2014年9月7日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #65.」 横浜国大封鎖解除で、ついに身をもって全共闘と直接対決!!

紆余曲折あって入学前の1968年秋から11ヶ月間全共闘によって封鎖されていた横浜国立大学も最終的には9月29日の横浜公園体育館(フライヤージム)での、大学執行部と各学部自治会統一代表団共催の全学集会で確認書が合意され、紛争が終結する。
右が封鎖当初の横浜国大清水ヶ丘キャンパス正門、左が封鎖解除後の正門(横浜国大・友松会資料)

横国美術科の学生に全共闘の過激メンバーは居なかったと思うが、新左翼全共闘と対峙していた旧左翼民青(=共産党系の日本民主青年団の略)に所属するメンバーは居たようで、大学がどのような形で封鎖を解除しようとしているかの情報だけは入ってきていた。

新左翼だろうが、旧左翼だろうが、政治思想には何の知識も興味も無い筆者は、右翼、ノンポリと言われようが日和見主義と言われようが、同時に入学できたクラスメートと共にひたすら学生の本文である大学での正式授業開始を願った。

政治的思想に全く興味がないのは今の今までずーっと同じだ。

学生大会を開いて1年前に成立してしまった「全学封鎖」の学生自治会決議を終了させ、新たに封鎖解除を決議すべく開催される学生大会会場の横浜公園体育館(=木造でフライヤージムと呼ばれた)に自ら手を上げて参加した。

理由は、早くまともな大学の授業を受けたいからに他ならない。

翌日に学生大会を開くという情報が過激派全共闘に流れると、集団で武力を持って阻止に来るというので、前日の夜から徹夜でラグビー部、サッカー部、野球部、柔道部など体育会系は殆ど駆り出されていたような気がする。この頃携帯端末があったら、どれだけ便利だったろう。

季節的には9月末なのであまり寒くも無く、暑くも無かったがイベント前夜で800名近くの若き大学生男子がボロボロの木造体育館に閉じこもる姿は、一種異様な感じだった。

美術科メンバーの女子達には何が起こるか予想も付かず危ないので、体育館附近には来ないよう指示し、男子の有志だけ数名が参加した。

横浜フライヤージムといわれた横浜公園体育館は現在跡地に横浜DeNAベイスターズの本拠地になっている横浜スタジアムが建っている。木造+トタン板張りで見た感じ大きな物置って感じ?の横浜公園体育館。
 在りし日の横浜フライヤージム。右は横浜市庁舎。(写真提供:横浜市史資料室)

 で、学生大会が開催され始めたのだが、当日の朝になると案の定、全共闘中核派の白ヘルメット部隊が多数角材を持って集結しているのが、木造の体育館の外壁の隙間から見て取れた。
 全容は判らないが相当数に上っていた。しかし当日来たものの、過激派の妨害突入を防ぐために、扉を閉ざしてしまった横浜公園体育館に入れなくなった一般の横浜国大生たちも、その倍ほど終結していた。

更にはその角材武装の全共闘の後ろに、紺色の制服の機動隊がびっしりと整列していたので、何故か非常に心強かったのを覚えている。横国大入学試験の際、トイレの窓から目の前の青いヘルメットを観て以降、テレビで散々見てきた機動隊だったが、こういう形で再び自分の人生に関わってくれていると思うと、何かとても不思議だった。

午前10時過ぎに、会場の中には入れないが委任状と言う形で参加した一般学生の数を入れて封鎖解除の議決・採決作業が進む中、いよいよ過激派の実力による入り口突破作戦が始まった。これが1時間ほど続くすざまじい戦いの始まりだった。

全共闘は隊列を組んで正面の扉を力で押してきた。もちろん中に居るこちらも同じく隊列を組んで、外に向かって圧力をかけるのだが、とにかくこういうことは今の今まで一度もやったことが無い!

