2024年1月31日水曜日

緊急投稿!1970年輪島へ行った際の写真が出てきた! Urgent post! A photo from when I went to Wajima in 1970 has appeared !

  正月元旦の能登半島大地震からちょうど1か月が経過した。

 筆者は1969年~1970年にかけて日本各地をスケッチ旅行した。理由は横浜の大学の教育学部美術専攻科の学生であったと同時に、写真撮影に熱中し始めたころで、絵を描くにしてもまず写真に撮っておく癖があったから。

 人物にしろ風景にしろ、やたら眼に入ったモノはシャッターを押していたような気がする。中でも蒸気機関車、鉄道に関しては小学校の頃からの趣味対象だっただけに枚数が多い。

 今回投稿した写真は、東京・新宿駅~岡谷経由・奈良井・馬籠・妻籠~名古屋経由高山~金沢~輪島~直江津~上野・・と国鉄の周遊券(学割)で回った旅の記録。

 当時の駅弁の折り掛け紙も未だに保存してある程だから、相当印象的な旅だったように思う。1970年は駅弁が大体120~150円の時代だ。

 掲載写真はおぼろげながらの印象でコメントを付加してあるが、今から54年前の事だし、我が脳もいささか錆びが回っているので、いい加減かもしれない。

七尾駅もしくは穴水駅ではないだろうか?地方で3番ホームまであるのは分岐点駅。

北陸本線と七尾線の分岐駅・津幡駅もしくは七尾駅と思われる

唯一輪島駅の可能性がある。貨物車両が多いのは海産物の量が理由か?


写真は当時大活躍していたラッセル車(雪かき先頭貨車)キ100系のキ174。向こうのホームの行先表示を視ると砺波方面への分岐駅なので高岡駅の可能性が高い。

これは記憶にある塩風で色がなくなった景色、輪島駅への街並み

1970年の朝市通り、まだ藁で編んだ背負子などこの頃の風俗、懐かしい。

朝市の風景。この子は現在57~8歳になっているはず。現役の藁編み活用品。


夏の朝市風景。ネガがもっとあるはずなので探してみたい。

 ところで、ここで団塊爺のボヤキ!

  また次回このブログで投稿するつもりだが、今朝のテレ朝モーニングショウーで玉川徹がまたまた馬鹿なコメントを発していた。阪神淡路大震災の時三日で水道が戻った事例と今回の能登半島地震を比べて水道の復旧が遅いとか・・。立地条件や地形の変形など現実を無視して単純に水道復旧にかかった時間を比較するなど、被災地で復旧活動をしている方々にあまりに失礼ではないだろうか?

 同時に思うが、もし今回の能登半島地震被災者や復旧工事に勤しんでいる方々へ少しでも応援する気が合ったら、遠隔地からニュースだけで見守るしかできない方にも実質応援出来ることが有る。それは大阪万博のチケットを買わない事、予約をしない事、行かない事。

 どれだけマンパワーと建築用材が万博のおかげで被災地に回らないか!よく考えるべきだろうと思う次第。

2024年1月30日火曜日

湯島天満宮の梅に早くもメジロが! There are already the Japanese white-eyes in the plum blossoms at Yushima Tenmangu Shrine !

  ここ2週間、東京郊外三鷹市エリアでは朝の最低気温が殆ど氷点下。低い時は-5℃で雪の日の札幌より低い事すらある。友人のFBでのやり取りで初めて知ったが、雪が降った日の気温は降っていない日より暖かい(※とは言ってもマイナス)のだそうだ。

 だから、この冬東京が札幌より最低気温が低かったのは数日存在する。これはあくまで朝の最低気温の話、日中は札幌の方が低いに決まっている。

 で、今日は昨日の湯島天満宮、通称「湯島天神」の梅に来るメジロの話。もう幾度も述べてきたが梅に鶯は来ない。筆者生涯たった一度3月末三鷹の住宅地の公園で、花が残っている白梅の木に鶯が来たのを撮影しているがそれ以外ただの一度も遭遇したことは無い。

