2014年8月25日月曜日

北海道中標津のウグイスはうるさいほど声がでかい! Japanese Bush Warbler is very noisy in Nakashibetsu Hokkaido.

 中標津森林公園で鳴くウグイスは数百メートル先から聞こえるほど声がでかい。森にコダマしているからだろうか?渓流の谷が深いからだろうか?ミソサザイの声は日光の湯川流域ほど響かないのに・・・。声の方へ行ってみて判ったことは、ここでもウグイスが公園内の電線に留まって目いっぱい声を張り上げていたのだった。

 藪系の野鳥の代表格ウグイスだが、ご存じのとおり初夏には見通しの良い梢に留まって囀る事が多い。もちろん縄張りの主張が第一だが、すでにつがいになっている雌への危険の警告もあるという。特にホーホケキョ、の部分ではなく、ケキョケキョケキョ、と鳴く時はそうらしい。

 次回から注意して観察してみようと思う。
最初は電線に留まって囀っていた。8mほどまで近寄っても逃げなかった。

しばらくこちらを目視して脇の藪に移動したが姿は隠さず見えるところを移動。

やにわに大声で囀り始めた。

喉を膨らませ、ものすごい声量!

普通、音声は高音程指向性が高いが、声量が勝っているのかよく通る。

こちらを向いて囀るときは鼓膜が鳴るほど強く響いた。シマセンニュウやノゴマのさえずりばかり聴いてきた道東も、このウグイスが最後の綺麗な囀りと成った。


2014年8月24日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #61.」 大学二度目の入試はもうドタバタ!その2.

 願書を出すのに横浜国大のことを良く調べたら、教育学部中学校教員養成課程・美術専攻科定員は7名。教育大の芸術学部とは似たようなものだろう?と思いつつ、さほどビビらず試験を受けに行った。入試会場は南太田や弘明寺の大学キャンパスではなく、横浜国大と関係のあった山手の丘の上に建つ神奈川県立光陵高等学校(当時)だった。この頃の横浜国大は新左翼の中でも超過激派の中核グループの総本山で、東大や東京教育大に続けとばかりこの年1969年の横浜国大入試打倒粉砕を叫んでいた。
横浜県立光陵高校は横浜国立大学と関係が在り1969年頃は同じく県立立野高校と同居して2~3年の間だけ山手の丘の上にあった。その後別の場所に移転。跡地はしばらく横浜国立大学付属中学校が入った。教育実習の時には再びこの丘を登る事になる縁の深い場所だ。 

当時横浜国立大学には全共闘中核派が本部を置いていた。

そのためこの年の横浜国大の入学試験は、濃紺のユニフォームに身を固めジュラルミンの盾を持った大勢の機動隊のお兄さんたちに囲まれながら行われた。試験場の正面入り口前は、びっしりと並んだ機動隊の列に囲まれながら、脚立に上ったカメラマンなどマスコミ報道陣80人程で一杯だった。
まさに筆者は時代の「ど真ん中」にいたのだ。我が家で息子の受験会場のこの状況を、テレビの昼のNHKニュースで見ていた母は、大変心配したという。後で訊いたら、上手く答案が書けたか否かの事ではなく、機動隊の盾を蹴飛ばしたりしないだろうかと心配したという。我が母が自分をどういう目で見ていたか、この時ハッキリと悟ったのだった。
試験の合間の休憩時間に、トイレに行って立って用を足しながら窓の外を見たら、金網越し目の前に青いヘルメットがたくさん並んでいた。今なら絶対にコンデジ(コンパクト・デジタルカメラ)かケータイ電話で記念撮影したに違いない。
当時の機動隊は全国から集められた部隊で編成されていた。 

 試験は山勘ではないが、やっていたところが沢山出たので充分に手応えがあった。いわゆる4択とか5択とかの丸印方式ではなく、やはり書かせる、説明させる問題ばかりだった。たとえば地理では、南西諸島の環礁に囲まれた地形図だけがあって、「200字以内でこの地形図の島の概要を説明しなさい。」というような内容だ。
 此処で、「地図というものは基本的に北が上で・・・」などと書いていては落ちる。具体的なことを中心に、その島が環礁に囲まれていること、サトウキビなどの畑が多いこと、国内で火山島ではなく平坦で環礁に囲まれ空港が無い島はそう数多くない。したがってこの丸い島は与論島と推察される・・・まで書かないと点はもらえない仕組みになっていた。
※与論島は昔はメディアでも「よろんとう」と言っていたが「よろんじま」と発音するらしい。
昭和43年当時はまだ空港が無かった与論島。国土地理院許可サイズ

