2014年3月25日火曜日

ヤマセミの超ロングダイブ採餌 The Bait hunting scene by the long-distance dive of the crested kingfisher

 全国でヤマセミの採餌はあちこちで観られている事と思うし、撮影される方も沢山居よう。このブログでも幾度もヤマセミのダイブ、あるいはホバリングからの採餌シーンをご紹介したが、今回撮影したロングダイブは普通考えられない距離だった。

 最初は川沿いの堤防から高さ7m位の街灯に留まった状態からのダイブだったが堤防から水面までの高さを加えると12m以上の髙さにはなる。その街灯からダイブしたポイントまでは50m以上は有った。最初は採餌の為のダイブとは思わなかったほど。

多分水平方向の採餌ダイブとしては記録的なものかもしれない。全くヤマセミの生態は何処までバリエーションが有るのだろうか、臨機応変過ぎてパターンにまとめられない事に戸惑いを感じ始めている。
髙い街灯の上で向きを変えたと思ったら、

弾丸状態で目線は遥かかなた。

遠くに人吉市内の橋を背にして

暫らく滑空状態を続け

再度魚を確認をして体を左に傾け

向きを変え

羽根をつぼめて加速する。

最後の詰めの段階。

水中に浅くダイブして

小さいながらも尻尾を確実にホールド、お見事な採餌ゲットの瞬間。




2014年3月24日月曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #26.」 1962年.昭和37年中学2年生の冒険・悪戯編。

 悪戯は沢山した。今でも時々夢に出てきて冷や汗をかく「多摩川中洲炎上事件」と云うのがある。炎上と云っても最近問題になっているTwitterやブログの炎上の事ではない。奥中時代放課後や休みの日に自転車仲間で奥沢・多摩川エリアを連日走り回っていたのだが、ある休みの日多摩川丸子橋から二子玉川間の川沿いを走っていて中洲に渡れる場所を発見!皆で渡ってそこで2B弾という爆竹を破裂させながら遊んでいた。2B弾と云うのはマッチの頭の様に摩擦で発火する部分が付いた音声爆竹で、たしか1本2円程度だったと思う。100円で50本くらい買えるので中学生の小遣いでも十分買えた。
これが中学生の遊びの必需品 ニービー弾 2B弾 

 同じ小遣いをためて自作ラジオの真空管を買う者と、爆竹を買う者の差が既にこの頃出来ていた訳だ。しかし、結果は爆竹派の方が遥かに人生経験を高める事に成るのはこの後の事件が物語っている。
 この2B弾の取り扱いは非常に単純で、マッチ箱でマッチの様に頭の部分を擦って、最初白い煙が出て5秒程度で黄色い煙が出る。この黄色い煙が出ると2秒ほどでBANG!と大きな音と共に爆発する。
 手に持ったまま爆発させても多少衝撃は有るもののやけどしたりはせず、極めて安全な子供を対象とした花火の一種だと思って良い。勿論眼の傍や耳の傍で破裂させれば危険である事は他の花火と一緒だ。
 で、自転車を走らせて友達と多摩川に向かっていた時、突然太もものあたりに「バン!」と音と衝撃が走り熱くなった。何事かと思って皆で止まり太ももを観たら左のポケットから煙が出ていた。
 ポケットに2B弾10発とマッチ箱を入れて自転車をこいだため、ポケットの中で自然に2B弾がマッチ箱をこすり点火したって訳だ。銃で撃たれたら多分こんな感じの数倍の感触なのだろうか?
 これで、マッチ箱と2B弾を同じポケットに入れるとエライ事に成るという体験をした。他の皆も慌てて2B弾とマッチを別のポケットに分離させたのは言うまでもない。

 多摩川の中州に到着して早速2B弾を擦っては投げ、擦っては投げいつもの通り遊んでいたのだが、そのうち1発が不発と云うか、シューッと炎を出して爆発をしなかった。この炎が中洲の枯草に燃え移って背の丈の2倍ほどの火柱になるのにそう時間は掛からなかった・・・というよりアッという間だった。一瞬、先週学校で観た映画「日本武尊=ヤマトタケルノミコト」が草原で敵の放った火に囲まれた時の事が頭に浮かんだが、こちらは勿論「草なぎの剣」など持ち合わせて無いので「やべー逃げるぞ!」の誰かの一言で膝まで川の水に浸かりながら自転車を押しながら苔むした玉石だらけの川床を渡って4人で神奈川県側、つまり川崎側に逃げた。
多摩川の川崎側にはまだ高い建物は無く富士山がいつも見えた。

 この時の驚きは炎だけではなかった。静かだから誰も居ないと思っていた広い中洲から釣り人が3名、一番驚いたのはアベックが2組も飛び出て来たことだった。どういう風体・様子であったかの描写は倫理規定を考慮しカットする事にする。とは言うものの実はこちらも慌てていたので残念ながら詳細部分の記憶は無い。しかし今だったら絶対に落ち着いてじっくり観察したと思う。
今の多摩川中洲、Google Mapより。50年前とはずいぶん違うようだ。しかし場所はこの辺り。

