2014年2月2日日曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝  #12.団塊世代の定年後の実情は千差万別?(番外) True story after the retirement of the Japanese baby boomer generation.

 クラス会や同期会での色々な経験値から来る話をしたが、ここから先は別に団塊世代に限らず全世代に共通の話をしたい。これはあくまで自分の経験値でモノを言っているのだから、「おまえ、それは違う」という方もいるだろう、いるに違いない。しかしそうであれば「いいね!」だの「それマジですか?」などの2~3行のコメントで賛成・反対するのではなく、自分でブログを主宰して何故そう思わないのかを堂々と主張すればよい。色々なブログを閲覧していると意見を述べている主宰者に対して悪意のある挑戦的な2~3行のコメントを高飛車に浴びせかける人がいる、更にまたそのコメントに対して見ず知らずの第3者が本質から外れたような挑発言葉を羅列し連鎖反応的にブログを本質から離れたところで「炎上」させるということが有るようだが、他人の提供する場所(=ブログ上)で自分の氏素性が判らない・見えない事を良い事に、言いたい放題、滅茶苦茶をやるってのはどうも卑怯で好きでない。無責任なバーチャル・ネット世界特有の現象だろうが、たいがいは教育レベルの低い品の無い人の行為だとは思う、しかし情けない話だ。だから私は大半の真面目な閲覧者を保護する意味でも氏素性を顕わにしない人からのコメントは受け付けていない。
昨年5月15日に始めたブログもWEB本体と合わせて8か月で約4.5万ページのアクセスを頂いた。そのうち約26%が海外。

ブログ更新情報を拡散するためにFacebookやTwitterなどのSNS(=ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にも登録して活用を始めたが、300名程度のフォロワーさんからのショートコメントは全て期待と友好的内容でそれなりに効果を上げつつあるようだ。ただほとんどの方がスマホなどのモバイル端末(持ち運びが簡単な小さな通信端末装置)だが、こちらはデスクトップやラップトップのパソコンの為、時間的な時差が生ずるのは仕方がない。したがってSNSは情報拡散、ブログPR目的に徹している。これらの効果を自分にとって有効的にするには情報マーケティング・リサーチが非常に重要である事を現在勉強中だ。しかし学べば学ぶほどこの世界は面白い。
写真撮影や野鳥関連の方々中心に300名弱がフォロワーさん。

同時に、幾つかのブログの人気ランキングのサイトが有るが、あくまで全体でのデイリーアクセス数(=BLOG管理サイトのアカウント数)を上げるためにPR拡散用に登録している。したがってその各サイトの人気順位などに関しては興味が無い。このブログランキングはアクセスした人が「いいね!」のかわりにミニバナーをクリックしてその数を競うもので幾らでも作為的なコントロールが可能だしそのブログにアクセスした頻度数のデータによるモノではないので、順位自体にマーケティング的意味合いは無いようだ。要はランキングサイト自体へのバナー広告主獲得が主な理由なので商業的な意味合いが高い。
国内のブログ総数は多いものの実際生きているのは20%以下だと云う事が良く判った。

本来のアクセス数は自分のブログの管理サイト自体が出すアナリストデータで閲覧者の数や地域、時間帯を推し量らねばならない。お陰様で当ブログは連日150名平均のアクセスを頂いており、海外からも30%程度のアクセスが来ているので当初の目的は達している模様。毎日観て頂いている閲覧者の皆様には日々感謝している。

