2014年2月14日金曜日

熊本県人吉の球磨川流域の冬鳥7種。  There are seven kind of wild birds at Kumagawa river at Hitoyoshi city of Kumamoto Pref.

 西富士の田貫湖の野鳥7種という掲載が好評だったので、熊本県人吉市を流れる日本三大急流の一つ球磨川流域の冬鳥7種をご紹介。先日までの出水のツルと異なって、全国的に何処にでも居そうな野鳥なので、特に野鳥に詳しくない方でも「あっ!これ観た事が有る」と言う種も有ると思う。全部がスズメに似ていると思われる方も居るかもしれないが、冬の鳥はどうしても地味な色に成ってしまう。周りが殆んど葉が落ちた樹木や褐色に成ってしまった枯れ草の藪が多いので致し方ない。

まずは万江川土手の藪からホオジロのオス

寄り添うようにホオジロのメス、一定の距離で追従している。

見返り美人のアオジ、藪の中の地鳴きはホオジロとよく似ているごくごく小さい鳴き声。

熊本県ではヒンカチと呼ばれる事もあるジョウビタキのオス、見事なシルバーの頭が目立つ。

こちらはジョウビタキのメス、オスとは相当違う色なので別の野鳥のように感ずる。

上のジョウビタキのメスに似ているルリビタキのメス。尾羽が青く瑠璃色なのが特徴。

球磨川本流土手に沢山居るタヒバリ、これの眼の後ろが白ければビンズイ。セキレイの仲間だ。

万江川の東側の田んぼの中の木でモズのつがいが休んでいた。モズを2羽同時に撮るチャンスはあまりないように思う。

球磨川本流左岸の紅取山附近の街道筋に居たカワラヒワ、まさにいつもは河原に多い野鳥。









2014年2月13日木曜日

身近でカラフルなヤマガラに注目してみた。I looked carefully at colorful wild bird varied tit.

 ヤマガラは最初に出遭った時こんなにカラフルな三毛猫みたいな野鳥が結構身近に居るモノだと歓んだ覚えがある。東京では郊外に行かないとなかなか出遭えるものではないが、23区を過ぎて武蔵野、調布、三鷹などの緑が多い所に来れば意外に居るモノだ。最近都心でもカワセミが増えてきているのでヤマガラも都心の公園などを覆い尽くすようになるのかもしれない。シジュウカラは既にスズメより多い所も出始めているのでヤマガラも後を追うだろうと思っている。

 ご存じのようにヤマガラは非常に人懐こくて、昔は縁日で小さな神社から御神籤を引いてお客の所まで持ってくるのがいていつまでも魅入った事が有る。北九州小倉の商店街でやっていたのを我が父が見つけて良く観察しなさいと見せてくれたのだ。まさかその数十年後にこうやっていろんな野鳥の写真を撮る中でヤマガラを特集する事に成ろうとは思って居なかったろう。

 シジュウカラが沢山居るあたりで、ビービービーもしくはジージージーと3回ほど濁った声を連続伸ばして鳴けばそれがヤマガラだ。遠くに居ても独特なので直ぐに判る。正面からこの野鳥の顔を見ると可愛くて面白い顔に見える。

正月に行った箱根恩賜公園では人の傍まで飛んできた。

天草のお万が池では盛んに木の実を啄んでいた。

我が家の庭に来る常連は何処に何がこぼれて落ちているかよく知っているようだ。

すぐ傍まで来ても平気でいるのでピントが合わせにくい。

もし野鳥にも鼻息と云うのが有るとすれば間違いなく聞こえる距離だ。

2014年2月12日水曜日

出水のツル群、マナヅルと群れの飛翔(最終回) A large flock of cranes has begun to return to the north hometown. Part 3.

