2014年9月30日火曜日

リクエストが多かったヤマセミのペリット(ペレット)排出場面。 This is the scene of Crested kingfisher's discharging of pellet.

 この超ローカルネタのブログにもリクエストや問い合わせが来る。閲覧者の22%が海外であるのに対し問い合わせやリクエストは30%以上が海外だ。インターネットの面白さを体感している。魚類の研究者からも意外なほどの問い合わせがある。ヤマセミが捕獲する魚種に非常に興味を持たれている方がいる。

 今日の画像はそう言ったリクエストの多い中からヤマセミがペリットを排出して居る場面を相当遠くからだが正面から撮れた画像。ふつうは岩の上などで排泄する事が多いペリットだが今回は水面から6mほどの竹の上に留まって排泄していた。口の中に見えてから落下させるまで何度も苦しそうにシャックリを繰り返していたので結構つらい作業なのだろう。

ペリット=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88 参照
口の中にペリットが見える。

しゃくるようにペリットを徐々に口の先に出している。

まさに排泄されんとする綺麗な白い卵型のペリット。

落下中のペリットが画面真ん中下に見えている。

少し画面を引いて真ん中下方に白くペリットが見えている。








2014年9月29日月曜日

カラスに邪魔されるヤマセミ! Crested kingfisher obstructed by crow.

 カラスがヤマセミにちょっかいを出すシーンは幾度か紹介した。今回は大きな橋の橋脚で餌を狙っている時に殺気を感じたのだろうか?いきなり警戒の声を出しながら採餌ポイントを離脱したヤマセミのメス。

 最初のほうのコマでは迫り来るカラスに向かって鳴く姿が数カット続くが、自分のほうに迫り来る姿や理由が相当前から判っているような素振りなのが不思議だ。ヤマセミ側というよりカラスの側に何の理由があるのだろう?単なる気まぐれか?基本的にこの橋の橋脚はカラスが留まる事は年間通じて滅多に無いことなので理由がまったく想像できない。

 野生の動物には意味の無い行動は有り得ないと思い込んでいたのだが、考えを改めねば成らないのだろうか。








単なるイジメで、「其処にデカイ面して居るんじゃねーよ!」とでもいう行動なのだろうか?自分も野鳥を撮影していて、このような目に遭った事も有るのでヤマセミの気持ちが良く判る気がする。




2014年9月28日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #71.」 1972年春休み、英国短期留学ホームステイ始末記 その3.

音楽に関してはギルバート・オサリバンに限らず、当然BEATLESの母国だけに、現地へ行く前からいろいろビートルズやリバプールサウンド関連のモノを物色するつもりで居たから、まずはレコードの英国オリジナル盤、あるいは日本では手に入らないBeatles関連盤などを買い求めた。ロンドンにプロのサッカー試合を観に行った際は、この頃スタートしていたCAMDEN・LOCK・MARKETの中古レコード市へ行って探しまくった。その22年後、1994年リレハンメル・オリンピックの際に、再度このロンドン・カムデン・ロックに行ったが、ものすごく繁盛して巨大化していて物騒な危ない場所になっていた。’72年の10倍以上の数の中古レコードや古着のお店で賑わってはいた。 
現在のCAMDEN LOCK MARKET Googleフリー画像など

 此処でビートルズのレコードの話に入る前に、毎週末に行っていたロンドンの話をしよう。週末は英国国鉄のロンドン往復チケットが半額、つまり片道代で往復できるというものすごいWeekendサービスが在ったので、週末は数回ロンドン日帰りをしたのだ。基本的に1960年代までは英国の鉄道はエリアごとにいろんな会社に分かれていた。渡英当時は1969年に統合された英国国鉄を名乗っていたが、それも1982年までの短期間でその後ブロックごとに民営化された。この辺りは5年後1987年に民営化した日本もお手本にしたようだ。
Bournemouth Stationとロンドン行き列車。 1972年撮影

ボーンマスからロンドンへは週末50%offの切符が便利だった。約1時間半の列車旅だった。

ボーンマスとロンドンを結ぶ鉄道はサザンプトン経由でロンドン・ウォータールー駅に到着する。この駅に着く直前にピンク・フロイドのLPジャケットで有名なバターシー火力発電所が見えるが、1972年当時はもちろん煙を出しながら稼動していた。ビートルズの映画「HELP」にも停電したときにちょっと出てきた。偶然それを撮影していた画像が出てきた。40年間の流れを感ずる。
左が1972年稼働中のバターシー発電所、右が2011年訪問時の発電所(すでに休止中)

