2014年2月8日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #013」話はさらにさかのぼって昭和28年頃(少し記憶が怪しい時代) Japanese baby-boomer's own story of 1954-1955 in Tokyo.

  自分が確実に覚えている一番古い記憶はまだ母の背中に背負われて、東京は北区西ヶ原の十条製紙社宅の入り口付近で夜暗くなって近所の誰かに「女のお子さんですか?」と訊かれた時かもしれない。熱を出して都電通りを渡ったところに在る「愛敬医院」に連れて行かれるところだったと思う。
 小さい時には良く熱を出したらしく、一度は自家中毒を起こし完全に死にかけた。医者であった祖父に「今夜が峠だから皆を集めるように」と言われてほとんどの親類縁者が狭い社宅に集まったらしい。そうして真夜中呼吸が弱く成った頃、社宅の家の前にカーキ色のジープが停まり、米兵がある薬品を持ってきて十条製紙の診療所長をやっていた祖父に渡したそうだ。
 我が祖父はそれを私に注射し、注射の2時間後に目が覚め、熱が急激に下がった私はこの世に戻れたのだそうだ。米兵が持ってきたその小瓶は赤いゴムの蓋の付いたガラス小瓶の白い液体で当時まだ巷には余り出回っていなかったペニシリンという抗生物質だった。

 我が祖父が元陸軍軍医少将だった縁で手に入ったらしい。
 ペニシリンはこの上のキャップが赤茶色のゴムで出来ていて、注射針を其処に突き立てて中の培養抗生物質を注射器に入れる方法だった。何度打ったか判らないが、ちょうど東京都内でも一般に出回り始めていた最初の頃。
 私の記憶はその時の情景を絵に描けと言われれば、描けるという程映像記憶が定かなのだ。今日の東京は大雪だが1954年つまり昭和29年1月の東京大雪31cmの際の記憶もはっきりとしている。写真も残ってはいるが自分は6歳と2か月だ。さすがにその前の昭和25年2月自分が2歳3か月の時の大雪は記憶にない。
 今朝の東京、武蔵野・三鷹の降雪状態。夜に向かって雪はさらに強くなるので30cm以上の積雪に成るだろう。久しぶりの大雪だ。

  3日で退園した北区西ヶ原の飛鳥すみれ幼稚園(まだ今も在るようだ)の記憶もはっきりしている。富士山が綺麗に見えるジャングルジムから年長組の意地悪な子を突き落として怪我をさせたので親が呼ばれた。しかしそいつは同じクラスの女の子をジャングルジムの上で叩いて泣かせたので仇をとってやっただけだ、自分は悪くない。

 当時お茶の水女子大の附属幼稚園に勤務していた我が祖母がすみれ幼稚園の園長に啖呵を切って「子供の行動の原因を正しく把握できない幼稚園に我が孫は任せられない、私が育てます!」と無理やり退園させたようだ。

 では、何故御茶ノ水幼稚園には通えなかったのか?北区から茗荷谷に在る御茶ノ水幼稚園まで都電で通うとなると、この子は何をしでかすか判らないと云う事で、話にも上らなかったらしい。

 我が妹は御茶ノ水幼稚園に通ったので個性というモノだろう。だから、幼稚園は3日しか通わなかった。人間、幼稚園くらい通わなくっても立派に成人できるのだ。(私を見て異論があれば今からでも遅くはない、申し出るように。) 

 この十条製紙の西ヶ原社宅はちょうど京浜東北線や東北本線の長距離列車の行きかう国鉄の大動脈の上の丘に在った。京浜東北線の王子駅から上野方面の踏切を渡っておおぼう(横暴?)坂という薄暗い石畳の坂を上ったところに在る西ヶ原社宅だったが、この踏切の上を京浜東北線が高架で通っているためその高架橋の橋脚の影から地上を走る東北本線の列車に飛び込み自殺をする者が戦後の困難な時代に多かったらしい。したがって当時も子供たちはこの坂には行ってはいけないと言われていた。十条製紙(今の日本製紙)北区西ヶ原の社宅中央上部の大きな縦に見える計6棟が社宅
GOOGLE MAPより
 現在は其処に1967年頃鉄筋4階建てのマンション型社宅が建った。1968年から我が家も父の八代勤務が終了し東京本社常務に栄転となり3年間此処の社宅に舞い戻って生活した。※2021年現在またまた変化している模様。
GOOGLE MAPより

2つ上の航空写真の右下部分に見える一里塚(日本橋から一里)。YAHOOフリー画像より

 幼稚園年代の子供が一人で省線(当時の国鉄の電車は鉄道省の名残りでこう呼んでいた)に乗る事は有り得なかったのでこの坂に行ったのは数える程しかない。で、この社宅の正門の対面に渋沢栄一の屋敷が在った。

 今も庭園に成っていて記念館も存在するが少し場所が違うようだ。或る時其処がそんな有名人物の屋敷などとは知りもしない私は植木の隙間から賑やかに開催されていたガーデンパーティに紛れ込んでしまったようだ。
 おぼろげながらの記憶をたどるとシルクハットのようなモノを被った紳士風の酒臭い親父の膝の上に乗せられて小一時間一緒に居たのを覚えている。その後風呂敷に包まれた重たい包みを持たされ、黒い服を着た人が2名我が家まで付いてきて母親と祖母に引き渡された。

