石津謙介社長個人に関しては、倒産後筆者よりはるかに身近に居て、その人と成りを良く知っているミスターKent横田哲男氏が青春VAN日記に詳しく述べているので、筆者は数回で石津謙介社長個人とのコミュニケーション話は終わりたいと思う。何度も繰り返すが石津謙介社長は大勢の前での立場と、相手が誰であれ1対1の場合では人が変わったように、そのポジションを明快に分けていた。On dutyとOff dutyとも少し違う。企業組織の長としての立場と服飾デザイナーとしての立場、公の社長としての立場と趣味人個人としての立場の使い分けとでも言おうか、非常にT・P・Oをわきまえたきめ細かい器用な方だった。
一度ビルの外装を綺麗にしたので末期の本館は真っ白いビルになっていた。
飲食・料理の話になると止まらなかったという事は前回述べたとおりだが、勿論ファッション・風俗に関しては徹夜もいとわぬ議論好きだった。これはご本人から直接聴いた話だから間違いないが、表参道と青山通り国道246がぶつかる交差点、今は表参道交差点と呼ばれ、真下には地下鉄が3本交差する表参道駅が在る交通の要所だ。その角のビルの屋上に当時大きな看板が立っていてDESCENTE(=スポーツウエア・デサント)のロゴ広告が出ていた。
屋上の看板は本当はカタカナのデサントだったような気がする。これは合成画像。
ヴァン ヂャケットの社員は、自分達は日本有数ファッション企業の社員だとの誇りと自負の念が在ったから、このデサントの看板はあまり気にしていなかった。せいぜいスキーウエアだとかトレーニングの上下を造る会社程度の認識で通勤の途中このロゴ看板を見ていたものと思う。
しかし石津社長はその時周りに居た我々数名に向かってこう言われた。「もう直ぐ男の子達はブレザーにネクタイ、あるいはセーターにダッフルコートでデートなんかしなくなるよ。あのデサントじゃないけれど、スポーツウエアにスニーカーでデートする様になるな。皆も良くリサーチしておかないと大変な事になるぞ。」 衝撃的だった。まじまじと石津社長の顔を見てしまったが、決して眼は笑っていなかった。
1977年4月に日本の若者達を変えたあの「雑誌ポパイ」が当時の平凡出版社から発売された。1976年に数タイプの違う大きさ装丁で準備号が出された後、1977年4月10日付けの号から定期出版物になり、今までの常識を破ったアンアンと同じで月二回の発行だった。雑誌としては週刊誌に次ぐサイクルで発行されるスピーディな情報アイテムになった。それによりアメリカ西海岸のファッション・風俗・文化・生活ポリシーが、それまでの月刊誌の倍のスピードで一気に日本に入って来た。その結果気が付いたらアッと言う間に西海岸のブランド、音楽、ライフスタイルがこの新しい雑誌ポパイと共に東京の街に満ち溢れていった。ある意味ヴァン
ヂャケットを倒産させた要因を挙げよ、と言われたら筆者はまず筆頭格にこの雑誌ポパイを上げる。しかし別に怨んでいないし悪いことだとも思わない。当時は色々な要素が絡み合って、ちょうど世の中が変わる瞬間だったのだろうと思っている。
1976年に数種類の違うポパイ創刊準備号が出たがこれは正真正銘最初のバージョン。
1970年大阪万博の時に創刊されたアンアン。ロンドン動物園のパンダの名前だった。この本は倒産時の混乱でオレンジハウスのゴミ箱に捨ててあったものを大切に持ち帰ったもの。
まさか倒産に至る程の自社の行く末を予測していた訳では無いだろうが、世の中の変化に敏感に気が付いていた石津社長の先を視る目はやはり鋭かった。好むと好まざるに関わらず、この文化・風俗、そしてファッション界への新しい流れがヴァン
ヂャケットを包み込むのに、そう長い時間は掛からなかった。
1977年4月10日号。事実上のレギュラー創刊号だ。今表紙のイラストを描いた本森隆史氏は当時ヴァン ヂャケットの意匠室に所属していた。彼がアイスホッケーの社内大会用に描いた手描きの告知ポスターは奪い合いになるほどの人気を博していた。結果としてヴァン