 ビートルズの映画と言えば「ヤアヤアヤア!ビートルズがやってくる!」の中で列車に乗って公演先に行く際に荷物室に入り込むシーンがあったのだが、この英国訪問時に列車内の同じような場所に入り込んで記念撮影した。
映画の真似をして貨物車両の檻の中で記念撮影。BEATLESはこの檻の中で「I should have known better=恋する二人」を歌った。 1972年撮影

1972年頃のロンドンは週末ごとにプロサッカーの試合があって、ロンドンのチェルシーFCやトッテナム・ホットスパーズ(通称スパーズ)が強かった。折りしも前年シーズン、再試合の後レアル・マドリードを破って欧州チャンピオンになったチェルシーの公式応援歌「Blue is the color」がBBCの上位ヒット曲に成って間もない頃だったが、翌シーズンのこの年は5位辺りを上下していた。英国サッカーチームの応援歌は結構ヒット・パレードの上位に顔を出すことが多い。
http://www.youtube.com/watch?v=Q1XUHAv_VwY   Youtubeより

リバプールFCの応援歌として超有名な「You’ll never walk alone」は、リバプール出身のグループ、ビートルズの兄弟分、Gerry & the Pacemakersの1963年の大ヒットを受けて応援歌になったもので、なぜか世界中のサッカークラブでもこの曲を応援歌にしている。なんと日本のJリーグでもFC東京がこれを応援テーマ曲にしている。
https://www.youtube.com/watch?v=awositUJYLM Youtubeより
1963~4年頃のGerry & the PacemakersTVクリップ。 

http://www.youtube.com/watch?v=HcBRHYuOr-A    Youtubeより
最近になって、Gerry本人がスタジアムで歌った模様。

いつもは誘導してもらっていたJTBの岡野添乗員や小池と一緒にロンドンまで出て、チェルシーのホームスタジアムまで試合を観に行った。地元ロンドンのトットナム・ホットスパーとの対戦で大混雑だったが、何とか立見(当時は普通席は立見が当たり前)のチケットを購入。しかし、遠くて写真など撮れない。そこで日本から有名なチェルシーの試合を見に来たと説明したら、またたく間に数人の男たちに最前列へ体を持って行かれ、白とブルーのツートンカラーのマフラーを首に巻かれ「一杯、チェルシーの写真を撮れ!」と言ってくれた。スタジアムにはもちろんチェルシー応援の観客しか居なかったと思う。


少し上から撮ろうとカメラを万歳の位置で構えたら、でかい労働者の親父が肩車するから其処から撮れと言う。あっという間に肩車され、2~3カット撮らせてもらった、それがこの画像だ。後ろの人々が「そいつは何だ?」とでも訊いたのだろうか、そのでかい労働者が「わざわざ日本からチェルシーの応援に来た。」とでも答えたのだろう。その後は周りの人々からものすごい歓待を受けてしまった。この時、言葉が通じないほうが良い場合もあることを知った。
1972年のチェルシーVsウエストハムの試合観戦

同じスタジアム10年後の改築状況、更にその後全方向大屋根に改築された。

別の週にはウエストハム・ユナイテッドのホームスタジアムに観に行った。理由はイングランド代表のキャプテン、ボビー・ムーアと1966年ワールドカップ決勝でハットトリックを達成したジェフリー・ハーストの最後のプレーを観たかったからだ。ジェフ・ハーストは憧れの選手だったし、誕生日が同じ日だったので思い入れが深かった。このときは奮発して高い席のチケットを買った。
1972年ウエストハムVSノッティング・フォレスト試合観戦 1972年撮影