  その後は怖くなって川崎の新興住宅・宅地造成エリアをとにかく自転車で走った。早鐘の様に脈打つ心臓の鼓動を聞きながらどう逃げ回ったかまるで記憶にない。もちろん土地勘も無ければ方角も良く判らない。ただ丘の上から時々見え隠れする多摩川の流れを観ながら何とか丸子橋までたどり着いたのは1時間ほど経った頃だった。東京側に帰るにはこの丸子橋か上流の二子玉川の橋を渡るしかない。まさか燃やしてしまった中洲の浅瀬になど行ける訳もない。
当時放映していたNHKの「ハイウェイパトロール」など外国の刑事ドラマ番組の見過ぎだろうか?「丸子橋に非常線を張られていたら捕まってしまうな、捕まったら管轄は東京の警察だろうか?神奈川県の警察だろうか?自転車は一時隠して新丸子から東横線で田園調布まで行くか?」など輪になって4人で相談をした。しかし日も暮れてくるのでそーっとお互い離れて丸子橋を渡って帰る事にした。「犯人は必ず犯行現場へ戻って来るものだ」と少し後でTV刑事ドラマ「87分署」でキャレラ刑事が言ったセリフを聴いて「まさに真実だ」と納得した。
1シーズンだけだった「87分署」上段左がロバート・ランシング扮するスティーヴ・キャレラ刑事。上段右がマイヤー・マイヤー刑事でおとぼけの味が何とも言えなかった。

当時はTVガイドが良く売れたらしい。日本でもすぐに日本版が出た。

橋の上には結構見物人が沢山居て中洲方向を注視していた。遠い中洲をみると何処から降りたのだろう?赤い消防車が1台止まっていて中洲から一本細い黒い煙が真上に登っていた。そうしてその煙の先にボケた赤い夕陽がまさに沈んでいく所だった。この時の経験記憶は非常に鮮烈に脳の襞に刻まれている。
当時の丸子橋。東京側と川崎側で橋のデザインが違うのが面白い。今は掛け替わって味気なくなってしまった。

 この多摩川にはもう一つ大きな想い出がある。自作ロケット発射実験だ。当時スタートしたばかりのNASAのフォン・ブラウン博士(ドイツのV2号ロケット開発者)が初代NASAの長官に成り、ジョン・F・ケネディ大統領の後押しで新しいサターンロケットによる人類初の月着陸計画(1969年成功)を発表した直後だった為、科学好きの中学生たちの間ではロケットに関する話題・情報集めが盛んに行われた時でもあった。今考えると、後に東京工大、東京教育大、津田塾大などへ進学した秀才メンバーが寄り集まって、ロケットは何故飛ぶのか?黒板にロケットの燃焼室の図を描き、燃焼室内での爆発のエネルギー・ベクトルやノズル(噴射口)から出るベクトルを描いたりして喧々囂々議論したのも昨日のように思い出される。こちらは横で聴いているだけだったが、充分同じレベルの理解度で参加してはいた。
液体燃料ロケットの基本の仕組み。火薬で飛ばすロケットは固体燃料だからもっと簡単な仕組み。

 頭のいい連中は黒板上で、「あーでも無いこーでも無い」と討論していたが、こちらは実際のロケットを作って飛ばす方に興味がシフトした。理論はどうでもいいが実際に飛ぶんだからしょうがないだろ?父親の影響だろうか?「論より証拠」をモットーにロケットの模型を作って飛ばす方がどれだけ面白いか。
この壮大な中学生の計画遂行には鉄道模型制作実績と2B弾事件で火薬に詳しい事が幸いした。
科学雑誌を読み漁り、紙で造るロケットを調べ、固形燃料ロケットは燃料とロケット本体(外側)の重さが同じだと飛ばない、火薬の重量より相当軽いロケット本体でないと飛んで行かない事などを学んだ。そうして大型打ち上げ花火(もちろん玩具のだが)の火薬を取りだし水でこねて、真ん中が空洞の竹輪状にし、紙で作った筒に入れ、先頭部分には円錐状の神の弾頭を付けたロケットが完成したのは1963年の秋口だった。一番苦労したのはノズルの部分で、紙で造ればすぐに燃えてしまう、プラスティックは中学生では加工できない。結局鉄道模型製作で培った厚紙工作で結構精密に雑誌のロケットのノズルをトレースして縮尺実物を造り石膏で薄く固めアルミ箔を張って誤魔化した。このノズル製作には3日も掛かった。

 発射当日は一人で自転車に発射台にする雨どいの一部と仰角をつけるためのカメラの三脚とロケット本体などを積んで多摩川の河原に出かけた。場所はあの火事を起こした中洲のエリアだ。歩いて多摩川を渡れるのは其処しかなかったのでしょうがない。
 しかし風もなく晴れているので好都合なのだが搭乗員になる手ごろな大きさのバッタが河原にいない。皆デカすぎるのだ。秋口になってキリギリスなどは皆大きく成ってしまい、ロケットの先頭の円錐形の部分に入る小さなバッタが見つからないのだ。結局石の裏に居る通称便所虫、ワラジムシの一種を入れて発射する事にした。便所虫なら驚いたとき丸くなるので落下時の衝撃には体を丸くして堪えるだろうという勝手な想像だった。
飛んだ瞬間はこんなイメージだった。

