2015年3月15日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #099」 ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その9。「内見会といえば・・・その2.」

コンセプト・ボードの大成功は軽部キャップの小躍りするような内見会事後報告で部員全体がよく理解できた。やはり営業あってこその販売促進部というスタンスは部員全体が良く刷り込まれていたからだろう。営業売り上げ目標という具体的・数値的な成果が無い、宣伝・販促と言ったスタッフ部門ではこういった実働部隊の「感謝・悦び」を知ってこそ、自分達セクションの存在意義を確認できるのだった。広告代理店(後に自分が属す事になるのだが)はこういった製造業クライアントの内部的な事実をまったく知ろうとせずに、グイグイ提案ばかりされて嫌われる事に気が付かない。
このヴァン ヂャケットでの経験は後の人生に非常に役立った貴重なものだった。

こういう喜びは直ぐに仕事に反映された。その次の内見会には更に進んだ技術を駆使して、得意先を唸らせたいという販売促進部の一種独特な職業病のような症状が生まれるのだった。

 そこで我々販促部員が取った次のステップは、紙芝居(=コンセプト・ボード)をスライドで一度に大人数に対して見せようというもの。勿論既に完成して数年が経っていた99Hallでの上映を目論んでいた。しかしこれは最初にコンセプト・ボードを作成して複写してスライド化する方法を採るだけでは意味を成さなかった。白いボードに雑誌から切り抜いたイメージ写真を貼り、文字をインレタ(=インスタントレタリング・一種のデザイン処理用画材)で貼ると、上映した際写真と背景のボードの白さがハレーションを起こして非常に観づらくなるという難点が発見されたのだ。

 もうこうなると、完全にスライドの機能を理解しストーリー作りから入らなければ、コンセプト・ストーリーは完成しなかった。VANブランド、Kentブランド、MINI・BOYSブランドそれぞれにコンセプト・ストーリーを作成。無言のスライドを紙芝居のように送り、口頭で活弁士が喋る昔の映画ではあまりにお粗末だという事で、BGMを入れ、ディスプレイは実際にSD部の池田CAPが行い、筆者が撮影してスライド化してストーリーに入れ込んだ。ナレーションも最初の内見会は我々が吹き込み完全な手造りスライドショーになった。
スライドショーの画面に欠かせなかったのがVANのロゴインスタントレタリングだった。

最終的な1978年春夏バージョンでは新たなブランド・SCENE(シーン)もあわせて製作した。ヴァン ヂャケット倒産時に退社する際、各人がそれぞれ色々なモノ(ステッカーや紙袋、本や資料、サンプル)を持って帰ったが、筆者はいの一番にこの想い入れ深い販促物だけは何としても後世に残すべき知的財産だと持って帰って置いたのが功を奏した。今VANSITEで誰もが見られるようになって保存しておいて良かったと安堵している。
                              
VANコンセプトスライド= http://vansite.net/78ssvansalespromo1.html  
SCENEコンセプトスライド= http://vansite.net/78ssvansalespromo2.html

VANブランドの伝統的毛皮の防寒ウエアから

SCENEブランドのダウンジャケットへ時代は変わりつつあった。双方現存使用中。

 筆者は主に商品ディスプレイ、店舗、などの撮影と全体の構成、音入れなどスライドショウの根幹メカニックを担当した。前出の通り最初の頃は単純に画面が切り替わり販促部の人間のナレーションで実施したが、大勢を相手の上映時にそれはあまりにみすぼらしいとの話で予算が3倍になったので、プロのナレーターを雇い、画面もフェードアウト+フェードインを行う為に2台・3台のプロジェクターを連動させる高度なスライドショウへと進化していった。しかしこのメカは自分にしか判らなかったので風邪を引いて休みそうになろうものなら大騒ぎだった。

 観ていただければ判るが、画面の写真は海外のファッション雑誌やアウトドア雑誌、1960年代のキャンパスが出ている雑誌等だった。神田の古本屋に何度通ったことか。背景のBGM等は当時流行っていた音楽を中心に取り入れた。もちろんオープンで見せる物ではないので著作権協会JASRACなどへの届出は行わなかったし、街中で撮影した人々の顔写真も今ほど個人保護法等なかった時代なのでそのまま露出した。※現在は街中撮影の個人の顔にはマスクを入れた。

