2015年4月19日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #107.」 ヴァン ヂャケットの社内エピソード、入社3年目で海外出張.その3.

  ちょうどこの初めての海外出張の約10年後、筆者が大手広告代理店に移っていた1985年頃、バブルの絶頂期にオンワードがJ.PRESS社を買った。その際J.PRESS初めてのカタログ・ブローシャーの製作を依頼され、10日間ほどニューヨーク、ボストン等東海岸をロケ・撮影で回りいわゆるアイビーリーグの各大学を殆ど回ることが出来た。
最初のJ.PRESSカタログ本はプロデューサーの特権で其のほんの一部100冊だけ表紙を筆者が大好きなマドラスチェックの布で装丁した。此れは業界内で非常に好評だったが殆ど関係者の間で分けられてしまった。

 しかし、この1975年の時にはニューヨークにあるコロンビア大学に行けただけだった。この大学はセントラルパークよりずーっと北側のハドソン川に近いエリアに在ったと思う。其処までのタクシーがクラシックを流していて、非常に良い雰囲気の白髪の老人運転手だったので、思わずチップを弾んでしまった。ニューヨークのタクシー、今は殆ど全て新しい車両になってしまっているが、当時はまだタクシー毎に個性のある車両が走っていた。其の頃のタクシーの画像だけ集めても面白い写真集が出来るのではないだろうか?もう既に在るかもしれないが。
よほどのベースボールファンなのだろうか?あのTWISTで有名になったチャビー・チェッカーのレコードジャケットにもこういうのがあったような気がする。

・・・と思ったら、自宅のコレクションに在った。これは出張後に買ったものだ。

この時の1日は残念ながら一人で行動だったので、自分の画像はないが、あのパット・ブーンが卒業したコロンビア大学迄行って見た。このコロンビア大学の一番大きな建物の大階段をバックに彼自身が写っているレコードジャケットがあるのでご覧頂こう。自分がコレクションしている彼のレコードの中でも一番古い1956年発売の貴重なLPだ。コレクターズアイテムで現在50ドルはする。
1956年リリースのパットブーン、Dotレーベル最初のLPアルバム。

 このニューヨーク出張で知った、あるいは学んだ幾つかの事柄。
 世界のニューヨーク5番街で買い物をした場合、手に一杯のブランド品の紙袋・紙包みを持ってホテルに戻るのは初心者の過ごし方らしい。勿論筆者は高級ブランド品になどまるで興味は無く、せいぜい米国オリジナル盤の中古レコードくらいしか購入しないのであまり意味は無いが、ブランド品を沢山購入する若林ヘッドはいつも手ぶらでホテルに戻るのだった。

 日本直送かと思いきや、ホテル名と部屋ナンバーを教えて持ってこさせるのだった。此処で教わったのはルイ・ビトンやグッチ等の人気有名ブランドの旅行バッグを2つも3つも抱えて旅行する日本女性がいるらしいが、ニューヨークなどだとホテルのドアボーイに「貴女のご主人様はどちらですか?」と訊かれると言う。向うの金持ちは自分で荷物等運ばないのが当たり前。これ見よがしに高級ブランド品のバッグを沢山抱えて歩くと、荷物運びの召使いだと思われると言う、此れは決して作り話ではなくまともな話。

 それ以外にも、英語がまだ全然出来なかった(決して今は充分出来ると言う訳ではない)だった筆者は、ハンティング・ワールドやティファニーで店員が「グッドイーブニング、ジャーマン?」とドアを開けてくれるのが不思議だった。で、何故ジャーマン、つまりドイツ人に見られるのだろうか?と若林ヘッドに訊いたら「バカッ!あれはジャーマンじゃなくって、ジェントルメン!と言っているんだ、お前もう少し英語やら無いと入社取り消すぞ?」と言われてしまった、トホホ。

 2泊3日のニューヨークを後にして、JFKではないラガーディア空港からナッシュビルへ飛んだのはアメリカに入って5日が経った頃だった。ナッシュビルでは若林ヘッドはでかいアメ車のレンタカーを借りた。いつものドライブのように平気でフリーウェイを飛ばす所を視ると相当慣れているなという感じだった。こちらは空港からダウンタウンに至る街道筋のビルが殆どレンガで出来ていて、其のビルの建物に大きくペンキで会社名や電話番号が描かれているのが珍しくかぶり付きで見入っていた。
今残っているかどうか判らないが、1975年頃はアメリカ中西部にこのようなビルの外壁にやたら社名をペンキで書きたくったビルが沢山存在した。極めてアメリカらしい佇まいだった。

 ナッシュビルと言う町の名は随分前から雑誌メンズクラブのC&W特集等で散々見て知っていた。此れはメンズクラブと言う雑誌の編集部の好みなのだろうか、何故かカントリー&ウエスタンミュージック、特にナッシュビルでのグランド・オル・オープリーを高く評価し掲載する事が多かった。今と違って月刊誌だろうが週刊誌だろうが「雑誌」と言う媒体の影響力は非常に大きなものがあった時代だったのだろう。

 このナッシュビルでは、到着した其の日にいきなりCMA(Country Music Association)本部へ連れて行かれた。此処は全米のC&Wソングの元締めで、施設の中には録音スタジオもあり訪問時も誰かが録音を行っていたが、其の録音室を見て腰を抜かしそうになった。何と録音スタジオには藁が敷かれ牧草の塊が5~6個転がっているのだった。其の中で楽器を抱えたスタジオミュージシャン数名が一生懸命演奏していた。
 この時たまたまCMAに来ていた有名なジョージ・モーガンに出逢えて若林ヘッドはもう大変な興奮だった。しかし筆者はそれほどC&Wソングに詳しくないので一緒に写真には写ってみたものの若林ヘッドほどの感激は無かった。
左から筆者、George Morgan、若林ヘッド。1975年5月7日。

 しかし、なんと記念撮影した2ヵ月後この著名な歌手はこの世を去ってしまったと言う。隣にはC&Wの殿堂C&W Hall of Fameが建っていて数々のC&Wソングの歴史や著名な歌手、貴重な品々が展示されていた。ジョージ・モーガンは我々と記念撮影をした直ぐ後此処の住人になってしまった訳だ。
地元のローカル・レーベルから出ているジョージ・モーガンのLP

 しかし此処ナッシュビルの記憶はそれだけではなかった。この後人生を変えるほどの買い物が出来たし、憧れのオールディズ歌手の生唄を聴く事ができたのだ。買い物はコレクターズアイテムのオールディズジャンルの米国原盤レコード200枚(未開封)。オールディズ歌手はスキーター・デイビス。この後ラスベガスでオリビア・ニュートン・ジョンのステージも観られたが、何と人気絶好調の彼女は前座だったのだ。色々学んだアメリカのエンターテイナーの世界。アメリカ出張の旅はまだまだ序の口だったのだ。この話は2週間後にアップする予定。

 次週末は奥日光戦場ヶ原の演習林に研究合宿に行く為、「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」はお休みを頂く。