2014年1月4日土曜日

団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #3. 八代の常識は転校生には驚きの連続で・・・・。My private history Vol-3. The relationships of Me and Kumamoto Pref.

 
 八代二中に上がる前、太田郷小学校に転校した日から二週間は授業だけでは帰れず、盆踊りのようなマスゲーム踊りの練習に明け暮れた。戦後初の熊本国体の開催準備がその理由だった。土曜日だったか日曜日には野上と言われていたエリアに在った野球場に合同練習に行ったのを覚えている。

 この野上という場所は今の八代市の中央通り3号線の南側のエリアだと思われる。当時の小学生たちにとっては有名で、アベックが人目を忍んでしけ込む場所で「いやらしいエリア」という認識だった。本当かどうかは知らないがクラスには必ずマセた事情通が覗き見に行ったりして、まことしやかにこの類の話を吹聴していたものだ。野上の野球場には中学校に上がって野球部の地区大会の応援にも行ったが、球場の外は辺り一面遠くまで草がボウボウに生えていた記憶しかない。

 一方で、球磨川の赤茶けた鉄骨製の萩原鉄橋を渡って左岸の広い河原に降りると、そこにもバックネットを備えた野球場が有った。その野球場の外野のさらに奥は農地になっていてあちこちに農機具をしまう小屋が有った。

子供の頃掛かっていた萩原鉄橋

太田郷小学校、あるいは二中1年生の時はこの河原が格好の遊び場所になっていて、友達と走り回っていた、勿論勉強は大嫌いだった。

遥拝の瀬近くに国鉄鹿児島本線(=今の肥薩オレンジ鉄道)の鉄橋が走っていて、いつもその下で遊んでいると通過する列車から水が降って来て「何だろう?」と思っていた。それが列車内の便所で用を足した人の小便だと気が付いたのは大人になってからだった。
今もそのまま、鹿児島本線(現・肥薩オレンジ鉄道)の球磨川・遥拝の鉄橋

その後、私が高校三年生(既に東京に出ていた)の頃、春休みに帰省して二中の時のクラスメートの女の子と球磨川土手の萩原天満宮の大銀杏で待ち合わせ、この河原でデートをした。途中で雨が降り出してこの農小屋に避難したのでよく覚えている。彼女は八高のセーラー服の制服を着ていたので、今思えばまるで映画「青い山脈」の一場面の様だった。
 そのデートの最中、横の畑を見ると東京ではなかなかお目に掛かれない土筆(つくし)がびっしり生えているではないか!思わず採るのに夢中になって気が付いたら、デートの相手は呆れて自転車で戻ってしまった後だった。40年後に東京で再会した時にその話をしたが、全然記憶にないという。女性なんて大体こんなもんだ。
 この頃の野鳥に対する記憶と言えば河原に横になって見上げた上空をホバリングしながら煩く鳴き続けるヒバリが一番印象に残っている。鳴き声に聴き惚れたのでも、ホバリングが珍しかったのでもなく、当時全盛の美空ひばりがなぜこの鳥と同じ名前なのだろうと思ったのだ。美空ひばりが芸名で本名は加藤和枝さんだとは当時知る由もなかった。
 太田郷小学校時代の事は色々覚えている。まず、授業で必要なモノを忘れると次の授業に出ないで自宅まで取りに帰らせるという東京・小倉には無いシステムがあった。どうしてそういう事をさせるのだろうと、子ども心にとても不思議だったのを覚えている。大切な授業を放棄して、忘れた教科書やノートを自宅まで取りに帰る往復40分ほどが非常に無駄な様な気がした。しかし当時はそれなりの理由が有って、そういうシステムになっていたのだろう。
太田郷小学校正門附近

 当時イタズラ盛りの私は、「これ幸い!」とウソの忘れ物をして、さっそく授業を抜け出したのは勿論の事だった。2度、3度抜け出して学校の裏の民家のオバサンと仲良くなって庭に山ほどある鉢植えのサボテンを眺めていた。八代に引っ越してこのサボテンが各家庭の庭に沢山有るのが南国らしい佇まいとして非常に印象深かった。東京は勿論、小倉でもサボテンはこれほど園芸の主力ではなかったからだろう、非常に珍しかった。八代大洋デパートに行っても小遣いで買える小鉢のサボテンは非常に魅力だった。
 もう一つ景観的に驚かされたのが、各民家の瓦屋根に在る鯱(=シャチホコ)飾りだった。我が父方の先祖は茨城県の麻生に在った麻生藩1万5千石の新庄家だから武家の格やしきたりに関しては子供の頃からいろいろ聞かされて育った。その中でシャチホコの言われは教わらなかったが子供心に「鯱はお城の天守閣に付くモノ」という思い込みが有ったので、何で八代の民家のあちこちに立派なシャチホコが付いているのだろう?と思った。きっと八代の城主に近い身分の高い家だけに付けることを許されている江戸時代からの名家なのだろう位に思っていた。その割には名家が多すぎるとも思ったが。
十条製紙日置社宅から太田郷小学校への道筋のシャチホコ民家

 今から10年前に、この事を思い出して色々調べたのだが、結局今の所「単なる恰好つけの流行」らしい事で調査を終えている、しかし本当だろうか?熊本ではカッコいい事を「武者のヨカ」と言うが、これと関係あるのだろうか?

1968年に東京府中で起きた三億円強奪事件の映画、宮崎あおい主演の「初恋」の後半病院などのシーンが出てくる背景にこのシャチホコの付いた屋根が数回写った場面があった。映画館で思わず「これは府中なんかじゃない、九州だ!」と声を出しそうになったのを覚えている。観終わった後、すぐに調べたらやはり戸畑がロケ地だった。
 

 国内で民家の屋根にシャチホコを付ける風習が有るのは八代中心の熊本県、北九州附近、広島県の一部だそうだ。広島のは西条瓦と言って赤茶色で光沢が有る。八代のは真っ黒だ。火の用心の守り神という説もあるが詳細は不明だ。どなたかこういう事を専門に研究されている方に是非詳細を訊いてみたい。太田郷小学校6年5組で担任の久木田先生に理由を訊いたが教えてもらえなかった、きっと知らなかったのだと思う。