2014年2月9日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」 #14.突然小学校1年生の夏休み九州の小倉に転校する事に。 Suddenly My family and I had to move to Kokura-city of Kyushu.

 北区西ヶ原の一里塚電停から旧古川庭園―駒込駅―六義園―本郷追分町―東大農学部前を経て日本橋高島屋傍の通3丁目に至る都電19系統で毎朝通った小学校も1学期3か月通っただけで小倉に転校となってしまう運命だった。
この短い3か月の記憶はさほど多くないが、我が家では観た事が無かったトンカツというモノが給食で出てキャベツの千切りに衣を被ったトンカツにソースをかけて食べるという未経験の食事に戸惑った事を覚えている。次にチーズという乳製品だ、これはなかなか手強かった。バターやマーガリンは良く知っていたが、給食に出て来たこのバターに良く似た三角形の歯にこびり付くモノの味にはなかなか慣れなかった。
小学校の給食で初めて知ったチーズの味。

 我が母はデパートが大好きで西ヶ原の坂を下ったところの飛鳥山公園から池袋の西武デパートまで都電やバスに乗って良く買い物に行った。この都電(早稲田-三ノ輪線)は今でもまだ残っていて動いている。食品売り場でイチゴジャムを買いに行くのだ。朝や休日のお昼はこのジャムを塗った食パンを良く食べた。

 ちなみに東京の都電は長い事、黄色い車体に赤い帯が1本走っていたが、昭和34年までは下と屋根が緑色で窓の幅だけクリーム系の黄色だった。映画「三丁目の夕日」に出てくる頃はちょうどこれが入れ替わる頃のはず。だから都電の色は何色と訊くとその答えで年齢が有る程度判る。

 当時の鉄道事情などに関して大変勉強に成るサイト  http://www2.tba.t-com.ne.jp/haasanhp/ 

都電のイメージはあくまでこのツートンカラーだった。

映画「三丁目の夕日」もこれらの資料を基にCGを造ったのだろう。

 小学校1年生が一人で都電に乗って12個の停留所を経て学校に通うのが普通の事であった昭和30年頃を思い浮かべると、今のJRで通う子供たちの集団登下校が何だか非常に過保護に見えてしまう。ただ昔からちっとも変わらないのが定期入れを紐でボタンに括り付けてポケットに入れずに、だらしなくぶらぶらさせている事だろうか。模様の入った厚紙に日付と区間がハンコで印刷された定期からSUICAに変わったくらいだろう、そのSUICAも八代駅や熊本駅、あるいは博多駅の地下鉄でも切符を買える時代になった。50年以上経つと世の中も大きく変わるものだと実感する今日この頃。

 ピッカピカの小学1年生は必ずお友達に成るため遠足に行くのはもういつの時代も「お約束」。しかしこの附属小学校!なんと1年生の遠足は王子の飛鳥山だった!ソメイヨシノは散ってしまっていたが八重桜が満開の王子飛鳥山・・・・ってそこは社宅の我が家から歩いて5分じゃん!?せっかく学校へ行ったのに自宅に戻るような遠足で凄く損をした気分になった。それも都電で移動だもの、自分の定期で遠足に行ったのは後にも先にもこの時だけ。その時のモノクロ写真名刺サイズの紙焼きは30年ほど前まで何処かに有った様な気がするが最近観ていない。※実は2020年になって出て来た。

 その3か月間に衝撃的な事が起こった。同級生が本郷追分の停留所で都電にハネられて死亡したのだ。状況や理由は知らないが彼の座っていた机に白い花が飾ってあって亡くなった事を知らされ皆も注意する様に先生から話があった。まだ一言も面と向かって話したことが無かったクラスメートだったが1週間ほどはその話ばかりだった。
クラスメートが亡くなったのがこの電停だった。

 そんな中、夏休みに入る時突然話が決まってしまった。十条製紙に勤める我が父が九州の福岡県の小倉市(当時はまだ北九州市にはなっていなかった)の小倉工場に転勤となったのだ。我が父親は考えた、長男の今後を考えると東京で祖母預かってもらい勉学に励ませようと。しかし母親は大反対、とんでもないと何度も争ったようだ。家の中には田原坂の様な銃弾の跡などは無かったが両親は相当激しく争ったようだ。これは後で祖母から聞いた話なのだが、全然本人に記憶が無いのでどこまで本当の話やら・・・しかし、婆さんはしっかりと視たらしい。
 