横に並んで腕を組んで何かをするのは、大嫌いなフォークダンスか、小学校の運動会の二人三脚しか経験が無いから上手くいくわけも無い。

「大体こんな事させられるなんて、言われて無いぞ!」と、さっさと戦列を離れる者が続出。最後までがんばっているのは体育会系と民青のメンバーが主流だったと思う。

危険だと言うので何処からか配られた黄色いヘルメットを全員被らされた。生まれて初めて被ったヘルメットだったが、どうも自動的に学生運動の民青の一員にされたような気がして、すぐに脱いでしまった。

その代わり体育館の備品室の隅に10個ばかり転がっていた「総務課」と大きく書かれた白いヘルメットを被った。きっと横浜市の備品だろう。

当時の学生運動家の平均的イメージ Google画像

意図的にか、外部で電源が切られたためか、照明が消えて元々暗かった館内がほぼ真っ暗になった。今考えてみると、これは外から中を覗いた際に中の様子が見えにくくなるような戦術的なものだったのか?

入り口攻防戦は激戦で、一番最高潮の時は最前列あたりの列に居たものが圧力でつぶされ、胃の中のものをピシャーッと噴水のように空中高くに戻しあげているのをハッキリと観た!そういう者は大抵気を失っているので、ドンドン横へ引きずり出していった。

一進一退で攻防が進んだ頃、木造の外壁をメリメリと音を立てながら剥がす様子が2箇所で見えた。「来るぞ、来るぞ!破られるぞー!」と言う声がしたので、無意識でとっさに穴の開いた壁へ行き、反射的に防御体勢をとった。

横に居た誰かが傍にあった赤い消火器を逆さにして、30cm四方位の穴が開いた部分目掛けて消火剤を一気に発射させた。ちょうど中を覗いていた2~3名の顔に命中したらしく「ギャーッ」と言う大声と角材が転がる音が聞こえた。と、同時に遠巻きにしていた一般の学生や野次馬だろうか「オーッ!」と言う物凄い歓声が上がった。

意外にも普段はおとなしいクラスメートの岡崎徹夫君などが、ガンガン戦いまくって大変頼もしかった。人は見かけによらない、いざという時の驚くべき活躍を目の当たりにして、こちらも相当興奮したのを覚えている。

横浜公園体育館・フライヤージム事件の外部のイメージ・コラージュ

近くにいた誰だか知らない者に、「館内の消火器を探して全部持って来い!」と大声で怒鳴って、自分は備品倉庫らしい棚に掛かっていたカーテン生地を引き裂き、2本をより合わせてロープのようにした。

そうして恐る恐る穴から入ってくる五寸釘を打った角材の頭にこれを引っ掛け、3人で思いっきり中に引っ張った。そうすると、いとも簡単にこの角材が中に取り込まれてきた。

7~8本はゲットしたが、数回繰り返すと敵も一本の角材に2~3名を配して突撃してきた。しかしこちらもマンパワーを増やし、離すまいと壁際まで来た白ヘルには容赦なく消火器の泡をくれてやった。

そうこうしている内に、急に外がやかましくなり、体育館への攻撃がまったく止んでしまった。同時にあちこちから拡声器の声と大人数が動いているような足音と大勢のどよめきが聞こえた。機動隊が過激派を排除し始めたらしかった。

要は機動隊が法的に動く大義名分が成ったのだろう。これ以上は危険と判断したのか、大学が全共闘過激派の鎮圧を要請したのか未だに不明だが、体育館内も館の外もあっという間に静かになった。

戦闘が終わって2時間以上暗闇の中で待たされた感じだったが、実際は3~40分くらいだったろう。中に居るメンバーは口々に「どうなったんだ?外では何が起きているんだ?」と不安がった。

今のように携帯電話で外との連絡も一切出来なかった時代だ、無理も無かろう。しばらくして、正面の扉がギギーッと開いてまぶしい程の明るい光が入ってきた。

館内にいた教授陣を先頭に皆が外に出たのは昼前だったか、午後だったか良く覚えていない。外は曇っていた、小雨だったかもしれない。

しかし館内に入れなかった横浜国大生たちが拍手で取り囲む中、細い人垣の通路を凱旋するのはとても気持ちよかった。中には外に出た途端感極まって泣き出す者も結構いて、緊張感と徹夜から開放された瞬間をしみじみ感じたのを記憶している。