  発射はアッという間で、予想をはるかに超えたほんの一瞬だった。導火線など無いのでセメダインを噴射口まで引いて火薬を載せ点火した。煙を出しながら火が噴射口に消えた次の瞬間「バスッ!」と大きな音を発して青白い煙を残してロケットが見えなくなった。「えっ!?」と思って顔を上げたら仰角45度の白い煙が大きな弧を描いて対岸の川崎側に伸びていた。そうして斜めになりながらロケット本体が最終的には真横になりながら川崎側に落ちて行くのが見えた。慌てて走って川を渡り落下地点に行ったら先の方の胴体が縦に割れて先頭部分が取れてしまい便所虫はいなかった。空中で飛ばされたのかいまだに生死は不明だ。しかし発射自体は成功だ!大げさに言えば東京都から神奈川県まで手製のロケットを飛ばせたのだ!この紙製のロケットは大学に入るまで持っていたが、いつのまにか何処かへ行ってしまった。この時は、この先まだまだロケットを造ろうと思っていたので写真すら撮っていない。しかしこの後ロケット造りは高校に進学した後有る事件で頓挫する事に成る。

1999年にハリウッド映画で「October sky [遠い空に向こうに~ロケットボーイズ]」と云う映画が作られた。これを観た時に「まさにあの時の俺だ!」と思った。やはり少年にとって宇宙だのロケットは世界共通の憧れだったのだ。いまどきのSF映画関連のフィギュアを集めるのとはチト方向が違う。

2014年3月23日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #25.」 1962年.昭和37年3月の東京でカルチャーショック・受験戦争編。

世田谷区立奥沢中学校は世田谷区内でも公立でありながら有数の進学校だった。世田谷区には他にも数多くの中学校が在ったのだが、学区どころか多摩川を越えて東京都以外から何人も越境入学してきていた。川崎の新丸子、生田から通う者、学区外の狛江や大田区から通う者、なにしろこの私こそが遠い熊本県からの超越境入学者だったのだ。

 当時の日本では国公立大学に進むことが圧倒的なステータスで、これは東京も地方もあまり変わらなかった。時の総理大臣もその当時までは超短命だった石橋湛山(早稲田大)以外ほとんど国公立大を出ている。昨今とは時代が違っていた。(注:決して私学を疎んじる訳ではない、念の為)
 同時にその当時はそれぞれの地域によってその個々の大学の評価ステータスは異なっていた。東京では東大、東京教育大学(=今の筑波大)、一ツ橋大、東京工大、女子では御茶ノ水女子大、東京女子大、津田塾大などがトップクラスの評価を得ていた。これが重工業地帯の福岡県小倉市になると多少異なって、東大、東京教育大、横浜国大、東京工大、京都大、九大、阪大、などのどちらかというと親の職業に影響されて理工系評価が高い大学がステータスだった。

 また当時は入学試験日により国立大学は1期校、2期校に別れていて両方に併願受験する事が可能だった。1期校に落ちても2期校に入る者、あるいはその逆もあった。しかし圧倒的に1期校のステータスが高く、2期校は1期校を目指す秀才たちの滑り止め的存在と言われた事もあった。したがってこれらのトップ校には1人で両方に合格する者も多く、一番人数の多い全国の団塊世代にとっては実質とてつもない競争率・難関だった訳だ。

 今どきの大学受験戦争など問題にならない程の競争率と言って良い。しかし世田谷の奥沢中学校には割に全国の進学ピラミッドの上位の部分が集まっていたためか、普段の会話でも皆の間でこれらトップクラスの大学はそう夢の様な目標ではなかった様な気がする。目の前の高校受験はあくまでこれらの大学への単なるステップと考えていたのだろうか?かく云う私はステータスなどあまり関係なく、家が裕福ではなかった一般サラリーマン家庭の子供であったため授業料や入学金が高い私学への進学は既にこの頃から考えていなかったような気がする。
 
 全国的に進学高校で有名な灘、開成、ラ・サールなどの私立系は既に当時誰もが知ってはいたが、まだ圧倒的に都立高校の日比谷・戸山、教育大付属など国公立系が評価も高く絶対人数が多かった時代。戦後の受験戦争のまさにピーク時を控えての高校受験前夜がこの奥沢中学校へ転校した頃の時代背景だった。

 当時の都立高校への入学試験は9科目(主要5教科+専門科目4教科)900点満点と云う凄く科目の多い関所だった。基本的に1問4点の問題が25問あって合計100点。翌日の各新聞朝刊に正解が出て、各自自分で採点して中学校へ自分が大体何点だったか自己採点報告をするように言われていた。 その日を目指して各学期の中間・期末試験での成績が志望高校決定に重要な要素となっていた。まだ学校群制度と云う受験目標・進路目標をぼかしてしまう訳の判らない制度は始まっておらず、本当に努力して実力のある者だけが生き残れる正統的な競争社会の真っただ中だった。中途半端な努力で、半分ラッキーを得て有名校に進める様なイージーな生き方が出来ない仕組みになっていた。そういう意味からするとその後の世代と団塊世代には明確な線引きが出来るような気がする。