 出水のツル群の掲載最終回の今日はマナヅル中心に群れ全体の飛翔風景などをご紹介したい。今年も北帰行はマナヅルから始まって2月11日現在までに既に1,000羽以上が北帰行を果たしている。 http://www.city.izumi.kagoshima.jp/izumi_crane/05crane-bird/54crane-info.asp

 顔の眼の周りが赤く、ナベヅルに比べてガタイの大きなマナヅルは出水平野への飛来数はナベヅルの五分の一の数に止まっているが、あでやかな躯体と共に大型野鳥の風格は立派なものだ。
 現場で観察していると直ぐに飛び回りがちなナベヅルに対して、マナヅルは割に落ち着いていてなかなか飛ばない。この辺りはツルとしての性格の差だろうか?しかしいずれのツルも若鳥・幼鳥を挟んで両親が周りをケアする様子は変わりない。

 この出水平野の周りの河川にはクロツラヘラサギも良く居るので、大型の野鳥の観察や撮影練習にはいい場所だと思う。毎年人吉に滞在中に必ず一度は行くようにしている。

まだ薄汚れているような頭をしているのが若鳥で真っ白で綺麗な方が親鳥。

常に誰かが見張り役をしている。

これは完全にリラックスして寒さから体温低下を防ぐ意味での片足立ちに成っている。

この2羽は羽根を広げて田んぼを走り回っていた。

飛ぶでも無し、争うでも無し、ディスプレイの練習だろうか?

やっと重たい躯体を離陸させたマナヅル。

一方こちらはナベヅル、この直後皆一斉に飛び立った。

飛び立ったナベヅルの一団は一定方向へ飛び

他のグループも集まって大きな群れになって飛んで行く。

高度が高くなると徐々にVの字編隊に成って行く。これは練習風景だろうか?





2014年2月11日火曜日

続々北帰行、ナベヅル、マナヅルたちの飛翔。 A large flock of cranes has begun to return to the north hometown.

 大型の野鳥の飛翔中の画像はその飛来地に行かないとなかなか撮影できるものではない。低空を飛んで移動する事があまりないのがその理由の一つ。先日八代平野に飛来したコウノトリはつがいと思われる2羽だったが、基本的にはツルは長距離を飛ぶ際は群れで移動する。ヒマラヤを越えて行くと言われるアネハヅルもそうだが綺麗にVの字編隊で移動する。

 出水平野に飛来するマナヅル、ナベヅルの北帰行Vの字編隊をいつか撮影してみたいと思っている。次回のヤマセミ撮影人吉行の際天草辺りで観察しても良いかと思っている。どういう気象状況で北帰行へ旅立って行くのか調べてから行こうと思う。マナヅルもナベヅルも一家族で近距離を飛翔する時はやはり若鳥・幼鳥を真ん中に入れて飛翔しているような気がする。次回はそういう事を気にしながら被写体を観察してみたい。

ナベヅルの群れの少し距離を置いた飛翔シーン

2羽連れ立っての飛翔

真ん中に若鳥を挟んでの3羽での飛翔

後から「何やってんだー!」と気合を入れる親?

偶然重なって見えたシーン

撮影している正面に降下を始めた。

降下に入ると、その昔の超音速旅客機コンコルドの着陸を思い出す。

明日はマナヅルの方の色々なシーンをご紹介予定。






2014年2月10日月曜日

鹿児島県出水のツル、北帰行始まる! A large flock of cranes which came flying in Izumi-shi, Kagoshima has begun to return to the north hometown.

 今年も多くの飛来が有った鹿児島県出水市のツル飛来地から、北の故郷へもどる北帰行が始まった模様。出水市の観光協会ツル情報によると、2月5日にマナヅル660羽が北の故郷に向け飛び立ったとの事。いわゆる北帰行が始まったという事。その経路にあたる九州北部ではその姿を視ることができるかもしれない。 http://www.kanko-izumi.com/crain.html

 毎年出水のツルは必ず撮影に行くが、毎回撮影ポイントを探して車で動き回る事が多い。観察センターからだと大群のかたまりしか見えないが、マナヅルとナベヅルが仲良くいる場面を切り出して撮影できる機会が意外に無いので根気強いアングル探査が欠かせない。

 このエリアに来ると、クロツラヘラサギやタゲリ、その他なかなかお目にかかれない野鳥にも出会えるチャンスも多いのでツルだけだと思わないほうが良いそうだ。
出水の観察センターからの画像は大体こうなる。この部分は主にマナヅルのエリア。

観察センターから少し離れるとこういう刈り取り後の田んぼの中でのナベヅル集合エリアなどもある。

中に子供を挟んでマナヅルの親子と見受けられる。

中2羽がナベヅル、両サイドがマナヅル、一緒にいるけれど種類が違うのだ。

海岸近くの群れ、近づかないで遠くから観察。

明日は優雅な飛翔シーンをご紹介予定。





2014年2月9日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」 #14.突然小学校1年生の夏休み九州の小倉に転校する事に。 Suddenly My family and I had to move to Kokura-city of Kyushu.

