年先輩の3年生が見かねて貸してくれたもの。

それから32年後、憧れのビートルズが使っていたグレッチやリッケンバッカーの本物を買えるようになってバンドを組んだが、メンバー皆さん声が出ず。

やむなくインストルメンタルのベンチャーズ・コピーバンドに・・・。

モズライトを手にしてレコードと同じ音色にニヤツいた頃。町田の小さな小屋で小学校・高校時代のクラスメートを招待して2時間弾きまくったこともあった。

 一方で映画・演劇、美術展、写真展などの鑑賞、海外旅行・名所旧跡訪問は一般人の半分も経験していないと思う。こういうジャンルにおいては我が友に考えられないほどの男女猛者がいるがまるで敵わない。

 筆者は、子供の頃から明るい昼間に暗幕でわざわざ暗くして人の作り話動画(=映画)を観るのもあまり好きではなかった、記録映画や自然の不思議解明映像は別だが・・・。
 むしろそんな時間が在ったら海や川・野原を走り廻って何かをしていたかった。後に知った己の軽度の「多動性自閉症」の理由によるものだったのだろう。

 更には、よほど勉強してその世界と歴史を理解してから「場」に臨まないと(=観ない)とまるで判らない歌舞伎・能楽や浄瑠璃などの日本伝統芸能にもまるで興味が湧かなかった。それらを自分が一生懸命学んで感動し「通」ぶって何か言えるなんてとても自分にはできないと今でも思っている。

歌舞伎 Wikipediaより

歌舞伎座 同上

 でも、これらはあくまで「受け身・消費」鑑賞の成果。お金と時間があって興味さえ湧けば誰にでも出来る「お金を払っての文化の消費行動、鑑賞体験」で、自分が豊かになるだけ、成った気になる満足感だけ。自分からは何も生み出せていない、残せていない・・・と筆者は思ったのだ。決して悪いことではないし、それができる身分を羨ましいとも思っている。

 しかし筆者は生きている間に自分がいろいろな知識と見識を得て、審美眼と高度な文化を知った人になるだけでは人間として後に何も残せない・・・・というある種の恐怖、不満足感・達成感不足を筆者自身65歳にして強く感じたのだ。

 1960年頃の米海軍人のグループTHE ESSEXの大ヒット曲 「Easier said than done 」「言うは易く、行うは難し」というのが在る。行動の伴わない「知っただけ・言うだけ」は駄目よ!って訳だ。

 これをそのまま「人の成す技見て感動するだけで、自分では技やらないのはダーメダーメ!」が筆者の心情なのだ。

 これらをベースに自分の撮った野鳥写真で、自分でデザイン・レイアウト(表紙周りと本文)した写真集を自宅のPCで画像処理し、入稿原稿を作成し、印刷屋への入稿手続き・フィニッシュだけはプロの友人エディトリアル・デザイナーに依頼することを繰り返して作成・自費出版したのが積もり積もって22冊になったのだ。これが5日前のブログ内容。

 基本的に筆者はアマチュアなのでプロの方々に対する尊敬の念は非常に強いものがある。逆に写真集を売ってなんぼの世界には入りたくない。プロの写真家さんのビジネスとしての厳しい裏側はよく知っているつもりだ。決して楽なものではない。

 どんなジャンルでもプロという世界は厳しくて苦しいものだ。スノーボード、ウインドサーフィン、2つのスポーツを相当長く楽しんで、用品や関連商品のテスターを依頼され務めたことは何度もある。

 ウインドサーフィンではセイルのテスト、マストのテスト、フィン(スケグ)のテストを幾度もやり、セイルの取り扱いで手を切り血だらけになったり、強風でマストが折れ風下へ流されたり、ジャンプしたらフィンが海藻を引っかけ折れてこれまた流されたり、命からがらだったことを何度も経験した。テストライダーは確かに経験したがプロという呼び方呼ばれ方は一度もしなかった。
1982年~2005年 1981沖縄ワールド運営、1985年~1995年ハワイのウエイブ大会運営

1990年ISFルスツワールド運営→1998年長野オリンピック・スノーボード競技委員参加

1990年~2010年 Burton品質レポーター

 スノーボードでは特にウエアー部門でポケットのカバー、ジッパーの向き、ベルクロの強さなど日常の使用具合の良し悪しに関して幾度もレポートした。スノボもウインドもただ楽しむのではなく、創世期の生む側の苦労の手助けを少しでも出来たということに非常に満足している。あくまでプロではなくサポーターとしてだが・・・。

 ただ目の前に在るものをお金を出して手に入れて楽しむのではなく、ギア(=道具)を提供され一緒になって作り上げていくのを楽しんできた点で秘かな自負がある。

 その辺りに「消費・蓄積の喜び」と「クリエイト・作り出す悦び」の違いが少しづつ生まれていくのだろうか?筆者は後者に徹してきたことを非常に満足している。

2026年6月6日土曜日

団塊世代が立川の緑地でアオバトに出遭ったレポート。 A report from a baby boomer about encountering a Japanese Green Pigeon in a green space in Tachikawa.

