2014年7月19日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #52.」 実録高校・学校生活 その8.修学旅行は新幹線デッキで2時間立ち話から始まった。

2年生の時の文化祭はこうして成功裏に終了したのだが、3年生の時もバンドをやる羽目になってしまった。これは他のクラスの音楽好き2名が1年前の我々の成功を観て、是非自分達もやりたいので一緒に頼むと、半ば強引に参加させられたのだった。

2年生の時の主力メンバー宮田君も二つ返事で参加してくれたが、やはり同じクラスメートだけのバンドの団結力とはちょっと違う感じで、混成バンドは最初か最後まで全てがバラバラだった。

本番のステージの上では、メンバー同士ブツブツ言いながら、半ば喧嘩状態で演奏をするという羽目に陥ってしまった。
とても憧れのビートルズになった気分ではなく、テレビで良く見るドンキー・カルテットの様な感じになってしまった。一応拍手は貰ったものの、嘲笑が加わっているのも否めず、ステージが終わっても無言で各自バラバラに帰ってしまい、反省会など全然開かなかった。もちろんその後も二度と一緒に演奏することは無かった。

だから、今回ブラジルのサッカー・ワールドカップで、ザック・ジャパンが2敗1引き分けで1次リーグ敗退が決まり、ザック・ジャパンの主要メンバーが失意の中現地解散して、バラバラになったのを観た時に、あの時の事を思いだし、選手たちの気持ちがとてもよく理解できた。
 ドンキー・カルテット 猪熊虎五郎、小野ヤスシ、ジャイアント吉田、祝勝 個性軍団だった。2014年の今、このバンドが現役だったら相当に受けただろうと思う。残念。

こうしてキャンプファイヤーの炎と、もう一つ別の炎で皆が頬を紅潮させながら、高校生の一大イベントは幕を閉じたのだった。しかし、さー、これでいよいよ受験戦争へ向かって気合を入れ直して突っ走るぞー・・・という訳ではなかった。

もう、この1か月後には修学旅行という、もっと凄い高校学校生活最大のイベントが待ち構えているのだった。

修学旅行というくらいだから、卒業直前に行うのが本来の姿なのだろう。だけれど、あのベビーブーム世代・受験地獄の時代、一番重要なのは大学受験を含む卒業後の進路決定であり、それをうまく乗り切るためには、本来在るべき姿などドーデモ良いもんね?が、当時の「当たり前」だった。
だから広尾高校も修学旅行は2年生の秋に実施されていたのだった。

修学旅行の行先を誰がいつどうやって決めたか定かでは無かったが、生徒が知らないうちに自動的に決まっていたような気がする。その後しばらくして、クラスごとに投票で行き先・ルートなどを決める学校が何処かに在ると聞いて、非常に羨ましかったのを覚えている。

広尾高校15期の3泊夜行5日の修学旅行のルートはこうだった。

東京―名古屋―神戸―淡路島(洲本泊)-鳴門海峡―高松・(屋島泊)ー栗林公園―小豆島(望洋荘泊)-姫路城―京都―夜行列車で東京。

行きは東京駅から前年1964年に開業した新幹線で名古屋まで行き、名古屋から神戸までは、これもほぼ前年に全線開通した名神高速道路を高速バスで移動するという、いかにも時流に乗った社会見学を加味したルートだった。きっと旅行代理店の定番コースだったのだろう。
開業当時の東海道新幹線と富士山 Google画像

国鉄の名神高速バス Google画像

神戸のメリケン波止場から淡路島の洲本までは船で移動するのだ。今のように明石海峡を橋で越えるような事は出来なかった。

つまり、新幹線、高速バス、神戸港から連絡船!一通りの乗り物を網羅した修学旅行、乗り物好きは大喜びだったろう。
しかし我々はもうキャーキャー・ワーワー乗るだけで歓ぶ小中学生ではない、道中の景色などほとんど覚えていない。写真を視ても余程印象の深い所以外記憶がよみがえらないのだから、一体当時は何をしていたのだろう?
1965年当時の関西汽船・淡路島航路・山水丸 Google画像

まだ明石海峡大橋・鳴門大橋・高速道路が無い時代の淡路島 Google画像

しかし、新幹線だけは心躍った!1964年の2月頃高校受験前だったか、小田原・鴨宮の新幹線基地で招待乗車を体験した余韻を思いだしながら、試作車両と量産営業型車両がどのくらい違うのか是非見てみたかった。

車内のあちこちをチェックして、脳に刻み込もうと思っていた。九州の八代・太田郷小学校時代から鉄道ファン自認の筆者の事は覚えていて頂いているだろうか?その筋金入りの鉄道ファンが出来たての新幹線に乗ろうとしている訳だ、ウキウキしない訳がなかろう?
新幹線0型は21世紀までほぼ45年間走り続けた。小倉駅で2008年撮影した画像。

シッカリと時刻表を手に、東京駅に向かったのは出発当日集合時間の相当前だった。あまり悪戯をするので東中野の祖母の家から母もろとも追い出され、2年生の時父を単身赴任で八代に残したまま、我々母子は武蔵小金井の鈴木町の小さな一軒家に借家住まいだった。武蔵小金井発の中央線快速に座って、3泊+夜行帰り計4日の旅の間何をしようか夢一杯だった。

