2022年6月19日日曜日

団塊世代は先週末に引き続き疑問に思うことがやたら多い・・・の昨日の続き。The baby-boomer generation has a lot of doubts these days,again2.

  団塊爺が気になる世間のメディア報道。今日は①学校での「あだ名・ニックネームの禁止」「さん付け推奨」の話。

 もう1件は②知床観光船事故の後始末・処分・・について。これはまた次回にしよう。

 まず、あだ名・ニックネームの禁止について。これって「デブ、ハゲ、チビ、匂う」と言ったような身体的特徴を「侮辱的・屈辱的名」で呼び合うから苛めにつながる、いじめを苦にしての自殺や引きこもり・不登校に繋がる・・と教育関係者や学校の先生が推し進めていると聞く。


この記事中にもあるが「違和感を覚える」程度の事ではないと思う。火を消すに水をかけるどころか油を注ぐようなものだと思う。

 これに筆者は二つの点で納得しかねる。一つはあだ名、ニックネームをやめさせて「苛め」は本当になくなるのか?無くならなかった場合、これを推し進めた先生や教育者はどう責任取るのだろう?筆者は絶対になくならないと思う。

 第一、あだ名やニックネームは「仲良い結果、人気者の証」として生まれる方がはるかに多いと実体験から感ずるからだ。子供たちの間に自主的なアイディアで出来た「あだ名・ニックネーム」を一方的に根拠もなく苛めの原点と決めつけ、何か起きてメディアに教育姿勢を問われた際のアリバイの為止めさせる等ということはもってのほかと考える。

 ほとんどの教育者や先生が知らない、あるいは忘れている事がある。それは「番長」の存在だ。1970年代一部の漫画家が「番長」を学校で一番の乱暴者・問題児的に表現したため「番長=悪ガキ=チンピラ登竜門」のイメージが出来たようだが、実際は違う、団塊世代以後の世代は皆知らないんだ。現在よりはるかに子供の数が多かった時代、子供の世界の秩序はある程度子供たち同士で作り収めていた。

 それは今と違い、親がしっかりしていて各家庭で最低限の「躾け」を行っていたからだろう。しつけは家庭で、教育は学校と家庭で・・が当時の日本の一般家庭だった。母親・父親が子供の躾けや教育を放置し無責任に学校に放り投げて社会進出を図ったツケが今回ってきているのではないだろうか?

 働いているから時間がない、子供の面倒を見られない、・・・言い訳はいくらでもできよう。しかし子供を作った責任、育てる義務を放置して己の権利(働く・男女同権)ばかり主張するバカ親たちの出来損ないの価値観・常識が現在の子供たちの不登校・苛め・自殺に繋がっているのではないだろうか?

 もしも、あだ名やニックネームが苛めの根源なら、人口が一番多い「団塊世代」から苛めを苦にしての自殺者や引きこもりがもっと沢山出たはずだろう?

 話を戻すと、団塊世代が小中学校時代は全クラスを通しての「番長」がいた。勿論育ちが早くて体格が良い者、したがって自ずから物理的にも腕力が強い者が皆に押されて「番長」になった。決して頭脳明晰とは限らない、むしろ成績は中の下で弁も立たないタイプが多かった。

 しかし、番長には先生も一目置いており、生徒誰から見ても信頼関係がある事は判っていた。大体において昔の先生は怖かったし威厳があったし生徒も尊敬していた。

 番長は弱い者苛めをする奴、卑怯な奴、先生にウソを言いつける奴には容赦しなかった。特にまだ成長期前で体も小さく背も低く体力的に弱い者がいじめられると「弱いものをかばう、いじめる奴を諫める」を代行する生徒同士の安全保障条約機構が自然的に出来上がっていたのだ。

 要は、子供同士の事は子供同士で解決する時代だった。学校で先生に叱られると「何で先生に叱られるようなことをするのだ!」と家に帰っても親に叱られた。親も子供が先生に叱られるような不始末を起こす事を「自分の家での躾け(=しつけ)が足りない」・・と恥じた時代だ。

 それがどうだ?今は子供が先生に叱られようものならクレーマーペアレンツとなって学校に押しかけ「訴える!」と息巻く時代になってしまった。基本的にしつけは家庭で親が行うもの、学校は学問を教えるところ・・・と決まっていたのがいつの間にか学校で躾けまで行うのが当たり前になってしまい、無責任でいい加減なメディアまで「それが普通」そう思い込み始めたのが1980年頃だ。

 TVで死亡保険のコマーシャルになど出る自称教育者のタレントなど、数名しか日本には教育者が居ないのか?メディアが一番現在の子供の教育をゆがめていると言って良い。今の世の中にはとても通用しないかっての著名な教育者を祭り上げる現在の日本の教育者・先生たち。あなた方が今の日本の「学校」をダメにしているのを分かっているだろうか?しばらく廊下に立っていなさい!

 あだ名禁止の話に戻ろう。

 二つ目は前出の通り、あだ名の類は「仲良い結果、人気者の証」として生まれる方がはるかに多い事を考えるとき、やめた場合のしらけムード、良い効果をどう考えるのだ?

 筆者の小中学校時代(なんと6か所に通った)に高校時代のクラスメートのあだ名は、マンボ、ピカソ、シューちゃん、コッペ、モンチ、オカネ、モーリー、ボーンズ、オチャラ、ガラ、大人の想像をはるかに超えた発想力だと今にして思うのだ。自分のあだ名が嫌だったらちゃんと文句を言うし、周りもやめるのが当時のお約束だった。現在も子供たちにまずそうさせるのが大事なのにしないではないか?

 ちなみに筆者も足のふくらはぎが異様に太く、「子持ちシシャモ」だのお尻が出ていてバスタオルをひっかけても落ちなかった事から「ホッテントット」と呼ばれた時期もあったが大して気にならなかった。

 これらあだ名持ちのすべてがいずれも当時人気者(筆者は除く)だった事を考えるとき、今の教育者たちの実情を知らない、子供たちの心を判っていない、そうして発想力がない実情を憂えるのだ。

 一方で、

 高木ブー(そのまま)、永ちゃん(矢沢永吉)、キンキン(愛川欽也)、キョンキョン(小泉今日子)、ガッキー(新垣結衣)アラーキー(荒木経惟)、リンダ(NHKの林田理沙アナ)ポッと考えるだけでもこれの10倍以上のあだ名・ニックネームがある芸能関係・スポーツ関係を先生や教育者はどう説明するのだ?「芸能人やスポーツ選手はいいの!」では差別だろう?どう納得させるのだ?結局逆効果ではないのか?

 チョーさん(長嶋茂雄)ワンちゃん(王貞治)ウルフ(千代の富士)など愛称で大人気、あるいは大人気だからこそ付くあだ名を否定する教育者たち、目を覚ましなさい!

 メディアも時代錯誤も甚だしいが、いつもの上から目線で高圧的、偉そうな社説の見出しでこれら「あだ名・ニックネーム問題」の教育者たちを糾弾すべきではないのか?

見出しを観る都度筆者は思う、「なんて思いあがったメディアなのだろう?」