2014年2月23日日曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #18.中島小学校から福岡学芸大学附属小倉小学校へ。 I changed school at the age of 9 years old in the third elementary school.

 小倉市の市立中島小学校の2年生も3学期に入って2月頃だったか、我が父がいきなり「メモリアルクロスへ連れて行ってやろう」と珍しい事を言ってきた。

 メモリアルクロスって一体何だ?

 「俊郎!夢の世界へ連れて行ってやろう。」と言われ、歓んでよそ行きの服に着替えたのもつかの間、「何やってんだ?枕と上掛けをもって縁側へ来い、昼寝だ!昼寝!夢の国だよ!」と平気で我が子を担いで喜ぶ父なので用心しなければいけない。

 厳しいか冗談を言っているか、両極端の二面性を持つ我が父が珍しくごく普通の父親のような事を言うので、何か裏があるのではないかと一瞬次に起こることをいくつか予測した。

 しかし嘘でもなさそうなので素直に従って外出した。魚町電停まで西鉄北方線の市電で出て、其処から大谷口(今は大谷池・行)行きの西鉄バスに乗った。勿論自分にとっては足立山の方面はまだ行った事が無かったし初めて乗るルートのバスだった。
十条製紙の社宅、ちょうど中央辺りに我が家の屋根が見える。現在はこのど真ん中を大きな道路が走っているので元の社宅は跡形もない。

 バスガールの誘導でバスが貨物専用添田線の線路を越えて左に曲がり、土埃を上げ喘ぎながら坂道を上った頃、右手に木造の広いスペースを持つ学校が見えてきた。

 バスの中で右側の席に座りなおした父がいきなり「俊郎!お前は今度の4月からこの学校に行くんだよ。」と言った。これを聴いてとっさに思った「嘘だろ?また転校かよ?」

 まあ1度東京から小倉へ転校は経験しているので2度目はそれほど苦ではないにしろ、子供心にこれではまるでサーカスの子供みたいじゃないかと思った。何かの映画でサーカスの団員を親に持つ兄弟が興行先を転々とするたび学校を替わって行く・・というのを観たのでそう思ったのだろう。
転校したての頃の附属小倉小学校、大正時代建設で木造平屋の校舎。教室には照明の電灯が無かった。意外に狭いその校庭で遊ぶ小学生達を見ながら、バスは大谷口終点へ向かうのだった。

 そこから赤土の山道をテクテク歩いて白い大きな十字架が建っている所に着いた。そこから見る小倉の市内は重工業都市らしく工場から出る石炭火力の薄煙に靄っていて、いつもは街中からはっきりと見える八幡の皿倉山は小倉市街越しにボーっと霞んでいた。そのほか小倉競馬場や井筒屋デパートなどがせいぜい大きな建物で、十条製紙や東洋陶器の工場は父親に場所を教わらなければ判らなかった。しかし北九州五市の中心小倉市の全容は山道からの視界を遮るものは何もないので大体すべて見渡せた。
左の白い建物が井筒屋デパート、右手の三角屋根と煙突は小倉市立病院。井筒屋からは夕方5時に成るとドボルザークの交響曲「新世界より」の第2楽章の一部「家路」が流れた。これは小倉に住んでいた昭和30年から熊本の八代市に移る迄5年間毎日聴いて過ごした。

  其れから数日を経た寒い冬の夕方、暗くなって母に連れられてその新しい学校の教員宿舎に挨拶に行ったのを覚えている。

 なんでも私が小倉に引っ越した際に東京で最初に通った東京学芸大学附属追分小学校の飛松正校長から福岡学芸大学附属小倉小学校の片田嗣信校長と総務教頭格の梅谷巌先生に話が通っていて、小倉の附属での学校事情から3年生の編入試験の際に入れ込むという事前の了解が出来ていたというのが実情だったらしい。

 知らぬは当の本人ばかりなりだ。編入試験を受けるのになんで暗い夜に裏口入学(当時は勿論そういう事は知らないが)の様な挨拶に行くのか?休日の昼間行かないのか子供心に後ろめたくも不審に思ったのも確かだった。

 後で理由を聞いたら、小倉の附属小学校はもの凄く教育熱心な文部省実験校(これは今でも変わらないらしい)で、1年生を採っても1年間で周りの皆に学力や性格上の問題で付いて行けない場合は親を説得して別の学校に出してしまうという超エリート教育をしていたようなのだ。

 これは自分が入る前の1年2年の集合写真には写っている子が3年生の時点で1~2名が消えている事でも証明されている、決して死んだわけではあるまい。
 そういう異常に教育熱心な学校へ子供を入れたい団塊世代の親は、あの手この手で附属小倉小学校へアプローチを掛けていたという。そんな中突然理由もなしに東京からの転校生を紹介状一つでひょいと入れる訳にはいかなかったのだろう、想像に難くない。
昭和初期の附属小正門

  編入試験自体はどのような内容でどのように行われたのか、筆記試験の記憶が全くない。ただ面接と云うか口頭試問は覚えている。片田校長と梅谷教頭がいたのも覚えている、試験室の床は木の床板でだるまストーブがありやかんがチンチン湯気を出しながらお湯を沸かしていた、たぶん校長室か応接室だったのだろう。

 名前の確認の後、最初の「得意な科目は何ですか?」というに質問に「算数です」と答えた。次に「不得手な科目は何ですか?」と訊かれたが不得手という言葉を知らなかったので再び「算数です!」と答えた。後で聞いたら隣にいた母親はこの時卒倒しそうになったそうだ。

 しかし運命は判らない、片田校長は「なかなか奥深い答えですね?」と頷きながら勝手に納得していた。いくつか質問が在って最後の質問は「大きくなったら何に成りたいですか?」との質問だった。で、答えた「学校の先生です!」案の定、二人の先生たちはニコニコしていた、なにせ教員養成の学芸大学の附属だもの。