 北区西ヶ原の一里塚電停から旧古川庭園―駒込駅―六義園―本郷追分町―東大農学部前を経て日本橋高島屋傍の通3丁目に至る都電19系統で毎朝通った小学校も1学期3か月通っただけで小倉に転校となってしまう運命だった。

 この短い3か月の記憶はさほど多くないが、我が家では観た事が無かったトンカツというモノが給食で出た。キャベツの千切りに衣を被ったトンカツにソースをかけて食べるという未経験の食事に戸惑った事を覚えている。

 次にチーズという乳製品だ、これはなかなか手強かった。バターやマーガリンは良く知っていたが、給食に出て来たこのバターに良く似た三角形の歯にこびり付くモノの味にはなかなか慣れなかった。
 この時の記憶が大人になるまで残っていたのだろうか、フランスでフルコースを食べた後フォロマージュの山が出てくると、いつも気を失いそうになる。
小学校の給食で初めて知ったチーズの味。

 我が母はデパートが大好き(ビョーキに近かった)で、西ヶ原の坂を下ったところの飛鳥山公園から池袋の西武デパートまで都電やバスに乗って良く買い物に行った。この都電(早稲田-三ノ輪線)は今でもまだ残っていて動いている。食品売り場でイチゴジャムを買いに行くのだ。朝や休日のお昼はこのジャムを塗った食パンを良く食べた。

 ちなみに東京の都電は長い事、黄色い車体に赤い帯が1本走っていたが、昭和34年までは下と屋根が緑色で窓の幅だけクリーム系の黄色だった。映画「三丁目の夕日」に出てくる頃はちょうどこれが入れ替わる頃のはず。だから都電の色は何色?と訊くとその答えで年齢が有る程度判る。

 当時の鉄道事情などに関して大変勉強に成るサイト  http://www2.tba.t-com.ne.jp/haasanhp/ 

都電のイメージはあくまでこのツートンカラーだった。

映画「三丁目の夕日」もこれらの資料を基にCGを造ったのだろう。

 小学校1年生が一人で都電に乗って12個の停留所を経て学校に通うのが普通の事であった昭和30年頃を思い浮かべると、今のJRで通う子供たちの集団登下校が何だか非常に過保護に見えてしまう。
 ただ昔からちっとも変わらないのが定期入れを紐でボタンに括り付けてポケットに入れずに、だらしなくぶらぶらさせている事だろうか。

 模様の入った厚紙に日付と区間がハンコで印刷された定期からSUICAに変わったくらいだろう、そのSUICAも八代駅や熊本駅、あるいは博多駅の地下鉄でも切符を買える時代になった。50年以上経つと世の中も大きく変わるものだと実感する今日この頃。

 ピッカピカの小学1年生は必ずお友達に成るため遠足に行くのはもういつの時代も「お約束」。
 しかしこの附属小学校!なんと1年生の遠足は王子の飛鳥山だった!
 ソメイヨシノは散ってしまっていたが八重桜が満開の王子飛鳥山・・・・ってそこは社宅の我が家から歩いて5分じゃん!?