※なお今までここに掲載されていたGoogleフリー画像(当時はこういう呼び方でブロガーが多数使用していた様だが、現在は厳しくなっているので、今後順次精査・修正したいと考えている)から掲載させて頂いていた地図は意図せぬ形で問題になった。
 Google画像に出ていた画像は2つの地図だったが、与論島の隣の地形図を勝手に切って削除してはいけないのだろうと思い、そのまま拝借して載せた所、むしろそちらの方に重要な版権があり、版権侵害になることが判った。

 なお版権の保有者にはこの場を借りて平にお詫びする。
 このブログをご覧いただいてる方であればGoogle Mapで与論島を探すくらいいとも簡単だろうが、今日2019年10月8日国土地理院の昭和43年の地図を神田の古書店で手に入れたので、国土地理院の規定に在る個人使用400ピクセル×300ピクセルの自由仕様サイズで掲載をさせて頂いた。
 
 受験科目に関しては国語と英語は必須で決められているので、選択の余地は無かった。選択が出来た社会科は、日本史、世界史、地理の中から選べるようになっていた。小学生の頃から歴史の本を読み漁り、歴史上の事件の裏を読むのは大好きだったが、将来何の役にも立たない年号を丸暗記するような事は大嫌いだった。もちろん行った事もない国の昔を学ぶ世界史などは、まるで興味が無かった。将来旅行した時に絶対に役立つのは地理だと思い、小学校の時から地理だけは大好きで他の誰にも負けなかった。休み時間にはいつも地図帳を開いて、世界中の国々や地形を眺めていたのが功を奏した。フリーハンドで世界地図や日本地図を描けるのも、この頃の訓練のおかげで得意技になった。
一方で理科は物理、化学、生物、地学と選べるが、将来役に立つ科目は?中学時代から宇宙が好きで既に星雲や惑星の事に詳しかったのと、社会科との接点などを考えたとき地学を選ぶことにした。たとえば日本の火山帯を問うような問題は、地理でも地学でも出てくる内容だった。ケチな性格が影響して効率の良い選択科目を決めていたのだ、我ながらこれは非常に正しかったと思う。何故なら、まさに今回この日本の火山帯や構造線に関する問題が地理と地学双方に似た様な地図と共に出たのだった。要は地理の出題者と地学の出題者は、事前にお互いがどういう出題をするかなど、全然打ち合わせていないって事だ。
日本の火山帯や地質構造帯は地学でも地理でも学んだ。 作画

 2日目の最後が実技だった。水彩で大きな花瓶に生けられた花を描く課題だった。席はあらかじめ受験番号順に決められていて、好きな場所を取る訳には行かなかった。普通の教室だから背景に窓側がくる席は逆光で非常に辛いだろう。たまたま真横の光だったので条件は良かった。
 此処で驚いたのは、受験生に女子が多い事だった。今までの学科試験は教育学部の全専攻科志望者が一同で受験という事なのであまり気が付かなかったが、実技と成ると美術専攻志望者だけになるので、いきなり女子だらけになったという訳らしい。
水彩の盛り花は阿佐ヶ谷美術で散々描かされた。

 2年間美術専門学校で上手な人間の中で揉まれたせいか、この日の受験実技の他の受験者の絵を見ていると「こんなので本当に受けに来て良いのだろうか?」と思うような、小学生の絵日記にも劣る様な者もいた。完全に絵の勉強をしてきたな?というような者は2~3人いただけだった。