試合前にはスタメンのラインナップ表を売っていた。きめが細かい。 1972年撮影

このときはスタンドの良い席を買い求めた。 1972年撮影

英国に入ってすぐプーマ(西ドイツ製)のサッカーシューズを購入した。日本で買うととても高かったので・・・。今の日本の価値観で行くと7千円弱だった。これを購入して、毎日ボールを蹴って練習は欠かさなかった。世界で一番普及しているスポーツのサッカーだから、当然ボーンマスの語学学校にもチームが出来ていた。メンバーには南米系のニカラグア、ブラジル、コロンビア、アルゼンチン、ヨーロッパではドイツ、フランス、イタリアから勉強に来ていた学生達のサッカー好きが入っていた。
なんとサッカー・シューズ購入の領収証が残っていた。当時の1ポンドは1060円。

週末の練習に入れてもらって一度練習したら、あっという間にフォワードをやれと言われ、次の週末の対ボーンマス駐屯陸軍設備チームの試合に出ることになってしまった。試合は街中の公園で行われた。もちろんジル・アリソンはじめホームステイ先など多くのファミリーが応援に来てくれた。さすがに陸軍チームは統制が取れていたが攻守が一本調子だった。その点南米出身の我が軍メンバーはキープ力が凄く、遊んでいるような感じでドリブルを続けるのだが、逆にボール離れが悪く、なかなかゴール前に効果的なクロスを上げない。街中でのサッカー遊びの域を出ないのだろう。それでも横浜国大サッカー部の試合のつもりで走りまくって幸運にも一人で3点を入れた。珍しい東洋人のハットトリックだし、最終的に1点差で勝ったのでもう大騒ぎだった。陸軍基地の付属施設でティーパーティが行われた。
ボーンマスでの草サッカーとはいえ、本物の芝生の上で戦えるマッチは最高の気分だった。

横浜のYC&ACの時と同じ、試合後はティーパーティだった。


このように毎日、学校での語学の授業よりはるかに有意義な校外生活を送ったのが、現在までのその後の人生に大いに役立ったのだった。

2014年9月27日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #70.」 1972年春休み、英国短期留学ホームステイ始末記 その2.

基本的に語学学校は滞在先のボーンマスに数校は在ったようだ。経営者はスイス人が多かった。理由はスイスという国の存在・環境そのものにあると聞いた。

スイスはフランスとドイツに接していて、南西のフランスに近いジュネーブ・エリアはフランス語を通用語とし、北のドイツに近いチューリッヒやバーゼルはドイツ語と使うという。結局スイス人であれば基本的な高等教育を受ければ自ずと最低でもドイツ語・フランス語・英語は覚えるという訳らしい。

 だから、オリンピックのウインタースポーツ領域を司るFIS国際スキー連盟も、管轄するスキー種目の公用語はフランス語、ドイツ語の順で、英語は3番目の公用語になっている。
これは近代オリンピックの提唱者がフランスのクーベルタン男爵だったからだろうか。唯一、誕生したのがアメリカ合衆国だったスノーボードのみが、会議・書類の公用語、競技中のアナウンス・成績表示の言語として英語が第一に使われている。

だから長野オリンピック直前、全日本スキー連盟のスノーボード専門委員としてFIS本部での国際会議に二度程参加したとき、年次報告や晩餐会に招待されても他の日本人の理事のように専属通訳なしで言葉が通じて助かった。これがフランス語やドイツ語だったら一言もしゃべれなかったろう。
 
FIS国際スキー連盟1997年長野オリンピック前年の年間公式レポート・仏/独/英

 そういう訳でボーンマスの語学学校の教師や経営者はスイス人がほとんどだった。とんでもない映画鑑賞事件の翌日学校に行ってみると、なんと!広尾高校で同期のB組にいた松田真理子がこの学校にいるではないか!彼女は小池が属していたテニス部だったので、二人は先輩・後輩の仲って訳だ。一気に芝生のキャンパスで広尾高校時代の話が盛り上がってしまった。

広尾高校同期のテニス部メンバー前列右端がB組の松田さん。

 ぜんぜん知らなかったのだが、この同期の松田さんの姉は松田和子といって1960年代のトップモデルだったそうだ。その姉の和子が事故死したカーレーサーの福沢幸雄が家族も認めた恋人だったという話はつい最近知った。もともと芸能界や有名人には興味が無いので、当時は知らなくて当たり前なのだが。