で、新幹線に乗りこみ座席表に従って一旦は座ったものの、東京駅を出て品川附近(当時はまだ新幹線に品川駅は無い)を通過する頃には、ほぼ全員もう好き勝手な席に入れ替わっていた。もちろん筆者は事前に調べて置いて、富士山が見える(はず)の2人掛けシート窓側に陣取ったのは言うまでもない。
東海道新幹線の座席は日本で初めて2列+3列の5列レイアウトだった。2列が富士山側。

気の合う仲間だけで固まって座り、これからの楽しい時を堪能しようとしたその時だった。「新庄君ちょっと?」通路のドアのデッキ側から顔を半分だけ出して、この私を呼ぶクラスメートの女子が居た。

話は少し遡らなければならない。

何がキッカケで、何が理由だったか全く覚えていないが、その私を呼んだクラスの女子とは例の文化祭の後、下駄箱通信ではない切手を貼った手紙を5~6度やり取りしていたのだった。どちらが先に出したのかはまるで覚えていない。筆者は昔から手紙を書くのは大の苦手で、「こんにちは、お元気ですか、僕は元気です・・・。」の後が続かないのだ。

相手に直接会って眼を見て話す方が圧倒的に早いし、結論もすぐに出る。今と違ってスマホやスカイプ、ラインなどの通信アプリ、勿論一番原始的と言われるガラ系の携帯電話すらない時代。
NTTやドコモはまだ影も形も無く電電公社の黒い電話、街中の赤やピンクの電話全盛時代。せっかちな自分ではあったが、電話をしても相手の親が出て「あんた誰?ウチの娘に何の用?」と訊かれるのが嫌で、なかなか電話はし難い時代だった。

したがって、当時高校生の男女の交信は下駄箱経由、もしくは郵政省経由の手紙しかなかったのだ。しかし残念ながら我々の手紙のやり取りは、決して映画やドラマに出てくる高校生のラブレターの様な色っぽい内容ではなかった。

数学の成績が良くないのならクラスのだれだれ君に相談してみれば如何?・・などという意外に生真面目な内容だった記憶がかすかにある。

こちらは2枚目の半分まで書くのが関の山だったが、相手からは倍以上の文量の封筒が来た。 イメージ画像

一方相手のクラスメート女子は非常に読書家で、大変文章が上手く字も綺麗だった。手紙の中味も理路整然として、量が多いものの、判りやすい内容だった。
「・・・なの?~はどう思うの?」と宿題の様な内容が多く、正直字も汚く日本語も不得手な筆者はきちんと返事を書くのが大変だった。
高校卒業後20年程経った40歳の前後、突然彼女からクラス会をやってほしいと手紙が来た時も、感心するほどしっかりとした内容で綺麗な字の手紙だった。

彼女は当時学年男子の間はおろか上級生の間でも1~2を争う程のマドンナで人気者だった。
一方こちらは朝の登校時・恵比寿駅で待ってくれている下級生女子と、時々下校時クラブ活動の後待ち合わせて渋谷方向に一緒に帰る相手が違う等という、軟派でいい加減な男子生徒だった。
果たしてそういう自分が色っぽい対象として彼女を観ていたのか、いなかったのか・・・。ソフトバンクの白い犬がお父さんに成っている最初のTVコマーシャルじゃないが「お前にはまだ早い!」とばかり、学年でトップの人気者を相手に、競合だらけの戦線に参加しようと思わなかったのか、一番肝心な部分は忘却の彼方・・・非常に残念だが記憶が無い。

で、揺れる新幹線車内に話を戻そう。

内心、せっかく新幹線に座っていろいろチェックしようと思ったのに・・・・と手招きに応じて、客室の外のドア通路デッキに行ってみると、彼女だけが一人居て長い立ち話が始まったようだ。当事者のクセに、「ようだ」というのは40年経って再会した時も、その事に話が及ぶとお互い全然話の内容に記憶が無いのだ。
ただこちらも相手も、その場面・情景だけを覚えているのだが、会話の内容の記憶がない。高校時代・青春時代というのはそう云うモノなのだろうか?
当初の東海道新幹線0系は客室からすぐのデッキには何もなかった。まるで冷蔵庫の中。

信じられない話だろうが、結局丸子多摩川の鉄橋を渡る辺りから、下車駅の名古屋まで、とうとう二人は客室の外に立ったまま、一度も自分の席に戻らず、揺れるデッキで2時間以上話し続けたのだ。

当時の新幹線は東京―名古屋間ノンストップの「ひかり号」でも2時間30分掛かっていた。新幹線のデッキで2時間以上クラスの男女が二人きりで話を続けているのだから、野次馬達の興味を引かない訳がない。クラスの男子が怪しげに顔をのぞかせて3度ほどチェックしたが、相手の彼女がその都度きつく「あっちへお行き!」と退けたのを覚えているのみだった。
当時は東京ー名古屋間ノンストップの「ひかり」でも2時間29分掛かっていた。

こうして、出だしからハプニング、修学旅行はまったく予期せぬ展開でスタートしたのだった。