この紙芝居(=コンセプト・ボード)でのプレゼンテーション以来、得意先に対して説得する方法としてとんでもない「嘘技法」を思いついたことがあった。今の世の中では既に当たり前のような手法だが、当時1976年頃はまだまだこういう手法は使われて居なかったように思う。
それは何かというと、例えばグレイフランネルのスーツなりジャケットを拡販しなければならない(理由は前回説明)様な場合、幾ら口頭で力説しても大手の百貨店さんバイヤーはなかなか信用してくれない。
其処でニューヨークに出張してウォールストリート、マジソンスクェアー等の交差点で信号待ちしているビジネスマンの写真を山ほど撮ってくるのだ。そうして、その中からグレー系のスーツやジャケットを着用している者だけをトリミングで集めてスライドで流すのだ。
勿論ニューヨークだから紺系、ブラウン系、グリーン系、更には柄の激しい者などは沢山居る。
しかし、グレー系だけを選りすぐって並べて見せると大手百貨店のバイヤーさんたちは、いとも簡単に信用してくれてしまった。筆者は決してその効果に驚いてその後広告業界に入ったわけではないが、あまりの効果に相当ショックを受けたのは間違いない。そんな事をしても良いのだろうかと、少々後ろめたかったのも覚えているが、会社が儲かることなら正しいのだろうと思ったのも確かだった。

筆者は今、66歳にして野鳥写真の撮影、特にヤマセミの生態観察撮影に熱中しているが、そのきっかけになったのがこのヴァン ヂャケットでの販促部の仕事の数々だったことは紛れもない事実だ。
何故ヤマセミの観察と撮影に熱中するか?それは勿論このヤマセミという野鳥の生態が面白くてユニークですっかり虜になってしまったからなのだが、同時に何処をどのように調べてもヤマセミに関する詳しい文献や資料や写真が無いからだった。プロの写真家と称する者がヤマセミの習性を利用して羽根を広げて日常いつも留まる留まり木に細工をして、留まる瞬間を待ち構えてストロボ撮影したり、川底の砂に御椀状の窪みをこしらえて流れを変えヤマセミの餌になる小魚が集まりやすくし、飛び込んで採餌する瞬間を収録した動画や静止画は幾らでも見た。NHKでも盛んに流したあれだ。しかし、そのユニークなヤマセミの生態や行動が詳細な纏まったレポートになっているのを見たことがない。在っても佇まいや外側から見た一般的な生態だけだった。
水中から拾った棒切れを何度も空中に放り投げて咥え遊ぶ?ヤマセミの珍しい生態。

野鳥や鶏を描いたら右に出るものが居ないといわれる、かの江戸時代の天才伊藤若冲ですら、ヤマセミは描いていない。何故か?理由は被写体のヤマセミに出遭えなかったからだろうと推察している。若冲はモデルとしての鳥の死骸だけ目の前にしても絶対に描かない、生きた姿を観て描く物凄い観察力の持ち主だった。
彼の鶏の絵の中に二本の足の間から首を反対側に出している奇妙な絵が在る。実際に名古屋の養鶏場のベテラン職員が「過去に一度だけ実際にそういう場面を目撃した」と言っているほど珍しいシーンを記憶して描いているのだ。そういう意味からするとヤマセミは同属のカワセミあるいはその他の鶏や鴨類、小鳥等に比べてその絶対数が圧倒的に少ない野鳥だから、さすがの若冲もしっかりと観察して描くチャンスを持たなかったのだろう。
伊藤若冲・芙蓉双鶏図(部分) Googleフリー画像より

要は何が言いたいかと言うと、他の誰もやらないことにチャレンジする、新領域を開拓するという事に無上の喜びを感ずるようになってしまったのだ。野鳥を撮るにしても木々や岩の上に留まっている姿より空を飛んでいる所をフレームに納めたい、あるいは何か生態的に意味のある行動をしている場面を記録的に画像に収録したいと思うのだ。鳥類図鑑のような接近して綺麗な写真を撮りたいとはあまり思わない。

 このヴァン ヂャケット販売促進時代の内見会にまつわる仕事の数々は、そういう訳で自分の今在る姿のもっとも基本に成っている事を再確認させてくれた訳だ。

参考出典サイト・ VAN SITE= http://vansite.net/vansitemap.htm