2014年8月10日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #57.」 実録高校・学校生活 その12.親に黙ってたった1週間で辞めた早稲田大学。

 結論から先に言おう。もちろん京都大学は落ちた、一方で何故か早稲田は間違って合格していた。当時の実力以上の結果だったと今でも思っている。合格通知が来た時には何かの間違いだろうと思った。京大になど発表は見に行けないし、実は早稲田も合格するなどと思っていなかったので、発表は見に行っていない。全国から押し寄せてきていた受験生の迫力に圧倒されて、試験そのものの記憶があまりない中、当日の記憶があまりないのだ。早稲田の大隈講堂に通ずるごちゃごちゃした街並みもあまり好きにはなれなかった。

京都大学の試験は、良く覚えている。今でも絵に描けと言われれば描けそうな気がする。会場は京都大学ではなく立命館大学の講堂だった。この試験会場の席がふざけている。半円形にアールを取った階段教室なのだが、隣の受験生との距離はキャッチボールでも出来そうに遠いのに、前の受験生は髪の毛の本数を数えられそうに近いのだ。おまけに階段教室で上から見下ろす感じなので答案は丸見え!いったい京都大学の試験担当官は自分で席に座って事前チェックしてみたのだろうか?している訳がない。これだもの、記念に受けに来ている出来そこないの私の様な受験生は「ひょっとすると・・。」」期待してしまうではないか?

結局数学Ⅲなどは、ほぼ丸写しだった。勿論それが原因で落ちたとは、これっぽっちも言っていない。国語の小論文は山勘が当たった!題は「夏目漱石について論ぜよ」だった。受験前に漱石を論評した本を数冊読んでいたから結構すらすら書けた。この小論文が落ちた原因であれば内容ではなく誤字当て字の方が理由だろうと思う。
こう書いた。「夏目漱石は熊本では高く評価されるが、松山ではあまり高く評価されていない、むしろ良く言われない。松山では旧制松山中学には1年間しか赴任していないのに比べ、熊本では五高(現熊本大学)に4年間は居たのでその差だろうか?そのくせ松山では坊ちゃん電車等を走らせ、ちゃっかりその名声を利用しているなど極めてえげつない。」こうも付け加えた。「漱石の本は半分も読んでいないので、今は中身について偉そうに論ずる事は出来ない。大学入学後すべての著書を読んでから再度論じたい。」・・・もちろん、二度と論ずる事にはならなかったが。
熊本五高時代の漱石 坪井町旧宅パンフ

坪井町旧宅の洋間 2010年撮影

観光客用に漱石人形が猫を使って記念スタンプを押すように仕掛けてあった。2010年。

 山勘は当たったものの、大学そのものに落ちては全く意味が無い。しかし天変地異が起こって受かっていたら余計今の自分は無く、相当苦労したうえ早々に落第・退学していたろうと思う。

京都大学は試験そのものより、相部屋で泊まった受験生たちとの会話や、その当時発売されたばかりのコカ・コーラの500mlファミリーサイズの方が記憶に残っている。
 宿は京都三条小橋・高瀬川に近い吉岡屋だったか別館だったかの純日本旅館で、受験生3名1部屋の相部屋だった。三条通りには結構な雪が積もっていて宿に自動販売機の無い時代、近所の酒屋にコーラを買いに行くのに、旅館の下駄で何度転びそうになった事か。もちろん部屋にテレビなど有る訳もなく、夜7時を過ぎると雪の京都はシーンと静まり返っていた。相部屋の3名はお互い全て受験した学部が違うので、出題内容について話せる訳が無かった。受験慣れして良く喋る奴と、緊張しっぱなしの両極端の二人だった。
相部屋の誰が受かったか知らないが、きっと皆落ちているだろう・・・と勝手に想像している。それぞれの出身高校は覚えていない。有名なラ・サールや灘高であれば覚えているはずだ。
吉岡屋は今はもう無い模様、三条大橋に近い賀茂川旅館は有るようだ。

この時の明解な記憶は、コカ・コーラのファミリーサイズを3本買うと独特のコカ・コーラ・コップを貰えるというキャンペーンだった。宿の前の酒屋にはこれが無いので、三条大橋を渡って鴨川左岸の京阪三条駅近くの大きな酒屋まで下駄を履いて買いに行った。これが京都大学受験で一番印象深い想い出だ。

まだ京都には市電や路面の京阪電車が走っていた。蹴上まで京阪京津線電車で行って、南禅寺入口の湯豆腐屋の2階に下宿していた我が父の居た部屋を訪れてみた。その当時は客室に成っていたが、無理を言って部屋を見せてもらい、我が父に訊いていた押入れの天井に残されたオヤジが書いた悪戯書きを確認して来た。「新庄一郎・京都大学理学部応用化学科学生、我下宿代に困れり」と書いてあった。大方仕送りを使ってしまったのだろう。
実際はこのお店ではないが、こういう所に下宿した我が父は一体何を考えていたのだろう?