 観光客のおばさんたちが「あら、梅にウグイスよ!」と騒いでスマホを向けているが、メジロを完全にウグイスだと思っている。一般的にウグイス色と思い込んでいるのがメジロの色だからだろう。

 言うまでもないがウグイスはムシクイ(=虫食い)つま動物食の一属。決して梅の花の蜜は吸わない。

 一方メジロは甘いものが大好き、花の蜜や柑橘類の実、一番酷いのが干し柿の甘くなった奴に穴をあけて食べつくしたりする。春先梅の花、桜の花、椿の花に群がるのがご存じの通りメジロとヒヨドリだ。

 昨日の今日の投稿でドタバタしているが、「湯島の梅」で有名な江戸の観光名所・湯島天満宮。梅の開花状況は樹によって違うがまだまだ二割の開花状況。境内真ん中の植え込みのしだれ梅(ピンク)と白梅が満開間近。それ以外は蕾が多い。

境内中央のしだれ梅

これにメジロが来ていた。隙間が多いので撮影しやすかった。

不忍池へ下る女坂界隈はまだまだ。

 昨日メジロは三羽来ていた。


「湯島の白梅」、で有名な湯島天満宮は本体白梅がシンボルだという。








 上を向いてカメラをの液晶観ながらタイミングを計ってシャッターを押すのだが、根気よく狙うことが肝要だ。スマホでも良いけれど、動きが速いメジロに相当苦労するだろう。昨日の画像はすべてCanonのコンデジ、Poweshot SX-740HSで撮影したもの。ISO100 でシャッタースピードは1/1600.

 ぜひ、晴れた日を狙って行かれたらどうだろう。

2024年1月29日月曜日

低温で野川が凍り付いた時の野鳥の動き。 Movement of wild birds when the Nogawa river freeze due to low temperatures.

  このブログで良くレポートしている三鷹市の野川がこのところの低温で全面結氷している部分がちらほら観察された。

 特に今月25日、26日の最低気温は早朝6時前後に実測-5℃、-2℃と続いたため、野川が100mほど水面が見えなくなり全面結氷した。

 流れている河川は池や沼・湖ほど凍らないと言われているが、流れの結構ある野川がこれだけ凍ったのはあまり記憶にない。

 ‥と言うか、真冬には雪でも積もらない限り過去において早朝の野川には行かなかったからかもしれない。

 それが今回は前日25日の夕方、凍った部分があった為翌朝の結氷を予測したのだ。

 冬季、野川の水位は相当低くなる。完全に干上がってしまい川床が単なる石ころの道になる部分が相当出てくる。特に武蔵野公園~野川公園付近の護岸工事の無い天然の草地の土手部分はそうなりやすい。原因は上流部分で水を使ってしまうからだという話もあるが定かではない。

 干上がった場合、残った水溜りに魚が集まるので、サギ類が大挙押しかけてきて採餌の狂乱パーティを繰り広げる。

 

 で、凍った野川ではどういった野鳥の生態が観られるかと言うと、まずダイブできないカワセミが結氷エリアから消える。凍っていない場所へ移動する。採餌場で縄張り争いが繰り広げられるのではないだろうか?

 カワセミは消えるが、セキレイ系は逆に増える。その他ヒヨドリやシジュウカラなどが水を飲みに来る。氷が割れた部分などに集中するのが見て取れる。







土手には大きな霜柱が出来ていた。

居たのはキセキレイにハクセキレイのつがい

凍っている部分が多いとすぐに飛んでいてしまう、オス

水面が観られる場所で採餌をしていたメス。

あまり浅いとただの氷原のようになっている。

ヒヨドリもシジュウカラも凍っていないところに集まってきていた。

2024年1月28日日曜日

75年頃の過激派、桐島聡 確保でよみがえった団塊世代の記憶。 The memories of the baby boomer generation were revived by the capture of Satoshi Kirishima, an extremist from around 1975.

