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2015年3月28日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #102.」 ヴァン ヂャケットの社内エピソード、一社員から観た石津謙介社長.その3.」

 一部の人は既に良く知っているとは思うが、石津謙介社長は美味いものには目が無かった。
しかし、グルメの魯山人がどうしただの、オテル・ド・ミクニがどうしただのメディアの騒ぐグルメ話題にはトンと関心が無く、ご自分で造る料理に熱中し、工夫と自信を持っていた本物の料理好きだった。ましてや食事用の器が上に乗っかる料理以上に騒がれたり、高く評価されるのは本末転倒だと仰っている事を聞いたことがある。

よくある消費一方の、食べるだけグルメではなかった。もちろん味には非常にうるさく、絶対音感のごとく天性の絶対味覚を持っていたと思われる。高い食材を近代的に完備された厨房で料理するのは「誰にでも出来る当たり前の事」と考えていたらしい。
使い慣れ年季の入った伝統的な調理道具で基本レシピの料理を作り、伝統の味を壊さずにホンの少しだけ自分流の工夫・演出をするのが「粋」というものだと教わったことがある。これはたまたま石津社長が販促部の部屋に突然現れて色々打ち合わせをした後で雑談になったときに沢山教わった。

 「大酒呑みに優れたシェフ・料理人は居ない・・・」と言うのも石津社長の経験値から来る格言らしい。料理人は己の味覚の衰えを一番怖がるので、酔うなど考えられないという事、更には病気に成れば薬を飲むなどして、副作用で5感も鈍り味の微妙さを判断できないという事らしい。

 何度もこれらの教えを頂いたものだが、ある時ラーメンの話になり、「何処か美味しいラーメン屋は無いか?」という事に成った。東京ではあまり良く判らないが九州の熊本市に美味しいラーメン屋があると話をした。それを聴いた途端「熊本か!松野さんの所だな?」地方都市の名を聞くとまずそのエリアのお得意様の名前が堰を切ったように出てくる感じだった。販売促進部の安達さんと同じくらい全国の得意先の名前と場所を理解されていたようだ。

 で、この時は熊本交通センター(巨大なバスターミナル)地下街にある「こむらさき」というラーメン屋を紹介したのだった。「こむらさき」は同じ名前のお店が鹿児島の中心街天文館の商店街にもあるが、別もので熊本のほうがはるかに美味しい。鹿児島の「こむらさき」も豚骨ラーメンだが酒飲みが飲んだ後に締めで食べるような感じだった。

 焦がしニンニクの香りの良さコクの濃さは熊本駅傍の「黒亭」と良い勝負。この熊本駅から近い「黒亭(こくてい)」は2001年全国高校総体くまもとを仕事で視察に行ったときに初めて食べて感激した。実は筆者はこれまでも現在も熊本ラーメンは1969年に新宿駅前に桂花ラーメンがオープンした時からのファンで変わらないが、実際熊本に行けば群雄割拠で美味しいラーメン店が山と在る・・・・って、此処で筆者がラーメン談義を始めてどうする?
熊本駅近く「黒亭」の今昔 左2001年当時、右現在 Google 画像より

新宿の桂花ラーメンは45年以上贔屓にしている。スープも熊本の本店より美味い。

 それから1ヶ月ほど下ある日の昼下がり、突然デスクの女性が「新庄さん電話よ!」「誰から?」「ケンちゃん!」「えっ?ケンちゃんって誰?」「ばかねぇ社長よ、石津社長、早く出て!」
 こんな会話の後受話器を取って「新庄ですが、」と言ったら、「美味いぞ!こむらさき、今松野さんと食べ終わった所だ!東京でこういう店があったら教えてくれ。」と言うではないか。筆者の話を聞いて熊本に行った際に想い出して交通センター地下まで行ったとみえる。まさかそのラーメン屋が第一の理由ではないと思うが・・・。
 しかし今と違って携帯電話など影も形も無い時代、わざわざ美味しいからと食べた直後その店頭から電話を頂く等考えられない事だ。非常に義理堅い一面をお持ちの社長だった。一社員としては驚くと共に、たかが美味しいラーメン屋情報にも拘らずそれを信じて貰えた、実際に九州まで行ったと言う事自体に感激感動するばかりだった。

 山中湖のヴァン雅楼で作っていただいたカレーには敵わないが、自分の社長に少しでも喜んで頂ければ一社員としてこんなに嬉しい事は無い。ヴァン ヂャケット倒産後数年経って世に出た浜崎伝助と社長のスーさんとの話「釣りバカ日誌」じゃないが、社長と一ヒラ社員とのコミュニケーションがまだ厳然と在った時代の話だ。

 ちなみにその後、1984年に博報堂に入り、2003年頃から熊本県の仕事を幾つかするようになって、この交通センター地下のこむらさきへ数回行ってみたが、昔の美味さは既に無かった。熊本では味仙などチェーン店レベルでも結構な味を出すお店が在って、全国的に見てもラーメン文化は断然トップだろうと思う。(※なんと、そのセンター店もこの3月末で閉店となってしまうらしい。)
ラーメンの歴史と言えば1960年代末に新宿に桂花ラーメンがオープンしてから、それまで北海道ラーメン(ラーメン屋のメニューとしてより『札幌一番』などのインスタントラーメンが多かった)が主流だった東京で、豚骨スープの熊本ラーメン、博多の長浜ラーメン風が徐々に人気を博し始めた、筆者がヴァン ヂャケットにいた頃はちょうどそんな時期だった。


