2025年12月2日火曜日

団塊世代が想い出す「荒井由実」の頃。 The baby boomer generation remembers the time of "Arai Yumi"

  12月に入って雨は降るものの一度も雨粒に濡れないで済んだ…というFacebookへのひょんな投稿から荒井由実の「12月の雨」という曲が団塊爺の頭に浮かんだ。

 で、忘れないうちにこの「12月の雨」という曲から当時の荒井由実に関する想い出話をこのヤマセミWEBブログに残しておこうと思いたったのが今日のこの投稿。

12月の雨は荒井由実2枚目のLPに入っている。

 ユーミンこと荒井由実、一時は松任谷由実と名乗っていた「歌う元美大生」は、その一風変わった性格・行動を同時期同じ美大で学んだ銀座の広告代理店の元同僚女史から色々聞いていた。

 もう45年も前の話なので記憶が定かでない為、詳しい話・面白い話、驚く話は省くが、目立ちたがりだったことはその数々の奇をてらった行動(聴いた話)からして間違いなかったようだ。

 筆者は横浜の丘の上の大学を出た後、青山のVAN宣伝販促部(後に宣伝部と販促部に分割、筆者は販促部)に1973年の新入社員として入社し、1978年7月会社更生法申請により事実上倒産するまで5年間在籍した。

 倒産後、二人の子供を抱えてとにかく収入を得るため新聞広告の切れっ端を持ってトリンプという外資系女性インナーの会社の宣伝課長として採用され転職(正確には倒産失職⇒再就職)した。しかし、たった1年2か月で当時の西ドイツ本社と大喧嘩して離職(実はその時、次の銀座の広告代理店が既に決まっていた。)

 その3社目という銀座の中堅広告代理店の同僚が美大時代ユーミンこと荒井由実と同じ授業を取っていたというのだ。


 縁は異なものというが、この荒井由実さんに関しては聞いた話だけでは済まず、VAN倒産後1979年12月25日に原宿ラフォーレで行われた「ユーミンとアイビー・クリスマスパーティ」というイベントに駆り出され、直接荒井由実さんと話したり、イベントを実施する事に成ったのだ。

筆者右から二人目、右端がVAN同期の天才横田哲夫氏、このパーティのプロデューサー。

筆者は所属していたアイスホッケーVangurdsのユニフォーム・スタジャンを着て出席。

彼こそラフォーレ原宿の「ユーミンとアイビー・クリスマスパーティ」のプロデューサー天才横田哲夫氏(VANの同期でサイクル・ロードレーサーでもある)

 もともとこの原宿ラフォーレでの「アイビー・クリスマスパーティ」はVAN1973年同期入社の天才・横田哲夫氏の発案で始まったIVYスピリットでクリスマスを楽しむ集いだったのだ。これにユーミン・ブランドが乗っかったのが1979年のクリスマスだったように思う。


 そのユーミンこと荒井由実の曲に接したのは青山のVAN在籍中の1975年FM東京かなんかの番組で昔を懐かしむ「あの日に帰りたい」という特集があり、そのテーマソングで何度も流れた荒井由実の「あの日に帰りたい」を繰り返し聴いて初めて知ったのだった。

 最初はこの番組の為に作られた曲かと思って聴いていたのだが、曲の方が先だと知ったのは番組が終わってからだった。

 オールディズ・レコードの輸入盤コレクターでもある筆者が映画「アメリカン・グラフィティ」のヒットも相まってその番組に夢中になったのはまさに神の啓示とでも言うか、この荒井由実の曲が導いたと思ってもらって良いと思う。

 原宿ラフォーレでのIVYパーティはその4年後なのだから、その間荒井由実の曲はレコードで散々聴いている。持っているLPは初期のこの8枚だけ。この後はコマーシャリズムに乗って皆同じに聞こえるので興味を失ってしまった。