 せっかく学校へ行ったのに自宅に戻るような遠足で凄く損をした気分になった。それも都電で移動だもの、自分の定期で遠足に行ったのは後にも先にもこの時だけ。その時のモノクロ写真名刺サイズの紙焼きは30年ほど前まで何処かに有った様な気がするが最近観ていない。※実は2020年になって出て来た。

 その3か月間に衝撃的な事が起こった。同級生が本郷追分の停留所で都電にハネられて死亡したのだ。状況や理由は知らないが彼の座っていた机に白い花が飾ってあって亡くなった事を知らされ皆も注意する様に先生から話があった。まだ一言も面と向かって話したことが無かったクラスメートだったが1週間ほどはその話ばかりだった。
クラスメートが亡くなったのがこの電停だった。

 そんな中、夏休みに入る時突然話が決まってしまった。十條製紙に勤める我が父が九州の福岡県の小倉市(当時はまだ北九州市にはなっていなかった)の小倉工場に転勤となったのだ。
 我が父親は考えた、長男の今後を考えると東京で祖母預かってもらい勉学に励ませようと。しかし母親は大反対、とんでもないと何度も争ったようだ。

 家の中には田原坂の様な銃弾の跡などは無かったが両親は相当激しく争ったようだ。これは後で祖母から聞いた話なのだが、全然本人に記憶が無いのでどこまで本当の話やら・・・しかし、婆さんはしっかりと視たらしい。
 
 大体において地球が丸い事は地球儀が有ったので知っていたものの、九州とか小倉とかは全然まだ認識の中に無かった為、今ならさしずめ火星か土星に行くような気分だったろうと思う。とにかく寝台列車で20時間ほどかけて引っ越し先まで行くことが嬉しくてたまらなかったのを覚えている。
 
 今考えると引っ越しで乗った列車は寝台急行雲仙だった。何故「急行雲仙」かというと、当時はまだ「寝台特急あさかぜ」などの九州寝台専用列車は走っていなかったのだ。

 在ったのは駐留軍専用の長距離特別列車だけ。実はこの特別列車の一つが東京―長崎・佐世保間を走る「急行雲仙・西海」だったのだ。当時は1等(車体に白い帯)、2等(車体に青い帯)3等(帯無し)の3クラスの等級が在って、我が引越し家族は2等寝台をあてがわれたのだった。
当時の急行雲仙・西海の編成に近い画像 Yahooフリー画像

時刻表の後ろには必ずこのような列車の車内レイアウトが載っていた。引っ越しの際に乗ったのはこの図で行くと1等寝台B室タイプだった。

   豪華な食堂車も付随していた。しかし父親が停車中の駅で短時間に駅弁を買ってきたのを記憶している。勿論蒸気機関車が牽引するスタートの遅い長距離列車だったので、発車間際の駅弁売りの芸術的な窓越し販売の技を何度も経験したのは言うまでもない。

 当時の2等寝台は今のグリーンA寝台に相当する、結構幅広い大きなつくりだった。後のブルートレインのグリーンA寝台に当たるレイアウトだった。
ブルートレイン特急はやぶさが廃止に成る半年前、東京から熊本までこのグリーンA寝台個室に乗ったのが、後にも先にも1回限りの個室の旅だった。

 子供心に東京から小倉までの全部の駅を観てみたいと思い時刻表を手に、最初のほうに出ている駅名が全部出ている鉄道地図を開きながら、窓の外を通り過ぎて行く通過駅の駅名看板を頭を振りながら名古屋過ぎまで視っぱなしだった。

 少し寝て、また寝台ベッドから窓にオデコを付けたまま首を振りながら過ぎ去る駅名と地図の名前を確認した。翌朝オデコが真っ赤になり、首が痛くて回らなくなってしまったのに気が付いたが後の祭りだった。痛みは2~3日続いた。

時刻表の鉄道地図(関東)

時刻表の鉄道地図(九州)

 引っ越し当日は沢山の人がホームまで来て万歳三唱で送り出すのだった。右下でニヤケテこちらを見ているのが筆者。挨拶をしているのが我が母親。

 本来、昼頃東京を出発すれば当時のスピードでも翌朝には小倉駅に着くはずだが、何故か夕方到着したような記憶なのだ。この理由がいまだに判っていない。小倉駅(昭和30年当時の小倉駅だから玉屋デパートの傍、今の西小倉駅)に到着、黒塗りの外車(キャデラックだった)で十条製紙の特別会館に運ばれた。