 この時点で自分の受験は2年後なので、受験話はもう少し後にする事にして、日常の中学生生活を思い返してみたい。とにかく都心に出る事があまりなかったので、雪谷大塚から池上線、あるいは奥沢から目蒲線、少し歩いて田園調布から東横線で渋谷、目黒、五反田と云った山の手線の沿線駅に出て、その後は時間を見つけてはこの山の手線で有楽町、新宿、池袋といった繁華街に出た。映画を観たりデパートに行く場合はこのパターンだろうが、中学生男子、つまり私自身は基本的にその両方とも全然興味は無かった。
 八代二中時代から鉄道模型に夢中になっていた事は前出の通りだが、雑誌でしか見た事が無かった有名な鉄道模型店を片っ端から訪れたのは言うまでもない。鉄道模型社、カツミ模型、天賞堂、少し劣るがカワイモデルなどメーカー兼店舗などが神田や銀座エリアに固まっていたので結構歩いたのを覚えている。
今は9mmゲージ、Nゲージの模型が多いが、当時は16.5mmのHOゲージが主流だった。


八代時代から本屋で定期的に取っていた「鉄道模型趣味」ある意味この世界のバイブルだ。

当時からのあこがれ真鍮製の完成模型

 模型そのものはHOゲージだがパワーパックと云う交流を直流に変換し、なおかつ模型そのものを動かすモーターの回転数を可変するモノが必要だった。これは完成品を買うとバカ高いので秋葉原電気街に行ってセレン整流器、減圧トランス、可変コンデンサーなどを買い集め自作した。
パワーパックの完成品は非常に高価だった為、自作するしかなかった。

                          
 実は初めて訪れた時、秋葉原駅で20分以上迷子になってしまった。代々木で山の手線から中央線鈍行、つまり総武線に乗り替えて秋葉原で降りたのだが、階段を降りたら別の路線のホームに出てしまう。別のホームだから出口ではないと思い込み元のホームに戻って出口を探すのだがどこにもない。さー困った、まるで半べそ状態に近かった。実は総武線は秋葉原駅では3階にホームが在る。そこから階段で降りると山の手線と京浜東北線のホーム、つまり2階のホームに一旦出る訳だ。でその2階から1階地上に降りればいいのだが、その階段が3階から2階に降りる階段の真裏に在るので降りている階段途中からは見えないのだ。田舎から出て来たばかりの人間には電車の駅・ホームが3階建てで2階の別のホーム経由で駅を出るという発想は全く無かった。
総武線の駅は秋葉原では今でも3階、周りのビルの高さで換算すると4階に存在する。

 やっとの事で地上に降りた秋葉原の電気街。此処は今でもディズニーランドより余程好きだ。(浦安のディズニーランドには未だに行った事が無いし行く気もしない)部品小物販売のラジオセンター、ラジオデパートなど狭いお店の路地を歩くだけで何か都会の理工系人間になったような気分になった。その後高校時代にオーディオアンプ製作に凝り真空管アンプの部品やスピーカー、スピーカーボックスなどを買い漁った頃は週に2度も3度も訪れていた。ジャンク屋という中古備品や壊れたラジオを二束三文で売るお店がある事も此処へ来て知った。このオーディオに凝った理由は奥沢中学校時代にルーツがある。
当時の秋葉原界隈 Googleフリー画像より

当時の秋葉原界隈 Googleフリー画像より

中学校では休み時間の10分間や昼休みに同じ趣味を持つ仲間や仲の良い者同士で固まって雑談をしていたのだが、カメラに凝っているグループ、真空管ラジオ制作に凝っているグループは中学生にしては専門用語が判らないと仲間には入れない特殊な集団を形成していた。真空管で言えば整流管や出力管、それぞれ3極管・5極管、6X4、5MK9だとか6BM8、6BQ5とか固有名詞が在った。
真空管には色々な用途と形状があった。この画像は最小型の真空管群、紙の箱で売られた。

自作タイプの五球スーパーラジオ。当時はこの半分くらいの小さいスペースに如何にコンパクトにまとめるかも作者の技量を表す一つのポイントだった。

 これらを得意そうに話すグループの会話はどちらかというと外国語をしゃべっている感じにしか聞こえず、全くその世界を知らないクラスメートを拒絶する排他的な空間を形成していた。更に相手を指す言葉として「君、おまえ」とは言わずに母親の使う言葉そのままに相手を「おタクは?」などと喋る者もいた。後に「オタク族」という妙な人種が現れた時に、まさにルーツはこれか?と思った程だが、違うかも知れない。
 こういう環境下で、自分自身が勉強して成績を上げてレベルの髙い大学へ進学するだけではなく、将来に向けて広い色々なジャンルで意外な可能性があるのではないかと思ったのもこの頃だった。
 中学校の体育大会、つまりは運動会だ。今まで小学校時代から足は速かったがコレと云ってキチンとした野球クラブやサッカークラブに入った事も無く、何かの大会に出た事も無かった。海や川の素潜り漁で魚を獲る事はさんざんやっているのだが、プールでの競泳経験は無かった。陸上競技関係では殆ど何の教育も受けずにいたし、野球も小倉の小学校時代に小学生としてのソフトボール(本人たちは野球のつもり)をやっただけだった。
 そんな中、野球部に小林君と云うのが居てある日打ってごらんよと云うので、バットを持って生まれて初めて上から投げてくるピッチャーの玉を打った。最初に当たった玉は校庭の東の端から打って体育館の屋根の上まで飛んで大きくバウンドして住宅街に消えて行った。すぐに野球部に入れと言われたけれど今更と云う感じで入らなかった。なにせ、その後ヤクルトに入った西君と云うのが同じ学年に居たくらいだから進学校でありながら野球部のレベルは結構高かったのではないかと思う。
 
