2026年2月27日金曜日

渇水の調布~三鷹附近の野川で野鳥が活性化し始めている。 Wild birds are beginning to become more active in the dry up Nogawa River near Chofu and Mitaka.

     光学照準器を付けて三脚使用で、あるいは一脚使用でチャレンジした野川の野鳥撮影だが、 光学照準器を使用しないファインダーだけ使用の手持ちと 光学照準器+三脚使用での撮影の差がだんだん判って来た。

 基本的に言えば奇麗な画像を収録するには 光学照準器+三脚使用の方に軍配が上がる。しかし生態の瞬間をとらえるチャンスは、セッティングにほんの数秒余計時間がかかるため手持ち時の1/5程度に落ちてしまう。

 どちらを重視するかは撮影者の問題だが、筆者は生態観察のチャンス重視なのでやはり手持ちで徘徊距離を稼ぐ方に成ってしまう。

 今回の雨の前、カラカラに干上がった野川だがまだ水が残っているエリアまで遠征して撮影した常駐の野鳥を少し撮影。バーダーさん達が好んで投稿するような種類は居ないが、いつもの野川の佇まいをご紹介。


野川にも小さな堰が数カ所存在する、そこでの採餌行動ハクセキレイ。

ジョウビタキのすぐ横をアオジが横切った。

そうしたら今度はジョウビタキがアオジの前を。

横切って手前に来てくれた。

午後の陽を浴びて日光浴。

日陰に入った後ろ姿。

日なたではツグミも採餌中。

樹上で栴檀の実を呑み込むのに苦労するヒヨドリ。

草むらに落下した栴檀の実を頬張るヒヨドリ。

カワセミは川の上にせり出した枝で採餌の最中。

この時期は魚の動きがのろいのでせり出し枝からのダイブが多い。

周りは住宅街

時には高速で飛び、

時にはホバリングもしたりする。

こんな所まで遠征してくるカワウ。

昼寝中のコガモのつがい。

ほんの2時間徘徊するだけでこれだけのシャッターチャンスが!体力キープに、反射神経のキープに、野鳥の繁殖期の忙しさに備えて団塊世代の野鳥撮影もキャンプインといった感じか?

2026年2月25日水曜日

団塊世代は今回のオリンピックを観てスキーの時代の終焉を感じた。その2.Watching this year's Winter Olympics, Baby boomers felt like an era of skiing was ended. Part 2.

  二日前のこのブログへの反応が多く、団塊世代の方々が結構ご覧になっている事が伺え、嬉しくなった。逆に言えばそれだけ今回のオリンピックを観ながら団塊世代なら誰しもある種の時代の変化を感じ取ったのではないだろうかと推察している。

著名人のブログでもないのに1,000を超えるアクセスはちょっと信じられないが、野鳥投稿の際にもこれだけ観て頂きたいと思うのは贅沢だろうか?

 これは、ヨーロッパ、北米、日本では随分違うかもしれない。

 日本におけるスキー産業の発展は日本人特有の「優越感」を得たいために湧き出た「向上心」を軸に進んだと筆者は思っているから・・。

 この日本人に非常に強い「優越感・虚栄心」は色々な場面で日本人特有の「意識・行動」を生み出していると言って良いと思う。10年以上前に書き始めた「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」にもしっかりとその項が存在する。

■ 団塊世代のヤマセミ狂い外伝  #10.団塊世代の事実をどれだけ一般世間は知っているのだろう?(中) This is the real story of Japanese baby-boomers at '60s~'70s.

https://yamasemiweb.blogspot.com/2014/01/this-is-real-story-of-japanese-baby.html


■ 団塊世代のヤマセミ狂い外伝  #11.団塊世代の事実をどれだけ一般世間は知っているのだろう?(下) Do you know what the baby boomer was ? The other generation don't know the real story of the baby boomer.


 なぜこれほどしつこく「優越感・虚栄心」のことを書くかといえば、オリンピックの金メダルこそ、この「優越感・虚栄心」の一番の頂点だと思うから。今やオールドメディアに成り下がったテレビも新聞も過去においてどれだけオリンピック代表アスリートたちにプレッシャーをかけ潰して来たか・・。

 1964年オリンピック後の円谷幸吉選手の悲劇を筆頭に、どれだけオールドメディアが過剰な期待をかけ潰し、実力を出させず残念な結果に終わらせたか?団塊世代は良ーく知っている。

 冬季オリンピックでは1956年のコルチナ・ダンペッツオ大会スキー回転で銀メダルを獲った猪谷千春選手以来、札幌のジャンプ三名、長野オリンピックのスキー団体、メダル獲得を持ちあげる一方、ジャンプスーツの仕様違反で北京大会を失格した高梨沙羅選手には酷い中傷・叩きで糾弾した。

 これらオールドメディアがアスリートを「持ち上げたり叩いたり」する都度、日本のアスリートがボロボロになっていくのを団塊世代はしっかりと見て今日まで来ている。これまでの経緯はその頃の人気週刊誌の表紙を観ればすぐに判る、1960年代は何といっても平凡パンチだろう?