  1975年頃のテロリスト過激派、桐島聡 確保と言うニュースがメディアを駆け巡った。

ある意味、国内で最も印象的な顔写真の一つだったのではないだろうか?

最近になっても数少ないモノクロ写真であることが事件の古さを感じる。

 筆者は1967年、現役で入った早稲田大学教育学部を1か月で辞め(注:決して不祥事で退学ではない、念のため)、阿佐ヶ谷美術専門学校に入った。その後先輩の一言で再度大学を受験し、1969年全共闘学生運動のさなか横浜国立大学の教育学部美術専攻科に入った。

 この頃の様子は「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #61.」 大学二度目の入試はもうドタバタ!その1.その2.・・をご参考。

https://yamasemiweb.blogspot.com/2014/08/blog-post_23.html

https://yamasemiweb.blogspot.com/2014/08/blog-post_24.html

 この辺りは、戦後最大の人口過多ゾーン「団塊世代」であれば別に驚くに当たらない普通の進学経路だと思う。東大や東京教育大学が入試を直前に中止するなど、人生で最も「意外・絶望」の瞬間を過ごしたのが此の団塊世代だったのではないだろうか?

 しかしその中でも一番ヤバい籤を引いた一群の一人が筆者だった訳だ。

 どちらかと言えば保守的・右翼的な考え方を持っていた当時の筆者だが、横浜国立大学に入ってみて「アッ!と驚くタメゴロー」状態になったのだ。もう時すでに遅し、入ってみてわかったのが左翼過激派のブランド集団・白ヘルで有名な「中核派」の巣だったのだ。

 要は過激派が日常バリケード封鎖されたキャンパス内を白いヘルメットをかぶってウロウロしている「戦場」に近い環境と言ってよかっただろう。学食すら開いていない時期が1年以上続いた。

 教育学部美術科と言う部門だけに女子学生が多く、キャンパスの出入り(バリケード封鎖とヘルメット+タオル顔隠しの門番が居た)や夕方暗くなって、キャンパスのある清水が丘から長い坂を下ってドンドン商店街というジョージ秋山の漫画の様な街を抜け、京急南太田の駅まで、幾度となくクラスメート達をエスコートした記憶がある。いわば集団下校ってやつ?

https://dondon-shotenkai.jimdofree.com/ →ドンドン商店街(ご参考)

 で、その横浜国大に入ってすぐ筆者は念願のサッカー部に入部する。(※都立広尾高校は校庭が狭くてサッカー部がなかった)同好会ではなく純粋の体育会系サッカー部だ。

 一方でキャンパスは全共闘に封鎖・ロックアウトされていたため、大学に入っても1年間は授業は行われなかった。だからサッカー部での活動も3年間やり放題、強くなるわけだ。かの防衛大サッカー部には一度として負けたことがない。

神奈川県知事杯優勝で1971年和歌山国体の神奈川県代表権獲得、右端筆者。

 此のサッカー部で筆者は背番号11、右ウイング(フォワード)だった。実質クラブ練習が動き始めたのは1970年4月からだった。4月の三浦半島初声中学校での合宿から参加し、夏の箱根仙石原中学校で合宿中、得点王になりレギュラーポジションを得たのだが、その頃の反対側・左ウイングがあの上赤塚交番襲撃事件の京浜安保共闘・渡辺正則先輩だったのだ。

 ある日渡辺先輩が練習に来なかったので「何で?」と訊いたら、「お前知らないの?交番襲撃して警官に打たれてケガしてつかまったんだよ」という事だった。

 京浜安保共闘のこの時の襲撃事件には、もう一人横国大生・柴野春彦(事件で撃たれて死亡)が加わっていた。こうやって今考えると、筆者は当時相当ヤバい環境下に生きていたのだ。

 それを考えると、その5年後とは言え、丸の内でもっと大掛かりな爆弾を爆発させたテログループのメンバーだった桐野聡が、今頃になって末期がんでもうすぐ死ぬから最期は本名で死にたい・・・、なんと身勝手な奴だろうと思った。

 しかも、鎌倉?大船?の病院に入院しているという。ウインドサーフィンの大会などで散々お世話になった鎌倉市の病院に入っているんだと。今まで神奈川県内の土建業界で生きてきたんだという。

 しかし声を大にして言いたい。警視庁も「重要指名手配」の写真、もう少し考えた方が良いんじゃないだろうか?今の今まで人口の多い神奈川県で生きて来たってことは、全然これらが意味無かったってことでしょ?