 実技が終わって帰ろうとしたら、「受験番号~番、新庄君」と呼び止められた。何だ?と思い一瞬あせった。何か違反を犯したか?他の受験生にクレームを付けられたか?はたまた落し物か?小さい時から先生に呼ばれるのは決まって悪戯がばれたときだったので、条件反射的に思わずたじろいでしまった。
 今回はそうではなかった。視力の検査をする必要があるから、これから屏風ヶ浦の県立磯子工業高校に行くように・・・という事だった。屏風ヶ浦?横浜という街自体、中学校以来2度しか来た事がないのに、良く知らない屏風ヶ浦?それは何処だ?と思いつつ、渡された地図に沿って京浜急行の赤い電車に乗り換え、県立磯子工業高校に着いたのが午後3時過ぎだったと思う。保健室に行って、書類を出し簡単な視力と色盲・色弱試験をしてすぐに帰れた。これは筆者が先天性の弱視で右目は2.0以上の視力があるのに左目が0.08しかないための確認検査と思われた。

 検査が終わって帰途に着くのだったが、国鉄より線路幅の広い赤い電車に乗りながら、中学校時代ラジオ関東で夜10時半頃からやっていた「京急ミュージック・トレイン」が懐かしく思い出された。
1969年頃はまだこのような床が木で出来た四角い電車が走っていた京浜急行。Google画像

 木造の四角い電車に揺られながら考えた。初日で学科試験は終わっているのだから、合格者はほぼ絞られているだろう。今日2日目の実技を見て合格ライン上に無ければ、わざわざ目の検査など受けさせないのではないか?そう思うと非常に合格への期待が高まった。その後30歳を過ぎた頃から20年以上、葉山での毎週末のウインドサーフィンの帰りにこの屏風ヶ浦の京浜急行のガードを通る度この受験の時を思い出すのだった。

 合格発表は2~3日後くらいだったと思う。何と余程自信があったのだろう、大胆にも広尾高校のクラスメート2名を連れて初めて発表そのものを見に行った。合格発表も大学そのものが新左翼過激派のデモなどで不穏なため、山手に在る受験会場の県立光陵高校だった。各専攻科受験番号順に出ているものと思ったら、中学校教員養成課程・美術専攻科の一番上に自分の名があった!受験番号順ではないところを観ると年の順か?名前順か?成績順か?いまだに良く判らない。
 入ってしまえば、もうこちらのもの、ビリでも何でも入れれば同じ。大喜びで繁華街の国鉄根岸線伊勢崎町で降りて広高同期OB3人でお祝いのランチを食べた。もちろん同級生にはご馳走した。
適当に入った中華料理店はシュウマイが大きくて美味しかった。今はもう無いその「博雅亭」という店での昼食後、公衆電話から家に電話して合格を告げた。母親の反応はほとんど記憶に無いが「有難う」といわれた記憶だけはある。面白いもので落ちた受験の記憶はほとんど無いのに、受かった時の記憶は明解に覚えている。人間の脳は摩訶不思議だ。
伊勢崎町に在った博雅亭のシュウマイは大変美味しかった。 Google画像


入学して初めてクラスの仲間と自己紹介し合って驚いた。中学校教員養成課程に合格した7名すべてが一浪二浪で、現役は一人も居なかった。なおかつ実は全員とも本来は東京教育大の教育学部芸術学部を志望していたというのだから・・・。したがって、残念ながらこの同期で学校の先生になったのは一人しかいない。6人が卒業後教師以外の道に進んだのだった。建設会社系が3名、デザイン系が1名、海外留学1名、ファッション関係1名。採用した大学側は当てが外れただろうが、当時はそういう時代だったのだ。

2014年8月23日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #60.」 二度目の大学入試はもうドタバタ!その1.

 国立大学願書受付期限の3週間前の入試中止決定!受験生たちにとってこれ以上のショックは無かった。一心不乱に東大を一途に目指して来た、余裕の無い受験生たちは大変可哀相だった。これが原因でグレたり、精神に異常をきたしたりする者が随分出たという。ヘルメットをかぶって安田講堂に閉じこもった者達、それを遠巻きにして応援した者達、東大関係者、文部省関係者は一生恨まれることだろう。

 この東大入試中止が起きたおかげで、東大合格レベルの受験生が他の国公立大学に流れ、そのシワ寄せを食ったのが、その他の国公立大学の合格ラインぎりぎりの受験生たちだ。志望校のランクを落としたり、もう1年の浪人を覚悟したりするなど連鎖反応が起き、悲喜こもごものドラマが生まれた。