ヂャケット倒産のきっかけの1つ雑誌ポパイの表紙を描いたのが、他でもないヴァン ヂャケットの社員と言うのも
因縁深い話だ。
こちらはレギュラー定期出版になった実質最初の号のポパイ。これはちゃんと本屋さんで購入。同期の内坂君が編集部員として活躍した大切な実質創刊号。その後内坂君のおかげで幾度か編集に参加させていただき、雑誌編集のウラ舞台を勉強出来たのは非常に大きな経験だった。
ポパイという雑誌は発刊当初からアメリカ西海岸に限らず東海岸でのラルフ・ローレン、ポール・スチュアートなどの新しい都会型トラッド系ブランドの紹介を毎号繰り返し始めていた。一方でそれに呼応してだろうか、原宿を中心にBeamsやShipsなどの高額少量多品種販売店が急速に人気を集め始めていた。この文化・風俗、そしてファッション界への新しい流れがヴァン
ヂャケットをも包み込むのに、そう長い時間は掛からなかった。
ヒタヒタと新しい潮が満ち始めて来ているのを、情報アンテナを沢山張ったヴァン
ヂャケットの社員達は見逃さなかった。特に企画から商品が完成するまで10ヶ月以上掛かるヴァン ヂャケットの従来型の生産システムで、これら早いサイクルで届く海外ファッション情報に付いて行くのは既に物理的に無理だった。そういう事は特に社内のモノ造り・製作関連の部署の人間は当時痛いほど判っていたと思う。
既に石津社長自身も、各方面からの情報と独特の嗅覚でヴァン
ヂャケットの行く末を悟っていたのではないだろうかと最近思う事が多い。
ヴァン ヂャケット倒産後、2ヶ月も経たない内にいち早く倒産を惜しむ追悼号とも言える特集を組んだのが雑誌ポパイだったのも非常に因縁深い。当時は非常に驚かされ大変複雑な気持ちになった。同時にメディアの変わり身の早さにも驚かされた。
この号が出た時は「何でこんなに早く!」と、まるで倒産するのを待っていたかのような早い特集に正直少しムカついたのを覚えている。
話は少し外れるが、昔ヴァン ヂャケットの得意先で山口県の宇部市の繁華街にVAN取り扱いショップ「メンズショップOS」というお店が在った。このお店にいたのが今のユニクロの柳井社長だ。彼も筆者と同じ1948年生まれの団塊世代のど真ん中の人間だ。早稲田大学卒と言うのもたった10日間ほどの在籍だったが筆者と同じでちょっと不気味。
この柳井正氏を博報堂に在職中2006年頃渋谷のマークシティに在った当時の本社に訪問し2時間ほど話しをした事があった。社長室だろうと思われる部屋に通されて、同行者と共にファッションや団塊世代のこれからについて話しをしたが、決して自分からモノを言わない人だった。色々な話、考えを相手に喋らせて、聴いていく中から情報を吸収し、自分なりの方向性を選ぶと言った感じで、会話の中にオリジナリティを感じることは無かった。きっと初めての人とは本気で話しをしないのだろう。
そういう意味では、常に独自性・ユニークさを追及したサービス精神の塊のような石津謙介社長とは真反対側の人間だと思った。社長室・それに繋がる応接室自体も無味乾燥、よく言えばクール(決してカッコ良いという意味のCoolではなく)でモノクロのニューヨークらしい写真が幾つか飾ってあり、ごく初期のスターバックス・コーヒーショップ店内のようだった。メキシコの大きな帽子ソンブレロからイタリア関係の数々の小物、木枠の額に入った英国のタータンマップ等が所狭しと飾られていた石津社長の社長室とはいささか・・・というより月とスッポンのような雰囲気だった。同じアパレル業界の社長像としてもプロデューサー・デザイナーと完全ビジネスマンとの違いが如実に感じられた。
今日3月29日の早朝から熊本・鹿児島・長崎へ探鳥撮影行に出る為、またまた来週の「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」はお休み頂く事に成る。今後はVAN倒産へ向かって進む色々なエピソードを予定している。