2021年10月24日日曜日

団塊世代の音楽との付き合いはもう60年以上経つのだ。 It's been more than 60 years since baby boomers been associated with music.

  昨日は今年の「ショパン国際ピアノコンクール2021」で日本人ピアニストが上位入賞した件の話からの音楽話だった。

 さすが野鳥のサイトだけあって皆さん興味がまるで無い様だ、アクセス数で興味のある無しが一発で判る。しかし週末は野鳥ファンは皆さんフィールドに出るだろうから他人のブログなど観ないと思い、毎回団塊爺の愚痴話と決めているのだ。特に昨日のようなピーカンで温暖な日にはフィールドに出ない方がおかしい。

 で、今日は昨日の続き。

 此処からは、団塊世代が育ってきた音楽シーンに関する筆者の見解と回顧録。あくまで筆者の持論。他にも色々な想い出や考え方があって良いし、もちろん否定するものではない。    

 …という事で、今日の話は団塊世代以外の世代には知らない事の方が多いかもしれない。

 突然だが、筆者はオリンピックの際のスポーツ評論、サッカーワールドカップの際のサッカー評論、ラグビー同様、テニス同様、普段それを少しもやりもしない、出来もしない人が物知り、通ぶってその時々で盛り上がる話題に関して自慢げに評論する事が大嫌いだ。

 これは応援とか、感動とかとは別の次元の話だ。

 例えばスキージャンプでこの手の通ぶった評論はあまり聞かない。当たり前だ、スキージャンプ跳べる人は日本に何人も居ない。アルペンスキーだってスノボだって1970年代から半減したにしても、やる人は多くても競技人口はさほど多くない。

 やはり評論はその対象を体験したことがあったり、相当実際に詳しい者が評論すべきではないだろうか?特にSNSがこれだけ広まれば、氏素性を明らかにせず無責任に一方的に断定口調で評論を述べるのは美しくないと思うが・・。いくら言論は自由だと言ってもだ。


 繰り返しになるが、その評論対象を自分で出来るか出来ないか、やった事があるかないかで評論は全然違うはずだ。単に好き嫌いを言うのとは訳が違う。

 映画を造った事もない人が映画監督の出来不出来、良い悪いの評論をする、相撲を取った事もない人が大相撲を評論する。美術系の教育機関で学びもしないで、あるいは自分で絵も描かない人が絵の評論をする。好き嫌いと評論は違うと思う。

 カメラを持ってあちこち徘徊して、写真も撮らない人が写真の評論をする。筆者はこれが昔から嫌いなのだ。

 好き嫌いはもちろん自由に言って良いと思う、好き嫌いはその本人の主観での好みを言うだけだから、料理の好き嫌いと大差ない。少々理屈っぽいか?

 此処で昨日の続きの音楽の話になる。団塊世代の音楽シーンが如何に幅広かったかの話だ。高度成長下の日本にあって、音楽シーンはソフトも激変に激変を重ね、ハード面も楽器・再生機面でデジタルが入って来たりでもの凄い変革を遂げた時代だった。

 ここで、日本の音楽全体を論ずるほど知識も経験もないので、一般的なこの頃の団塊爺としての経験値をベースに語ってみたい。

もはやダミ声すらも出ないので50歳過ぎてのバンド開始はインストルメンタル専門、ベンチャーズバンドだった。2003年頃の話。

10日に一度集まってが基本だった。わざわざ御茶ノ水のモズライト専門店でベンチャーズモデルを買った。やるなら徹底するのが筆者の性分、しかし買った店は既にもう無い。

団塊世代メンバーは老眼で目も悪くなっているので、The Rogansという名前だった。

 こうした中、世の中の音楽はアニメのBGM含めて猫も杓子もコンピュータを使った楽曲がいつの間にか幅を利かせ始めている。しかし、これをデジタルの隆盛だのアナログの衰退だの言うのは少し違うと思う。

 1970年初頭E.L.P.やPink Froydなど,更には1970年代後半E.L.Oなどプログレッシブ・ロック(E.L.Oをこのジャンルに入れているかはよくわからないが)がデジタル効果音で作曲していた頃ベース(基本の意)はあくまでアナログだった。再生もレコードかテープのみだった。

 カセットからPCM録音のCDに替わり、それがデジタル・データダイレクト再生、スマホ再生になりつつある。再生機器もSONYウオークマンが凄いと言ったのは、ほんの15年の間で、長くは持たず携帯型CDプレーヤーからデータ再生のiTune/iPodへ急速に変化した。しかし聴いていたのはあくまでアナログ発想の楽曲だった。