問題の「12月の雨」は2枚目のLPミスリムに収録されている。筆者思うに荒井由実で好きな曲ベスト10曲にトップで入る曲だ。

11973年11月20日ひこうき雲9位
21974年10月5日MISSLIM8位
31975年6月20日COBALT HOUR2位
41976年11月20日14番目の月1位
51978年3月5日紅雀2位
61978年11月5日流線形'804位
71979年7月20日OLIVE5位
81979年12月1日悲しいほどお天気6位
この後は漫画「気まぐれコンセプト」のホイチョイ・プロダクションだの、映画「私をスキーに連れて行って」のヒットなどで苗場スキー場ゲレンデに朝から晩までユーミンが流れて狂いそうになったので「荒井由実」とは色んな意味でこの頃おさらばした。

ホイチョイの「私をスキーに連れて行って」の頃のスキーファッションとVAN卒業生・元社員たちのスキースタイルはあまりにかけ離れていて、ミーハーなスキーウエアメーカーお仕着せのスタイルは絶対にしなかった。

 唯一、マガジンハウスの雑誌「オリーブ」の編集部でウインドサーフィン関連を連載し手伝っていた頃、編集スタッフの間でユーミンに関する文化論が高まったことが有った。1982年頃の話。

 その中で、自分が聴いた初期のユーミン曲は大きく三つに分けられるという話を編集部でしたことが有った。それはこの3種類・・・。

①一人でシンミリ聴く曲、「海を見ていた午後」「卒業写真」「12月の雨」など

②愛する二人でデレデレしながら聴く曲、「中央フリーウエイ」「ディステニー」

③皆でワイワイしながら歌う曲、「恋人がサンタクロース」「ルージュの伝言」など

 いずれも一部③を除いて当初の8枚のLPに入っている曲。一人称、二人称の愁いを帯びた曲で売り出した荒井由実だが商業ベースに乗って万人受けする明るい曲も出さざるを得なかったのだろう。

 初期のヒット曲がプロコルハルムの「青い影」つまり元曲のバロック音源を更にカスタマイズさせヒットさせた辺りは、団塊世代と同じでアメリカンポップス=オールディズで育った耳を持って曲作りをした事が見え見え。団塊世代には良く判る。

 オールディスに限らず、「気ままな朝帰り」などは、ギルバート・オサリバンの「クレア」そのままに近い。
 例の原宿ラフォーレの「アイビー・クリスマスパーティ」の際、同じバスで目白の東京カテドラルへミサに行った際(確かユーミンは此処でピアノの弾き歌いをしたはず)帰りのバスで前の席の荒井由実さんに確かめたら慌てて「あれはマンタがやったんだからねっ!」と半分認めていた。※マンタとは旦那様・松任谷正隆氏の事

 いずれにしても湘南サウンドと呼ばれる日本の1970年以降のポップ・ヒット曲の多くは、米国ポップミュージックを脳に摺込まれた団塊世代附近の人々によって作り出されたものだと言って良い。

 その頃今の生成AIが在ったら曲作りはイージー過ぎて大変な事に成っていたろうと思う。似た様な曲ばかり沢山出来ただろう・・・。

 やはりこの辺りは1970年代から活躍するクリエーターたちの感じた、本人だけの琴線に触れた海外の原曲を基に自分で苦労し新たな曲を生み出した努力を大いに認めたい。

 荒井由実と対極をなす竹内まりあがBEATLESやマージービート系をベースに曲作りをしている流れも、団塊爺的にはとても嬉しい。

 団塊世代はレコードで育った世代なのでアーティストのステージ演奏やアニメーションなど「映像」が無いと曲を楽しめないなどという最近の人たちとは全然音感・脳が違う。

 シングルレコードの袋に入ったたった一枚の写真だけを眺めながら曲を楽しめる「空想力・想像力」が今の人たちと違ってもの凄いのだ。

 この手の話、話し出したら団塊世代は止まらない・・・、今日はこの辺で。