 一方である日、陸上部が南端の砂場の所でハイジャンプ、つまり高跳びと幅跳びの練習をしている事が有った。高跳びはそれまで一度もやった事が無かったのだが、跳んでいいというので飛んでみた。とにかくバーの上を越えりゃ良いんだろうと云う事でそれまで飛んでいた陸上部のメンバーの飛び方を真似して正面跳びで飛んだ。結果130CMを跳べて陸上部のメンバーと同じくらいだったと思う。
 それを見ていた同じクラスの仲間がこの秋の運動会、つまり陸上競技クラス対抗の走り高跳びに出ろと言う。思いもよらぬ事に成ったとは思ったが、それから碌に練習もせず本番の日にB組代表で出場した。結果145CMを跳べて学年で2位になった。これは皆も驚いたようだが自分が一番驚いた。1番になったのはハンドボール部の背の髙い相原君と云うスポーツ万能選手で、その差は5CMだった。その後都立広尾高校に進んでバレーボール部に入ったが、ハイジャンプだけ陸上の大会に駆り出されて出場し、最終的には172CMまで跳べたのだが、練習をしないのでそれ以上には進歩しなかった。
                 
 勉強と一般的な遊びしかしてこなかった中学生がきちんとしたスポーツ領域の己の身体能力に驚いて、妙な自覚を持ったのがこの奥中時代だった。アメリカンポップス、テレビの海外ドラマ、鉄道模型屋、自転車遠乗り、きちんとしたスポーツ、ラジオ放送、これら九州の八代では出遭えなかった新しい文化風俗に接しカルチャーショックを受け、更には己の新たな領域能力を知ったのが昭和37年、1962年の東京へ転校したての頃の話だ。

2014年3月22日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い」番外編・野鳥撮影に関する環境の変化

 2006年熊本の江津湖でカワセミを観て以来、仕事でたびたび出張した熊本県庁、市役所などの周り坪井川沿い、熊本城址などで色々な野鳥の写真を撮り始めた。

 もちろんこの頃野鳥撮影に関してはまだ人並みの「バーダー」ではなく、大まかに鳩、カラス、スズメ、トビ、ツバメ、カモメ類としか知らず、初心者も良い所だった。しかし鳥の名など知らないでも日常生活には全然何の問題も無かった。 

 写真撮影の経験(専門的な教育は全然受けていない)も、かれこれ50年になるが仕事中心に独学で気が付いたら半世紀も経ったというだけの事、特に専門的なカメラ機材に凝った訳でもなく、高級機種を買い漁る財力も無かった。

 撮影スキルもウインドサーフィンやスノーボードなど新しいアウトドアスポーツのジャンルで人材が少なく必要に迫られて、自分でそのスポーツをやりながらその業界での仕事上そのジャンルの撮影方法に関して詳しくなっただけで、写真全般に関しての専門的知識が豊富にある訳ではなかった。

ただ、友人や教師には大変恵まれた。ウインドサーフィン関連では故・前野やすし氏、ウインドやスノースポーツの世界大会で一緒に仕事を続けた播本明彦氏、いまはホノルルからカリフォルニアに移った大御所スティーブ・ウィルキンス先生(=Steve Wilkings)。

 他には雑誌ポパイで活躍し一緒に仕事をさせて頂いた馬場佑介氏、恩田義則氏、などその仕事ぶりを横で観ながら勉強し、技を盗み、常識を覚えたのが実情だった。

スティーブ氏を筆頭に概ね温厚で非常に人間味に溢れる方々だったが、名前の挙がらなかった幾人かの他のカメラマンは極端に芸術肌と云うか個性的であまり深くコミュニケーションは取りたくない人種だった。
写真撮影のカメラマンにはこういう個性的な人種も多いのだと云う事をこの頃学んだ。


 わが師スティーブ・ウィルキンス、サーフィン系の撮影領域ではすでにレジェンド的大御所。筆者の実用英語の先生でもある。

 1970年頃、横浜国立大学の教育学部・美術専攻科在学中に「写真」が「絵画」とは異なるある部分で圧倒的に優れている事に気が付き、国家予算で現像暗室を造ってもらい独学で写真撮影と現像焼き付けを2年間続けた。
 これが今のすべての基本になっている。その領域での卒論でも充分卒業できたと後から教授に聞いたことが有る。

こういった背景の中で、仕事を離れて野鳥を被写体にした撮影が2006年から始まったのだが、今までアウトドアスポーツ中心に撮影をしていたせいか、いつの間にか何を撮るにしても決定的瞬間を収める癖が身に付いていた。