1964年12月号(左)は筆者がスキーを始めた頃の大橋歩さんのイラスト 何と50円!

 中でも、自分がプレーしているスキー(アルペン系)はホイチョイプロダクションの「私をスキーに連れて行って」でピークを迎えたスキー産業のお陰で大きくなった全日本スキー連盟関係者やスキー教室。全国のスキー場(企業・リフト会社・旅館民宿・ホテル)さらにはスキーメーカーの持つ「独特の虚栄心」はいつも気になっていた事だ。

「私をスキーに連れて行って」の頃の銀座広告代理店メンバーのスキー行

 これら、日本のスキーブームを支えつつ儲けた人・企業は、今回のミラノ・コルチナオリンピックで映像を通して観た景色とはずいぶん違う「権威の世界」を作ってしまったと言って良い。
 スキー全盛時の現場では数々の「優越感」が渦巻いていた事は「団塊世代のヤマセミ狂い外伝=冒頭に2本URL掲載」に詳しい。’60~’90年代に筆者が色々スキー仲間から聞いた声をまとめて簡単に箇条書きするとこうだ・・・。

① スキースクールの教師の教え方がすべて「否定的な指導」スパルタ教育がまだ健在だった時代の名残だろうか?まず生徒を褒めなかったしえこ贔屓も酷かったという。常に上から目線で偉そうに指導する指導員が憎らしくて仕方が無かった。

② 準指・指導員資格試験を受けた女子に性的要求をしてパスさせ問題になったSAJ連盟支部が存在した。巷ではそれ程憧れる存在だったのだろう準指・指導員の資格が。

③ スキー連盟SAJの幹部には「理事就任心待ち」のような人種だらけで魑魅魍魎だった。これは長野オリンピックの際スノボでお手伝いした際、随分スキー分野の理事たちから意地悪をされたので良く知っている。

④ 競技スキーはメダルや競技記録(上位大会出場経験)、基礎スキーではデモ選の成績などが「優越感・強弱関係」の基本で、組織の中の上下・差別、派閥が決まっていた。

⑤ スキー雑誌で見た高価な最新モデルスキーを履くことが憧れだった一般スキーヤーに対し、スキー関係者が勤める日本のスキーメーカー(例・小賀坂、カザマなど)の板を使用するものがデモ選で上位に位置した。業界と団体の間にある眼に見えない権威と癒着。

⑥ かって、スキーにはジャッジ種目が無かったので、順位・記録一本やりで「一等、二等」などという言い方で勝った負けたがそのアスリートの人生を決めていた時代だった。

・・・・・と、こういう世界だったため、ワールドカップやオリンピックにおいては選手の勝ち負けばかり報道されある面「厳しさ」、勝者の栄光、敗者の悲哀だけが印象に残るウインタースポーツだった。

 スキーに限らず、フィギュアスケートやジャンプ・クロスカントリースキー。アイスホッケーなどもオリンピックにおける国同士のアスリートの報道はモメごとやケンカが多く、敵同士が抱き合いリスペクトする場面の報道は殆ど無かったように記憶している。

 表彰台の上での選手同士の交流も握手程度がせいぜいの交わりだったのではないだろうか?

 それが今回のミラノ・コルチナオリンピックではどうだ?全然別の星のオリンピックかと思うくらいなシーンの連続だったではないか?

 チームニッポンからスキーのアルペン選手は出場していたのか?

 確か居たはずだが途中棄権でゴール迄すらいけなかったのでは?日本アルペンスキー界は終わってしまったのだ。あれほど権威象牙の塔を作り、栄華を誇り、一般スキーヤーという客層を上から目線で見下していた団体理事・役員、スキースクール教師も終わったのだ。

 古い概念で栄華を誇っていたアルペンスキー関係者は優れた選手、後輩を育てることなくkの日本では30年ほど以前に終わっていたのだ。

 筆者は思った。今回冬季オリンピックを観て優れたアスリートを育てることを怠った日本のアルペンスキー界の元重鎮たちは「一体何をしていたんだ?」

 スキーという古い二本の板を如何に揃えてキレイに滑れるか?・・などという事を上から目線で教える事で金を儲けて来た雪国の人々、大いに反省すべきではないだろうか?