救急車で病院へ運ばれた者も結構沢山居たようだった。人垣の後ろのほうに横国美術科の女子が固まって居て、何とケーキの差し入れを幾つも持ってきてくれていた。

これにはその場に思わずへたり込みそうになった。差し入れを持って遠巻きに待ってくれていた我が美術科の女子達、もう誰を嫁にしても良いと思った・・・・・その時だけは。
箱入りのケーキ、とても嬉しかった!

外の皆に中で起こった事を話している時に、やたら首筋が痛いので手をやったら、何処かで引っかいたのだろう結構な血が出ていた。全然気がつかなかったのだが、両腕と両足にも血のにじむ擦り傷などがあちこちに出来ていて慌てて消毒など応急処置をした。

翌日になってみたら2箇所ほど青アザが出来ていた。夢中で何かに没頭している時には、まったく気がつかないものだ。

当然のごとく、マスコミが押し寄せて色々訊いてきたが、一言も口を開かなかった。中でも神奈川新聞の記者に出会ったときには、意識的にその綺麗に磨かれた革靴の上を、履いていた泥だらけのキャラバンシューズで目一杯踏みつけてやった。

美術科の皆と横浜駅西口ダイヤモンド地下街の喫茶店カリオカまで行く電車の中で、やたら車内の視線を感じ「何だ?何かおかしいか?」と思ったら、窓に映った筆者は「総務課」と書かれたヘルメットを被ったままだった。

2014年9月6日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #64.」 1969年横国大封鎖中に、自主授業であちこちスケッチ旅行。

自主授業は思いのほか順調に進み、連日あーでもない、こうでもないと理想論に向かっていろんな意見が出たが、「もちろん提案した人がそれを進める、実践するんだよ?他人が実行することを前提に物事を発想しないように!」と釘を刺した途端発言が減ってしまったのは、当時も今も変わっていないという事だろう。
だから、浮世絵の研究をしたいと提案したのも、我が家に本物の浮世絵があったからに他ならない。自主事業が長く続いていたら、我が家の昔からの掛け軸各種や古伊万里の皿などを持っていくつもりだった。

今になって考えてみると、この自主授業の素晴らしかったところは、誰かが著述した本や資料を「教科書」にして、その著述内容や解説内容を学習・確認するのではなく、本物の現物を、あるいは自分たちで実践・体験した内容を、自分たち自身で判断・納得した事だろう。他人の意見や考えを「鵜呑み」にせず、自分自身で理解して自分なりの判断を持つということを磨いた時期だと思う。

これが、最近の情報端末(スマホやPADなど)でネット上の気になる情報を引き出して、「いいね!」をするだけ、あるいは他人に伝えるだけ・・・といった軽い関わりではなく、話題の情報源、たとえば展覧会、講演会、展示会(見本市や発表会)に自分で現場に行って参加して自分なりの目線・解釈で情報発信する自分なりのスタイルに繋がっていると思う。

つまりは一過性のバーチャル情報よりリアル体験を重視、バーチャルなフェイスブック友達より、実際に逢って話せるリアル友達を重視する生き方に大きな影響を与えていると思う。

浮世絵は色々な作家の現物を活用できた。

 この自主授業を担当する事で、皆それぞれ自分で授業を構築して先生役を行ったり、レポーターになることが如何に大変で、事前準備に大変な時間が掛かるかを知った。本来は大学の教員養成課程の授業で教わるべき事を、既に授業が始まる前に自らやっていたわけで、後になって非常に納得したものだ。1時間の授業を一生懸命やろうとすると、事前準備にはその3倍以上の時間が掛かってしまう。
自主授業は真夏の休暇期間まで3ヶ月ほどは連日充実して行われた。