 何を隠そう、この筆者もあわててショックから立ち直り、対策を練らなかればならなかった。で、決めた対応策というのが、今思うとまったく支離滅裂の方向だった。東大と同時に入試が中止になってしまった東京教育大学のキャンパスは、そのほとんどの学部が茗荷谷の大塚キャンパス(地下鉄丸の内線茗荷谷駅)に在ったのだが、唯一体育学部だけが幡ヶ谷に在って、何とこの体育学部だけが入試を行ったのだ。これに目をつけた筆者は、もう破れかぶれでこの学部に願書を出していた。体育の実技など何があるのか知らないが「何とかなるだろう?後は入ってから転部すれば良いのだ」という超楽天主義の一面が此処で芽を出したようだった。受験科目に数学が無いだけで十分戦えると思った浅はかさは意外な方向へ目を出した。
地下鉄丸の内線茗荷谷駅前に在った東京教育大学大塚キャンパス。今は公園。

 筆記試験の内容は芸術学部も体育学部も大差ないと思う。国語、英語、地理、地学といった4教科で受験し、2日目の実技に入った時は空模様が雨だった。実技はフィールドと体育館で行われた。まずは80mハードル。実はハードルなど跳んだことは一度も無かったのだが、父親が大昔に京都大学に入る前の成蹊高校陸上部でインターハイ400m優勝していたのが幸いした。ハードルのコツは、すべてのハードルを軸足の左足で踏み切り、思いっきりお腹を出して前屈し腿で越え、右足のつま先を左手で触る感じ。ハードルの間は左右2歩づつ、計4歩で行く事!これだけで跳べる筈だ・・・といわれた。もちろんその当時はじめて跳ぶ人間へのアドバイスであり、今はもっと違う専門的な指導だろうと思う。一度だけ千駄ヶ谷にある東京都体育館のサブトラックで、ハードルを借りて1時間ほどやってみた。あとはぶっつけ本番で実際その通りにやってみたら、一つもハードルを倒さずに行けたには驚いた。思わずニヤついてしまったが、試験中ニヤついたのは筆者くらいかもしれない。
昔のハードルの跳び方は父に教わった通りだった。Google画像

甲州街道から少し入った所に体育学部の校舎が在った、今は渋谷区スポーツセンター。

 これが印象深すぎて他の試験内容は覚えていない。自分なりに好きだったハイジャンプもあったが、最後の5人には残ったと思う。雨が結構降っていたので滑って転ぶ奴も居たが、スパイクなどは使用禁止なので公平な試験内容だったと思う。体育館では基礎体力の検査というか、背筋だのいろいろな機械で測定された。垂直跳びでは自分の能力に自分自身で驚いた。それまで垂直跳びなど測定したことは只の一度も無かった。
 まず指に白い石灰をつけて壁に沿って手をまっすぐ上げ、壁に印を付ける。その後その場でジャンプして最大の高さで壁を叩くと跳んだ高さが判るという極めて原始的なものだった。試験官は3人も付いていて、不正が無いかどうかチェックしていた。結果89cmという数値になったが、試験官が「ん?オカシイ!もう一度っ!」と大きな声で怒鳴った。何がいけなかったのか判らぬまま、もう一度跳んだのだが、今度は90.5cmだった。 
垂直跳びは、まっすぐ上に跳んでその跳躍力を測るものだった。 Google画像

当時の全国平均値の一覧表
 要は垂直跳びの90cmはオリンピック・アスリート(当時の)跳躍力に匹敵するそうで「有り得ん!」という事らしかった。しかし広尾高校バレーボール部で3年間アタックやストップの練習に加え、うさぎ跳びなど散々特訓をしたので自然に跳躍力が発達したのだろう。奥沢中学時代練習もしないのに、いきなり走り高跳びで140cmを飛べたという父親のDNAのおかげだとも思う。
受験の1年前、蓼科の牧場でのスナップ。キャラバンシューズを履いてのジャンプ。