 青山のヴァン ヂャケット本社界隈ではランチといえば夜は飲み屋になるお店の昼定食、あるいは青山ユアーズのカウンターで中学時代のクラスメートが作るスパゲッティ・カルボナーラ等が多かった。お金が在る時は奮発して「鉄板焼肉のよしはし」などにも行ったが、それはごく稀な事だった。青山通りの裏手、アルファキュービック(今はもう移転して無いらしい)の道沿いに「とんかつ井泉」というお店が在って年中賑わっていた。いつの間にか「まい泉」と言う屋号に変わっているが母体は同じか?青山3丁目のヴァン ヂャケット本館対面にベルコモンズが出来て最上階のレストランにも度々行ったが、あまり長続きしなかった。一方でキラー通りと呼ばれた外苑東通り沿いのスキーショップ・ジロー手前にクラシック調の喫茶店風レストランがあったがあまり美味しかったと言う印象は無い。しかし少なくともヴァン ヂャケット社員は立ち食い蕎麦屋さんには行かなかったと思う。「フーミン」とかいうぐちゃぐちゃに成った水餃子を出すお店も在ったがあまり好きではなかった。 

 こうした青山界隈でのヴァン ヂャケット社員の食事事情はこんなもんだったが、今一体どれだけ残って営業しているだろう。今度一度視て回ってレポートしたいと思う。全部無かったりして・・。

2015年3月23日月曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #101.」 ヴァン ヂャケットの社内エピソード、一社員から観た石津謙介社長.その2.」

 VAN99Hallでのパフォーマンスに関しては昨日のブログ通りだった。繰り返すが、大勢の社外の人々の前の石津謙介社長と、我々社員の前での石津社長は随分イメージが違っていた。社内ではアパレル・トップ企業の創始者にして社長。外では個人としてファッションを中心とした文化風俗のプロデューサー、ファッションデザイナーとしての存在。これらを見事に使い分けていた。

 石津社長のこの文化風俗のプロデューサーとしての活動の一環に、フジテレビが1960年代に放送していた「勝ち抜きエレキ合戦」と言う視聴者参加型バンド・コンテストの審査員が在った。勿論筆者はまだ高校生。テレビでその審査の様子を見るだけだったし、もちろんまだその頃はこの石津社長の部下に成るなどとは夢にも思って居なかった。
勝ち抜きエレキ合戦 Google画像

  主にバンドメンバーのステージ衣装(=もちろん当時はビートルズやベンチャーズもネクタイをしてステージに立つのが普通だった。)の批評でポイントを与えていたような記憶がある。

初期のローリングストーンズ Google画像

 シャドウズもアニマルズもあの不良の塊と言われたローリングストーンズですらネクタイ姿でステージに立った時代なのだ。当時のレコードジャケットを視ると良く判る。
数少ないストーンズのLPジャケット・コレクション
 
 石津社長はヴァン ヂャケットの社長と云う肩書きではなくファッションデザイナーとしての肩書きで審査員席に座り、出場バンドの衣装・ファッションについて詳しく吟味していた記憶がある。
 そういった著名文化人としての石津社長だったが、社内では勿論尊敬と畏敬の念で全社員から慕われていた。此処に面白い話がある。

 この話は特別の展示会や社内訓示のケースではない。ごくごく普通のある平日の昼休みの話だという。勿論人から聴いた有名な話だ。場所は別館356の営業フロア、時間は昼休みが始まって15分ほど経った頃だという。男子社員は昼休みに限らず常日頃から担当上司に「デスクに等座っている暇があったら、自分が担当の得意先・売り場に行くなり外回りをしろ!」と言われているので朝から社内には居ない。昼休みに等居る訳も無い。したがって残っているのは女子社員ばかりという状況になる。昼休みに入って15分経った頃といえばお弁当を食べている真っ最中だろう。

 突然デスクの電話が鳴った!皆弁当を頬張っているから直ぐには出られない。勿論先輩社員、年配のお局様(ヴァン ヂャケットに居たかどうかは知らないが)は絶対に受話器を取らない。どの会社でも同じだろうがベテラン女子社員はそこそこの男子社員など蹴飛ばすほどの肝が据わっている。時々掛かってくる勧誘の電話や悪戯の電話に対する対応等マニュアル以上の経験を積んでいた。普通は当然新米が取るのだが、この日に限って鳴った電話の傍には年季の入ったベテラン女子社員しか居なかった。
75年当時はプッシュホン時代に入っていた。

 年季の入った女子社員はおもむろに受話器を取った。もう受話器を耳に当てるか否か、周りの者たちに聴こえるような大声が受話器の中から響いたという。「何をやっているんだ!どうして早く出ない?」。電話の着信音を何度も聞かされてイラついたのだろう、あるいは相当急いでいたのだろう、大きな声で怒鳴ったのだ。受話器を思わず耳から離したベテラン女子、一瞬にしてこの相手を良くあるクレームかいちゃもん付けの電話だと判断をした。ナメラレテはいけないと思ったのだろう深呼吸して声を落としてこう言ったらしい。「アンタ誰ぇ?昼休みに何ぃ?」
「俺だ!」「俺じゃ判んないわよ、何処の誰ぇ?」「この会社で俺と言うのは俺しか居ない!」「馬鹿言ってんじゃないわよ、俺なんて苗字、聴いたこと無いわよ?ふざけないでよね、こちらは忙しいんだから。」・・・と言ってガチャンと受話器を置き電話を切ってしまったのだ。

 電話を切ってものの2秒も経たずにまた掛かってきた。その怒鳴り声を聞いた同じ女子社員「アンタもしつこいわねー、警察呼ぶわよ?」と言って再び電話を切ってしまった。もうそれっきり電話は鳴らなかったと言う。誰もが「さすが姉御!」と頷きあってその場は終わった。

 と、10分ほどして突然階段を石津社長が営業部門の広いフロアに駆け上がって来てこう言った。「誰だっ!さっき電話に出た奴は?」これを目撃していた者はその場をこう表現した。カラー画像がいきなりドキュメンタリーのモノクロ画像になった・・そうだ。
 弁当を頬張ったまま女子社員全員が直立不動になったのは当然の事だった。「しつこいわねぇ」と言って電話を切ってしまった当の本人は完全にクビを覚悟したそうだ。 