 もう二本板のスキーもジャンプやハーフパイプ、スロープスタイルなどスノーボードをベースにした競技に主力は移って行っている。この際全日本スキー連盟は会長選出で世間に大恥をかいたような首脳部を全とっかえして、まったく新しいメンバーで再出発すべきではないだろうか?

 ネット情報でもSNSでもこの辺りの報道は非常に多かった・・が、オールドメディアでは殆どこういった部分の説明も解説も無かった。

 こういう風潮が出て来たのは、筆者的に言うとスノーボードがオリンピックに出て来てからのような気がする。スポーツとしての文化・価値観・常識がまるで違う気がする。記録が勝ち負けのベースであるスキーと、ジャッジ・評価が勝敗の要であるスノボのもつ独自性がオリンピックを変えたような気がする。

 今までそれほどでもなかったフギュアスケートの世界も今回そうなったのはチームニッポンの雰囲気、坂本花織選手の明るさのお陰だろうと思う次第。オールドメディアでこの辺りを分析・報道した所は何処も無かった。SNSやネットばかりだこれに気が付いたのは・・。

未だかってこんなに素晴らしいフィギュアスケート会場を観た事がない!

ウインタースポーツ全体が一つにまとまったのも初めての事ではないだろうか?

 しかし日本勢・アジア勢がスノーボード系の上位を独占したように見えた今季の冬季五輪、オリンピック委員会は絶対にルールを改定してヨーロッパ勢の上位入賞が容易になる様にするだろうと日本のスノーボード会の開拓者・レジェンド阿部幹博氏は警鐘を鳴らしている。ジャンプスキー界の板の長さ問題、スーツの仕様・検査問題が良い前例だろう。

2026年2月23日月曜日

光学照準器(=スコープ)を付けてカワセミを撮影してみたら・・。 I tried taking a picture of a kingfisher using an optical sight (scope).

  筆者は2010年から遠征して熊本県人吉市の球磨川でヤマセミの生態を観察しつつ撮影を重ねて来たが、超望遠レンズ装着でヤマセミの面白い生態を撮影する際、光学照準器(=スコープ)をある時から使用していた。

 これは下手をすると20m以上の高低差をダイブして採餌する際に、三脚にカメラを固定しただけでは追い切れなかったための措置だった。

 500㎜程度の望遠であれば殆ど手持ちで撮影できていたのだが、ヤマセミシリーズをほぼ終え、2020年7月4日の球磨川流域豪雨災害でヤマセミが奥へ入ってしまい、遠征もしなくなった今日この頃、近所の野川でカワセミ相手に視力、反射神経の劣化防止を兼ねて撮影を再開し始めた。

 ヤマセミの方が小さくてすばしっこいカワセミよりはるかに撮影はしやすかったので、光学照準器の効果は多大だったのだが、ちょこちょこ動くカワセミには使えるとは思っていなかった。

 しかし、今回ダメ元で重たい三脚にジンバル雲台を付け、光学照準器も付けて撮影してみたら思いのほか飛翔中の姿や高速ダイブの瞬間が撮れていたのでしばらく慣れてみようと思った。

 機材全部で15㎏程度背負って野川沿い草地の土手を1万5千歩程度の行軍なのだが、後期高齢者のフィジカルキープと劣化防止には良いかもしれない。

 画像は数日前2時間半で撮影したモノのほんの一部。これ以外にもジョウビタキ、アオジ、ウグイスなどの飛翔シーン中心に1000カット程撮影できた。

今回のセッティング重量13㎏











高速で飛ぶカワセミを捉えるのは非常に難しいが・・・。

2026年2月22日日曜日

団塊世代は今回の冬季オリンピックを観てスキーの時代の終焉を感じた。Watching this year's Winter Olympics, I felt like an era of skiing was ended.

  日本代表が惜しくも4位で終わったスキークロス、あともうちょっとでメダルだったのに残念!