 ウインドサーフィンで言えばハワイ・マウイ島の5mもある大波を蹴って10mの高さに飛び上がるジャンプ、さらにはそこから着水するまでの間にクルッと一回転する瞬間。

スノーボードでもハーフパイプからリップを蹴って観客が見上げる中、空中でボードをグラブし回転している姿など、「雰囲気」ではなく「瞬間」を切り取る事が大切という常識で訓練をしてきたようなものだ。

ウインドの大会撮影で。オアフ島ダイアモンドヘッド1989年ロビーナッシュのスーパーハイジャンプ!筆者撮影。

このような理由から、野鳥も撮影当初からただ枝や岩に留まっている時よりも、飛んでいる時、急降下している時、争っている時、何か普段とは違う動きの時の撮影に非常にファイトが湧いた。いわば動くもの全てに目が行く恐竜のようなものか?

此処で悟ったのが「野鳥と航空機は飛んでいる時こそ美しい」だった。

 撮れた画像も静止画ながら飛翔の瞬間の美しさに魅かれた。そのチャンスをモノにするには被写体を良く観察し、何がしかの行動パターンを早く読み取る注意力が非常に大切だと云う事も大いに勉強した。

しかし、瞬間美を撮り始めて直ぐに、単に瞬間的に撮れた美しい画像も良いが、色々な仕草を見せたり、色々な飛び方をしたり、色々な行動を取るその背景にある「理由・原因は何か?」
「何故そういう状況にこの被写体は有るのだろう?」という理科系・生物学が好きで昔からの得意ジャンルの疑問が湧いてきた。

まさに野鳥、特にヤマセミの魅力にハマったのがこの瞬間だったと言って良いだろう。

こちらに向いて1日に3度も小枝回しパフォーマンスを見せるヤマセミ。

2005年愛知万博開催の頃、植物の生態と地球環境との関係を研究した時に、動物は自由にどこへでも移動できるが、植物は種や球根が根を張った場所から殆ど移動できない事に注目したことが有った。

 動物が動くスピードに反応し慣れている我々は、植物が育ち蔓を延ばす動きやスピードを目視では判断できない。モノの例えに使われる「雨後の筍」ですら、その場で目を凝らして見ていてもその伸びの動きは認識できない。

 しかし、植物もれっきとした生き物だ。

朝顔の蔓やアンコールワットの巨石遺跡に纏わり着く蔓植物を微速度撮影し、普通のスピードで再現すれば動物の様にのた打ち回りながら気味が悪い程の動きを見せる事が判る。要は生きているスピードのレベル・次元(=単位)が違うだけなのだ。

この、まさに逆で目視では判断できない野鳥の早い動き、身のこなしの瞬間美とその背景にある理由を少しでも知りたいというのが、撮影をし始めて数年経って行きついた自分の研究領域だった。其れに一番良い被写体がヤマセミだった訳だ。

採餌した餌を咥えて雌の元に向かうヤマセミの雄。

いわゆる愛鳥家・バーダーというグループには実は色々異なった目的・目標を持っている人種が入っている。
 綺麗な接近画像を撮影する事に命を懸け、ノートリ(トリミングをしていないという意味)を至上の自慢とし、コンテストに応募して褒められて自慢する人がいる。一方でなかなか遭えない野鳥を追い求め全国を回り、出現地点を予測して首尾よく遭遇して画像に収め貴重な記録として残す人も居る。

 はたまた日本で観られる野鳥をすべて観たいとキャンピングカーで全国を行脚し、視た野鳥の種類数を誇る人も居よう。

 更に他方で、絶滅危惧種の保護に日夜努力している人も居るし、地元の野鳥のデータを時系列的に調査し地元の自然がどのように移りつつあるか定点観察・経年変化を押し計っている人も居る、千差万別だ。

 つまり愛鳥家・バーダーはこうで無ければいけない!と云った決まりは何処にも無い。

ましてや何をしている人が偉いなどと云う事、野鳥に関わる領域でその関わり方に貴賤が有ってはいけないし、自分とは異なる考えの人を非難し攻撃したり見下げるといった排他的態度・行動もあってはならない筈だ。

これら愛鳥家・バーダーの中でカメラによる撮影をしている人は20%程度だろうか?あるいは全国比率ではもっと少ないかもしれない。

団塊世代がリタイヤし、サンデー毎日となって趣味領域に人口が大量に入る時、世の中がどう変化するか、広告代理店勤務時2001年、21世紀に入った時に色々な調査データをまとめた事が有った。

 何をしたいか?何をするつもりか?のトップはどの調査機関のデータも「旅行」で揺るぎ無かった。一方で写真撮影、パソコンスキルの習得がいずれの調査データでも必ず上位にランクされ年を追って上昇していた。

カメラメーカーがこれらリタイヤした団塊世代中心の消費者ターゲットを当て込んだデジタルカメラの高級機種・新機種をこぞって出し始めたのがちょうど2000年頃からだった。
 画素数を上げ、秒間コマ数を上げ、フルサイズのデジタル一眼高級機種を送り出し、レンズのバリエーションを増やしていった。