 教室での自主授業が軌道に乗って3ヶ月経ったころ、たまには教室外でスケッチ合宿をやろうということになり、山が良いか海が良いか多数決で決めた。圧倒的に開放的な海が良いという。やはり辛かった受験時期のストレスを徹底的に発散するには、広い海を見たかったのだろう。そこで広尾高校時代、台風のさなかキャンプした伊豆石廊崎の蓑掛岩のキャンプ場に行くことになった。伊豆急電車とバスを乗り継いで蓑掛大瀬に着き、2泊3日のキャンプがスタートした。
このあたりは http://yamasemiweb.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html を参照されたい。
高校のときに体験していた事が非常に役立った、伊豆石廊崎・蓑掛大瀬キャンプ場。

教授陣は初日から國領教授、小関教授、真鍋教授、三浦教授が参加され初日だけで戻られるはずだったが、2名が最後まで行動をともにされた、非公式な正式授業でもないのに、これは信じられない事だった。体育専攻科の単位習得のための水泳・遠泳合宿でもないのに教授陣が行動をともにされたのは新入生たちにとっても非常に有意義な事だった。
麦藁帽子が國領教授、後ろは蓑掛大瀬の公民館。

特にこの合宿を一緒に過ごした國領先生は、その体験を大きな油絵に仕上げて日展で特選を受賞された。これは我々も大いに喜んで全員で揃って日展を観に行きお祝いをした。國領教授はこの時の模様を自分にとって非常に大きな収穫が有り、記念すべきキャンプだったと後に話しておられた。そのテントの中で夜ランプの灯火を頼りに筆者をモチーフに描かれたスケッチを下さったが、いまだに大切にして飾ってある。後に点描画家として著名になられたが、あれこれと親身になって色々教えてくださった恩師だ。
右が日展特選になった「砂上の風景」このキャンプで昼寝をしたクラスメートがモチーフか?

現場で描いて頂いた國領先生のスケッチ。

この野外キャンプで味を占めたのか、クラスメート同士であちこち日本中をスケッチ旅行と称して回る事が流行った。ちょうど鳴り物入りでスタートした1970年の大阪万博開催中でもあり、アメリカのDiscover Americaを真似た国鉄のディスカバー・ジャパンが全盛期を向えようとしていた。同時にメルヘンチックなファッションを着飾った女性達が、日本中の名も無い田舎駅に溢れたのもこの頃だ。フリルの付いたワンピースを着てコルクシューズを履いた女性たちが古い駅舎、古い木造の小学校を見つけてはその前で記念写真を撮った。我々の同級生でそういった流行に乗ってのスケッチ旅行をするものは殆ど居なかったと思うが、それまでの日本の常識よりは楽しむ旅に出る一般客が急増したのは間違いない。
ディスカバージャパンのポスターは人気だった。 Googleフリー画像
※東京駅ステーションギャラリーで来週から展覧会がある模様

特によく行ったのが信州界隈で、八ヶ岳山麓・野辺山・佐久地域、松本・安曇野近辺、長野善光寺・小布施近辺、金沢~能登エリア、高山・中仙道宿場町近辺。どちらかと言うと昔ながらの茅葺の家や民家が立ち並ぶ日本らしい景色でスケッチの被写体になりやすいエリアだった。もちろん鉄道好きの筆者が蒸気機関車SLの撮影を兼ねようと目論んだルートばかりだった。
北陸線沿線にはこのようなディスカバージャパンの広告風の木造の学校がまだ沢山在った。

もちろん電化されていない路線が多く、SLも現役で沢山動いていた。

しかし、このスケッチ旅行に関係する大阪万博の話、更に1970年に創刊された平凡出版のファッション雑誌アンアンに関しての話はもう少し後にして、肝心の横浜国立大学に関する1969年秋の封鎖解除の一大騒動の話をしよう。
出来るだけ距離を置いてきた学生運動、過激派全共闘と、とうとう直接関わりあう羽目になってしまったのだ。


2014年9月5日金曜日

夏鳥の飛翔シリーズ その2.ツバメとイワツバメ The swallow and House martin passes the winter in Hitoyoshi City in Kumamoto Prefecture.

