2023年4月30日日曜日

団塊世代は生成AIに関しての世界の動向を注視したい。後編 Baby boomers want to keep a close eye on global trends in generative AI. VOL.2

  昨日のこのブログ、いきなり普段の5倍以上のアクセスがあって驚いている。いかにこの新しい生成AIへの皆の注目度が高いか良く判る。

 しかし、その前にマスコミが「今やこれだよ!これに精通していなきゃ遅れる!」と、火が付いたように騒ぐこういった新しい分野の新しい技術。果たしてそのすべてが世の中に定着し、順調に世界を凌駕して行っているだろうか?

 ここに、VR(簡単に言えば立体映像メガネを用いて仮想空間に自分がいる状況を造り出すシステム)が、より進化して社会性を持ったメタバースというジャンルがある。あのFacebookがメタ(=Meta)と企業名を変えたことからも判る通り、非常に高い将来性を期待されたものだ。いわゆる仮想空間の世界。

 ビジネスでも歌舞音曲でもスポーツでもVR機器を頭からかぶり、それを駆使して仮想空間を楽しみ、あるいは仮想通貨(これはちょっと意味が違うが)で儲けるものだ。

 しかし、筆者は思う「仮想はどんなに優れていてがんばっても、現実には成れないし敵わないニセモノ」仮想空間、仮想通貨、仮想恋愛、仮想ゲーム、仮想スポーツ・・。

 例えば仮想の世界では死なないかも知れないが、現実の世界では「死」は必然だ。

 それが一部証明されるニュースがつい最近出始めた。


 昨今、出始めて話題になっている生成AIだが、これもオリジナルのデータを世界中から勝手に無断で集めて造り上げた「コピペの集大成=ニセモノの作品と世界」と言えるのではないだろうか?

 才能のあるアーティスト、クリエーターたちが努力して作り上げたオリジナル作品(=音楽・美術・文学・写真)あるいは各ジャンルの論文データをコンピューターという「高度な電子計算機」がネットを通じて勝手に無償で収集・蓄積し、それをシャッフル・加工して別の要望に応えて、いかにもパッと見新しい別物(有償=商売)を造り上げている。

 実は、それを利用・活用しようとしている者は、オリジナルのクリエーター、アーティストの様な才能もなく、センスも無く、自分一人ではロクなオリジナルものを造れないからこそ、生成AIによって造り上げられる「物・回答」に期待し、なおかつ凄い!と感動するのではないだろうか?

 要は自分自身じゃ碌な文章も書けないし、碌な絵も描けない、碌な写真も撮れないし、碌な音楽も奏でられないからこそ「凄いものが出てきた!」と感動し、利用・期待するのではないだろうか?そんな人が自分はデザイナーだクリエーターだ、作家だと良く言えると思う。

 筆者は言いたい「人間としてのモノづくりの誇りと尊厳をアナタは持っているのか?」

 普通、優れたクリエーターたちは、失敗を重ね、苦労を惜しまず、努力を重ねるからこそ良い作品、思った通りの作品が出来上がった時、手ごたえを感じ満足感に浸れるのだろう?

 そうして、自分自身で自信作が出来れば達成感を得た満足感で無上の喜びを感じるのではないだろうか?それをコンテストに出そうが出すまいが、出したところで特選・入選しようがしまいが、人の評価などあまり気にしない。それが本当の「作家」クリエーターなのではないだろうか?

 だからこそ、昔から有名な画家が自分自身の作品の中で決して売って手放したりしない、コンテストにも出品しない秘蔵品を隠し持っているという現実があるのだと思う。

 生成AI利用ほんの数分で簡単にパソコンの液晶画面に「自分ではとてもできない素晴らしい作品」が出て来て、苦労し骨身を削って作品を仕上げたクリエーターと同じ喜びを感じられるだろうか?得られる訳が無かろう?

 ここで言う作品とは、絵画だったりデザインだったり音楽だったり、あるいはまた論文だったり小説だったり、AIが生成するすべてのジャンルに及ぶ。

 現実に、海外で在る写真家が生成AIを駆使して作った写真をコンテストに黙って出したところ、トップ賞を獲ったが、生成AIを使ったと審査機関に正直に言ったというではないか?それでこそ真のクリエーターだと思う。

自分でも写真撮影をし、近々写真展を控えているから身に染みて良く判る。

 クリエーターにはクリエーターとしてのプライド・誇りがあるものだ。自分の「作りだす力・才能」を信ずるからこそ、「生成AIの力」を借りた事を隠さなかったのだろう。

 生成AIが凄い!便利だ!新しい世界が開けた!・・と単純に思う人は、努力をしない人だと思う。自分のクリエィティブ力に自信がない人だと思う。自分で自分のオリジナルを造り出せないし、その事を恥じない人なのだろうと思う。

 心を込めて絵を描く、心を込めて字を書く、文章を書く、瞬間に集中してカメラのシャッターを切る・・・これらが出来ない人は是非生成AIの力を借りて満足のいく「非オリジナル作品」を造れば良いと思う。でも、それって人造肉よりまだ酷いのではないだろうか?