 結論から先に言うと、なんと合格してしまったのだ、東京教育大学体育学部に。しかし此処からが大変だった。当然志望は芸術学部の工芸工業デザイン専攻科だ。教育大にさえ入れればどこの学部でも良いという事ではない。平面・立体構成の高山正喜久教授の本を熟読して、その氏に師事しようと思っていたのだ。フィールドや体育館でトレパンとズックを穿いて、笛をピーピー吹くような自分の姿は到底想像できなかったし嫌だった。当然、当初の予定通り芸術学部への転部を申請しようと、入学手続きの際に教務課に行って相談した。
 
教務課の回答は絶望的なものだった。「今年、茗荷谷に在る大塚キャンパスの学部の入試は中止になった。したがって向こうの学部には学年自体が存在し無い! 学年が無いということは授業も何も無い。もしどうしても貴方を本年度芸術学部に転部させるとなると、たった貴方1名のために学年を造り、カリキュラムを作成しなければならない。そうなると20名以上の教授・講師の授業ローテーションを造る事になり、税金でいうと1億円以上の費用が掛かる事になる。到底文部省は許さないので君に1年留年してもらい、来年度美術の実技を受けて芸術学部の教授陣がOKすれば転部可能だが・・・。」という事だった。

 教務課ではこれ以上粘らなかった。すでに同い年の同級生から事実上2年遅れているのに、更に1年も遅れてたまるか!さっさと旺文社の合格レベル一覧表を見て、国立二期校のリストを猛スピードで調べたのだった。決定までの猶予は3日も無かったと記憶している。数学が無くて美術の実技がある学部は、教育学部の教員養成学科がほとんどだった。茨城大学、宇都宮大学、信州大学、横浜市立大学、山梨大学、それに横浜国立大学だった。松本の信州大学以外はどれも県庁所在地にあり、当時は特急が必ず長い時間停車して充分駅弁を買える駅だったので国立大学二期校は別名「駅弁大学」とも言われた。
当時の駅版の折り掛け。自分で食べた駅弁の紙は何故か取ってあった。デザインのサンプルにでもしたのだろうか?30枚以上現存する。しかし¥100円~200円という値段は凄い! 
 
実は此処で結構迷った。信州大学へ行って北アルプスを眺めながら大学時代を送ろうか、山梨大学へ入って甲府盆地で桃やブドウのフルーツに囲まれて暮らそうか?どこも似たり寄ったりの大学だと思った。ただし、横浜国大だけはちょっと違っていた。北九州の小学校で大半を過ごした筆者には、当時、東京とは少し違う北九州での国立大学人気ステータス・ベスト5、東大、東京教育大、横浜国大、京大、東工大、の事が頭に浮かんだ。重工業地帯の北九州では、小学生及びそのP・T・Aの将来の希望職種のトップは八幡製鉄(当時)、住友金属、などの重工業の会社の重役になること、あるいはその奥方に成る事だった。親たちが勤めている重工業関連の会社以外の職業に関する知識が無かったのだ。2番目人気は大学の教授だった。だから弁護士や銀行マン、行政の官僚、デザイン関係、マスコミ関係といった職業自体をあまり知らなかった。したがって筆者の頭の中でも、この横浜国立大学という響きは少し他の大学とはレベルが違っていた。
出来た当時の横浜国立大学清水丘キャンパス1号館 Google画像 

 それでも、まだ珍しく迷っていた。しかし、ちょうどそこへテレビから大ヒット中の曲が流れてきた。ちょっと鼻に掛かった軽い調子で歌う「いしだあゆみ」の曲だった。「♪街の灯りが とてもきれいね、ヨコハマ ブルーライト・ヨコォ~ハマァ♪」 これで横浜国立大学受験に心は決まった。
夜明けのスキャットとこのレコードだけ現存している。

 神のお告げのような話だが、これが事実。NHKテレビ「私の秘密」の冒頭、「事実は小説より奇なり、と申しまして~」といっていたあの高橋圭三アナの名台詞が思い出される。まったく人生何が後押しをしてくれるか判らない。

