2019年11月23日土曜日

団塊世代の世相分析・愚痴コラム、2019年11月23日 VOL.7.  Baby boom generation's social analysis, grumble column, VOL.7.

 ’70年代、日本の文化風俗を牽引したあの渋谷パルコがリニューアル・オープンした!2日前からのメディア・関係者用のプレ・オープンの招待状も頂いていたが、一般の人たちの反応なども取材したいので、昨日の一般消費者開店日の午後行ってみた。

 朝から今年最低気温の氷雨降る中、渋谷駅前のスクランブル交差点は色とりどりの雨傘で一杯だった。香港の学生デモが黒い傘で埋め尽くされているのと比較すると、平和でノーテンキな日本で良かったと思わずにはいれられない。
すっかり風景の変わった渋谷駅前スクランブル交差点は氷雨に煙っていた。

 数年前、この渋谷パルコが閉店⇒解体へ進む直前、見納めとばかりにレポートしたが、あれから3年強経過しREBORN(=リボーン/生まれ変わる)となった訳だ。
 団塊世代の皆さんはもう頭に刷り込まれているだろう、「馬の耳に念仏」だろうが今の若者達には1970年代に渋谷パルコが果たした日本の若者文化風俗への多大な影響を理解できないだろう。
トリップバイザーのサイトより昔の渋谷パルコ

 で、その新しいパルコへ雨の渋谷駅前を抜けてNHK放送センターへ抜ける有名な公園通りを上っていくと、あの’70年代期待に胸をときめかせながら見上げた渋谷パルコが見えてきた。で、「ん?ちょっと待てよ?何が変わったんだ?」と思わざるを得ない外観・ファサードなのでちょっと拍子抜けしてしまった。

’70~’80年年代のイメージをどうしても思い出させてしまう外観が気になった。

公園通りの反対側からの俯瞰

 元々、中へ入る入口が決して開放的ではなく、順回路方式の迷路に近いレイアウトになっていたので、大手の老舗百貨店(三越・高島屋・伊勢丹・東急・西武・小田急・京王など)とは違う導線方式だったのだが、今回のニュー渋谷パルコも同じような感じだった。

 この1973年開店の渋谷パルコの3年前、1970年に京都にBALというファッションビルが出来た。これは1973年に制定される「大規模小売店舗法」を見越しての新しい集合小売店のビル形式スタイルの先駆けだった。筆者が青山のヴァン ヂャケット宣伝部に入社した1973年はまさに渋谷パルコがオープンした年だし、京都のBALへ幾度も出張で視察に行き、渋谷パルコとの「いろいろな違い=差」を調査したことを覚えている。

 外観、サイン関係、客導線、店舗内装、ディスプレイ、広告スペース、飲食店舗の種類、トイレの数など・・。当時は京都BALがずいぶん先を行っているような感じだった。

 まだ、原宿の表参道は商業化されておらず静かなもので、竹下通りなどは国鉄原宿駅竹下口への住宅街における抜け道だった頃だ。

 しかしいずれにせよ、当時の渋谷パルコのいろいろな意味での演出陣は、当時30歳代~40歳代の若きクリエーターの熱き思いが反映されていたはずだ。あの石岡瑛子さんだって渋谷パルコ開店時は35才だもの・・。この筆者もまだ25歳だ。その年代が中心で演出し、魅かれて出入りし消費した人々も20歳代30歳代だったのだ。このあたりの感性の一致が新しい日本の文化風俗、広告宣伝界の先鋭的な部分を引っ張っていたのだろう。
 当時のパルコの宣伝で一番のお気に入り、チャックベリーのダックウォーク・ポスター。これは今でも大切に取ってある。VAN宣伝部で散々お世話になった下村紀夫さんのコピー。彼とは共にオールデーズレコードコレクターとして仕事抜きのお付き合いだった。

 当時の渋谷にあっても、消費者動向、行動動線を調査するより渋谷パルコ自らが引っ張っていくだけのパワーがあった。影響力は非常に強かった。1978年にVANが倒産し、社員が散りじりバラバラになった後、VANの宣伝部下村紀夫さんと意匠室長の渡邊かをるさんなどが「パルコのアドワーク」という本を出したが、それでもまだ彼らは30歳代だった。

 それが、昨日訪れた再生渋谷パルコは何かずいぶん物足りない、期待外れのリボーンだったような気がする。これは筆者が団塊世代70歳の爺で、あの’70~’80年代の渋谷パルコの残像を背負っているから、どうしてもそれと比較してしまうからだろうとは思うが・・・。勿論、今の若者消費者たちは、まったく新しい「商業施設」としての渋谷パルコを見るだろうからそういうマイナスな感じは持たないだろう。
エレベーターホールは、ここまで昔のパルコイメージに浸らせたいのか?と思う程。なんだか、あの映画「Back to the Future Ⅱ」を見た時の期待外れ感に似ていた。

 当時、公園通りを上っていくときの渋谷パルコへの期待からくるワクワク感、「何か新しいモノ、生情報、生イベント」に出遭えるんじゃないだろうか?という、今で言うサプライズ感を満足させてくれた「何か」が昨日の其処には無かった。

 どうやら、その辺りは今回の新生渋谷パルコの企画推進を行った総合プロデューサーやプランナー、デザイナーさんたちが割に年寄りで、’70年代のパルコの影響力やその良さを知っていて、それを引きずりながら「関わってしまった」から、のような気がする。これはあくまで筆者個人の推察だ。

 というのも、渋谷ヒカリエに始まった渋谷駅周辺の大変貌に伴い氾濫する商業施設に対して渋谷パルコの立ち位置、消費者からの期待、を充分に分析した結果がこれなのだろうか?これで良いのだろうか?と数年先を見据えて少し心配になった、筆者の取り越し苦労なのだ。しばらく定期的に通って、人の様子を視つつ再度レポートしてみたい。

 いずれにせよ、ターミナル駅渋谷を通過するついでに「消費行動」を起こすターゲット目当てがほとんどの駅周辺商業施設ととは違って、最新の文化、アート、デザインの情報センターとしての渋谷パルコを演出できるメンバーでの経営・運営がなされねば、3年と持たずに元の木阿弥になってしまいかねない危うさが感じられたが、如何だろう?


あの懐かしの糸井重里氏の主宰する「ほぼ日」のスペースも・・。

 我が娘も1975年生まれだから、パルコ全盛時代の’70~’80年代は小中学生でパルコ文化の洗礼は受けていない。しかしその我が娘がこの新・渋谷パルコに出展しているある主要テナントに関わって、オープン日までの数週間、早出、遅帰りで相当な苦労をして日々準備を重ねていた。
 オープン日、その関係するスペースを訪れ労をねぎらったが、なんとも奇遇な運命を感じざるを得なかった。