 途中大きな橋を渡る時に三輪の自転車に幌が付いた乗り物が沢山並んでいたが、それが輪タクと呼ばれるものである事を知ったのはずいぶん後に成ってからだった。要は自転車式の人力車で、1998年秋中国の新疆ウイグル自治区に仕事で行った時北京の街の真ん中でこれに乗った時「あの時の輪タクってこれだ!」とえらく納得した事を覚えている。
Yahooフリー画像に偶然昭和29年の小倉駅前の輪タクの画像が在った。
 
話を東京学芸大学附属追分小学校に戻すと、転校した昭和30年秋に実はこの小学校は廃止に成ってしまった。(※後に調べたら昭和36年まで存在しその年で閉校)同じく東京学芸大学附属だった竹早校に臨時合併吸収され、武蔵小金井の今の附属小学校にその後統合されたようだ。いずれにせよ東京に残っても引っ越しても小学校は波乱万丈の道を進む事に成っていたらしい。

※注:いま改めて調べてみたら実は附属追分小学校は紆余曲折を経て昭和36年まで存続し廃校になったことを知った。昨年この附属追分小学校に入学した昭和30年の入学時の写真が出て来た。67年経って判った新事実だ。

これが、自分の定期で本郷から飛鳥山に戻りつつ・・・の飛鳥山遠足の写真だ。中央で馬鹿笑いをしているのが筆者=ワ・タ・シ。今時の一年生より随分大人びてないか?

 次回からは北九州小倉での数々の出来事を続けたい、野鳥やヤマセミに話が及ぶのはまだまだ先の話だ。


2014年2月8日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #013」話はさらにさかのぼって昭和28年頃(少し記憶が怪しい時代) Japanese baby-boomer's own story of 1954-1955 in Tokyo.

  自分が確実に覚えている一番古い記憶はまだ母の背中に背負われて、東京は北区西ヶ原の十條製紙社宅の入り口付近で夜暗くなって近所の誰かに「女のお子さんですか?」と訊かれ母の背中でムカついていた時かもしれない。熱を出して都電通りを渡ったところに在る「愛敬医院」に連れて行かれるところだったと思う。

 小さい時には良く熱を出したらしく、一度は自家中毒を起こし完全に死にかけた。医者であった祖父に「今夜が峠だから皆を集めるように」と言われてほとんどの親類縁者が狭い社宅に集まったらしい。そうして真夜中呼吸が弱く成った頃、社宅の家の前にカーキ色のジープが停まり、米兵がある薬品を持ってきて十條製紙の診療所長をやっていた祖父に渡したそうだ。もちろん生死をさまよっていた筆者はジープを観ていない、あとで聞いた話。

 我が祖父はそれを私に注射し、注射の2時間後に目が覚め、熱が急激に下がった私はこの世に戻れたのだそうだ。米兵が持ってきたその小瓶は赤いゴムの蓋の付いたガラス小瓶の白い液体で、当時まだ巷には余り出回っていなかったペニシリンという抗生物質だった。

 我が祖父が元陸軍軍医少将だった縁で手に入ったらしい。
 ペニシリンはこの上のキャップが赤茶色のゴムで出来ていて、注射針を其処に突き立てて中の培養抗生物質を注射器に入れる方法だった。何度打ったか判らないが、ちょうど東京都内でも一般に出回り始めていた最初の頃。

 私の記憶はその時の情景を絵に描けと言われれば、描けるという程昔の映像記憶が定かなのだ。今日の東京は大雪だが1954年つまり昭和29年1月の東京大雪31cmの際の記憶もはっきりとしている。写真も残ってはいるが自分は6歳と2か月だ。さすがにその前の昭和25年2月自分が2歳3か月の時の大雪は記憶にない。
 今朝の東京、武蔵野・三鷹の降雪状態。夜に向かって雪はさらに強くなるので30cm以上の積雪に成るだろう。久しぶりの大雪だ。

  3日で退園した北区西ヶ原の飛鳥すみれ幼稚園(まだ今も在るようだ)の記憶もはっきりしている。富士山が綺麗に見えるジャングルジムから年長組の意地悪な子を突き落として怪我をさせたので親が呼ばれた。しかしそいつは同じクラスの女の子をジャングルジムの上で叩いて泣かせたので仇をとってやっただけだ、自分は悪くない。

