2021年2月12日金曜日

森会長発言―辞任問題の一番深い所を理解している人は非常に少ない様な気がする。 Chairman Mori's remarks- I feel that very few people understand the deepest part of the resignation issue.

  今回の森会長騒動に関して、一度このブログにアップしたのが6日前、2月6日だった。

『老害・森喜朗 氏を叩くより無能なJOC評議員全員をクビにすべきでは? I think It is necessary we dismiss and change the all of incompetent JOC councilors rather than only dismiss the gerontocracy Yoshiro Mori.』


 昨夕、辞意を表明した森喜朗氏だが、今朝の主要新聞の記事を貼りつけてみよう。第一面、その他国際面、社会面、文化面で色々な書き方・報じ方をしているが今後余波は色々な方向へ広がっていくだろう。
看板はどの主要紙も似たようなものだ。

筆者も言いたい、組織委、JOC評議員の無能さを報じている。

スポーツ面は未だ先輩後輩、お涙頂戴式のスポーツ界独特の空気を背負っている。

国際面は、海外の目を異常に気にする日本メディア独特の報じ方。

社会面の報道口調は文春砲の叩き方にどこか似ている。

 これから数回にわたりアップする今回の『森喜朗騒動』に関して、色々述べる筆者の立場とその関わってきたスポーツに関しての背景に関して少しご説明をしておいた方が良いと思う。『何でこいつ偉そうにそんなことを言えるんだ?』と疑念を持たれないためにも、何故そんな事を言えるのか理解いただく意味でも是非必要だと思うのだ。
 スポーツ全般やIOC、JOC、スポーツ界に関しては少し一般の方より関わり合いが深い生き方をしてきた事を幾つか述べておきたい。

 数日前のこのブログでも自分のスポーツに関する経歴を述べたが、此処でおさらいをしておきたい。

 東京生まれの筆者は小学校時代、東京~小倉市(現北九州市)~八代市(熊本県)の4か所の小学校を父親転勤の影響で転々と移りながら過ごし、スポーツに関しては特に何もしていなかった。リトルリーグや柔道教室、水泳教室にも通っていない。

 ただ足だけはめっぽう速く、悪い事をして怒られ逃げる際には非常に役立った。

 中二で単身東京へ出て親類宅で下宿生活を送る。世田谷区立奥沢中学校の校内運動会のハイジャンプでいきなり身長と大差ない145㎝を跳び己のフィジカル・スキルに目覚める。
 
 都立広尾高校でバレーボール部(陸上100mとハイジャンプのみ大会に駆り出された)に明け暮れ、体育館が1964年10月の東京オリンピック女子バレーボール代表「東洋の魔女」の練習場となり球拾いを手伝う。終了後鬼の大松監督に特訓を受ける。

 横浜国立大学サッカー部で関東甲信越大会優勝(得点王)、神奈川県知事杯優勝で和歌山国体出場権獲得など大学紛争で閉鎖中だった1年を除きサッカーに明け暮れる。サッカー部の後輩に現・内閣官房参与の平田竹男が居る。

 社会人になりアパレルのVAN宣伝・販売促進部勤務、強制的に入れられたアイスホッケー部で東京都実業団リーグ2部~1部を経験、モントリオール・オリンピック出場選手と同じセットを組まされ公式得点記録もある。

 VANが倒産後、約30年間広告・イベント業界で過ごし、仕事の影響でウインドサーフィンを覚え全日本選手権出場、ショートボードで25年間葉山森戸海岸でジャンプなどを楽しんだ。高校時代から始めたスノースポーツはアルペン競技スキー、スノーボードアルペン種目、クロスカントリースキー・フリー競技を覚えいくつか大会に出場。各種目指導員資格にもいくつかテストを受け獲得。

 仕事面では大手広告代理店でスポーツ事業部に配属され、国内外のウインドサーフィン競技大会の企画運営・NHK BS、WOWOWなどへの大会映像権販売などを手掛けた。
 同時にスノースポーツではSAJ全日本スキー連盟・専門委員として八木佑四郎専務理事(後のJOC会長)の元、FIS本部の会議に3度出張参加。長野オリンピック新種目・スノーボードの実施スタッフとして事前準備(代表選手発掘のシリーズ大会企画運営など)、プレ・本番運営競技委員として参画(広報担当)のべ2か月間をオリンピック運営の為志賀高原で過ごした。

 アルペンスキーでは1997年長野オリンピック・プレ大会の白馬大会男子ダウンヒルへのスポンサー獲得、テーマソング制作(ベンチャーズに依頼)運営実施。オリンピック関連催事で過去のオリンピック金メダリストを集めてのレガシーレースを企画運営。かのトニー・ザイラーをプロデューサーにして実施もした。

 これ以外、故三笠宮寛仁親王殿下の元、身障者スキーの支援に参加、1995年SIAのインタースキー野沢温泉大会にプロデュース参加、数年間殿下のチーム「トド組」に配せられ乗鞍高原宮様フューゲルスキー大会に出場。かのコルチナオリンピック日本代表杉山進氏と競争で滑る。
ご参考=2019年10月14日のこのブログ

 このようにスポーツの競技の大会企画・開催、並びにスポンサー獲得は業務として数多く行ったが、スポーツ関連のコンベンション事業や教育に関しても出逢う機会が在った。
 
 2006年世界女性スポーツ会議くまもとの運営プロデュース、およびスポーツマーケティングに関しての講師をキャンパス内のパソコンルームにおいてメンバー全員がPC経由で授業を行うテレワーク(コロナ禍での顔を見せ喋るだけのテレワークとは異なる)で行った。
潮谷さんが知事の頃。開会セレモニーで。

水泳部門ではまだ当時存命だった同い年の木原美知子(光知子)が講演していた。

 これら数多くの仕事で知り合ったスポーツ界の国内外の著名人は数百名以上に及ぶ。名刺に関しては300枚以上現存する。
 スポーツアスリート、スポーツビジネス界のトップ達、スポーツ・メディア現場の方々。これらの世界を経て来て今回の『森喜朗騒動』に関しての個人的見解と、メディアが報じていない根本的な大きな課題・問題を今後数回に分けてこのブログで述べてみたいと思う。何回になるか判らないが取り合えす書いていきたい。

 特に上げたいのが「女性蔑視」「女性は会議で話が長い」などと言う面に関して。
 筆者が2006年にプロデュース参加した「世界女性スポーツ会議くまもと」での女性がスポーツに関してどう取り組み、どう変化してきたのかを実際1か月以上現場にいて企画・運営した者として報じてみたい。