 ハンサムなハーフの福沢幸雄の名前はメンズクラブなどの雑誌で少しは知っていた。「夜のヒットスタジオ」という生放送の歌番組で小川知子という歌手が、この若きレーサーの死を知って、泣きながら「小指の思い出」という歌を歌ったのを観ていて、てっきり恋仲だったと思い込んでいた。しかし実は本命は全然違って他に居たのだ。もうこの時代からテレビというメディアは嘘の演出で固められていたという訳だったのだ。

当時の日本ファッション界のトップモデル松田和子。ヨーロッパにも進出した第一人者。

 この語学学校に通う毎日、と言っても学校にはなかなか行かず、街中をカメラを肩にかけて歩き回る毎日だった。とにかくバスにはあまり乗らず、エルムズ・ロードから5km離れたダウンタウンまでとにかく歩いた。帰りはバスに乗ることが多かったが毎日大体10Km以上は歩いていたようだ。時には隣町のPOOLまで行ったり、海岸通を小池と探検したり。アルコールは飲めないのにパブへ入って話し込んだりした。

雨の日、ダウンタウンの喫茶店で撮ったお気に入りの写真。Bournemouthらしい風景。

 このボーンマスでも、例によってドキドキする事件を起こしている。


  
ジル・アリソンという小池のホームステイ先の近所に住んでいる女の子が、ある日の夕方その友達を連れて来たので、4人でドーバー海峡の海岸線に散歩しに行った。ふと見ると多少古めだったが手漕ぎボートが有るので、筆者とジルだけがそれに乗り沖へ漕いで出た。

 小池とジルの友達は海岸の防波提に座って手を振りながら見ていた。300mほどの沖合いでボートの中で片言に英語でいろいろ日本の話やイングランドサッカーの話をしていたのだが、暗くなってきたので戻ろうと思って岸のほうを観たら明かりが全然見えないではないか。白い壁が連なる海岸線が続いているだけだった。

 ドーバー海峡の早い潮に流されたのだ。おまけにジルは早く帰らないと母親に怒られると言い出した。ウソだろう?いい歳をして・・・と思い、念のため歳を訊いたら15歳だと言う。それを聴いて腰が砕けそうになった。自分よりは年下だとは思っていたが、どう考えても絶対に15歳とは思えなかった。何故そう思えなかったかは想像にお任せする・・・もちろん、貴方の想像で正解だ。
 ボーンマスの海岸道路、右はドーバー海峡。右端に見えるのがシアターとレストランが乗っかった大桟橋で名所らしかった。上が1972年に筆者が撮影した老人二人。下が同じ場所に2001年に再訪して親友と同じポーズで撮影したもの。(合成処理)25年の流れが感じられる。

 焦って慌ててボートに立ったらボートが転覆してしまう。この時点で筆者はまだウインドサーフィンを始めていない、海についてはまったくの素人なのだ。もう、決死の勢いで岸に舳先を向けて漕いだ。

 ホームステイ先に戻って手の平の皮が4箇所剥けていたのを見ても相当な勢いで漕いだのだろう。海は決して荒れていなかったが、それが逆に潮の流れを感じさせなかったのだろう、岸を見ながらろくに深く考えずに沖に漕ぎ出したのが失敗だった。

 今はどうだか知らないが、当時の英国では18歳になると大人と認められ、女の子でも18歳の誕生日に家の鍵を渡され、夜遊びに行こうが、男友達の家に泊まろうが、「See you tomorrow morning!」で済むのだが、未成年15歳と成るとそうは行かない!一つ間違えばこちらは犯罪者になってしまう。


 ボートを岸に着け、出来るだけ岸上のほうまで引きずって杭に舫い、とにかく歩いた。で、ボーンマス・ピアと言う有名なシアター&レストランが乗っかった大桟橋?の辺りでタクシーを捕まえてジルを乗せ、自宅まで送り届けたのだった。

 一応観光地だったのが幸いした。朝夕はまだ寒い3月の初めだというのに、もう背中は汗でびっしょりだった。もちろんジルの家庭の夕飯には間に合ったし、事の次第を超早口でまくし立てるジルから経緯を聴いた両親からは大変感謝され、日本人としての最低限の面子だけは保たれたようだった。
 しかし、頭にきたのは小池の姿が何処にも見えなかった事だった。翌日訊いたらさっさと二人して街中に戻ったそうだ。
ドーバー海峡に突き出すように桟橋劇場とレストランが今でもある。1972年撮影