1968年12月~1969年11月までのヒット曲ランキング 今でも有名なヒット曲が多い。

1 由紀さおり:「夜明けのスキャット」
2 森進一:「港町ブルース」
3 いしだあゆみ:「ブルー・ライト・ヨコハマ」
4 ピンキーとキラーズ:「恋の季節」
5 皆川おさむ:「黒ネコのタンゴ」
6 森山良子:「禁じられた恋」
7 青江三奈:「池袋の夜」
8 内山田洋とクール・ファイブ:「長崎は今日も雨だった」
9 カルメン・マキ:「時には母のない子のように」
10 青江三奈:「長崎ブルース」
11 ザ・キング・トーンズ:「グッド・ナイト・ベイビー」
12 はしだのりひことシューベルツ:「風」


2014年8月22日金曜日

ベニマシコは夏羽の北海道では異様に赤くなる。 If Long-tailed Rosefinch becomes summer in Hokkaido, its redness will increase more.

 ベニマシコは秋になると霧が峰や渡良瀬遊水地に飛来して、なかなか少ない赤い鳥として野鳥ファンを喜ばせてくれる。3年ほど前、霧が峰の八島湿原でじっくり撮影させてくれた記憶がある。今回は道東の落石ー浜中線の海岸ラインで数回目撃し雄も雌もじっくりと観察できた。ただしいつものように草原だとかではなく、牧場の電線や有刺鉄線での事だった。

 頭が丸いのでベニマシコはシルエットでも判別しやすいが、今回のオスはやはり北海道での夏羽のせいか非常にというより異様に赤みが強く感じられた。
ポプラ系の樹木の上で大きな声で鳴いていたオスのベニマシコ。

思いのほか大きな野鳥だ。普段の1.5倍はあるように感じたのは気のせいか?

海岸線で強風の中ゆれながら留まっていた、非常に赤いのですぐに判った。

海岸線の馬の牧場の有刺鉄線に止まっていた。有刺鉄線に付いている長い毛は馬の毛だろう。

こちらはベニマシコの雌、同じく海岸線の電線にいた。





2014年8月21日木曜日

ショウドウツバメの繁殖期に出遭った。 I met Bank swallow in a breeding season at Hokkaido.

 ショウドウツバメは今まで出遭った事が無かった。イワツバメやコシアカツバメ、普通のツバメなどは良く行く熊本県の人吉で散々目にしているし、人吉市内では真冬に球磨川の水面を飛び交う越冬ツバメを何度も撮影している。しかしヤマセミやカワセミと同じく崖に穴を掘って繁殖するといわれるショウドウツバメ(小洞燕)はまだ観察したことが無かった。

 霧多布湿原のある浜中町から落石漁港まで移動する朝、海岸線沿いに東へ進んでいるとき路肩の電線にいるツバメが、少しいつも見るツバメと異なっていると思い停車して観察したら、どうやらショウドウツバメらしかった。全体が灰色で胴体と翼の長さが同じに見えるこじんまりとしたツバメだ。
 渡りの時には大群で移動するといわれているが、一度その場面を見てみたいと思う。ヒヨドリの渡りは信州霧が峰で撮影したが、さて、ショウドウツバメは何処を通るのだろうか?
マシュマロのようなイメージのショウドウツバメ

翼をたたむと胴体より長い。
  
待っている幼鳥に親が給餌に来た!

今年相良村で撮影したツバメの電線給餌と同じだ。

海からの強い風に乗って離れる親鳥。

4~5ファミリーがこのエリアで給餌を行っていた。道東は海岸線に崖が多いので営巣には適しているのだろうと思われる。








2014年8月20日水曜日

奇妙なアオジに遭遇。 I photographed strange Black-faced bunting in Hokkaido.

 今回の道東撮影行では初見の野鳥に出遭えたのと、普段観ることができない夏羽姿を観ることができて成果が大きかった。オジロワシを集団で撃退するオオセグロカモメやノビタキのフライングキャッチ、あるいは片足で立って囀るノゴマなどその生態の面白さも収録できた。

 その中で、非常に珍しいアオジに遭遇したのでレポートしたい。日本中で観られる薮系のアオジだが、北へ行くほどオスの顔は黒くなるのだろうか?日光戦場ヶ原でもある程度目の周りが黒い固体は幾度も撮影しているが、今回のアオジは半端ではなかった。