 本来デジタルとアナログは音響・録音・再生の技術手法。そのジャンルでのアナログ・デジタルがそもそも基本で、生のアコースティック楽器が全てアナログで、電子楽器以降がすべてデジタルという訳ではない。

 作曲方法にしても、人間の嗜好や映像の背景に使用する際、その映像にふさわしい旋律その他をAIまかせで最大公約数的に生み出される楽曲がデジタルで、生身の人間がその頭の中で思い付いた旋律・和音その他の音楽要素で創り出し音符化したものがアナログと決めつけられるものではないと思う。

 あくまでアナログとデジタルの差は「道具的・技術的・保存・再生的」なもので、音楽的なモノの発想がアナログだったりデジタルだったり・・・では無いと思う。

 1998年、シェールが歌う声をデジタル処理(Auto-Tune)して一部を機械的な音声に替えた曲(Believe)がセンセーショナル大ヒットした。その後皆が真似して雨後のタケノコ状態になったが、元はあくまで人間発想のアナログ楽曲だ。

https://www.youtube.com/watch?v=nZXRV4MezEw&t=3s

 これが、どんどんデジタル・エフェクトが発達し、アナログ音声をデジタル処理する面白さだけではなく、ゲームソフトの背景音楽などをデジタルの究極AIが楽曲を造るに至り、音楽界はカオス状態になった感もないではない。

 例えばゲームの音楽を昔のイージーリスニングのようにストリングスで演奏して、我々団塊世代が心地よく癒されるだろうか?

 1960年代、あの音楽シーンが2~3年ごとに目まぐるしく変化した時代と共に育った我々団塊世代はAIによる楽曲やラップは「性に合わない別物」なのだ。勿論個人差はあるからそれが良いという人も居よう、否定はしない。

 1980年頃から流行ったハリウッドの映画「スターウォーズ」「スーパーマン」その他の音楽を聴いてごらん?皆同じに聴こえてしまうから。真似するのは勝手、でも我々はその類が無くても平和に心豊かに生きていける。これからその時代の話をしよう。

 団塊世代が中学生だった頃、1960~3年、全米ヒットパレードは個人歌手の時代だった。DOO-WAPと呼ばれた黒人グループは存在していてRythm&Blues(後のSoul Music)というジャンルがあったが、まだBeachboysやBeatlesはメジャーになる前だった。
 二人組のThe Everly BrothersやJan & Deanがやっと出て来る頃。今の団塊世代の頭の中はこれらが擦り込まれているのは間違いない。和製ポップスの湘南サウンド、大瀧詠一、加山雄三、荒井由実(松任谷由実)などの殆んどはこれらの音源のソースを一部バクって作曲している。Youtubeにいくらでもそういったパクリサイトがあるから暇な時に聴いて見ると面白い。

 余談だが、VAN卒業(倒産による)後、画面右の同期同僚、プロデュースの天才横田哲男氏演出で原宿ラフォーレにおけるユーミンのクリスマスパーティ。赤白のスタジャンが筆者、隣ユーミン。60年代アナログポップス全盛の頃の風景だ。この時、あの靴墨塗ったシャネルズ、バックに「ルージュの伝言」歌うユーミンの姿がまだ頭に残っている。全盛期だったろうな。


 それが、1963年暮れに英国からThe Beatlesなる4人組が出現して、世の中が大変革を遂げる。「楽器を演奏しながらグループでハモって歌を歌う」。
 この衝撃はその今までになかった曲と共にものすごいパンチを音楽シーンにもたらした。

 Beatlesの「I want to hold your hand=抱きしめたい」の演奏だけを聴いてみるとそのすごさが余計よく判ろう。演奏があくまでボーカルの為の背景なのだ。しかしジョンのリズムギターによる人間集団の足音のようなサウンドは凄いとしか言えない。ボーカルとインストルメンタルが完全なパートに成って別れているモノの、合わせる事で今までには無かった「音=サウンド」に成る…これが凄かった。5人目のbeatlesと言われたサー・ジョージ・マーチン氏の存在が大きかったのだろう。Beatlesの面々も楽譜は読めなかったのだ。

当時の日本駐留軍放送FENではこれを1時間ぶっ通しで掛けたという。

 1963年~1966年頃は英国初のリバプールサウンド(和製英語)が世界を覆った。これに乗り遅れた団塊世代の次の世代以降は、音楽に対する感覚や好き嫌いが全然違うのが判る。

 なにも新しいものが良いとは限らない典型が音楽の世界のような気がする。洋楽ポップスシーンでビルボードやキャッシュボックスの全米ランキングヒット曲が話題にならなくなってどれくらい経つだろう?