 これがきっかけだったのかどうかは覚えていないが、その後、事あるごとにスケートに行かないかとか、ホームパーティに来ないかとアリソン家から誘いが来た。小池をそそのかして2度ほど参加させてもらったが、それ以上はお断りした。

 後で訊いたら、アリソン家ではきちんと教育を受けた品行方正な大学生のフットボーラー日本人が、娘の相手をしてくれているのが嬉しくて、それを近隣の知り合いに自慢したかったそうだ。これを幸いに、この皆さんにお願いした大きな想い出がある。

 ちょうどこの頃、毎朝ラジオから流れてくるBBCの音楽番組で順位急上昇中の気になる曲があった。ギルバート・オサリバンという、初めて聞く名前の歌手のAlone againnaturally)と言う曲だった。

 早速ボーンマスのダウンタウンに有る大きなレコード屋さんに行って買い求めた。しかし、この画像の通り歌詞が印刷された日本にあるようなレコードジャケットなど無くて、MAMという聞きなれないレコード会社の赤い袋に入っているだけだった。しかもビニール袋などはなく、いきなりこの赤袋のまま店の紙袋に入れて渡された。
42年前購入してきたギルバート・オサリバンのAlone again (Naturally)原盤。

 これじゃ何を歌っているのか歌詞が判らない!そこで、仕事でいつも忙しいホームステイ先のご主人ではなく、アリソン家に集まった近所の人たちに聴いてもらって歌詞を書いてもらうことにしたのだった。これはちょっとしたイベントになってしまった。

 曲は悲しいけれど人間味のあるまじめな内容の良い曲だし、近所の皆も大好きらしかった。もう大騒ぎでレコードを何回もかけて全員が筆記するのだが、1フレーズごとに確認するものだから、とうとう最初のレコードは傷だらけに成ってしまった。

 これではせっかくの良い曲も、とても聴けたものではない、改めて2枚買い込んで帰国した。ギルバート・オサリバンのこの曲が英国で1位になるために、日本人が思わぬ手助けをしてしまった訳だ。何でそんなに大騒ぎなのか訊いたら、ギルバート・オサリバンはアイルランド訛りが酷くて、アリソン家の皆さんでも何度も聴かないと、きちんと歌詞を書き取れなかったらしい。
 日本に帰って、暫くして全米で6週連続トップになったこのアローン・アゲインが、国内のヒットパレードでトップになるのは半年以上も後、10月の事だった。

2014年9月26日金曜日

トビの魚採餌の瞬間! I photographed the moment when a black kite caught a fish!

 トビが流れてくる魚の死骸を採餌する場面は良く見るが、ミサゴのように川を泳いでいる生の魚をダイブして獲る場面はあまり眼にすることが無かった。しかし、球磨川本流は川辺川流域ではこれが当たり前のようだ、というか球磨川流域では普通らしい。

 この生餌を採餌した場合など、カラスに追われて辟易しているような場面も幾度か撮影したが、逆にトビがカラスをものすごい勢いで攻撃している場面も撮影できたので近いうちアップしたい。さすがのトビも時々うるさいカラスには本気で切れるらしい。

 今日の採餌の瞬間は増水後で少し川が濁っていた時のもの。
左に弱っているのか水面近くに白く見えるのが魚だろうか。

太ももまで水に浸けて餌を掴んだ様だ。

再び加速して飛び立つ。

大きな翼の揚力はすばらしい!

掴んだ餌を確実にホールドする。

念のため両足で確保するなど用心深いらしい?


 

2014年9月25日木曜日

本当にスズメは減っているのか? Really as for the sparrow is it decreasing?