 夏の北海道では野鳥の色が非常に濃い目になるそうだ。ベニマシコなどは真っ赤と言って良い。後日掲載予定だがまるで違う野鳥かと見紛う程だった。そんな中、アオジもたぶん本州や九州のアオジとは違い色が濃いのだろうと、多少のことでは驚くつもりは無かったが、この固体は非常に面白かったのでレポートしたい。

 44号線から初田牛への牧場区域で遭遇。最初は杭に留まったメスと思われる固体。餌を頬張っていた。それが薮へ降りてしばらくすると青虫らしき餌を咥えた顔の真っ黒なアオジが出てきた。くちばしの端を見ると多少黄色っぽくも見えるので幼鳥かもしれない。メスもそうだが腹面がとにかく黄色い。本州のアオジもお腹は黄色いが黄色の色が非常に強い。

 絶滅危惧種のシマアオジというのが居るが、もちろんまだ見たことはない。戻ってネットでシマアオジの画像と比べたが、シマアオジの成鳥オスは頭が完全に黒く、どちらかというと黒+茶色+黄色でくっきりと区分けされた姿で、今回目撃の固体とはいささか違うようだ。

 また来年以降の課題として、こういった正体不明の中間的状況の野鳥が多い繁殖期、いろいろな野鳥に遭って経験を積みたいと思った。
最初に気がついたのはこのメスと思われる餌を加えた固体。アオジにしてはずいぶん長いこと杭の上に留まっていた。薮系の野鳥のイメージではなかった。

よそ見をして再び視た時にはすでに餌はなかったので食べたのだろうか?

しばらくして手前の古株に留まった最初の頭の黒いアオジ。胸に黒い横帯が見て取れる。

横を向くと頭全体が黒い。強い順光でいつに無く日差しが強いのだが黄色が鮮やか。

時々このようなしぐさをする、決して飛び立つ瞬間ではない。これは上下の餌を咥えた個体とは別の個体。数羽いると云う事は幼鳥だろうか?

尾羽が跳ね上がっているのも見慣れたアオジとは違うしぐさだった。

やはり野鳥の撮影は快晴で陽射しが強い時よりうす曇りの日のほうが野鳥の色などが良く判って好ましい気がする。







2014年8月19日火曜日

ノビタキのフライングキャッチ(空中採餌)が撮れていた。  I took photos of African Stonechat's aerial foraging at Hokkaido.

 道東の国道44号線、釧路ー根室線のから南の初田牛に下る1127号線を車で流しながら数羽の野鳥を撮影した。この路線の左右には大きな牧場が点在する牧歌的な道路で車の往来もほとんど無い。44号線にちかい森に囲まれた渓流ではシマフクロウも生育していると観光案内にはあるが、一人でいきなり行っても出遭えないだろう。やはりこの辺りは養老牛温泉などと違って温泉宿の人口生簀に飛来する個体と異なり、完全野生の固体なのでまず出遭えないだろう。

 それらしき渓流も観てみたが、逆にヒグマが居そうな奥深い野生林なので単独行動などまず出来る訳が無い場所だった。道東では幹線道路ですら「鹿飛び出し注意」と道路上に大きく書いてある上、あちこちに大きな看板がある。現に今回運転中3回も鹿の道路横断を目撃した。走って横断するのではなく悠然と歩いて横断する。1度は近かったが馬のように大きな鹿2頭だった。奈良公園の鹿とは全然違いデカイ!

 44号線から初田牛への案内看板を左折し、快晴の田園地区に入って30分ほどしたとき牧場の杭に留まるノビタキのつがいを発見。電線へ上がったり降りたりを繰り返していたので、しばらく停車して観察。盛んに虫をフライングキャッチしていた。奥日光戦場ヶ原と同じ行動パターンなのでこれを追って撮影をしてみた。
画面の右に飛んでいる昆虫を狙って急ターンのノビタキ♂

ブレーキをかけながら採餌!その視力には本当に驚かされる。

採餌後は全速で落ち着ける電線まで飛翔。

繁殖期なのだろう、採餌頻度は非常に高かった。

たぶん昆虫が多いのだろうか?この場所を動かず何度もキャッチしていた。牧場脇の藪へ何度も降りていたので巣があると思い、そこへの接近は避けて30分で現場を後にし初田牛方面へ向かった。