 最長老の女子社員が口を開いた。「社長!あんまりです。私達は相手が誰だか確認するまで対応をしないように教育されています。お得意様は昼休みには絶対電話を掛けてきません。皆様我が社の内情を良くご存知ですし、ご自分達もランチタイムだから。今まで昼休みに掛かってきた電話は殆どがいたずら電話もしくは嫌がらせ電話ですので、それなりの対応をしました。社長であるならば仰ってくださらないと・・。」
 社長の顔は怒っていなかったという。そうしておもむろに女子社員の顔を見てこう言ったそうだ。「君達ね、お箸を置きなさい」立ったまま全員箸を置くのすら忘れていたらしい。そうして続けてこう言ったという。「俺が悪かった!」もうその瞬間、当の女子社員は泣き崩れたとの事だ。

 3丁目交差点のVAN本館から怒りに燃えて青山通りを物凄い勢いで歩いたのだろう。で、別館356に着くまでに頭が冷えたのか、怒りが収まったのか、対応策が決まったのだろう。最年長の女子社員の説明に納得したのだろう。その後社長はその場に居た女子社員全員を別の日ランチに招待したらしい。

 これは当時、事件の数日後に別館356営業部で耳にした話だが、最近よく言われる尾ひれの付いたヴァン ヂャケット社内の都市伝説かもしれない。しかし内容の大小は別にして本当にあった話だという。

2015年3月22日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #100」 ヴァン ヂャケットの社内エピソード、一社員から観た石津謙介社長.その1.」

おかげさまで、このブログ「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」も今回で100回目を迎えた。日頃ご覧頂いている全ての方々に感謝したい。つい2日前、アナログ印刷物、つまり「本」で読みたいと熱心にリクエストを下さった全国の方々と、友人やクラスメートに学生時代編を本にして贈った。

オンデマンド印刷で印刷した初版の部数30部足らずはアットいう間に無くなってしまったが、このブログが収録されているYAMASEMI WEBの特別コーナーにまとめて掲載し、今後ネット上で続けて読めるようにしてみたいと思っている。乞うご期待だ。
先日完成した「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」学生時代編

さてさて、100回記念のネタは勿論我が恩師、我が社長・石津謙介氏その人だ。ヴァン ヂャケット自体、会社の存在・商売にきちんとした理念のある会社だったからこそ社長が恩人だったのだ。 

その後長く勤めた広告代理店の博報堂等は会社こそ有名で大きかったが、その存在や商売の意義に「理念」など微塵も感じられなかったし、会社自体や社内の人々から学ぶものは何も無かったと言って良い。
むしろ博報堂に25年間所属する事で集まった、2万3千枚に及ぶ名刺の束が示すとおり、知り合った社外の方々から得たものが非常に大きかった。このあたりの話はまだまだ先になる。

 世の中には一体、どれだけ石津社長に関する文献、WEBサイトがあるだろうか?勿論元ヴァン ヂャケット中枢部に居た方々が主宰するWEBサイトが一番石津社長に関する紹介・エピソードは詳しいに決まっているし、どれもが生々しい事実。貴重な文化資料だと思う。この私も相当参考にさせて頂いて居るし、何度も観返させて頂いている。勿論VAN関係のURL群のトップにブックマークさせて頂いている。
石津謙介大百科のサイト= http://www.ishizu.jp/ 

話術も素晴らしいが、身振り手振り、ジェスチャーは外人と同じだった。

しかし、筆者の場合は外部から社員としてヴァン ヂャケットに入れて頂いた身であり、同志ではなく部下という立場で、ある程度社内リアルタイムで距離を置いて石津謙介社長を見てきただけに、中枢部に居た方々、あるいはヴァン ヂャケット倒産後、石津社長をぴったりマークしたジャーナリストとは少し違うイメージ、印象があるかもしれない。ただそれは、富士山を甲府方面富士宮市から見るか、静岡県側・例えば三保の松原越しに見るかの違いと同じで、富士山は富士山、石津社長は石津社長に変わりは無いと思う。

入社前の会社訪問でいきなり我々の目の前に現れたと言うサプライズ話は、学生時代編の最終回の話として既に既報の通り。
※「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #77.」 青山ヴァン・ヂャケットの会社訪問、いきなり石津謙介社長が出てきた。

 ヴァン ヂャケットに勤め始めて判った事なのだが、石津社長はこのサプライズが大変好きで、しかも得意だった様だ。幾人かの先輩・同期の社員に訊いても、良く同じような内容の話を聞かされた事でもこれを裏付けている。
 1対1、あるいは数人で石津社長に相対している時はあまりそういうイメージを感じはしない。しかし、一旦大勢を相手にマイクを握ったり、訓示を言い渡す際はもう饒舌でハイテンションに成ることが多かった、と言うより必ずそういう状態になったものだ。冗談でよく言う「別人28号」に変身するって訳だ。
自分の出番が来るまで、まずその日の聴衆の様子をジーッと観察するのが常だった。

 例えば、ある時356別館つまり営業本部で社員をフロアに集めて訓示があった。其処で石津社長の第一声はこうだった、「君達、本館の1階入口からエレベーターのある二階まで階段は何段あるか知っているか?」だった。勿論人事課の人間だってそんな事知らないし、知る必要もまったく無いのだ。誰も知らないという事を判っているからこそ、そういう事を唐突に発言して度肝を抜こうと言う「演出」なのだろう。

 慣れたベテラン社員は「今回社長は何を言って驚かすだろう?」と楽しみにしているような気配すら感じた。まあ、一種のお約束みたいなものなのだろうが、入社間もない社員にとっては「凄い!人の心を掴むコツを教わった!」と感激してしまうのだった。

 似たような場面に何度も遭遇しているが、お得意様を集めた内見展示会のショウのさなかにこういう場面に遭遇した時には、思わず詳細に記録したく成る程だった。

 時は次年度の春夏商品内見展示会、場所は青山通りに面したVAN99Hallのステージだった。
 現場が好きな筆者は宣伝2課の手伝いをして狭いコントロールルームで照明を担当していた。横には宣伝2課の吉田大吾郎君が居て音響や進行を行っていたと思う。

