この山中湖の夏の夜は長かったが、そろそろ東の空が白む午前3時には皆寝に入った。我々が翌朝起きた頃には既に石津社長は東京に向かって発った後だった。しかし、生涯二度とない貴重な時間として今でも鮮明に記憶している。
これから暫くは山中湖のような特殊な場ではなく、ヴァン ヂャケット本社内での色々なエピソードを幾つか上げていこうと思う。青山三丁目の角、ヴァン ヂャケット本館の3階から7階に販売促進が引越しした後は6階社長室や宣伝部の部屋とは非常に近くなり、今まで以上に同じ7階にあった意匠室への出入りは頻繁になった。
この7階に上がった時、まだ隣に鈴屋ベルコモンズは出来ておらず、空き地になっていた。3階からでは出来なかった遊びに紙飛行機を飛ばして鈴屋ベルコモンズ予定地の空き地まで飛ばそうと競争したことがある。それぞれが思い思いの形の紙飛行機を造って飛ばすわけだ。
7階の販促部の部屋から掛け声をかけながら一人ひとり道路の向こうまで届けとばかりに紙飛行機を飛ばしたのだが・・・・、外苑西通り、いわゆるキラー通りは意外に広かった。
一番効率の良い紙飛行機ですら向こう側の歩道にすら届かない有様だった。そのうち赤い回転灯を回したパトカーが1階の喫茶店アゼリアの前に停まった。窓から身を乗り出して下の様子を覗いていた池田裕氏が一言「やべ、上視てんぞ。」この一言で全員雲の子を散らすように部屋から出て行くのだった。近所の誰か(まさか我社員じゃないとは思うが)が通報したと見えて、様子を見に来たらしかった。その時は何処からも何事もお咎めはなかったが、もし部屋に軽部CAPや若林ヘッドが居たら只ではすまなかったろうと思う。いや先頭に立ってやっていたか?
青山3丁目のもう一つのランドマークだったが取り壊される。
紙飛行機は色々なタイプがある。
しかし、この本館7階での時期は非常に短く、販売促進部が大きくなりSP課、つまりセールスプロモーション課とSD課=スペースデザイン課に分かれる事になりスペースが手狭に成った結果、356別館の中二階の広々とした部屋に引っ越す事に成った。此処でのエピソードは数限りない。
最初のエピソード、ある雨の日10月も末の頃だったろうか、雨にも拘わらず殆ど部員は出払っていたが軽部キャップ他デスクの女子含めて数名が部屋で仕事をしていた。読書家の軽部さんは何か難しい読み物をしていたか、ブレーンのような広告宣伝関係の雑誌を調べていたのだと思う。隣のブロックに来て居た関連会社ラングラーの顔見知りのZ氏が新聞を広げて読んでいた。この時のやり取りは忘れようにも忘れられない。
その顔見知りZ氏が新聞の見出し「今年の稲作は空前の大豊作」を読んでこう言った。「ほう?今年はクウマエの大豊作・・・か。」
外の雨音も聴こえない静かな室内に一瞬の間が空いて、軽部さんが小さくつぶやいた。「馬鹿が、ウケようと思って・・・。」と、その次の瞬間だった。新聞をバサッと閉じる音がすると同時にZ氏の「何が・・?」と言う声が少し大きく聴こえた。
それを聞いたこちらの回りの3人が思わず同時に「ひぇーっ?」と腰を上げてしまった。「Zさん、それを言うならクウゼンでしょうが?」と言ったらZ氏本気で怒り始めてしまった。「クウゼン?何だそれは、クウマエだろう?どこが可笑しい?」と眼が据わっていた。
其処で、誰かが厚い広辞苑を開いて「空前」のページを開いてZ氏に見せた所、彼曰く「えーッ?本当だ!いつ変ったんだろ?」
昔の新聞には「空前の~」という表現が多用されていた。
またまた或る時再びこのZ氏の話だが、これは人から聞いた話。人は他人の言葉にどこまで惑わされるかと言う実験に近かったらしい。これは現場に居たわけではないのでその醍醐味は直接感じられた訳ではないが、相当なものだったろうと思う。その中味はこうだ。朝出社した時、最初にZ氏に出会った誰かがこう言うのだ。「どうしたのZさん?調子悪いんだね、顔色真っ青だよ?」本人は至って元気で問題ないので「えー?そんな事無いよ、絶好調だよ!」と言ったものの内心少し気にする。で、次に出逢った社員(勿論最初の人と示し合わせている)もこういう、「どうしたの?徹夜?凄くやつれているよ、帰ったら?」これで本人は完全に動揺する。最後のとどめは示し合わせた3人目がこう言う、「Zさん?どうしたの顔色真っ青だよ?無理しないで・・・・誰か呼ぶかい?」
連続して関係ない(本人はそう思っている)別々の3人に別々の場所で「顔色がおかしい」と言われると本当にそうなのかと思い始めてしまうらしい。結局Z氏は一旦出社したものの、気になったのだろうか、気分が優れないと言ってその日の午後本当に早退してしまったそうだ。ちょっと残酷な話ではある。
こんな事もある。ある時ミニ・ボーイズ営業の仲の良い同期がデスクから余り動かない、外回りにも行こうとしない。で、何でか訊いたら今日は同じ柄・同じ色のジャケットを着ている先輩が2人も居るから嫌だと言う。出会うと後輩の自分がジャケットを脱がなければいけないので、仕事にならないという。ヴァン
ヂャケットの社内で全員が何らかの限られたヴァン ヂャケット製品のどれかを着ているのだから、鉢合わせくらいは在って当たり前だろう。しかしこういうことはアパレル業界では日常茶飯事かもしれない。