当時の京阪京津線の専用80型電車、暫らくは路面を走っていた。今は地下鉄化した。

 受験の為の京都旅行は手提げ鞄一個だったので、この南禅寺界隈から京都駅までは歩いて戻ったのを記憶している。地図も無かったが鴨川沿いに下って京都タワーを目指せば簡単に駅にたどり着いた。
 京都にはこれ以降大学の日本美術史の授業、VAN勤務時代の出張、その他で今まで通算50回以上は訪れている。時代と共に大きく変わる日本に在って雰囲気だけは今も昔もあまり変わらない京都は好きな街の一つだ。別に「そうだ、京都に行こう!」などと言われなくとも行くって。

 こうして、思いがけず受かってしまい、せっかく入学金や1年分先払いの授業料を、親が払ってくれた早稲田大学の教育学部だったが、1週間登校して呆れ果てて辞めてしまった。理由ははっきりしている。オリエンテーションだか何だか、最初の3日間大教室で色々な説明があった。授業が始まって「日本国憲法」だか「教育原論―1」の科目だか何だか忘れたが、あまりの学生の多さにすっかりやる気が失せたのだった。高校3年に夏季講座で通った駿台予備校より、はるかに人数が多く酷かった。何度も言うが戦後のベビーブームのど真ん中、昭和23年生まれは「死ぬまで競争・サバイバルだぞ!」と言われて育った。まさに、散々すり込まれたこの考えに完全に反する現実が、この早稲田大学の授業だった。
 あの天井の低い歴史的建造物の大隈講堂も、手前の階段にまで人が溢れる事が多く、このままではずーっとこいつらと競争しなければならないのか・・と思うと、常に先を読んで効率を考え、無駄な争いの嫌いな筆者は、さっさと別の道を考え始めたのだった。

 しかし、まさかその自分が約45年後に、同じ早稲田大学の理工学部で客員研究員・招聘研究員としてキャンパスに出入りする事に成るとは夢にも思わなかった。人生の不思議が此処に在る。
感じとしてはこの倍の人数に思えた。マイクを通した教授の声は聞きづらかった。

 で、前々から目を付けていた地下鉄丸ノ内線の新高円寺に在る「阿佐ヶ谷美術学園」の専門課程に願書を出し無試験で入校してしまったのだ。入学金その他はそれまでバイトで稼いだ資金をほぼ全部はたいて都合した。これからが今までの人生の中で一番進路に迷った2年間だった事は間違いない。想像力豊かな自分の脳味噌が沸々と煮えたぎっていた時代だったのだろう。

 阿佐ヶ谷美術学園は1年制の受験科と3年生の本科に油・絵画系とデザイン・建築系が別れていた。もちろんデザイン・建築系に入りポスターカラーだのガラス棒だのコンパス定規などを揃えた。その後社会人に成って役に立った図面制作・3点消失のパース図制作などは殆どここで習得した。今でも学園的雰囲気があるという。当時は色々なバイトが舞い込んできた。

その頃は高度成長のど真ん中でマンションの建築ラッシュのさなか。これらマンションの完成予想図のパース描きのバイトはもう列を成して控えていた。
これはポスターカラーではないが、こんな感じの完成度で充分だった。

 それ以降の若者としての活動資金はほぼこの阿佐ヶ谷美術学園での2年間に蓄えられたもの。総額で言うと我が父の年間年収半分以上の蓄えが溜まった。稼いだ訳だ!もちろん当時この時点では大学など行かずに大成功!将来はバラ色だと思った。もちろん阿佐美の授業料くらいは充分賄えるバイト収入があったし、親に早稲田の2年目の授業料をせびるような事は一度も無かった。

 というより、この時期に限らず筆者は親に小遣いを無心した事は生涯一度も無い。基本的に自分自身がケチで無駄なお金は絶対使わない習慣が小さい時から身に付いていたのと、どうやったらお金を使わないで自分の欲しいモノを手に入れられるか、常に策をめぐらしていたからだろうか?

 このホンネとタテマエ作戦が完全に親にバレタのは何と翌年の夏だった。1年以上も我が両親は自分の息子が早稲田に通っていない事に気が付かなかったのだ。母親は呆れて泣いて怒ったが、父親は意外にもケロッとしていた。ばれた翌年大学に入り直した時に訊いたら「大学に入ったのに、運動のクラブに入らないのがどうも怪しいと思った」の一言だった。薄々感づいていたらしい。