 大体において地球が丸い事は地球儀が有ったので知っていたものの、九州とか小倉とかは全然まだ認識の中に無かった為、今ならさしずめ火星か土星に行くような気分だったろうと思う。とにかく寝台列車で20時間ほどかけて引っ越し先まで行くことが嬉しくてたまらなかったのを覚えている。
 
 今考えると引っ越しは寝台急行雲仙だった。何故「急行雲仙」かというと、当時はまだ「寝台特急あさかぜ」などの九州寝台専用列車は走っていなかったのだ。在ったのは駐留軍専用の長距離特別列車だけ。実はこの特別列車の一つが東京―長崎・佐世保間を走る「急行雲仙・西海」だったのだ。当時は1等(車体に白い帯)、2等(車体に青い帯)3等(帯無し)の3クラスの等級が在って、我が引越し家族は2等寝台をあてがわれたのだった。
当時の急行雲仙・西海の編成に近い画像 Yahooフリー画像

時刻表の後ろには必ずこのような列車の車内レイアウトが載っていた。引っ越しの際に乗ったのはこの図で行くと1等寝台B室タイプだった。

   豪華な食堂車も付随していた。しかし父親が停車中の駅で短時間に駅弁を買ってきたのを記憶している。勿論蒸気機関車が牽引するスタートの遅い長距離列車だったので、発車間際の駅弁売りの芸術的な窓越し販売の技を何度も経験したのは言うまでもない。当時の2等寝台は今のグリーンA寝台に相当する、結構幅広い大きなつくりだった。後のブルートレインのグリーンA寝台に当たるレイアウトだった。
ブルートレイン特急はやぶさが廃止に成る半年前に東京から熊本までこのグリーンA寝台個室に乗ったのが後にも先にも1回限りの個室の旅だった。

 子供心に東京から小倉までの全部の駅を観てみたいと思い時刻表を手に、最初のほうに出ている駅名が全部出ている鉄道地図を開きながら窓の外を通り過ぎて行く通過駅の駅名看板を頭を振りながら名古屋過ぎまで視っぱなしだった。少し寝て、また寝台ベッドから窓にオデコを付けたまま首を振りながら過ぎ去る駅名と地図の名前を確認した。翌朝オデコが真っ赤になり、首が痛くて回らなくなってしまったのに気が付いたが後の祭りだった。痛みは2~3日続いた。

時刻表の鉄道地図(関東)

時刻表の鉄道地図(九州)

引っ越し当日は沢山の人がホームまで来て万歳三唱で送り出すのだった。右下でニヤケテこちらを見ているのが筆者。挨拶をしているのが我が母親。

 本来、昼頃東京を出発すれば当時のスピードでも翌朝には小倉駅に着くはずだが、何故か夕方到着したような記憶なのだ。この理由がいまだに判っていない。小倉駅(昭和30年当時の小倉駅だから玉屋デパートの傍、今の西小倉駅)に到着、黒塗りの外車(キャデラックだった)で十条製紙の特別会館に運ばれた。途中大きな橋を渡る時に三輪の自転車に幌が付いた乗り物が沢山並んでいたが、それが輪タクと呼ばれるものである事を知ったのはずいぶん後に成ってからだった。要は自転車式の人力車で、1998年秋中国の新疆ウイグル自治区に仕事で行った時北京の街の真ん中でこれに乗った時「あの時の輪タクってこれだ!」とえらく納得した事を覚えている。
Yahooフリー画像に偶然昭和29年の小倉駅前の輪タクの画像が在った。
 
話を東京学芸大学附属追分小学校に戻すと、転校した昭和30年秋に実はこの小学校は廃止に成ってしまった。同じく東京学芸大学附属だった竹早校に臨時合併吸収され、武蔵小金井の今の附属小学校にその後統合されたようだ。いずれにせよ東京に残っても引っ越しても小学校は波乱万丈の道を進む事に成っていたらしい。

※注:いま改めて調べてみたら実は附属追分小学校は紆余曲折を経て昭和36年まで存続し廃校になったことを知った。昨年この附属追分小学校に入学した昭和30年の入学時の写真が出て来た。67年経って判った新事実だ。


 次回からは北九州小倉での数々の出来事を続けたい、野鳥やヤマセミに話が及ぶのはまだまだ先の話だ。