試験の部屋に入るまではそういう質問があったら「学者に・・・」と言おうと思っていたのに、土壇場でも平気で気が変わる性格の原点はこの時にあったのかもしれない。これで口頭試問、面接は終わったが、最後の質問への答えは我ながら今でも賢い子供だったと思う。
附属小の制服、妹と。

 4月になって附属小学校の制服に袖を通し、西鉄北方線と大谷口行のバスを乗り継いで附属小学校前で下車し通うのに慣れるのにさして時間は掛からなかった。今考えると2歳下のわが妹も同時に附属小学校に1年生として入学しているのだが、こちらは最初から試験を受けたことになる。
だが学校に通うときは何故か一緒ではなかった、普通なら一緒に通うだろうに・・・今考えるととても不自然だがこの辺りは記憶が定かではない。

この3年生からの編入組は男子4名、女子1名が居た。それぞれ門司、門司港、赤坂延命寺、小倉、八幡からの通学で赤坂延命寺の者以外は西鉄の乗り物通学だった。この附属小学校の在る富野エリアには全国でも珍しい円系校舎の富野中学が有った。

 当時はドイツのバウハウスがデザイン・建築・工業デザインで注目されていて、日本でもバウハウスのコーンハウスという円形の建物を参考にした学校校舎があちこちに斬新だと云う事で建ったようだ。
 坂本鹿名夫という建築家がこの分野では草分けで、後に私自身が横浜国立大学に進んだ時、近所だった保土ヶ谷の明倫女子高の円型校舎もこの坂本鹿名夫氏の設計だったようだ。
円型校舎の富野中学校

 3年振りに制服の通学になったのだが、やはり市立小学校とは違って皆お坊ちゃんお嬢ちゃんの粒揃いと云った頭のよさそうなクラスメートばかりで、親の職業も医者が多く、他も会社の重役、NHK勤務、西鉄勤務、新聞社、大店の商店経営、教育関係など小倉での知識階層だった。我が家の様な普通の一般サラリーマン家庭は数少なかった。

 雨が降ると爺やが番傘でお出迎え・・等と言う無法松の親類の様な子もいた。この附属小学校の2年年上の同窓生には歌手の中尾ミエ(本名:中尾美禰子・本屋の娘)、4歳年下の弟の同級生には大人になって問題ばかり起こす清水健太郎(園田巌)などが居る。

 しかし、そう思ったのは最初だけで、入ってみると皆普通の子供たちだった。が、エリート意識というモノは子供にもあるのだと知らされたのが休み時間や放課後遊ぶ時のソフトボールのチーム編成だった。

自分としては割にスポーツ感覚は在った方で、この附属に転校した後も50m走ではクラスで早い方から2番目だった。
野球(実際はソフトボール)にしても割に遠くへ飛ばすタイプで、毎朝始業前にやっていたノックでも自分が打つ番に成ると皆後ろへ下がったものだ。
しかし転校生としてはソフトボールでは2軍と呼ばれるチームに入るしかなかった。

これは完全に力関係で1年の時から附属に居るもの優先、体のデカい者、自己主張の強い者,口の立つ者中心でまず1軍メンバーを作ってしまい、決して球技がうまいから1軍と云う訳ではなかった。
勿論勝ちたいが為戦略的に元々ソフトボールがうまいピッチャー役や小さな時から近所でソフトボールをやっていた子などを味方に引き入れ、残り者で2軍を形成させていたので、毎回1軍が勝利するという状況が発生した。残り物の中にはキャッチャーミットにボールが入ってからバットを振るようなスポーツ音痴も居たほど。

転校生はどんなにソフトボールの強打者でも、上手くても絶対的にこの1軍には入れてもらえなかった。スポーツ万能でクラスで一番足の速い者なども2軍だった。それに上手くなると1軍に上がれるというシステムも無く、6年間ずっと続く身分の様なものだったのにはいつも理不尽さを感じていた。
 
この辺りを采配していた者の一人が数年前の東京でのクラス会で、無意識のうちに「転校生なんかにこんな立派なクラス会を仕切られてしまい・・・・」という発言をして、転校生に対する根本的な差別意識が在った事、及び今でも意識の中に存在するという事を暴露してしまった。
これはあくまで個人的な人間性の問題だとは思うが、仲の良い同じ転校生同士「やっぱりな・・。」と再確認し合ったものだった。

先にも述べたがこの附属小学校は1年生の時からクラス替えをしないで6年間過ごさせる実験学校だったそうで、1学年2組のAB両クラスはお互いの存在を無視し、交流をさせない教育方法をとっていた。
したがって教室も中庭を挟んで別棟方式を採っており、後にほぼ自動的に進学する附属中学校でシャッフルされるまでは隣クラスの同期生の名前すら知らなかった。

さすがに6年生の時には中学に上がった時の事を考えて物理的には隣同士の教室になったが、その理由は単純に学校のレイアウトの問題の方が大きかったのかも知れない。
附属小の校舎はこのような形で冬に成るとストーブの煙突が各部屋から突き出した。

しかし6年生の10月に4度目の学校八代市立太田郷小学校へ転校した私自身はとうとう最後まで隣のクラスの名前と顔は一切知らずに今日に至っている。大きくなってこれらを事情通に教わったのだが、教育実験のモルモットにされたと云う事はあまり良い気分ではない。少なくとも実験の目的とその成果報告をモルモットであった我々にすべきだろうと思う。

この後はこの附属小学校に通いながら小倉と云う重工業都市での3年間の暮らしぶり、体験などを続けて行こうと思う。