 しかしこの競技は元々スノーボードのスノーボードクロス(=1998年長野オリンピックの頃は種目には無かったが、当時はボーダークロスと呼ばれていた)

 岩手の雫石で行われたFISスノーボードワールドカップ(ネットでどこを探しても記録がない)で初めてスノーボードクロスが採用され、自分でもアルペンの板で滑ってみて転びはしなかったが、さすがに最後のゴール前のジャンプは飛べなかった。

 当時はまだアルペンの板でハードブーツの選手の方が多かったように記憶している。たしか一人だけソフトブーツで参戦した選手がいて、結構順位が良かったので続々とソフトブーツでアルペンの板を履く者が出たように思う。初期のレースなればこその試行錯誤の時代だったような気がする。

FISの年間ブローシャー。まだ20世紀の頃正式ロゴは左上のモノだった。

 要はスキークロスもこのスノーボードクロスをスキーでやるって事。筆者が長野オリンピックの競技役員としてお手伝いをしている頃、初めてボードのハーフパイプにスキーヤーが入って真似事をしていた。しかしカーブの強いパイプの中でビンディングが外れまくっているのを何度も眼にした。20世紀末はまだそういう状態だったのだ。

NAOC長野オリンピック組織委員会からの競技役員委嘱状

オリンピック終了後のオリンピック参加証

 話は戻って・・・。

 筆者がスキーの板を履いたのは1964年の12月高校のスキー教室。まだ16歳の高校一年生だった。JR中野駅前の丸井でセットを月賦(=クレジット分割払い)で買った頃。三浦雄一郎氏が富士山直滑降した頃だ。

 池袋西武の三浦さんの展示会に列をなして行ったほど。トニーザイラーの「黒い稲妻」という映画の大ヒットでスキーというウインタースポーツが高度成長下の日本で「憧れのウインタースポーツ=冬の過ごしかた」のトップに躍り出た頃。

https://www.google.com/search?q=DER+SCHWARZE+BLITZ&rlz=1C1CHZN_jaJP1075JP1076&oq=DER+SCHWARZE+BLITZ&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyBggAEEUYOdIBCTMxMTZqMGoxNagCCLACAQ&sourceid=chrome&ie=UTF-8#fpstate=ive&sv=CAMSaxoyKhBlLVd0Mk9mR0ZkOUdoQWxNMg5XdDJPZkdGZDlHaEFsTToObHBHVENaOGZacFg5RU0gBCoxChtfVmZDYWFmV2JJNm01MnJvUGthN1g2UUVfNjMSEGUtV3QyT2ZHRmQ5R2hBbE0YADABGAcgx-Cs1gcwAkoIEAIYAiACKAI&vld=cid:1aa5ff7e,vid:DQWWw3tRUlI,st:0

 当時東レの黒い原糸が沢山余ったので、来日した際黒のタートルネックセーターをザイラーに着せた結果、黒いセーターが流行ったなどという都市伝説迄生まれた。

 しかし1958年はスキー人口がそれほど多くなかっため、タウンウエアで流行ったという。残念ながら筆者まだ小学校4年生だからその影響も記憶もない。

 1998年長野オリンピックの際、レガシィ・ツーリングワゴンで有名なスバル(当時富士重工)が冠スポンサーで、白馬八方尾根で歴代のオリンピックメダリスト(レガシィ=レジェンド)を招待、「’98HAKUBA LEGACY RACE」を行った。

 これはオリンピックに参加している各国の代表選手たちがその国の誇りである自国のメダリストを応援に来るんじゃないかと目論んでの一大イベントだった。発想の発端は筆者と丸山仁也さん(スキーアルペン全日本選手権唯一の三冠王)との茶飲み話から生まれたのだった。
 これは開催してみたら予想以上の大騒ぎとなり、現場白馬八方尾根は恐ろしい程の観客で埋まり、生のトニー・ザイラー氏が音頭取りでレースを仕切ったためイベント自体がレガシイになったほど。

 筆者の広告代理店時代のベスト3に入る仕事。ユニークなスポーツイベントだ。いろいろ広告界・スポーツ界でいくつか賞も頂いたが、記録画像と自分の脳裏に残る記憶だけで充分だ。

 今考えると、この頃が日本における競技スキーのピークだったのではないだろうか?「私をスキーに連れて行って」で爆発したレジャー的、遊び領域としてのスキーは文化的にも人口的にもこれを境に下降し、スノーボードが取って代わったのではないだろうかと推察する。

 実際にスキーやスノーボードをやりもしないスポーツ評論家がメディアで何と評しているか知らないが、さんざんやって来たアスリートたちは判っていると思う。

1982年頃、銀座二丁目の広告代理店に勤めていた頃の同僚との戸隠スキー行。エレッセ、ピューミニ、ボグナー、フザルプ、デサント、ゴールドウイン、フェニックスなどスキーウエア・ブランドが目白押しだった。当時スポーツウエアの輸入代理店だった三井物産スポーツや他のスポーツ会社の社員バーゲンなど、入場券はプラチナチケットで勤めを休んで行ったりした。