 よく越冬ツバメという言葉を耳にするが、その実態を確認した事がなかった。しかし、ヤマセミの生態観察を続けている熊本県の人吉市内で、ここ4年間一年中ツバメが球磨川本流の水面を舞っている姿を見て、初めて「本当だ!」と実感した。

 とにかく真冬に、しかも朝早く手袋必須の撮影条件下ツバメが数多く飛びまわっているのだ。陽が昇り暖かくなると無数に何処からともなく現れてくる。「真冬にツバメ」ぜひ一度観に行くと良い。

 一方で、イワツバメも球磨川には年中居るような気がする。特に人吉橋から水の手橋にかけての宿泊施設の前はたくさんのツバメが乱舞している。時には宿のベランダの手摺に留まったりもする。ホノルルの白い鳩と一緒だ。

 この高速で飛ぶツバメを追い写す練習を繰り返して、慣れてくるとヤマセミなど止まって見えてくる・・・などと言う事は無い。
朝早くに飛び回るイワツバメ。水面近くに来るのは珍しい。

尾羽が短いので普通のツバメとは少し違う。

上から見ても腰の部分が白いので判別は容易だ。

普通のツバメ、顔の赤い部分と燕尾服の原点の長い二股尾羽が特徴

その昔の、「特急つばめ」のマークを思い出す。

2014年9月4日木曜日

夏鳥の飛翔シリーズ その1.ササゴイ I have taken the appearance that green-backed heron flies .

 もう既に9月に入ってしまったが、今年の夏は西日本で非常に雨量が多かった。特に九州の一部では例年の倍ほどの雨が降ったという。こうした夏の初めはまだ晴れの日も多く、ヤマセミの観察の時に撮影できたヤマセミ以外の野鳥の飛翔シーンをいくつか「夏の名残」としてお届けしたい。

 基本的にヤマセミの撮影は、ヤマセミが強い縄張りを持つため、いつも決まった場所で行っている。当然ヤマセミ以外の野鳥も目の前を通過していく、あるいは目の前でしばらくパフォーマンスを繰り広げてくれる。多い順でいくと、カワセミ、セグロセキレイ、ツバメ、ミサゴ、イソシギ、クサシギ、トビ、アオサギ、コサギ、ダイサギ、ゴイサギ・・・やはり魚や水生昆虫を餌にするような川に縁のある野鳥が多い。

 人吉市人吉城址前、木山の淵は毎年ヤマセミの子育てが対岸から見られる数少ない観察ポイントだった。 しかし今年は長崎国体のカヌー競技に人吉市が会場を貸したため、県外などから数多くのカヌー競技選手が連日木山の淵で練習を行ったため、とうとうヤマセミは危険を感じたのか何処かへ行ってしまい、子育てはここでは見られずじまいだった。今年だけの事であれば良いが、こうやってヤマセミの繁殖場所が人間の都合で一つ一つ消えていくのは残念だ。
 
球磨川の対岸付近を飛ぶササゴイに気が付いたのは午前10時頃。

割りにゆったりとした羽ばたきで、川上に向かった。

黄色い足が特徴なのですぐにササゴイと判った。

独特の顔立ちそのままの飛翔姿だ。

鳴き声が凄い!「ギャオ~ン」という聴きなれない鳴き声だった。

すぐには何処にも降りず長距離飛行のようだった。





2014年9月3日水曜日

道東探鳥ツアー その7.何と!最近のレンタカーにはスペアタイヤが付いて無い!

