ご存知の通りヴァン ヂャケットはいわゆるファッションメーカーだ。基本的なアイビー・トラッド路線の定番商品と言われる商品群に加え、その時々の流行の服を色々なブランドから演出・創造し販売するのが大まかなビジネススタイルだった。販売ルートは当時の家電製品や本等とは異なり、問屋を介さないメーカーから小売店への直販スタイルをとっていた。
販売スタイルは全国に数百店舗ある小売店においては基本的に商品買い取りが原則、百貨店等は委託販売が主流でそれぞれ掛け率(下代)が異なっていた。圧倒的に利益率が良いのは小売店で、百貨店等は掛け率も高く(=利幅が少ない)、その上返品等は当然のごとく行われていたし、売れ筋商品の欠品は絶対に許されなかった。もちろん自社ブランドの売り場面積確保の為、優秀な販売員を派遣しなければならず、なかなか思うような利益を上げるのは難しいとされていた。売り上げ上位の百貨店にはヴァン ヂャケット最強の優秀販売員が配属され、噂では引き抜き勧誘等も日常茶飯事だったと言う。一方で百貨店はそれぞれ百貨店同士の競争の中で大売出しやバーゲンなど独自の催事を開催する為、出入り業者に対して協賛金を強要するのが常識だった。ヴァン ヂャケットを含めて商品を納品する側のメーカーとしてはこの百貨店対策が常に悩みの種だった。
売り上げ利益と、その利益を得る為に必要な経費を清算してみれば、殆どトントンもしくは赤字と言うのが実状で、メーカーにとっての百貨店の店頭はショーウインドウのような役割に徹さざるを得なかったと言う人も居る程だ。実利はやはり専門店に限ると言うのだが、これは一概にそうとは言えないような気もする。趣味性の強いセミプロクラスのお友達のような顧客にだけターゲットを絞っていれば、ヴァン
ヂャケットという会社があそこまで世の中に強い影響を与えられる企業になったかどうか判らない。
ヴァン ヂャケッとは卸・問屋を通さないファッション・ビジネススタイルだった。
そのような背景の中で、ビジネスには欠かせない「モノを造って売る」という原則を具体的にする場としてのBtoC、つまり販売店からエンドユーザー(消費者)への「販売店・売場フロア」以外に、一般の消費者の眼には入らない舞台裏でBtoB(=業界内での販売)つまりヴァン
ヂャケットから流通業界販売店(専門店・百貨店など)への販売ビジネスの場があった。そうしてその業界内での販売行為には事前の品定めの場として毎シーズンごとのお約束「内見会」というものがあった。これは年に二回、春夏商品・秋冬商品が存在し、各シーズン頭の半年以上前に行われるのが常だった。
婦人者など、世の中の流行の影響をもろに受けるジャンルであれば、その流行がどう転ぶかによって造る側(メーカー)および消費者に売るお店側・共に大変なリスクを負う事になる。しかし、VANやKentのようなトラディッショナル、つまり余り流行に影響されずに質実剛健で不変的なスタイルを売りにしているヴァン
ヂャケット社は当初そこまで大きなリスクを負わずに堅実な伸びを示していたようだ。但しそれはヴァン ヂャケットが企業としてまだオンワード樫山やレナウンのような規模になっていない時期だったからだろうと思う。
百貨店のVANコーナー 売り場のジャンルにヤングマン・コーナーと言う名が出来た頃。
1970年代に入り、団塊世代の大人数をターゲットにするようになると、マーケティング・リサーチを行い、外れの少ない商品設定、売れ残りの少ない生産数を如何にキープするかがファッション企業としての利益向上に重要なポイントとして注目を集め始めていた・・・・って繊維業界のレポートのようになってしまったが、これ以上は突っ込んで書かない。要は勘や今までの得意先の好き嫌いなどの要望にのみ従ってモノ造りをしていたのでは、「的を外す」恐れが出てきたと言いたいのだ。この辺りから、ヴァン