 ステージ上では宣伝部の神吉(かんき)部長がマイクを握って次々に着替えて出てくる男性モデル、それも雑誌メンズクラ誌上で誰もが知っている人気モデルの戸田さん等を紹介しつつ、着ている次のシーズンの主力商品の説明を行っていた。

 この神吉ヘッド(宣伝部長)は元々テレビ朝日に居た方で、石津社長に請われて1965年頃ヴァン ヂャケットに入った方だと聞いていた。したがってこの手の司会や進行はお手の物だったろうと思う。

 いわゆる詳しい商品説明付きのファッションショウだ。幾つかの商品モデルを紹介している時だった。いきなり99ホールの最後列でこれを見ていた石津謙介社長が吼えた!「違うぞ、それ!」
 客席最後列から、お得意の鼻を右手の親指と人差し指でつまみ・しごきながら、左手でステージ上のモデルさんを指差しながらこう続けるのだった。「神吉!お前違うぞ、何度言ったら判るんだ?〇〇と××の出荷は同時じゃ駄目なんだ、グループのコンセプトが全然違うんだから、まだ判っていないんだなぁー。どうして現場の苦労を解らないんだろうか。」とか言いながら、自らステージ上のモデル6名を2つのグループに分けるのだ。

 「それ違うぞ!」と言いながらも決して怒鳴っているのではなく、理由を繰り返し一生懸命神吉ヘッドに説明しながら、結局は客席のお客様たちに判る様に解説をしている感じだった。
マイクを持つと非常に能弁になる。聴衆の心をつかむ事に関しても天才的だった。

 各百貨店のバイヤーさんや主要店の店長さんは、もう食い入るように、唾も飲み込まず、瞬きもせずこれを眺めている。お客様皆様の面前でヴァン ヂャケット宣伝部長の神吉ヘッドが、石津謙介社長にコテンパンに叱られる訳だ。もうこれは相当なインパクトがあるだろう。

 その時ステージ上に立っているモデルさんが着用している商品群を忘れるお客さんは一人としていないと思う。いわばメディアでも有名な名物社長が最前線で商品のコンセプトについて細かい指示をしている場面に遭遇する訳だもの。

 しかし、VAN99Hall中二階のコントロールルームで、宣伝2課の吉田君は一言呟いた。「アーアまた、始まった、始まっちゃったよ。」

VAN99Hallで石津謙介社長が使用したSHUREの高性能マイク・名機SM58

 どうやら、これは全て「お芝居」だった様なのだ。全て最初から仕組まれた筋書き通りの展開らしいのだ。予行演習・リハーサルがあったのか無かったのか未だに不明だが、永年ヴァン ヂャケットを引っ張ってきた石津社長と神吉宣伝部長の阿吽の呼吸で進む、一大パフォーマンスだった様に、当時はとても思わなかったが、今になって「成る程そういう事なのか」と思う次第だ。まじめな筆者には想像も付かない演出だった。


2015年3月15日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #099」 ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その9。「内見会といえば・・・その2.」

コンセプト・ボードの大成功は軽部キャップの小躍りするような内見会事後報告で部員全体がよく理解できた。やはり営業あってこその販売促進部というスタンスは部員全体が良く刷り込まれていたからだろう。営業売り上げ目標という具体的・数値的な成果が無い、宣伝・販促と言ったスタッフ部門ではこういった実働部隊の「感謝・悦び」を知ってこそ、自分達セクションの存在意義を確認できるのだった。広告代理店(後に自分が属す事になるのだが)はこういった製造業クライアントの内部的な事実をまったく知ろうとせずに、グイグイ提案ばかりされて嫌われる事に気が付かない。
このヴァン ヂャケットでの経験は後の人生に非常に役立った貴重なものだった。

こういう喜びは直ぐに仕事に反映された。その次の内見会には更に進んだ技術を駆使して、得意先を唸らせたいという販売促進部の一種独特な職業病のような症状が生まれるのだった。

 そこで我々販促部員が取った次のステップは、紙芝居(=コンセプト・ボード)をスライドで一度に大人数に対して見せようというもの。勿論既に完成して数年が経っていた99Hallでの上映を目論んでいた。しかしこれは最初にコンセプト・ボードを作成して複写してスライド化する方法を採るだけでは意味を成さなかった。白いボードに雑誌から切り抜いたイメージ写真を貼り、文字をインレタ(=インスタントレタリング・一種のデザイン処理用画材)で貼ると、上映した際写真と背景のボードの白さがハレーションを起こして非常に観づらくなるという難点が発見されたのだ。

 もうこうなると、完全にスライドの機能を理解しストーリー作りから入らなければ、コンセプト・ストーリーは完成しなかった。VANブランド、Kentブランド、MINI・BOYSブランドそれぞれにコンセプト・ストーリーを作成。無言のスライドを紙芝居のように送り、口頭で活弁士が喋る昔の映画ではあまりにお粗末だという事で、BGMを入れ、ディスプレイは実際にSD部の池田CAPが行い、筆者が撮影してスライド化してストーリーに入れ込んだ。ナレーションも最初の内見会は我々が吹き込み完全な手造りスライドショーになった。
スライドショーの画面に欠かせなかったのがVANのロゴインスタントレタリングだった。

最終的な1978年春夏バージョンでは新たなブランド・SCENE(シーン)もあわせて製作した。ヴァン ヂャケット倒産時に退社する際、各人がそれぞれ色々なモノ(ステッカーや紙袋、本や資料、サンプル)を持って帰ったが、筆者はいの一番にこの想い入れ深い販促物だけは何としても後世に残すべき知的財産だと持って帰って置いたのが功を奏した。今VANSITEで誰もが見られるようになって保存しておいて良かったと安堵している。
                              
VANコンセプトスライド= http://vansite.net/78ssvansalespromo1.html  
SCENEコンセプトスライド= http://vansite.net/78ssvansalespromo2.html

