2024年1月4日木曜日

団塊世代は正月3日間に自分の大切な場所が二ヶ所焼け落ちてしまった。 Baby boomer lost two of my most important places by fire in the three days of New Year's Day.

  今年の正月はとんでもないスタートで始まってしまった。特に筆者にとってとても大切な記憶の残る場所が二ヶ所も火事で焼失してしまったのだ。

 歳をとるという事はこういう事なのかとショックを隠し切れない。

 まず元旦、能登の大地震で輪島の朝市附近がほぼ焼失してしまった。地震勃発の頃筆者は弾丸登山で高尾山に登って富士山頂に沈む太陽を撮影していた。

 高尾山口から高尾駅でJRに乗り換えて東小金井に向かう車内で大地震の事を知った。筆者は何か大きな事が起きる時に決まって自宅にいない。日航ジャンボ機墜落時はハワイのマウイ島に居た。羽田空港JAL機逆噴射の時も海外にいた。3.11東日本大震災時には山口県の元きらら博会場にいた。そして今回能登の大地震の時は高尾山の頂上にいた。

 人生いろいろとはいうモノの、何でこうなのか?不思議でしょうがない。

 この輪島というのは横浜国立大学美術科のメンバーと三名でスケッチ旅行に行き数日間滞在した場所なのだ。他のメンバーはスケッチ、筆者は写真撮影。

 その朝市の場所そのものが焼けてなくなってしまったのだ。

1970年、あの大阪万博の頃だ、学生の視た当時の輪島。

最近の朝市は良く知らないが、当時の風情はこんなもんだった。

朝市そのものより、こういった風情を撮影していたようだ。

 自分の脳裏に焼き付いているのは、日本海からの潮風で妙に白っぽい町家が続く輪島の街の佇まいとこういった朝市。同様に港の船小屋の風情。硝子で出来た浮き球や干された網などの間から垣間見える漁師さんを撮影した記憶がくっきりと脳裏に焼き付いている。復興して建て替わっても、もうあの海の塩で白っぽい建物が続く輪島の景色は二度と観られない。

 1970年は金沢の民宿に泊まり準急能登路というディーゼルカーで移動した。金沢ー輪島直行の準急は1日に3本しかなかった。SLではなかった理由は終着駅輪島にターンテーブル(=転車台)が無かったせいだろうか?

 元旦にこのニュースでがっくり来ていたところ、2日に羽田空港で航空機二機の衝突事故が発生、いったい今年はどういう正月なんだ?と呆れていたところ今日になって北九州小倉でまた火事だという。つい最近二度も旦過市場で火事が在ったばかりの小倉でまた火事か?

 今度は銀天街のはずれ、鳥町食堂街だという。筆者が人吉のヤマセミの生態を観察撮影に行く際、小学校時代5年間過ごした場所だし当時のクラスメートが沢山いるので出来るだけ1泊で立ち寄ることにしている大切な場所なのだ。

 なおかつこの鳥町食堂街のほぼ真ん中に在る中華屋「耕治」は豚骨ラーメンが基本の九州に在って数少ない醤油ラーメンを出すお店なのだ。昭和30年創業という我家一家が東京から引っ越した年の開業だから非常に大切にしてきたお店。この店などはこの先も小倉に泊まった際行こうと思っていたから残念極まりない。

 同時にその並びの「だるま堂」は小倉うどん発祥の店として名が通っている大切なお店なのだが、両方とも燃えてしまったろうなぁ残念だが・・・。
2020年車で九州へ1か月行った際は、鳥町食堂街を見下ろすホテルに宿泊した。

ずいぶん昔よりキレイにしていたのだが・・。

銀天街の側道に近い場所に鳥町食堂街はある

旦過市場も二度の火災で昔の良いお店、佇まいは無くなってしまった。




 この辺りは10年前に始めたこのブログの最初の頃週末にアップしていた「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」にも書いた。

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #19. 附属小学校時代の小倉日常生活。」

この鳥町食堂街が無くなってしまったら、小倉という場所の想い出がどんどん写真だけになってしまう。

 こうして筆者の脳裏に残っているかっての場所・ランドマークがどんどん物理的に無くなっていくのは一体どうしたことだろう?

 筆者が勤めた会社のうちすでに2社が倒産してこの世に存在しない。

 我が人生において通過した場所や会社がどんどん消えて物理的に存在しなくなって行くこの不気味。当事者でないと判るまいなぁ・・。

 なんだかとても辛く気の重い正月になってしまった。勘弁してほしい。