  今年はハトも二番子を孵すのだろうか?今時分巣作りを目指しているようなアオバトに出遭った。集団でミネラルの海水を飲みに来る大磯海岸などとは違って内陸の緑地で単独。

 緑地で数名が長玉を抱えて上を見上げながら何かを探していたので、しばらく様子を見て人々が去ったあと木々の間を注目しながら進んだら木々の枝でジーっと動かないアオバトを発見。

 いつもの通り、いきなりカメラを向けないで様子を観察していたら木の枝を咥えて引っ張っていた。枝を移りながらあちこちで木の枝を引っ張っていたので巣の補強用の小枝を採取していたのだろうと推察。数カット撮影してその場を離れた。

 考えてみれば木の枝を咥えて飛んでいるところを撮ればタバコのピースの箱のデザインになるんじゃないか?・・・・とも思ったが、警戒心を抱かせて繁殖の邪魔だろうと遠慮したのが失敗だったかも・野生の本能はそんなにヤワじゃないとも思った。

レトロなたばこのPeaceデザイン

最初に見つけた時のカット

しばらくジーっと観察していたら手前に移ってきてくれた

下を覗いていたが動かないでいたら

グーンと首を伸ばして小枝を咥え

引っ張ってみたものの折れず諦めた

どうしようという感じで撮影者を見るアオバト・・・・か?



2006年熊本市内で

2年前野川公園で

このほか人吉市の球磨川流域、相良村の山中、北獄神社などで遭遇している。

2026年6月5日金曜日

あのウインドサーフィンの父ホイル・シュワイツアァー氏が亡くなった。 Hoyle Schweitzer, the father of windsurfing, has passed away.

  団塊世代には知らない者はいないだろうと思われるウインドサーフィンというマリンスポーツ。日本では1970年代後半まで影も形もなかったモノだ。

 それを作ったのはアメリカ人のジム・ドレイク(ヨット乗りで流体力学エンジニア・2012年没)とホイル・シュワイツァー(サーファーでコンピュータ・エンジニア)で、製造し商業ベースに乗せたのがホイル氏であることはあらゆる書物で確認ができる。

 で、そのホイル・シュワイツァー氏がとうとう亡くなった。93歳だった。

 ヨット乗りとサーファーが一緒に海で楽しめる道具を作ろうと発想し作り上げたウインドサーフィン(セイルボード、ボードセイリングなど色んな呼び方が存在する)

 この恩恵に与った団塊世代は非常に多いのではないだろうか?この筆者も1981年の沖縄での世界大会時に初めて乗って、2006年頃まで葉山森戸神社裏の岩場にあるほんの20mほどのビーチから出て散々乗りまくった一人。その26年間海と潮風で鍛えたおかげで何とかまだ人並みに動ける健康を保持できていると感謝している。

 ところで、このホイル・シュワイツァー氏の訃報がSNSで盛んに飛び交ったここ数日、気になる事があったので資料をひっくり返してみたら凄いことが分かった。

 此のウインドサーフィンを作り出したホイル・シュワイツァー氏とジム・ドレイク氏両名に直接会った日本人はいったい何人いるだろうという話。

 多分、あまり居ないんじゃないだろうか?

 筆者は確実に彼ら二人に会って話もしている人間を二人だけ知っている。それは筆者自身とあのマガジンハウスで長いこと編集ライターをしているレジェンド内坂庸夫氏(1973年VANの宣伝販促部同期入社)だ。

 ホイル氏には1980年頃からウインドサーフィン・ジャパンの広告・PRの仕事で何度もマウイへ渡り西海岸カハナに在るホイル氏の家をベースに散々撮影をしたものだ。

 長男のマットシュワイツァー氏は当時創世記のレジェンド・プロウインドサーファーの一人で、今では当たり前のジャンプ空中回転を世界で最初にやった数名のうちの一人だ。

 ホイル氏とは’82年新島でのJAPAN CUP賞金レースでも散々話をし、ご夫妻の記念写真も撮っている。

1982年伊豆新島でのホイルシュワイツァーご夫妻

 一方のジム・ドレイク氏には1982年マガジンハウスのポパイの姉妹誌「オリーブ創刊2号」の編集に筆者も参加しハワイロケに随行、2週間のハワイ、オアフ島取材の際、カイルアビーチで会っている。これがその時の記事。

 今考えると、流行り始めているウイングセイルの原型・試作品を取材していたのだからとんでもない時に出会っているのだ。この時の雑誌オリーブでの誌上ではカイトサーフィンと呼んでいた。

1982年6月18日号100ページに記載

今製品化されいろいろな名で売られているウイングセイル

 あれから44年後2020年代になってのウイングサーフィンの動画 ※現在は水中翼(フォイル)を持ったウイングフォイルの方が一般的に広がっている。※下のURLをクリック

https://www.youtube.com/watch?v=9Ym95WKBNf0&list=PLnT6ubLnwvmGAKvA4Dfad7E9pf7Ux_u59

この時の雑誌オリーブ創刊2号はいろいろな意味で筆者にとっての記念すべき雑誌だ。アマチュアであるカメラマンとしての筆者の撮影した画像がハワイ特集のカイルア特集扉ページに使われたのだ。

ワイキキなどとは違うカイルアっぽさを探した1カットだった。

超拡大してみた。アマチュアのカメラマンにとってこういうのは非常に嬉しいのだ。


 こうして、ウインドサーフィンを作ってくれた恩人二人がいなくなってしまった。ウインドサーフィンというスポーツは非常に下積み時代が長いスポーツなので今は人口が減ってしまったようだ。

 海の風は一定ではない、無風もあれば2日前の台風のような時もある。強風であれば初心者は乗れないし、初心者に最適な微風であればベテランは楽しめないから海へ出ない。ビーチであれば砂がまとわりつくし、岩場であれば足を切る。
 それでも最適の風で海へ出さえすれば4~50代の人間がキャッホ~!と言いながら海の上ですれ違うのだ。

 素晴らしいウインドサーフィンを作ってくれたホイル氏とジム氏に感謝! R.I.P.