 話は変わって、団塊世代にとっても非常に重要なお金に対する人々の考え方の違いを述べてみたい。

あるクラス会で、長い事経済畑で生きてきたクラスメートが団塊世代に対して経済の講師をした時に会場内が収拾つかない程混乱したらしく「団塊世代は数が多くて、お金に対する考え方が人によってずいぶん違うんだよなー、バラバラで一纏めに出来ないんだ」という事を呟いていた。育った家が裕福だったから、貧乏だったから?就職した職業が安定した大会社や官公庁だったから、あるいは逆に天候や株の上下に左右されるような不安定な職業だったから?しかし、これらは経済のプロに言わせるといずれも違うという。
 それを脇で聴きながら思った、人間はある一定のまとまった自由にできるお金、たとえば100万円を目の前にした時に二通りの発想をするグループに分かれるのではないだろうか?一つのグループはその100万円のお金を如何に無駄なく効率良く活用するか消費を前提として考えるタイプ。これに対してもう一方のグループは、そのお金を元手にいくらに増やせるか、どうやったら倍に出来るか・・・を考えるタイプ。此処で断っておくが、これはあくまで人間性と発想タイプの問題なのでどちらが正解・不正解、あるいは良し悪しを決めようという訳ではない。ご自分の胸に手を当てて考えれば自分がどちらの性格を強く持った人間かお判りだろう。前者のタイプはモノを購入する際ネットの「価格ドットコム」のサイトでとにかく同じモノなら一番安い所で買おうとするだろうし、後者のタイプは同じ「価格ドットコム」のサイトを視るにしても買う基準は値段よりいつ手に入るのか、今後その商品は品薄になるのか転売は可能か等を優先して選ぶのではないだろうか?
 これらは全て価値観の個人差に帰結する事だと思っているが、人との付き合い方、自分の友達がどちらのタイプに属するのかを考えてみると面白いかもしれない。

 またまた話は変わって、団塊の世代のリタイヤ組にも共通して言える事。「現役引退後は何をする?」
定年退職、あるいはそれ以外でもリタイヤして現役を退いた際に起こるもろもろの価値観の変化の話。この大きな変化、ある意味カルチャーショック、価値観ショックに付いて行けずに「鬱、自閉症、無気力症」に陥る人が団塊世代に結構多いという。特に大きな会社でラインの管理職を務めていた人、つまり部長とか課長とか役員だった人。部下の数を誇ったり組織の大きさを誇っていた人。あるいは官公庁で偉い地位に居た人。こう云う人たちは名刺の肩書が立派で~役とか~官とか付いていた気持ち良さをリタイヤ後も忘れられずに「元〇〇」などと既に通用しない肩書きを表記したがるものらしい。個人の魅力より名刺の肩書きの方が重要だった人たちだ。

 そういう人たちがリタイヤするとどうなる?今までの自分への評価は上司・同僚・得意先を筆頭に、関連会社の人々、時にはマスコミ取材陣達だった。それがリタイヤと同時に自分を評価する人達は家族・親類縁者・クラスメート、あるいは近所の人々・・・・という事になる。以前どんなに有名で大きな会社の役員であったろうが、行政の役人だろうが、偉かろうが、リタイヤしてしまえば名刺の肩書は一切関係なく、既に偉くも無く、ただの町内会の新人と云う訳だ。リタイヤ直後はこの立ち位置の落差、価値観の差に落ち込むという。
 同時に会社にとって俺は絶対に重要な存在だった、会社は俺が居なきゃ動かなかった、いたからこそ我が愛する会社は順調だったのだ・・・。と思い込んでいた人ほど町内に戻りただの親父扱いされた時の環境の変化がショックになるらしい。しかもそういう人間ほど、若い時にいずれ己の身にそういう変化が来ることを予測していなかったし準備もしていなかった人が多い。