 それに、桐野聡はこの写真意外資料は無いのだろうか?生成AIがこれだけ騒がれているんだから、いくつかの写真を基に生成系AI駆使して今の姿を制作し貼りだすぐらいのこと出来ないのだろうか?生成系AIってそのために在るんじゃないの?

 アニメやエロ写真を生成系AIで作るなんぞより、こういった似顔絵だとかモンタージュ写真作成に役立てるべきではないだろうか?

 AI技術の専門家集団たち、自分たちの持つ高度なスキルの有効的な使い方に頭が回らないって・・、天は二物を与えなかったのかなぁ?残念至極。

 我々団塊世代は、同じ中学や高校、大学のクラスメートのクラス会ですら「お前誰だっけ?」状態なのに、1975年の写真を基に「重要指名手配」犯人逮捕に情報を!って・・無理だと思いませんか?

 一部生成系AIで作った小説が芥川賞になる時代だもの・・。



2024年1月27日土曜日

団塊世代は能登半島地震に関して自分が出来る事を整理してみた。The baby boomer I tried to organize what I could do about the Noto Peninsula earthquake.

  かれこれ正月元旦から3週間以上が経った令和6年能登半島地震。1970年、横浜の大学に在学中教育学部美術科のメンバーと連れ立って能登半島を回った。

 新宿ー松本ー名古屋ー高山ー金沢と周り、金沢市内に一泊し、七尾線で穴水経由で輪島へ入った。その際輪島で宿泊した先の宿に同い年のオーナーの息子が働いていた。

 輪島塗の工房へ連れて行ってもらったり、漁港を案内してくれたりでほんの数日だったが印象深い時間を共にした同じ21歳だった。

 どうやらその彼が、今回の地震で被災し亡くなられたという情報が入った。2日前の事だ。同い年だから75歳だ、団塊世代だ。

 それを知るまでTVやネットのニュースで得た情報だけでどこか遠い感じがしていた今回の大震災だったが、これを機に遠からず自分に関係する「災害」だという認識が芽生えた。

 今朝の新聞でも未だ全容は掴めていないし、伝統工芸も絶滅の危機に在るという。

 で、自分なりに「自由な楽しみ」を制限することにした。セルフ自粛だ。

 少なくとも過去において輪島なり能登半島周辺を見聞し、何らかの「得る事、得るもの」があったり、そこに生きる人々に世話になった身であれば、レベルこそ天と地の差があるにしろ、辛さや悲しみを共有してあげるべきだと思ったのだ。

 独りよがりであっても良い、自分自身で納得できれば気が済むのだ。

 筆者の場合は今から54年前の話なのだが、宿に居た同い年が亡くなったと聞けば自然と笑顔が消えてしまう。自分もそういう歳になったんだと思わざるを得ない今日この頃だ。

 とてもじゃないが、都心でメディア話題の人気レストランを予約し、高いコース料理など食べる気しないし、華やかなコンサートへなども行く気がしない。被災地を思うと、そこで衣食住全てに苦労している人々を思うと「贅沢な消費、余裕のある自由」は楽しめないから行う気がしない。

 勿論、SNSで悪意に満ちた投稿をする者たちのように、他人に「アンタもそうすべきではないだろうか?」とは絶対に言わない、これはあくまで個人の問題。

 人それぞれ価値観や常識は違う、人の行動は品格の問題、性格の問題、心の問題だから筆者的には自分の気が済むまでそうする。だから期限や決まりはない。

 「絆」とか「寄り添う気持ち」とか「言葉」だけを掲げて何かアピールするだけでも良いが、筆者的には「思いを馳せて、自分なりに自粛する」という具体的行動が一番手っ取り早い「現地にエールを送る行動」だろうか?