VANブランドの伝統的毛皮の防寒ウエアから

SCENEブランドのダウンジャケットへ時代は変わりつつあった。双方現存使用中。

 筆者は主に商品ディスプレイ、店舗、などの撮影と全体の構成、音入れなどスライドショウの根幹メカニックを担当した。前出の通り最初の頃は単純に画面が切り替わり販促部の人間のナレーションで実施したが、大勢を相手の上映時にそれはあまりにみすぼらしいとの話で予算が3倍になったので、プロのナレーターを雇い、画面もフェードアウト+フェードインを行う為に2台・3台のプロジェクターを連動させる高度なスライドショウへと進化していった。しかしこのメカは自分にしか判らなかったので風邪を引いて休みそうになろうものなら大騒ぎだった。

 観ていただければ判るが、画面の写真は海外のファッション雑誌やアウトドア雑誌、1960年代のキャンパスが出ている雑誌等だった。神田の古本屋に何度通ったことか。背景のBGM等は当時流行っていた音楽を中心に取り入れた。もちろんオープンで見せる物ではないので著作権協会JASRACなどへの届出は行わなかったし、街中で撮影した人々の顔写真も今ほど個人保護法等なかった時代なのでそのまま露出した。※現在は街中撮影の個人の顔にはマスクを入れた。

この紙芝居(=コンセプト・ボード)でのプレゼンテーション以来、得意先に対して説得する方法としてとんでもない「嘘技法」を思いついたことがあった。今の世の中では既に当たり前のような手法だが、当時1976年頃はまだまだこういう手法は使われて居なかったように思う。
それは何かというと、例えばグレイフランネルのスーツなりジャケットを拡販しなければならない(理由は前回説明)様な場合、幾ら口頭で力説しても大手の百貨店さんバイヤーはなかなか信用してくれない。
其処でニューヨークに出張してウォールストリート、マジソンスクェアー等の交差点で信号待ちしているビジネスマンの写真を山ほど撮ってくるのだ。そうして、その中からグレー系のスーツやジャケットを着用している者だけをトリミングで集めてスライドで流すのだ。
勿論ニューヨークだから紺系、ブラウン系、グリーン系、更には柄の激しい者などは沢山居る。
しかし、グレー系だけを選りすぐって並べて見せると大手百貨店のバイヤーさんたちは、いとも簡単に信用してくれてしまった。筆者は決してその効果に驚いてその後広告業界に入ったわけではないが、あまりの効果に相当ショックを受けたのは間違いない。そんな事をしても良いのだろうかと、少々後ろめたかったのも覚えているが、会社が儲かることなら正しいのだろうと思ったのも確かだった。

筆者は今、66歳にして野鳥写真の撮影、特にヤマセミの生態観察撮影に熱中しているが、そのきっかけになったのがこのヴァン ヂャケットでの販促部の仕事の数々だったことは紛れもない事実だ。
何故ヤマセミの観察と撮影に熱中するか?それは勿論このヤマセミという野鳥の生態が面白くてユニークですっかり虜になってしまったからなのだが、同時に何処をどのように調べてもヤマセミに関する詳しい文献や資料や写真が無いからだった。プロの写真家と称する者がヤマセミの習性を利用して羽根を広げて日常いつも留まる留まり木に細工をして、留まる瞬間を待ち構えてストロボ撮影したり、川底の砂に御椀状の窪みをこしらえて流れを変えヤマセミの餌になる小魚が集まりやすくし、飛び込んで採餌する瞬間を収録した動画や静止画は幾らでも見た。NHKでも盛んに流したあれだ。しかし、そのユニークなヤマセミの生態や行動が詳細な纏まったレポートになっているのを見たことがない。在っても佇まいや外側から見た一般的な生態だけだった。
水中から拾った棒切れを何度も空中に放り投げて咥え遊ぶ?ヤマセミの珍しい生態。

野鳥や鶏を描いたら右に出るものが居ないといわれる、かの江戸時代の天才伊藤若冲ですら、ヤマセミは描いていない。何故か?理由は被写体のヤマセミに出遭えなかったからだろうと推察している。若冲はモデルとしての鳥の死骸だけ目の前にしても絶対に描かない、生きた姿を観て描く物凄い観察力の持ち主だった。
彼の鶏の絵の中に二本の足の間から首を反対側に出している奇妙な絵が在る。実際に名古屋の養鶏場のベテラン職員が「過去に一度だけ実際にそういう場面を目撃した」と言っているほど珍しいシーンを記憶して描いているのだ。そういう意味からするとヤマセミは同属のカワセミあるいはその他の鶏や鴨類、小鳥等に比べてその絶対数が圧倒的に少ない野鳥だから、さすがの若冲もしっかりと観察して描くチャンスを持たなかったのだろう。
伊藤若冲・芙蓉双鶏図(部分) Googleフリー画像より

要は何が言いたいかと言うと、他の誰もやらないことにチャレンジする、新領域を開拓するという事に無上の喜びを感ずるようになってしまったのだ。野鳥を撮るにしても木々や岩の上に留まっている姿より空を飛んでいる所をフレームに納めたい、あるいは何か生態的に意味のある行動をしている場面を記録的に画像に収録したいと思うのだ。鳥類図鑑のような接近して綺麗な写真を撮りたいとはあまり思わない。

 このヴァン ヂャケット販売促進時代の内見会にまつわる仕事の数々は、そういう訳で自分の今在る姿のもっとも基本に成っている事を再確認させてくれた訳だ。

参考出典サイト・ VAN SITE= http://vansite.net/vansitemap.htm

2015年3月14日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #098」 ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その8。「内見会といえば・・・」