 会社一途に、せいぜい付き合いゴルフと飲み会とテレビのドラマ鑑賞位しか趣味が無かった人間ほど、リタイヤした後に何をしたらいいか判らず、カミさんが行くコンビニにまでついて行って、「濡れ落ち葉族」などという不名誉な称号を貰ったりする。団塊世代は人数が多いせいで競争、競争に揉まれて来たが故、会社人間、仕事人間が多くそういう種族が生まれたという。つまりは60~65になれば会社と縁が切れる、現役と縁が切れる事は自分自身はるか10年以上前から判っていたにもかかわらず、何の準備もしてこなかった。その挙句の事だからあくまで自己責任なのだ。何をして良いか判らない、自分が何をしたいのかが判らない・・・これでは今どきの若者が「自分が将来何をしたいのかが判らないんです」と悩んでいるのと全く同じじゃないか?
 一部のメディアでは例によってそういうグループを「団塊燃え尽き症候群」と一纏めにして呼ぶらしいが、それは少し違うと思う。あくまで世代は関係なく個人の資質や先見性・価値観や己の危機管理能力の問題だと思う。
日経BP誌のデータだが項目が実態に即しているとは思えない部分もあってあくまで参考に。

 私は東京で生活しながらヤマセミと云う野鳥に狂ったが為に、年に10回も熊本県に通い、ついには日本野鳥の会熊本県支部に入会させてもらった。このブログにしても始めて8か月が過ぎたが最近毎日平均150名程度の方々のアクセスを頂いているが、その約半分は熊本県の方々だ。その熊本県の野鳥の会の方々で団塊世代あるいはそれ以外の諸先輩方には「濡れ落ち葉族」らしき方は一人も見当たらない。何をしたらいいか判らん等と言う方は一人もいない。東京の様なコンクリートジャングルと違って、春夏秋冬季節の移り変わりを自分の視聴覚など五感で感じながら生活できているからだろうか?自分の生活するエリアに自然環境が在る事が如何に大事か、最近良く判った様な気がする。超高層の億ションなどという都心の真ん中で毎日毎晩大都会の夜景を眺めながらしか生きられないライフスタイルは自分にはとても出来ない芸当だ。

 一般的に言って小学校の時から成績だけを追い求め、学力だけを研ぎ澄ませてきた人間ほどその他の芸術(音楽・美術)スポーツなどの専門領域、ともすると遊びのジャンルに分類されてきた領域のスキルなり実践意欲に欠けているような気がする。これは日本の教育システムが戦後の団塊世代で「受験戦争」という言葉を生み出した頃からの傾向だろう。だから私は20年以上も前から主張してきたのだが、普通の学力成績(国語・英語・算数・理科・社会)のトップも、音楽ジャンルのトップ、美術ジャンルのトップ、体育スポーツジャンルのトップも公平平等に同じレベルで褒めて評価するべきだと思う。そうすれば進学・受験の年齢の時に普通の学問では芽が出なくても、絵画・デザインの部門でトップになれば学力トップの人間と対等の将来が開ける・・・という意欲エネルギーの源に成り得ると思うのだ。欧米での芸術・スポーツのスキル保持者に対する尊敬の念、あるいは評価の素晴らしさと日本におけるそれがなぜこうも違うのか理解に苦しむ。だからアート、スポーツ、料理などの世界を目指す若者はニューヨークやパリと云ったそのジャンルの特技者を正当に評価してくれるところに出て行ってしまうのだろう。日本のメディアはそういう海外で評価されたものはチヤホヤするくせに自分たちでは評価できないと云う情けない状態が続いているのが実態だ。日本のあらゆるジャンルの有能な頭脳が国外に流出するのもこれと全く同じだ。
随分昔の事だが信州大学で一芸に秀でた人間の入学を許可した時期が在った。これなどまさにそれを実践してくれた先駆けだったのだが、しばらくして残念な事に中止されたようだ。



 主要5科目で良い成績を上げればレベルの高い学校へ入れ大企業に入って出世できる・・・という単純な論理のレールに乗って突進したのが団塊世代の「受験戦争」だったのであれば、これからの世の中はそうではない新しい生き方、新しい価値観、新しい評価基準がもっと大きく世の中に出ても良いのではないだろうかと思う。

※この項終了。次週からは九州の小倉時代のお話。まだ人力車に似た輪タクが走っていた頃(冗談ではない)