 これ以外、物理的な支援は募金しか今の所考えつかない。募金は、昨年のハワイ・マウイ島ラハイナの大火事同様、信用のおけるルートで募金は速攻で行った。

 物理的支援として白無地Tシャツだのタオルや水を送りたくなるが、2016年熊本地震や2020年の球磨川エリア豪雨災害で物資を送ったら、混乱状態なので今送られても困ると送り返された経験があるからそういう事はしない。

 キャンピングカーで駆け付け、時給自足可能なボランティアとして何かを手伝いたかったが、キャンピングカーを持っている友人が札幌在住なので断念した。

 数日後、杉良太郎氏が行っているのを知って「エライ!」と思った。団塊世代よりはるかに年上なのに、筆者も気力と実行力で負けているではないか?この行為を「売名」と訝しむ輩が居るというが、あまりに酷いと4日前のこのブログで訴えたら、その日からアクセスランキング1位になった。そう思う方が多いのだろうか?少し嬉しい。

 「元旦の能登地震から3週間メディアの酷い報道を憂える。」https://yamasemiweb.blogspot.com/2024/01/3for-three-weeks-after-noto-earthquake.html

アクセス2位に大差をつけてTOP。注目度は高い。数字は最近1週間の数値。

 現地ではボランティア受付が始まるようだ。その前にやたらニーズも訊かずに勝手に物を送り込んだり、駆け付けないよう石川県のTVが情報を発信している。

https://www.ishikawa-tv.com/news/itc/00001049 


 行政は行政レベル横のつながりで、きちんと必要な物資を確認して支援物資を送っている様だ。筆者が散々お世話になっている人吉市などは松岡市長さん先頭になって、支援物資を繰り出し情報発信している。
人吉市から昨日発送された支援物資部隊。頭が下がる。

2024年1月26日金曜日

野川に野鳥を撮りに行ったら、ダイアモンド富士に遭遇。 When I went to Nogawa to take pictures of wild birds, I encountered Diamond Fuji!

  例によって野川流域を探鳥しながら流して徘徊していたら、今まで見たことがないエナガの水場での採餌に遭遇。野川自然観察園内の池だった。

 自然観察園と言いながら野良猫に餌をやるオバサンたちが定期的に来る、変な自然観察園なのだ。

 野良猫に餌をやるお陰で、猫共が地面に近い場所に生息する藪鳥をとらえてしまいアオジ、クロジ、ウグイス、カシラダカなどの藪鳥が激減したまま数年が経つ。

 マイナスの気温が続くこの1月、自然淘汰で野良猫の絶滅を願う筆者なのだ。

 そんな中ジュールル♪とエナガの20羽ほどの群れとコゲラ、シジュウカラ、メジロの混成群が筆者の周りを通り抜けていった。その後丸池の手前の湿地帯でやたら草むらにエナガが降りたって草の裏側の虫を啄んでいた。初めて見る光景だった。

 




こうした草むらで採餌をするエナガの姿、観たことがおありだろうか?エナガと言えば空抜けの姿を撮るのが普通だとばっかり思っていたが・・。

 で、しばらく野川を遡ってみると大きな病院の裏の崖路にやたらバーダーの様な望遠レンズを持った人たちが20人ほど!なんだなんだと行ってみたら、ダイアモンド富士を撮るんだと!

 そっちの方は専門じゃないので軽くお邪魔してさわりだけを撮っておいた。
空気が澄み過ぎて、風も強くて太陽が異常にまぶしい撮影だった。

ちゃんと真上に降りてくれた。

筆者はむしろ沈んだ後の富士頂上の雪煙とか、その陰とかが気に入った。

終わって帰ろうと歩き始めたら、なんと満月が浮世絵の様に東の空に。

極めて和風の満月だった。