 内見会といえば当時どのアパレル・メーカーも自社ビルの展示スペースで人体(=マネキン人形)に来シーズンの試作品を着せてディスプレイし注文を取る方式を採用していて、何処もが似たり寄ったりの感じであった。これはオンワード樫山やワールド、レナウン等の大手でも一緒だった。
しかし、常に新しい方向性を模索していたヴァン ヂャケット販促部では、当時原宿の住宅街に在ったDCブランドメーカー、たとえばアルファ・キュービックのメンバー等とも今後の展示会のあり方などよく相談したものだった。東京ヒルトンホテルでの大内見会の後、札幌プリンスホテルでの内見会、福岡の西鉄グランドホテルでの内見会などを経験した。生まれて初めて足を踏み入れた札幌では施工が終了して夜販売促進部全員ですすき野に繰り出し、ストリップ劇場地球座とかいう所に入ったが、筆者などは疲れ切っていて最前列でいびきをかいて寝てしまい、踊り子さんにマジで怒られた事もあった。

そういう話しは山とあるが、今回はそうではなく内見会の演出方法に関して、ヴァン ヂャケットが当時相当新しい事を試みていたのを紹介しようと思う。展示会・内見会といえば営業担当が来場された取引先にへばりついて注文を取るのが本来のスタイルだ。その注文数を内見会後集計して生産ラインに生産数の調整と納期の確保を行うのが普通の一般的・常識的モノ造りの方法だ。しかし、巷のアパレル・メーカーと違ってヴァン ヂャケットはまったく異次元のモノ造り方法を行っていた。簡単に言うと、内見会開催より遥か前に10ヵ月後に販売する商品は、何を幾つ造るか既に決まっていたのだ。同時に生産の上限数も決まっていたようだ。だから得意先からの注文数がヴァン ヂャケットのマーケティングプラン(これが勘を頼りに結構いい加減だった)以上に増えても、少なくても対応等できなかったのだ。間違って内見会などで思惑がはずれ全然不人気の商品アイテムも原反発注(元になる生地)・生産ライン押さえ(縫製工場押さえ)をキャンセルするには違約金を払わねばならないなどの理不尽な生産方法を採っていた様だ。つまり常識的に言えば順番が逆な事を平気で悪しき慣例としてやっていた様なのだ。
筆者がまだヴァン ヂャケット入社前の時代の内見会報告社内報 VANSITEより

これは元来、ヴァン ヂャケットがVAN Kentといった軽い付和雷同型の流行と言うものを否定したトラッド・アイビー路線の商品中心で拡大した企業だけに、元々流行による大きな変化が在ってはいけないという半ば宗教がかった商品群で構成されていたからだろうと思われる。
ところが、時代の流れと共に商品が売れていくと商品アイテム数、色のバリエーションが従来の領域だけでは得意先の要望やターゲットである若者達のニーズに答えられ難くなり、どんどん野鳥の分類ではないが亜種が増えていったのではないだろうかと想像する。ちょうどタータンチェックの柄が本来の本家だと色数やパターンが単純なのに比べ分家、分家で血筋が分かれるごとに色やパターンが複雑になるがごとく・・・。
そうなると、当然ワンパターンで今までどおりの生産スケジュール・システムでは市場のニーズに答えられなくなったのではないかと推察している。このあたりは当時ヴァン ヂャケットの・企画ラインに居た方でなければ詳細は判らない。要はトラッド・アイビー路線のファンがマスで増加する事によりマーケティングの変化と共にマーチャンダイジングも変化せざるを得なくなったのではないだろうか?
内見展示会直前、社内報で全社員に内見会での新商品ライン最低限の知識を認識させた。

そういう時代背景の中、販売促進部では内見会において、得意先から如何にヴァン ヂャケットの筋書き通りの注文を取れるようにするか、誘導する方策を考えねばならなかった。これは当時まだペイペイの販促部員だった末端の自分には全体像は見えず、ただ効果的な具体策を実現する事に没頭していたので、今に至ってこそ思うことなのだが・・・。
営業部門に向かって、「それは出来ません!」とだけは絶対に言わないのが販促部の理念だ・・・と常日頃から言っていた軽部キャップは当時相当なジレンマの中、部下に色々注文をつけていたのだろう。ストレスは半端なものではなかったと推察する。

其処で販売促進部が考え出したのが、製作部門がシーズン前に作る型紙(企画パターン図)と生地見本を貼り付けた原始的な製品メニュー(=スワッチと呼ぶ。間違ってもシュワッチ!・・・ではない、念のため)をヒントにブランド毎の来期のテーマ、コンセプトをプレゼンテーション・ボードに表して営業部員と共に得意先にセールスする方法だった。表向きはこれらを「コンセプト・ボード」内々には「紙芝居」と読んでいた。
スワッチを視ながら受注活動・数出しを行う営業部員。

内容は、各ブランド別にそのブランド内の商品を幾つかのテーマに分け、そのテーマごとのコンセプトを解説した。例えば、来期は何故グレーの色をフィーチャー(重点的に押す)するのか、何故1950年代のアメリカがモチーフなのか??(=たまたま映画「スティング」や「華麗なるギャッビー」など40年代50年代モノの映画が流行っていたが為)などなど得意先のバイヤーが判りやすいプレゼンテーションを行うツールとしてこのコンセプト・ボードは営業部門から非常に珍重された。ボードの最後のほうにはその商品を展示する売り場のディスプレイ例などまであったものだから、得意先の売り場担当者は「自分の売り場がこんな風になるのか!!」と非常に喜んだと言う話を幾つも聞かされた。
今は既に「死語」に成ってしまったシティ・ボーイズと言う言葉はこれを期に流行るエポック的言葉だった。このコンセプトボード(=通称紙芝居)の製作は中味が企業秘密だから決して外注しなかった。

今のBEAMSその他の店舗の原型は既にこの頃ヴァン ヂャケット販促部に存在していた。

映画「ビッグ・ウェンズデー1978年」「バック・トゥ・ザ・フューチャー1985年」もまだこの世に無かった時代に、既に時代を先取りしていたヴァン ヂャケットの先取り感覚は、やはり会社そのものが群を抜いて新し物好き集団だった事を表している。