 道東探鳥ツアーをブログに書き始めて、[道東への探鳥行を考えたいのだが]というお問い合わせを5名の方から頂いた。残念ながら私は道東エリアや根室観光協会の回し者ではないので、何かを特別に安く提供したり、あるいは旅行の予約代行などは出来かねるが、たった2回の自分の経験値で良ければ、「ここはこういう意味でお勧め」という推薦は自由なので大いにさせていただく。

 今回の道東ツアーでは、なんと初日の夜間に駐車場に置いてあった車の空気が抜けて、翌日2日目の朝10時から落石ネイチャークルーズ船に乗るって云うのに、朝7時半にレンタカーのパンクに気がついた。前日の夕刻、春国岱の未舗装道路か民宿の未舗装の駐車場で大きな鋲を踏んだと見えて、タイヤに刺さったまま徐々に空気を逃がしたようだった。北海道は広いが、探鳥に向いている脇道は未舗装道路のことが非常に多い。地道に入る場合は気をつける事が大切だ!

 生涯、車のパンクは2度目だったので、さっさとスペヤタイヤに付け替えようと、昔を思い出しながら、ハッチバックのドアを跳ね上げタイヤハウスを見て唸ってしまった。スペアタイヤがないっ!四角いスチレンボードの箱に入った修理用品が入っているだけで、交換すべきあの黄色いホイールの細いタイヤが無いのだ。
A社の例、とにかく説明書を読まないといけないので非常にウザッタイ!

B社の例。車メーカーやレンタカー屋により統一されていないのは非常に問題だ。

 慌ててレンタカー屋に電話したら、今は殆どがそうなっているが、スペヤタイヤが入っているタイプもあるという。今まで熊本県を中心に40回以上レンタカーを借りてきたが、パンクは一度も無かったし、パンクの時の修理がこんな風に変わっている事など一度も説明を受けたことがなかったときつくクレームした。
 で、どうするのだ?と訊くと応急措置の修理キットで直せば10kmは走れるから、近くの自動車修理工場か、ガソリンスタンドへ行けという。

 ちょっと待て!ここは根室だからいいが、昨日の中標津から野付半島への途中でパンクなどしたら、前後25km以上何も無いぞ?「レンタカー屋のお兄さん、そういう状況下で君が僕の立場だったらどうする?」と訊くと黙ってしまった。しばらくして、その場合はレンタカー屋でロードサービスを呼ぶので、それまで其処で待ってほしいという。今朝の場合既にネイチャークルーズ出航まで2時間しかない!頭が真っ白になりかけたが、ここで全てを救ってくれたのが、泊まっていた民宿たかののご主人高野さんだ。
民宿たかののご主人高野建治さん。母親思いで近辺の野鳥に関してはベテランの域に達す。

民宿たかの http://www.minsyuku-takano.com/ 非常に判りやすい静かな場所にある。あの落石ネイチャークルーズの新谷氏もここに居るとの事。道東の野鳥情報を得るのには、何処よりも此処が一番確実で、なおかつ一番の最新情報に接する事ができる。


 様子を見て、タイヤを外し、代わりに四角い木片で車を支え、タイヤを持って近所の知り合い修理屋へ直接行って、ものの30分も掛からずに直してくれた。もう、地獄で仏に出会うとはこの事を言うのだろう。
早朝にもかかわらず、パンクタイヤの処理を始めてくださった高野氏。

タイヤを外して近くの知り合いの修理屋へ持っていってあっという間に直してくださった。このサービスは今回のツアーで一番感謝した事だった。街中のホテルでは有り得ないサービスだろう。

 この民宿たかのの高野氏は道東に置ける野鳥観察のリーダーの一人でもあり、その時々の野鳥のポイントや時間帯、注意点などを熟知しており、宿にいるときには丁寧に話に乗ってくれる。シマセンニュウとコヨシキリの画像を視て一発で判別をしてくれた。なおかつ効率良く探鳥したい場合は専属ガイド(有料)として根室周辺や道東を案内してくれる。私も次回冬の巻ではぜひガイドをお願いしようと思う。特に冬季は車での移動が氷雪で困難になることや、標識が見えないなども有ってガイドは不可欠だと思うから。

 ちなみに、民宿たかのの夕食など紹介しておこう。半端ではない!お願いすれば花崎ガニが付く。もちろん時価で有料だが、街中のレストランや花咲港のカニ料理屋(~といっても2軒ほど)よりは遥かに安いと思う。
ある日の民宿たかのの夕飯。厚岸の酢牡蠣、北の魚の煮付けに花咲蟹。

花咲ガニは自分でほぐして半分をどんぶりに乗せてカニ丼を作った。超美味!