 とうとう名前は判らなかったが相当偉い人の様で、後でこっぴどく祖母に叱られたのを覚えている。持たされたのはお重箱で料理が一杯詰まっていた。膝に乗せてくれた人は政治家だったのか財界の人だったのか、はたまた皇族だったのか知らないが、そういう人種に取り入るのがうまい子供だったらしい。
赤い矢印が我が家(3軒長屋の南端)左が渋沢栄一邸の庭園(園遊会場)GOOGLE MAPより

 ちなみに子供の頃は祖母の教育方針で父母をお父様、お母様と呼ぶように育てられていたので、シルクハットの叔父さんに何かを勘違いされたのかもしれない。この父方の祖母は東京女高師(お茶の水女子大の前身)に入るのに尋常小学校で特進級したため年が若すぎて水道橋の研数学館という予備塾で1年待ったらしい。実はこの研数学館にはこの私も在籍した事が有ったので祖母は大先輩にあたる訳だ。

 その事を祖母に話したら、こちらが大学受験生での在籍なのを知っていて「お前も特進かえ?」と嫌みたっぷりに返されたのを覚えている。 

 で、その祖母「新庄よし子」は何故か旅順の日露戦争戦勝記念に建立された表忠塔(現白玉山塔)における記念集合写真が残っている。しかも東郷平八郎元帥かもしれない軍服姿の人物と一緒だから驚かされる。満鉄特急亜細亜号にも1車両貸し切りで乗ったというので、一体我が祖母はどういう素性の人物なのか知りたかったが、我が父は詳しい事は一切話してくれなかった。きっと東京女高師の修学旅行か何かだろうとは思う。鳥取県境港の出と云う事しか知らない。

 境港と言えば今や「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるで有名になっているが、日本海側の大漁港だ。しかし、この婆さん「日本幼稚園史」という本を倉橋惣三という教育者と共著で執筆している。この私が野鳥の写真集を出していると聞いたらきっと驚く事だろう。
右から4人目黒っぽい和服が我が祖母・新庄よし子、その左手前の軍服が東郷さん?
上の記念写真を撮影したのがこの旅順に在る日露戦争記念・表忠塔(現白玉山塔)の正面階段。YAHOOフリー画像より

 この祖母と厳しい両親の元で悪戯ばかりして育った幼稚園該当年齢時代は、とにかく遊びの事しか覚えていない。まだこの頃は幼稚園や保育園へ行っていない子供も多かったので、普段社宅で遊ぶには相手に困ったことは無い。
 東京の真ん中でもトンボや蝶々は沢山居たし、トンボとりや蝉取りなども1円で買える鳥もちで盛んに竹竿の先にしごいて延ばして付けて獲ったものだ。この鳥もちはカンカンに入れて何度も何度も付かなくなるまで再生利用した。 
 当時の駄菓子屋は子供たちの小宇宙だった。横綱鏡里と千代の山、吉葉山の時代で、まだ栃錦、若乃花の時代より前だ。当然テレビなどは無くラジオ中心の生活だった。NHKラジオでは「尋ね人」という番組を毎日夕方やっていて満州などから引き揚げてきた人たちが今何処でどうしているかなどを捜す番組だったが、今考えるともの凄い時代だったのだと思う。
 そういう背景で、小学校の入学試験を受ける事に成った。もう団塊世代は競争競争、試験試験だが特に我が家は教育ママだったのか小学校の時から試験を受けて入る学校を受けさせられた。東京学芸大学附属追分小学校という名前で本郷追分に在った。現在は文京区立第6中学校に成っているが鉄筋コンクリートの建物は当時の小学校のままかも知れない、校庭は当時から全面コンクリートでプールまであった。給食もあって後に転校する小倉の市立中島小学校とはすべてに於いて異次元の都会の小学校だった。
左上が本郷追分交差点傍の東京学芸大学附属追分小学校、右は東京大学農学部         GOOGLE MAPより

 この小学校は筆記試験と何と籤引きの二本立ての入試で生徒を選抜した。試験は通ったが2人に1人しか当選しないガラポンのくじ引きで合格不合格を決めたのだった。

 だから私はガラポンのくじ引きは、町内の歳末大売り出しより先に自分の人生を決めるもの凄いくじ引きを経験して、なおかつ当選!合格したのだった。

 我が母は列に並んだ前の子が白い球を出して合格したのを視て「俊郎!もう駄目だから帰ろう」と手を強く曳いて帰ろうとするのをしゃがんで振りほどき、走って台に乗ってガラポンを廻した。そうしたら白い球が出た。我が母は気が弱いせいか観ていられなかったのだろう。「ほーら白い球が出たよ!」と自慢げに見せたら大変喜んだ。

 既に私は小学校入学前に親孝行していたのだ。記念に白い球を持って帰ろうとしたら係員が飛んできて返せと言う。抽籤のガラポンの玉を何度も戻して使う事を知らなかったのだ。

しかし、せっかくの思いをして入学したこの小学校だったが、1年生の1学期通っただけで転校する事になってしまう。激動の我が転校の人生はここから始まるのだった。