 最近良く見かける野鳥の記事・情報で「めっきり最近スズメが減った」というのがある。スズメの生態は判っているようで以外に正確に判ってはいないという話を聞いた。ヤマセミのように縄張りがはっきりとしていて個体数が少ない場合のように、定点観測していればその個体数を把握できる訳ではないので逆に難しいのだと思う。

 武蔵野・三鷹近辺では此処10年近く減少したイメージは無い。まだ住宅街に畑や雑木林が残っているからだろうか?野川流域のように帯状の緑地が存在するからだろうか?シジュウカラやヤマガラなどと一緒に個体数を多く見かけるようになったとさえ思われる。

 一方メディアが報じている通り、都心部では少なくなったような気もする。理由はごみの選別、指定のゴミ袋使用徹底、道路の完全舗装などだ。道路っ端でも雑草が生い茂る余地が無くなり草の実やその植物を食す昆虫類などを餌として得られなくなってきているからだろうか。

 同じく報道にも在るとおり、繁殖期に通行人を襲う事で問題になっているカラスは都心から郊外へ移住しているのは明らかで、これは民家その他が出すゴミ処理に関するゴミ箱・ポリバケツの蓋処理の徹底効果だろうと思われる。

 また一方で、絶滅を危惧され手厚い保護で増えすぎつつあるタンチョウがいるかと思えば、スズメやツバメが減ったと情報を流す・・・人間は自然の生き物を己の感情や意思でコントロール出来るのだろうか?
2006年撮影スズメの群れ 某所

2014年撮影スズメの群れ 同じ場所

スズメの飛び方に方程式は有るのだろうか?


2014年9月24日水曜日

オシドリの求愛行動・ディスプレイは大変興味深い!  A courtship action, the display of the mandarin duck is interesting!

 どうやら人吉界隈ではオシドリが通年滞在して留鳥化しているかもしれない。奥日光戦場ヶ原では数年前から留鳥化しているのを確認している。

 2年ほど前からヤマセミを観察中に時々大きな群れに遭遇する。特に良く遭遇するのは球磨川本流の「渡」の下流域で岩場のエリアで3~40羽の群れに良く出遭った。越冬のため新宿御苑の日本庭園の池にも毎年来るが、ほとんど木陰に隠れてしまう。人気の少ない平日のしかも小雨のような時に池の真ん中に出てくるようだ。

 この画像収録時はメス1羽をめぐって数羽のオスが盛んにディスプレイしていた。時には鳴き声を上げながら激しく追い立てあってもいた。
競って首を上げてディスプレイの雄たち。

それが気に入らなかったのか、飛び去るメスにパニックになりかける雄たち。

あわてて追いかける熱心なオス。

あちらと思えばまたこちら。

必死なオスはもう見境無く追い立てまわる。

野鳥界にもモーレツ・アタックがあるとは知らなかった。








2014年9月23日火曜日

ヤマセミ親子の揃い飛び! I took some photos of Crested kingfisher's family group flying .

 川辺川太郎中心に単独飛翔、つがいの飛翔、など飛翔中心に画像をアップしてきたが、今日の画像は親子と思われるグループでの飛翔シーン。

 子育ては毎年寒暖の状況、雨の状況、子育ての場所の環境などで確実に観察できるとは限らない。2年前は九州北部豪雨で子育てが遅れたし、今年は2家族が天敵青大将に襲われ、一家族はオス親を残して全滅。もう一家族は5羽の雛のうち一羽が青大将に呑まれ、一羽がカラスと思われる外敵に巣外に落とされ命を失った。

 一方でヤマセミ子育てを3年連続で観察できていた人吉市内人吉城址木山の淵でも人間が原因の異変が起きていた。人吉市が長崎国体のカヌー競技を誘致したため、県外カヌー選手が連日ヤマセミの子育てエリアで練習し、今年の子育ては其処では行われなかった。子育てそのものが出来なかった恐れもある。ほんの少しの気遣い、エリア制限でヤマセミと人間との共存が可能だったのだが残念だ。人吉市役所には事前に城址側100m接近注意の喚起・申し入れをしたのだが、無視されてしまったようで残念だった。

 国体カヌー競技自体の会場は500m以上下流の町の中河原公園エリアなのに、不可解な人吉市行政の対応だった。
ヤマセミの紹介本などによると7月には親子はバラバラになるとあるが、球磨川流域では結構遅い時期まで親子のグループでまとまって行動しているようだ。生育環境が良いからと見ている。

200m以上の距離ではどれが親でどれが幼鳥か判り難い。

たぶん一番上が親鳥で水面近くが幼鳥だと思われる。

水にダイブしようとする幼鳥を親が叱咤激励しているようだ。こういう状況は1ヶ月ほど続く。