民宿たかのから車で10分の花咲港のカニレストラン・メニュー。

カニチャーハン、¥1,000円、カニの身の入り方が半端でない。

ちなみに花咲ガニの収穫シーズンは7~8月のみ。しかし真冬でも前年収穫の花咲ガニは殆ど旬な時期と同じく美味しく頂けるという。最近良くある「ワケあり~」は2~3年前収穫のカニである事が多いそうだ。やはり美味しいのは1年までだとの事。


2014年9月2日火曜日

道東探鳥ツアー その6.春国岱の夏は実はあまり野鳥がいない?

 根室から44号線を釧路方面へ10kmほど走り、温根沼(オンネトー)の橋を渡って最初の左カーブの手前右にあるのが春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター。「春国岱」の地名の由来はアイヌ語の「シュンク・ニタイ」(エゾマツ林)だが、これに漢字を当てたのでいわゆる重箱読みになった模様。

しかし今年の7月の後半はあちこち木道が壊れていたり、順回路の整備不良で50%程が進入禁止や通行不可になっていた。このあたりのタイムリーな告知は不十分だ。遠い所から訪れているのにまったく腹が立つ!しかし、だからと言う訳ではないが、ネイチャーセンターのホームページに出ているような豊富で数多い野鳥の姿は観られなかった。やはり実際は早朝でないと見られないのかもしれない。

 確かに、景観的にはもう廃れてしまった野付半島のトドワラなどに比べれば、草原・湿原にたたずむ枯れ木の残骸集団は絵になるかもしれない。野付半島はトドワラよりもむしろナラワラといわれる部分のほうが遥かに壮観でいかにも北海道!と言う感じがした。

 時代の流れと言うものは景観に関しては残酷な変化を与えてしまう。たとえば札幌農学校、つまり現在の北海道大学農学部の有名なポプラ並木はご存知だろう?バターの缶やビスケット、クッキーの缶に写真が載っているあれだ。しかし実は今はあの立派なポプラ並木は無い。ほとんどが枯れて倒壊し、小さな若木が植わってはいるが昔の壮観さは微塵も感じられない。理由は簡単だ。ポプラ(=西洋ハコヤナギ)の寿命は大体100年。桜(=ソメイヨシノ)が70年ほどである事を考えればまだ長いのだが、かのクラーク博士が「少年よ大志を抱け!」と言いながら植えた1912年から既に100年以上が経っているのだ。
 野鳥を追いながら、こう言った北海道の原生林や湿原をじっくり見るのもいいだろう。しかし昨日も述べたとおり、ヒグマにだけは十分に注意されるよう!地元の人は風評被害で観光客が減少する事を慮って余りヒグマのことは言わないが、間違いなくどこにでも出没するとの事だ。あの札幌の住宅街に囲まれた円山公園にすら一昨年は出没している。今日も釧路空港のフェンス5m位のところにヒグマが出てニュースで盛んに流している。そういう意味からも北海道は外国だと思う必要があるだろう。
春国岱の湿地部分

枯れたエゾ松が林立する広大な湿原。この枯れ木に野鳥が居そうだが居ないのだ。

とにかく晴れた日の昼間は動物の気配が無い。

だんだんエゾ松林が深くなるとクマが気になる、一人では行き難い場所だ。

アオサギが年次集会を開いていた・・・がいつも居るらしい。

風が強いためヒバリも高く飛べずに居た。


目立ったのはこのヒバリばかり。

橋を渡った駐車場にあった看板。「展望塔には登ることができません。休憩舎の展望台には登ることが出来ます。」と在るが地図上に明記されていないので何処の事か全然判らない。あまりに不親切な看板表記だ。木道が壊れていて行けないコースが幾つもあった。これでは遠征してきた者には不評を買うだろう、一生に一度しか来ない者の恨み、口コミは怖いぞ!