 一方、自分がスキーを始めた1960年代中期は加山雄三の「アルプスの若大将」の苗場スキー場ロケに平凡パンチの読者プレゼントに当選して行った頃でもある。季刊誌のスキーガイドなどに白馬東急ホテルの暖炉の前でノルディックセーターを着てくつろぐ写真が掲載され、誰しもが憧れた頃だ。

 この頃の話はこのブログ2014年7月の「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」に詳しい。ご参考

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #48.」  ● 実録高校・学校生活 その4.スキー教室編

https://yamasemiweb.blogspot.com/2014/07/blog-post.html

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #49.」  ● 実録高校・学校生活 その5.スキーに関するあれやこれや。 

https://yamasemiweb.blogspot.com/2014/07/blog-post_6.html

 こういった団塊世代とスキーとの関係は他の年代の人より遥かに密接だと言って良い。此処で少し団塊世代ど真ん中でスキーを散々楽しんで来た筆者とのかかわりを含めながら「スキー」というモノの変遷を振り返ってみたい。

 筆者とスキーとのかかわりは1964年12月高校のスキー教室に始まると既に述べた。翌年の暮れ頃には、あとで判った事なのだが加山雄三の「アルプスの若大将」のロケ・エキストラとして西武のバスに乗せられて苗場スキー場のスキーヤーズベッドで1泊ツアーに行ったのだった。平凡パンチの読者プレゼントの形を取ったのだろう。

 撮影の合間にコースの途中で加山さんがスキーを椅子にして日光浴をしているのに遭遇したのもスキーを始めて2年目の高校生の脳裏にはしっかりと刻まれている。とてもカッコ良かった!

 これで本格的にスキーにハマった筆者は、上手くなりたい一心でありとあらゆるスキー関係の書物を神田の古本屋で手に入れたのだった。

1965年古本屋で見つけて手に入れたのだが本の装丁が本格的な布で立派なものだった。週刊誌が30円とか50円の時代、元値が500円もしたので今考えると相当高価な書籍だったはず。

初期のスキー教則は山側の腰を前に・・だった。

いわゆるオーストリースキーのバイブル!メガホンで大声で怒鳴る写真で有名だったクルッケンハウザー氏の教則本で、日本スキー界のレジェンド福岡孝行氏の翻訳。この30年後1995年のインタースキー野沢温泉大会時、SIA(日本スキー教師協会)名誉総裁の故・寛仁親王殿下にスキーの話を教わった際、福岡孝行さんのお名前を知っていると申し上げたら大変驚かれ、同時に喜ばれたことが有った。
筆者のスキーはこのオーストリースキーで出来上がってしまったため、ずーっとこんな感じの滑り、要は教則本そのままなのだ。スキーに関しては大変厳しい故・寛仁親王殿下に数度褒められたことが有る。とても嬉しかった。

 全日本スキー連盟の教則本も手に入れて学んだが、ベーレンテクニックというコブを乗り越える際の超後傾スタイルが採用された際、前年の教程で伸び上がれと言いながら、翌年の教程で沈み込め!などといういい加減さに腹を立てて、SAJの教程はそれっきり信用しなくなった。もちろん1級2級などバッジテストだの、指導員、準指導員などという優越感増長試験へはチャレンジなどもしなかった。

 後に1995年インタースキー野沢温泉大会で散々お世話になった杉山進さんの影響を相当強く受けたのが筆者のスキーへのピーク時だったのではないだろうか?SIA専務理事として日本におけるスキー教師、プロの世界の基礎を作られた方。

 この方のお陰で毎年部厚いスキーの季刊誌などで良く見知った著名な方々、白馬の丸山庄司さん、黒岩達介さん、馬淵雄一さん、小滝頼介さんなどと身近にお話が出来た。

 現在、SIAの名誉総裁は故・寛仁親王殿下の後、彬子女王殿下がなさっている。彬子女王殿下は父君の故・寛仁親王殿下と共に日本で一番最初にスノーボードをされた皇族様。

 


杉山さんから贈られた著書。宝物。


団塊世代の筆者がスキーというウインタースポーツを楽しんだピークの時期にお逢いできた杉山進さんは色々な意味で大きな影響を受けた恩人の一人。オリンピック毎に想い出す。

1995年野沢温泉スキー場で開催のインタースキー’95の前年、現地打ち合わせで筆者。左が杉山さん、右が白馬の丸山庄司さん。筆者にとっては日本スキー界を背負ったお二方と一緒の貴重な宝物。


 この続きは、しばらく資料・情報を集めて今回のミラノオリンピックで変わったスノースポーツの世界をまとめる予定。