 当時お茶の水女子大の附属幼稚園に勤務していた我が祖母がすみれ幼稚園の園長に啖呵を切って「子供の行動の原因を正しく把握できない幼稚園に我が孫は任せられない、私が育てます!」と無理やり退園させたようだ。

 では、何故御茶ノ水幼稚園には通えなかったのか?北区から茗荷谷に在る御茶ノ水幼稚園まで都電で通うとなると、この子は何をしでかすか判らないと云う事で、話にも上らなかったらしい。

 我が妹は御茶ノ水幼稚園に通ったので個性というモノだろう。だから、幼稚園は3日しか通わなかった。人間、幼稚園くらい通わなくっても立派に成人できるのだ。(私を見て異論があれば今からでも遅くはない、申し出るように。) 

 この十條製紙の西ヶ原社宅はちょうど京浜東北線や東北本線の長距離列車の行きかう国鉄の大動脈の上の丘に在った。京浜東北線の王子駅から上野方面の踏切を渡っておおぼう(横暴?)坂という薄暗い石畳の坂を上ったところに在る西ヶ原社宅だったが、この踏切の上を京浜東北線が高架で通っているためその高架橋の橋脚の影から地上を走る東北本線の列車に飛び込み自殺をする者が戦後の困難な時代に多かったらしい。

 したがって当時も子供たちはこの坂には行ってはいけないと言われていた。十條製紙(今の日本製紙)北区西ヶ原の社宅中央上部の大きな縦に見える計6棟が社宅。渋沢邸は画面左上の樹々に囲まれて芝の庭が在る所。色々調べたら今もその場所から動いていなかった。

GOOGLE MAPより
 現在は其処に1967年頃鉄筋4階建てのマンション型社宅が建った。1968年から我が家も父の八代勤務が終了し東京本社・常務に栄転となり3年間此処の社宅に舞い戻って生活した。※2021年現在またまた変化している模様。
GOOGLE MAPより

2つ上の航空写真の右下部分に見える一里塚(日本橋から一里)。YAHOOフリー画像より

 幼稚園年代の子供が一人で省線(当時の国鉄の電車は鉄道省の名残りでこう呼んでいた)に乗る事は有り得なかったのでこの坂に行ったのは数える程しかない。で、この社宅の正門の対面に渋沢栄一の屋敷が在った。

 今も庭園に成っていて記念館も存在するが場所は全然変わっていないようだ。或る時其処がそんな有名人物の屋敷などとは知りもしない私は植木の隙間から賑やかに開催されていたガーデンパーティに紛れ込んでしまったようだ。

 おぼろげながらの記憶をたどると、シルクハットのようなモノを被った紳士風の酒臭いオヤジの膝の上に乗せられて小一時間一緒に居たのを覚えている。その後風呂敷に包まれた重たい包みを持たされ、黒い服を着た人が2名我が家まで付いてきて母親と祖母に引き渡された。

 とうとう名前は判らなかったが相当偉い人の様で、後でこっぴどく祖母に叱られたのを覚えている。持たされたのはお重箱で料理が一杯詰まっていた。膝に乗せてくれた人は政治家だったのか財界の人だったのか、はたまた皇族だったのか知らないが、そういう人種に取り入るのがうまい子供だったらしい。
赤い矢印が我が家(3軒長屋の南端)左が渋沢栄一邸の庭園(園遊会場)GOOGLE MAPより

 ちなみに子供の頃は祖母の教育方針で父母をお父様、お母様と呼ぶように育てられていたので、シルクハットの叔父さんに何かを勘違いされたのかもしれない。この父方の祖母は東京女高師(お茶の水女子大の前身)に入るのに尋常小学校で特進級したため年が若すぎて水道橋の研数学館という予備塾で1年待ったらしい。実はこの研数学館にはこの私も在籍した事が有ったので祖母は大先輩にあたる訳だ。