 更にはミラーレスの軽いデジタル一眼をオリンパスが2005年に発表すれば、こぞって主力メーカーもこれを追い、販売台数はうなぎのぼりとなった。
さすがに2013年にはこの伸びは止まったようだが、一方でこれらを購入し手にしたカメラマンが続々と撮影フィールドに散った訳だ。
一眼デジタルカメラに関して大きな技術革新のない現在、数年後はミラーの開閉の無いミラーレスが秒間コマ数をもっと上げたカメラを開発するだろう。

主な被写体は風景・景色と蒸気機関車(鉄道全般)と野鳥。これが3大人気被写体と云われている。
景色の中には四季折々の自然風景(富士山も含む)、街並み、祭り、桜に紅葉が主流に在り、鉄道写真はSLやまぐち号、SL人吉号、SLばんえつ物語、SLニセコ号などSL中心に全国各地で倍増中。

一方で肝心の野鳥関連は愛鳥・バーダー人口が急激に増えている一方で、高価な野鳥写真集の発刊数・売れ行きは減少傾向に有るという。

この原因はIT・パソコンの普及に平行して撮影者自体の増加と相まって、自分で撮影したデジタル画像をパソコンで自ら画像処理し、デジタル作品集を造りインターネット、WEBサイト・ブログで発表できるようになった事がその背景にあるとみて良い。

筆者のようにDTP(=Desk Top Publishing)で原稿制作をしネット印刷屋で安価に写真集を出したりできるようにもなった。

 一方で、団塊世代特有の競い合う、自慢し合う、優越感を誇りたいが為の醜い争いが撮影現場でたびたびトラブルを起こしている。

 これは昨年の5月ごろのブログで紹介した通り。良い撮影ポイントの争奪戦、撮影するための施設破壊、住民への迷惑、カメラ機材の自慢合戦、撮影チャンスを得られない悔しさ、他人の良い成果に対する妬みやっかみ。

これらから派生する各種トラブルは今後も増えて行く事だろう。これらを減少させるには各自の人間性の向上を待つしかないのだろう。
 奥日光戦場ヶ原などの木道へ徒党を組んで三脚を持ち込み、撮影時に一般歩行者の大迷惑になっているバーダー・グループも激増しているという。
  
 Facebook、TwitterなどSNSの急速な広がりは、今や通常のブログ・WEBサイトを凌ぎ野鳥画像の拡散も今までの常識では計り知れない領域に入り始めている。

 国内のブログ人気ランキングサイト「日本ブログ村・ブログランキング」等でも野鳥写真のジャンルは日々ランキングが上下するほど人気領域で、いかに多くの愛鳥家が視ているか良く判る。
 私のTwitter登録でも現在約1400名のフォロワーの中の45%は海外の野鳥写真家だ。基本的には海外の野鳥写真家はその綺麗さと生態のユニークさ中心で説明なしの画像を拡散していて非常に勉強になる。

 システム上Twitterには文字数に制限があるため、拡散限度はあるものの今後もタイムリーな野鳥情報発信などでその活用頻度は増加していくと思われる。

現在同時に全国で4名の方がアクセス中というブログデータ監視システム

このYAMASEMI WEBサイトに毎日どれだけアクセスしているかの推移リサーチグラフ。

 このような野鳥撮影の人口増加、頻度増加・領域拡散の中で撮影による野鳥へのプレッシャーを気遣う必要が増加する事は当然の成り行きだ。

 個人的にも撮影対象にストレスなく近づきたいが為、初めの頃は被写体を刺激する派手なウエアは着ないお喋りを控える・・程度だが、そのうち迷彩カラーのウエア・持ち物で周りの景色に溶け込んで撮影する、時には匍匐前進で被写体に近づく・・・などの努力をするようになる。

 もちろんこれは誰もが行う初歩的な試みだろう。人間の6~8倍の視力を持つ野鳥から見えないという事はまず無理としても脅威を感じさせない点で効果は確実にある。
ネイチャー・プロカメラマンTim Lamanの野鳥撮影時のスタイル

  しばらく撮影を経験すると留鳥で縄張り意識の強い野鳥(たとえばヤマセミ)などいつもそこに行けば居る種の野鳥は、レンズを向ける撮影者が自分への脅威ではないと野鳥側が認識した段階で普通よりはるかに近い所まで接近する事が可能だ。

 それが人里であればなおさらの事。飛んで来て肩にこそ留まりはしないが、ヤマセミが20m程の距離に飛来し、逃げずに普通にしているようになることは幾度も身をもって経験している。

 私が観察研究を続けている人吉のヤマセミの中の2家族がその典型だ。この事は地元にお住いの愛鳥家・民家の方から多数同じケースを幾つも聴いて確信している。

 こちらを認識している人吉のヤマセミ個体、行くと時には筆者の車の傍に降りてくるようになって既に4年目を迎える。生魚を餌とするヤマセミは決して餌付けなどできない。

 これらを続けているうちに野鳥が自動車と云うモノに脅威を感じず、ほとんど警戒しない事を知るようになる。
 現に先程のヤマセミにおいては車中から撮影した場合、最短距離5mまで向こうから寄ってきたことが有る。