しかし、このパース画に見られるように、ニュー・スポーツショップの客が皆スーツ姿の男性だったりして、まだまだちぐはぐな感覚の様だ。まだ市場にはこの手の消費者達があまり育っていないと言うファッション界の変革期・混沌期だったのだろう。いわゆるアメリカ東海岸の生活観から西海岸の生活観へ時代が大きく変わろうとしていた時期なのだろう。

店頭のディスプレイ用小物の提案までしている。このようなアパレルメーカーは他には無い。

 ただこの方法には幾つかの弊害も生まれてしまった。まずそれまでセールストークを一生懸命自分で情報を集めて考えてきた優秀な営業担当が「内見会の販促部のコンセプト・ボードがあるから、もう一人で苦労しなくて済むな」と勉強・努力をしなくなってしまったこと。同時に得意先が「ヴァンさん!あのプレゼンボードのようにうちの売り場飾ってよね?」とプレゼンボードの実現を要求してくるケースが出てきたのだ。勿論費用はヴァン ヂャケット持ちだ。

この紙芝居(=コンセプト・ボード)造りは初めて具体的に大学で学んだ写真・デザインに関するセンス・知識が直接役立つと言う意味では非常に面白く身を入れて出来る仕事だった。仕事と言う概念より、まさに「やりたくてしょうがない事=趣味」のレベルの内容だった。だから徹夜こそしないが連日夜遅くまで販促部の部屋に居残って残業を楽しむ毎日だった。時には夜遅く仲の良い営業部員がふらっと現れたが、皆得意先と一杯やっての訪問だったのでまじめに販促部が深夜まで活動しているのを見て相当驚いたようだった。
この頃の筆者のデスク周り、机の上のカメラが仕事上大事な道具であった事を示している。横のデッキチェアは社外の印刷屋さんや写真屋フォトスタジオの人々と長時間打ち合わせをする為必須だった。

実にお世話になったインスタントレタリング・レタラセット。


当然営業部員は翌日356営業部のフロアで、販促部が夜中まで内見会用の紙芝居を一生懸命造っている事を吹聴するので、噂はあっという間に広がり営業部と販促部の信頼感は今まで以上に増したのは間違いないところだった。

2015年2月8日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #097」 ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その7。

 ご存知の通りヴァン ヂャケットはいわゆるファッションメーカーだ。基本的なアイビー・トラッド路線の定番商品と言われる商品群に加え、その時々の流行の服を色々なブランドから演出・創造し販売するのが大まかなビジネススタイルだった。販売ルートは当時の家電製品や本等とは異なり、問屋を介さないメーカーから小売店への直販スタイルをとっていた。

 販売スタイルは全国に数百店舗ある小売店においては基本的に商品買い取りが原則、百貨店等は委託販売が主流でそれぞれ掛け率(下代)が異なっていた。圧倒的に利益率が良いのは小売店で、百貨店等は掛け率も高く(=利幅が少ない)、その上返品等は当然のごとく行われていたし、売れ筋商品の欠品は絶対に許されなかった。もちろん自社ブランドの売り場面積確保の為、優秀な販売員を派遣しなければならず、なかなか思うような利益を上げるのは難しいとされていた。売り上げ上位の百貨店にはヴァン ヂャケット最強の優秀販売員が配属され、噂では引き抜き勧誘等も日常茶飯事だったと言う。一方で百貨店はそれぞれ百貨店同士の競争の中で大売出しやバーゲンなど独自の催事を開催する為、出入り業者に対して協賛金を強要するのが常識だった。ヴァン ヂャケットを含めて商品を納品する側のメーカーとしてはこの百貨店対策が常に悩みの種だった。
 売り上げ利益と、その利益を得る為に必要な経費を清算してみれば、殆どトントンもしくは赤字と言うのが実状で、メーカーにとっての百貨店の店頭はショーウインドウのような役割に徹さざるを得なかったと言う人も居る程だ。実利はやはり専門店に限ると言うのだが、これは一概にそうとは言えないような気もする。趣味性の強いセミプロクラスのお友達のような顧客にだけターゲットを絞っていれば、ヴァン ヂャケットという会社があそこまで世の中に強い影響を与えられる企業になったかどうか判らない。
ヴァン ヂャケッとは卸・問屋を通さないファッション・ビジネススタイルだった。

 そのような背景の中で、ビジネスには欠かせない「モノを造って売る」という原則を具体的にする場としてのBtoC、つまり販売店からエンドユーザー(消費者)への「販売店・売場フロア」以外に、一般の消費者の眼には入らない舞台裏でBtoB(=業界内での販売)つまりヴァン ヂャケットから流通業界販売店(専門店・百貨店など)への販売ビジネスの場があった。そうしてその業界内での販売行為には事前の品定めの場として毎シーズンごとのお約束「内見会」というものがあった。これは年に二回、春夏商品・秋冬商品が存在し、各シーズン頭の半年以上前に行われるのが常だった。

 婦人者など、世の中の流行の影響をもろに受けるジャンルであれば、その流行がどう転ぶかによって造る側(メーカー)および消費者に売るお店側・共に大変なリスクを負う事になる。しかし、VANやKentのようなトラディッショナル、つまり余り流行に影響されずに質実剛健で不変的なスタイルを売りにしているヴァン ヂャケット社は当初そこまで大きなリスクを負わずに堅実な伸びを示していたようだ。但しそれはヴァン ヂャケットが企業としてまだオンワード樫山やレナウンのような規模になっていない時期だったからだろうと思う。
百貨店のVANコーナー 売り場のジャンルにヤングマン・コーナーと言う名が出来た頃。

 1970年代に入り、団塊世代の大人数をターゲットにするようになると、マーケティング・リサーチを行い、外れの少ない商品設定、売れ残りの少ない生産数を如何にキープするかがファッション企業としての利益向上に重要なポイントとして注目を集め始めていた・・・・って繊維業界のレポートのようになってしまったが、これ以上は突っ込んで書かない。要は勘や今までの得意先の好き嫌いなどの要望にのみ従ってモノ造りをしていたのでは、「的を外す」恐れが出てきたと言いたいのだ。この辺りから、ヴァン ヂャケット社内でも早くからマーケティング・リサーチの必要性を主張し続けてきた軽部キャップを中心とした販売促進部の役割が大きくクローズアップしてくる事になる。