これがネイチャーセンター。定休日で誰も居なかった。定休日でも何かしらのインフォメーションは有ってもよかろうに。春国岱側、つまり画面手前側の沼付近でシマセンニュウとコヨシキリ、ハクセキレイ、オオセグロカモメを撮影した。春国岱本体よりよほど野鳥が濃かった。




2014年9月1日月曜日

道東探鳥ツアー その5.野鳥も多いけれど、常に鹿とクマに注意って・・本当だった!

 中標津から根室へ向かう国道沿いも、釧路と根室を結ぶ国道44号線も道路の至る所に大きく「鹿注意!」と描いてある。それ以外にも「この先鹿横断注意」と書かれた立て看板がやたらと立っている。
 実際今回5泊で道東を移動中、3回ほど鹿が道路を横切ったのを目撃している。80Km近いスピードで走っていてカーブで突然飛び出された、らまず大破するだろう。道東に関しては、どこに集中しているとか言うものでもなく、いずれの場所にも居ると覚悟が必要なようだ。
 ヒグマに関しても堂等。今回根室付近の長節湖に探鳥に行こうと思ったら進入禁止だった。ヒグマが居るから立ち入り禁止だと言う。

 1979年頃、八戸から苫小牧までフェリーに乗り、苫小牧で自転車を組み立てて、苫小牧ー札幌ー岩内町ー洞爺湖町ー大沼ー函館コースを回った。この際各地に黄色い看板にクマの絵が描いてあり、赤い字で熊出没、クマに注意!と書いてあった。最初は観光用の看板かと思っていたら、支笏湖から札幌へ抜ける裏道でパトカーに呼び止められ、キツク注意された。北海道外の人間は野生動物の怖さを知らない。ぜひ注意されたい。

 エゾ鹿という動物は奈良公園で、観光客からお辞儀をしながら鹿煎餅をもらっている可愛い鹿とは似ても似付かぬ大きな動物だ。下手をすると馬程の大きさに見える。サホロスキー場でのスノーボード国際大会の下見で、秋の雪の無い時期にジープでコースを回ったときの事。スキー場関係者がいきなり大声で「皆さん早く車に入ってください!」と真剣な声で叫んだ。何事かと思ったら、しばらくして大きなエゾ鹿の群れ20頭ほど、地響きを立ててゲレンデコースを横切っていった。

 こういう話を聴いていたので、春国岱に行った時も自分以外誰一人居ない広い景色にヒグマの予感がして、あまり奥へは行けなかった。特に木道を歩いて森林部へ入るときには、目を凝らして耳をそばだてて、全方向にアンテナをめぐらせて歩いたので非常に疲れた。

 基本的にヒグマは雑食だが、ツキノワグマとは異なり、鹿や小動物を襲い食す。時には人間を襲って食べる事もあるというので要注意だ。満腹状態であっても繁殖期で、ヒグマのほうが危険を感じれば襲ってくるだろう。本州のツキノワグマとはケタが違う。

 ヒグマから比べればツキノワグマは温厚で大きさも半分以下。志賀高原と野沢温泉村の裏道で2度ほどツキノワグマに出遭った事があるが、目を離さずジーっと視線を外さなかったので、向こうのほうで去っていった。もちろん筆者自身、背中には汗びっしょりかいていた。それ以外は奥日光戦場ヶ原でも尾瀬でも幸運なことに出遭っていない。野鳥を追ってレンズ越しに被写体を見ているときが一番危ないようだ。
道東は道路の至る所に看板が出ている。

実際、親子が道路を横切る事が多い。真ん中につっ立って居る事もある。


雌と子供の小さな群れ、オスは雌の1.5倍に感ずる。180kgもある大鹿も居る。

野付半島に居た繁殖期の子供たち

野付半島を走り回るエゾ鹿の母子の群れ。