 更にそれを「俺が造ったんだ!」と後ろめたさを感じないで堂々と他人に言えば良いだろう。でも、もし言えるのであればアナタは決してまともなクリエーターじゃない。

 もっとクリエーターの立場から例えて言うならば、バルサの板からナイフと紙やすりとセメダインを使って戦艦大和の模型を作れる才能、同時に喜びと、プラモデルセットを箱から出してボンドで説明書通り造り上げる差以上の違いを感ずる。 

 あの、藤井聡太棋士がAI将棋と互角に戦い、時には勝つという。要はその藤井聡太に成れない(成る努力もしない)で、AI将棋側の後ろに隠れて自分が打った振りをするのが生成AI心待ちの人々と思えて仕方がない。自分の力で戦わないでどうする?これではあまりに情けないではないか?勝負うんぬんの前に自分で将棋を指しているとは決して言えない。


 で、昨日の新聞シリーズの続き。今回この読売新聞のシリーズは大変勉強になった。




 この件に関しては、今朝の読売オンライン、読売新聞にも英国で生成AIに関して「著作権侵害へ警鐘」との記事が載っていた。

 クリエーターのオリジナリティ保護、生成AI提供企業側へ利益機会無断搾取への警鐘を表している。筆者もこの点が非常に気になっていた。

 こうした専門家たちが実際、生成系AIを色々な場面で駆使した実地に基づいて論じたり警告を発しているので、筆者はこれら記事を大変信頼している。

 人より遅れて電脳化した筆者などが、このクソ忙しい日々の中で「実際自分でやりもしないで何が判る?」と言われても、今は生のクリエイティブ作業で手一杯。その代わりプロがやってみた結果の反応を知ることの方が全体像をつかめて良い。
 しかし、知っても覚えても、自分の倫理観・クリエイティブに対する考え方、生き方に合っていなければ利用活用はしないだろう。

 思い返せば1990年代前後広告代理店時代、全盛期はパラレルに幾つもの仕事を担当させられ、一か月の残業時間が120時間を超えたこともあった。デスクワークばかりではなく現場や出張も多かったため、当時出始めていたワープロ(=ワードプロセッサー)もとうとう覚える時間も取れずに時代が過ぎて行った。そうしてそのうちいつの間にか消えて行った。

 パソコンも、超忙しい頃を過ぎ、少し余裕が出てきた長野オリンピックの頃人より遅れて、助けてもらいながらやっと覚え始めたものだ。
 
 二度あることは三度あるという。自分にとって生成系AIも同じようなプロセスを踏む気がする。それが如何に凄い技術革新であっても、自分にとってはネットやパソコン程、あまり実利・利用価値は高く無いと踏んでいる。

 他人には出来ない「自分のオリジナリティ」を必死に追求しようとするクリエーター(筆者も含む)にとってこれら生成系のAI、どこまで意味があるものなのか?いずれ渡るにせよルビコン川に架かる石橋を何度も叩いて確認しようと思う。

 で、

 このブログも始めて10年が経ち、この5月14日でちょうど開始10年の記念日を迎える。ヤマセミの生態観察で通った人吉・球磨川流域へも充分行った感があるし、費用面、2020年豪雨災害以降・現地の状況面からして、今後はもうなかなか行けない状況だ。

 ヤマセミ生態に関するアナログの集大成「ヤマセミ生態記録本」を出版する作業もあるし、そろそろこのYAMASEMI WEB BLOGを終了する準備に掛かろうと思う。
 7月の写真展開催後のいつか、毎日更新を止めて、週一程度の不定期ランダム更新に替えようと思う。詳細が決まったらブログ上でお知らせを予定している。それに合わせてTwitter、Facebookなどもクローズの方向へ進むかもしれない。ここ数日本当の意味での終活を考え始めている自分に気が付いた。

 もうすぐ75歳を迎えるにあたり、自分の中で何かが大きく変わろうとしている気がする。そろそろ一生懸命情報発信はしなくても良いかな?‥と思い始めている。