 その事を祖母に話したら、こちらが大学受験生での在籍なのを知っていて「お前も特進かえ?」と嫌みたっぷりに返されたのを覚えている。 

 で、その祖母「新庄よし子」は何故か旅順の日露戦争戦勝記念に建立された表忠塔(現白玉山塔)における記念集合写真が残っている。しかも東郷平八郎元帥かもしれない軍服姿の人物と一緒だから驚かされる。満鉄特急亜細亜号にも1車両貸し切りで乗ったというので、一体我が祖母はどういう素性の人物なのか知りたかったが、我が父は詳しい事は一切話してくれなかった。きっと東京女高師の修学旅行か何かだろうとは思う。鳥取県境港の出と云う事しか知らない。

 境港と言えば今や「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるで有名になっているが、日本海側の大漁港だ。しかし、この婆さん「日本幼稚園史」という本を倉橋惣三という教育者と共著で執筆している。この私が野鳥の写真集を出していると聞いたらきっと驚く事だろう。

右から4人目黒っぽい和服が我が祖母・新庄よし子、その左手前の軍服が東郷さん?

上の記念写真を撮影したのがこの旅順に在る日露戦争記念・表忠塔(現白玉山塔)の正面階段。YAHOOフリー画像より

 この祖母と厳しい両親の元で悪戯ばかりして育った幼稚園該当年齢時代は、とにかく遊びの事しか覚えていない。まだこの頃は幼稚園や保育園へ行っていない子供も多かったので、普段社宅で遊ぶには相手に困ったことは無い。

 東京の真ん中でもトンボや蝶々は沢山居たし、トンボとりや蝉取りなども1円で買える鳥もちで盛んに竹竿の先にしごいて延ばして付けて獲ったものだ。この鳥もちはカンカンに入れて何度も何度も付かなくなるまで再生利用した。
 
 当時の駄菓子屋は子供たちの小宇宙だった。横綱鏡里と千代の山、吉葉山の時代で、まだ栃錦、若乃花の時代より前だ。当然テレビなどは無くラジオ中心の生活だった。

 NHKラジオでは「尋ね人」という番組を毎日夕方やっていて満州などから引き揚げてきた人たちが今何処でどうしているかなどを捜す番組だった。今考えるともの凄い時代だったのだと思う。

 そういう背景で、小学校の入学試験を受ける事に成った。

 もう団塊世代は競争競争、試験試験だが特に我が家は教育ママだったのか小学校の時から試験を受けて入る学校を受けさせられた。東京学芸大学附属追分小学校という名前で本郷追分に在った。

 現在は文京区立第6中学校に成っているが鉄筋コンクリートの建物は当時の小学校のままかも知れない、校庭は当時から全面コンクリートでプールまであった。給食もあって後に転校する小倉の市立中島小学校とはすべてに於いて異次元の都会の小学校だった。
左上が本郷追分交差点傍の東京学芸大学附属追分小学校、右は東京大学農学部         GOOGLE MAPより

 この小学校は筆記試験と何と籤引きの二本立ての入試で生徒を選抜した。試験は通ったが2人に1人しか当選しないガラポンのくじ引きで最終の合格不合格を決めたのだった。

 だから私はガラポンのくじ引きは、町内の歳末大売り出しより先に自分の人生を決めるもの凄いくじ引きを経験して、なおかつ当選!合格したのだった。

 我が母は列に並んだ前の子が白い球を出して合格したのを視て「俊郎!もう駄目だから帰ろう」と手を強く曳いて帰ろうとするのをしゃがんで振りほどき、走って台に乗ってガラポンを廻した。
 そうしたら白い球が出た。我が母は気が弱いせいか観ていられなかったのだろう。「ほーら白い球が出たよ!」と自慢げに見せたら大変喜んだ。

 既に私は小学校入学前に親孝行していたのだ。

 そうして、記念に白い球を持って帰ろうとしたら係員が飛んできて返せと言う。抽籤のガラポンの玉を何度も戻して使う事を知らなかったのだ。

 しかし、せっかくの思いをして入学したこの小学校だったが、1年生の1学期通っただけで転校する事になってしまう。激動の我が転校の人生はここから始まるのだった。