ヂャケット社内でも早くからマーケティング・リサーチの必要性を主張し続けてきた軽部キャップを中心とした販売促進部の役割が大きくクローズアップしてくる事になる。
それが証拠に、販売促進部が356別館の中二階へ引っ越す頃、部の名称がいつの間にかマーケッティング部という呼び名に代わる時が来るのだった。同時に内見会のあり方も、今までのような揉み手をして担当営業部員が綺麗に展示・ディスプレイされた商品を見せて、個々のセールストークで販売店の注文を取っていく方法から、全社的に1つの指針に基づいて主力商品を確実に注文させる方法へ量的拡大の時代を迎える事になった。
これは何を意味するかというと、内見会展示演出の一番重要なポイントがブランドごとにその特徴をディスプレイ演出で行い得意先をその気にする時代から、「何故、ヴァン
ヂャケットは来季この商品をお勧めするか?」の説得プレゼンテーションで商売することに転換した重要なエポック的・タイミングだったのだ。それが1974年頃。
新入社員で入ったばかりの頃、まだ大掛かりなディスプレイ・演出で商売をしていた最後の大きな内見会は当時の国会議事堂傍の東京ヒルトンホテル真珠の間を借り切って行われた。紅真珠・白真珠をぶち抜いて会場内を回遊方式で全ブランドの演出展示を見て回れるように演出をした。全国の地方から来場した専門店等の方々は会場の東京ヒルトンホテルに泊まり、夜の赤坂で担当営業の歓待を受けたに違いない。出張費は全てヴァン
ヂャケットが持ったのかもしれない。こういう事を出来たのも、ヴァン ヂャケットが右肩上がりで売り上げ増、利益増が進んだ最盛期‘70年代前半の蓄えがあったからだろうと思われる。
あのビートルズが泊まった東京ヒルトンホテル、(1984年以降東急キャピタルホテル)
東京ヒルトンホテルの宴会場「真珠の間」の豪華な真珠のシャンデリヤ。
新しいブランドのスタート、お披露目・プレスパーティ等を赤坂の高級レストランシアター=コルドン・ブルー等で行ったのもこの頃だった。
個人的に云えば、1966年高校3年生の時に下級生女子を誘って武道館に観に行ったザ・ビートルズが宿泊したあの東京ヒルトンホテルで仕事が出来る!ザ・ビートルズが記者会見をした真珠の間とプレス控え室だった銀の間も仕事の場に出来るというので感無量の大仕事だった。あの尊敬する浅井慎平さんが来日中のビートルズの公式カメラマンだったと言う有名な話の場に自分が居られると言う事だけで、改めてヴァン
ヂャケットに入社出来て良かったと思った。
ザ・ビートルズの来日記者会見は東京ヒルトンホテル真珠の間で行われた。
この時の内見会はカナダからログハウスを持ち込んで、真珠の間に組み立ててしまうというような大胆な演出を石津謙介社長指導の下、販促部SD課の池田CAPが発案し、見事に実現した意味でも大きな話題を呼んだ。ヒルトンホテル側が良く許可したと思うほどだった。此処での記憶としてはまだ色々覚えているが、本番数日前からの昼夜兼行で施工、商品ディスプレイ、その他を進めた結果、本番前日の夜は販促部員全員が完全にグロッキーに成ってしまった。その結果どういう事態になったかというと、各ブランドの壁際の床に各ブース担当の販促部員が作業中の姿勢のまま寝てしまっていたのだ。
コンセントにキャップを取り付けようとドライバーと木ねじを握ったまま床でいびきをかいている者、丸太のログハウスの中でマネキン人形を抱きながら寝込んでいる者。ホテルが用意した折りたたみのベッドに一旦は寝たものの広い真珠の間の天井が高すぎて落ち着かず、壁際にピッタリとベッドを付けて白布を丸ごと上から被って天井が見えないようにして寝ている者まで、色々だった。しかし仮眠も3時間出来れば良い方で、直ぐに続きを始めなければ成らなかった。
こうして翌朝、内見会が始まって、営業部員達の晴れやかな笑顔を見てホッとしたあの瞬間と感動は今でも忘れられない。