 車を背に外に出て地面に座っていて7m程まで近づいてきたこともある。気が付いていないのではなく確実にこちらを目視・認識してなにがしかのアクションを行う。

 時にはこちらに向けて脱糞、またある時は水中から拾ってきた小枝をクルクル廻して見せる・・。ますますその野鳥にハマる事は想像できよう。
 
 それが一般的に他地域では極めて遭遇し難いヤマセミの様な種であればなおさらの事。渡り鳥や珍鳥・迷鳥ではこうはいかぬと思うが人間の側がじっくりと時間を掛けるとこういう事も有り得る。要は工夫と努力だろうか。

 現在、野鳥にストレスを極力与えないで観察・写真撮影するハイテク手法を開発検討中だ。ヒントは1997年のハリウッド映画「ジャッカル」。その昔1970年代フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」をフレッド・ジンネマン監督が映画化し大ヒットしたが、これをハリウッドがブルース・ウイリスとリチャード・ギアでリメイクしたものだ。

 この中でリモコン雲台に乗せた大型機関砲をラップトップで遠隔操作し、暗殺テロを行うというのが在った。
 これの照準用にCanonの500mm程度の超望遠レンズが組み込まれていた。今試作を進めているのがこの武器の機関砲を外して超望遠レンズだけを電動雲台に取りつけ、車の中からラップトップで遠隔操作し野鳥の行動に殆どストレスを与えず撮影するというモノ。

 映画の中ではジョイスティックで雲台を動かし、ラップトップの画面でフォーカスを行っている。

映画の中で電動雲台に乗せた機関砲の照準に使われているCanon超望遠レンズ

市販されている電動の雲台(リモコンで離れた所から操作可能)

 現在大学の研究室でこれのプロトタイプを作成中だ。

 先日39種の極楽鳥をすべて撮影したティム・レイマンの講演を聴いたが、彼もジャングルでの極楽鳥の求愛ダンスや樹上での生態撮影に木に括り付けた電動雲台にカメラを乗せ地上の小屋の中から遠隔操作で接近画像を収めていた。Canonの最新システムにこの手のPC遠隔操作撮影用アプリが有りCanon Utilityで公開している。どんどんこういった最新技術を取り入れ、新しい撮影手法を為してみたい。

 このように、創意工夫と技術革新で自然を被写体にストレスなく、ぐっと手前に引きよせる事が出来るようになった。今後もこのような工夫を続けて良い画像を収録してみたいと思う。

2014年3月21日金曜日

ヤマセミつがいは繁殖期を迎え常に寄り添って行動。In breeding season, crested kingfisher pairs always snuggle up and act everything.

 ヤマセミも他の野鳥と同じで既に繁殖期に入っており、つがいごとプロセスの時間差はあるものの、ほぼ常時一緒に居るようになった。したがってこの時期のヤマセミは普段よりは2羽で一緒に居る画像を撮影しやすい。川辺川の上流域でもこの傾向は同じ。

 球磨川本流よりは巣穴が川に接近していると思われるので、頻繁に川での採餌と巣穴との往復を繰り返すようだ。朝から川床で隠れて待っていると他のシーズンに対岸の木陰の定位置で羽根休めするつがいがどのポイントにも居ない時間が出来ている。姿が見えないと云う事は新たな巣穴を掘っているか、既に掘られた巣穴の補修や交尾後の産卵準備と考えて良いと思われる。

 今日の画像はこうした産卵前、あるいは交尾前のヤマセミつがいの寄り添う行動画像だ。

Today's photo is a pair of crested kingfisher moving together at Kawabegawa river in north end of Sagara village.

岩場が続くエリアで川面を見つめるヤマセミつがい

いつものつがいなので、既に認識していると思われるこちらに対しての警戒心は強く無い

10分ほど辺りの様子を伺っていたが、雄が突然ダイブ!

水中にダイブはしたものの何も獲らずそれきり下流に向かって飛翔。

途中で見事な90度ターンを決めてくれた。

すぐさま雌も後を追ってツイン飛翔で移動して行った。






2014年3月20日木曜日

ヤマセミと鴨の関係 その2. The relationships between Crested kingfisher and Duck. Part 2.

 昨日はマガモ雄に見守られての採餌後のお清め水浴びヤマセミをご紹介したが、今日は飛翔中にカルガモの群れの真上を飛びゆくヤマセミ画像をご紹介。カルガモたちは普段からヤマセミを良く知っているのか、脅威ではない事を遥か遠くから認識しているのか?

 球磨川本流でも、胸川でも万江川でも、カモ類に関してはヤマセミがどのような状態であってもまるで無関心を装っているのか、くっつきそうに並んでいても平気にしている。コサギ、アオサギも同様だが、人吉の辻先生が狭い場所取りでヤマセミのつがいがアオサギにどかされた場面を撮影されている。やはりデカいモノが勝ちか?

It seems to be the relations that the crested kingfisher is good with the spotbill duck. Today's photos are high-speed flight close to spotbill ducks of crested kingfisher.

 
カルガモの正面から気にせず接近するヤマセミ。

別のシチュエーションでも平気でカルガモに接近するヤマセミ。

此処からは連続ショットだが、カルガモは全然動じず皆見守るだけ。

チラ見するだけでヤマセミを見送るカルガモ。

無視と云うか、「だから何?」と言うような反応のない自然。ちょっとつまらない。