それが証拠に、販売促進部が356別館の中二階へ引っ越す頃、部の名称がいつの間にかマーケッティング部という呼び名に代わる時が来るのだった。同時に内見会のあり方も、今までのような揉み手をして担当営業部員が綺麗に展示・ディスプレイされた商品を見せて、個々のセールストークで販売店の注文を取っていく方法から、全社的に1つの指針に基づいて主力商品を確実に注文させる方法へ量的拡大の時代を迎える事になった。 
これは何を意味するかというと、内見会展示演出の一番重要なポイントがブランドごとにその特徴をディスプレイ演出で行い得意先をその気にする時代から、「何故、ヴァン ヂャケットは来季この商品をお勧めするか?」の説得プレゼンテーションで商売することに転換した重要なエポック的・タイミングだったのだ。それが1974年頃。

新入社員で入ったばかりの頃、まだ大掛かりなディスプレイ・演出で商売をしていた最後の大きな内見会は当時の国会議事堂傍の東京ヒルトンホテル真珠の間を借り切って行われた。紅真珠・白真珠をぶち抜いて会場内を回遊方式で全ブランドの演出展示を見て回れるように演出をした。全国の地方から来場した専門店等の方々は会場の東京ヒルトンホテルに泊まり、夜の赤坂で担当営業の歓待を受けたに違いない。出張費は全てヴァン ヂャケットが持ったのかもしれない。こういう事を出来たのも、ヴァン ヂャケットが右肩上がりで売り上げ増、利益増が進んだ最盛期‘70年代前半の蓄えがあったからだろうと思われる。
あのビートルズが泊まった東京ヒルトンホテル、(1984年以降東急キャピタルホテル)

東京ヒルトンホテルの宴会場「真珠の間」の豪華な真珠のシャンデリヤ。

新しいブランドのスタート、お披露目・プレスパーティ等を赤坂の高級レストランシアター=コルドン・ブルー等で行ったのもこの頃だった。
個人的に云えば、1966年高校3年生の時に下級生女子を誘って武道館に観に行ったザ・ビートルズが宿泊したあの東京ヒルトンホテルで仕事が出来る!ザ・ビートルズが記者会見をした真珠の間とプレス控え室だった銀の間も仕事の場に出来るというので感無量の大仕事だった。あの尊敬する浅井慎平さんが来日中のビートルズの公式カメラマンだったと言う有名な話の場に自分が居られると言う事だけで、改めてヴァン ヂャケットに入社出来て良かったと思った。
ザ・ビートルズの来日記者会見は東京ヒルトンホテル真珠の間で行われた。

この時の内見会はカナダからログハウスを持ち込んで、真珠の間に組み立ててしまうというような大胆な演出を石津謙介社長指導の下、販促部SD課の池田CAPが発案し、見事に実現した意味でも大きな話題を呼んだ。ヒルトンホテル側が良く許可したと思うほどだった。此処での記憶としてはまだ色々覚えているが、本番数日前からの昼夜兼行で施工、商品ディスプレイ、その他を進めた結果、本番前日の夜は販促部員全員が完全にグロッキーに成ってしまった。その結果どういう事態になったかというと、各ブランドの壁際の床に各ブース担当の販促部員が作業中の姿勢のまま寝てしまっていたのだ。

コンセントにキャップを取り付けようとドライバーと木ねじを握ったまま床でいびきをかいている者、丸太のログハウスの中でマネキン人形を抱きながら寝込んでいる者。ホテルが用意した折りたたみのベッドに一旦は寝たものの広い真珠の間の天井が高すぎて落ち着かず、壁際にピッタリとベッドを付けて白布を丸ごと上から被って天井が見えないようにして寝ている者まで、色々だった。しかし仮眠も3時間出来れば良い方で、直ぐに続きを始めなければ成らなかった。

こうして翌朝、内見会が始まって、営業部員達の晴れやかな笑顔を見てホッとしたあの瞬間と感動は今でも忘れられない。

2015年2月4日水曜日

再び隣の大学キャンパスでアオゲラ! Japanese green woodpecker fly again !

 毎日更新しているこのブログの週末特集、ふざけた自叙伝的「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」を続けてきたが、いつの間にか100話に達しようとしている。これを通して読みたいとリクエストが溜まってきたので、そう仰る方々に喜んで頂こうと思い、今一生懸命縦書きのアナログ印刷物、つまり本にしようと日夜奮闘している。パソコン・ソフトで変換するのだが手間が掛かる。同時に読み返してみるとなんとも自分の書いた文章の酷さに自分で呆れ返ってしまい、修正に時間が掛かる事この上ない。
 気が付くと3時間パソコンの前に座りっぱなしということも多い。腰と眼に非常に悪いので、そういう場合は必ず2時間ほどカメラを持って隣の大学キャンパス~野川沿いの緑地に探鳥に向かう。

 昨日は3日前と同じコースを8kmほど歩いてみた。やはり、いつものアオゲラが寄って来て色々パフォーマンスしてくれた。いつも同じ迷彩服なので慣れたのだろうか?
いつも夕方3時頃から活性する時間帯に出かけるが、逆光が多いのが難点!

逆光でこちらに向かって飛んでくる場合など証拠画像にしかならない。

鋭い夕方の逆光で動く野鳥の追い写し!何とかマスターしてみたい。

わざわざ傍の樹に来てくれた。

何とか逆光でも撮れるのはカメラの機能の発達のおかげ。

アオゲラの飛翔、雰囲気だけでも味わって頂きたい。

樹木の隙間に赤い舌を差し込んで何かを探っている。


そのまま真上に飛んだ!

順光で撮れると思った途端、自転車のおばさんが横切りアオゲラは飛んで行ってしまった。