2015年11月20日金曜日

ワカケホンセイインコの数が増えているようだ。 I feel like the number of Indian Rose-necked Parakeet of increasing. 

 全国的にも少し生息範囲が増えて居るらしいが、東京の大岡山にある東京工業大学構内で増え始めたワカケホンセイインコ(=Indian Rose-necked Parakeet )の数が最近さらに増えているような気がする。
 1962年頃、熊本の八代二中から転校して通った中学校がこの東京工大の直ぐ下の世田谷区立奥沢中学校だったので、この緑色の大きなインコがその当時は全然居なかったと断言できる。  東京工大の防空壕跡で放課後いつも遊んでいたから良く知っている。

 数日前、カメラを持っていつもの野川に撮影練習に行ったら、上空をキャラキャラ南東方向へ飛ぶ野鳥の集団が居た。慌てて後姿を撮影したが、紛れもない緑色の尾の長いワカケホンセイインコの群れだった。しかしその数はいつも見慣れた10羽ほどの群れではなく、数十羽の大きな群れだった。

 東京でも南西部、世田谷の大岡山と西部の小金井公園辺りを毎日往復しているので、他のエリアではまず見かけない希少種だ。ガビチョウやソウシチョウのように全国的に広がる籠脱け外来種ではないようだ。寿命が30年くらいと聞くのでこの先も徐々に増えていくのだろう。インドやアフリカ原産なのに空気が悪く、冬季には雪も降る東京で繁殖するのだから、余程生命力が強いのか?悪戯カラスに代わって、オーストラリアの街の様にこいつが住宅地に増えてくれると面白い事に成るのだが・・・。

 
夕方の側上空を塒の世田谷・東京工大に向かって飛び去る群れ。

桜の時期にはこうした対比も綺麗だ。傍で見ると結構でかい!母校奥沢中学校横の吞川で。

桜の時期は場所が変わっても似たような絵になってしまう。

日陰に入ると鈍い緑色になる。

正月の真冬の枯れ枝だからこそ判るが、夏の葉の多い時期にはまず隠れて判らなくなる。

我が家から覗ける隣のミッション系大学構内で。

硬いケヤキの樹皮を剥がしていた。猫の爪とぎみたいなものなのか?




2015年11月19日木曜日

秋深い町の中心部をペアで飛ぶヤマセミ! A pair of Crested kingfisher flying at down town of Hitoyoshi early in the morning.

 今日は綺麗な画像ではないが、秋深い早朝の人吉、町のど真ん中を流れる球磨川でヤマセミのカップルに遭遇した際の状況画像をアップ。ヤマセミを紹介する本では、「繁殖期を終えたヤマセミのつがいは別行動の時期に入り一羽で行動する」との記述が多い。しかし他のエリアではどうだか判らないが此処人吉球磨エリア、球磨川流域では通年でつがい、つまりペアで行動していることが過去5年間の撮影画像等で証明されている。

 多分生存環境が非常に良いのでヤマセミの生息密度も濃く、営巣する場所も最短で300mの距離だったりする。当然縄張りがオーバーラップ、つまり交差している所が多く縄張り争いも頻繁だ。

 また23日から人吉エリアに入り、晩秋のヤマセミの生態を観察する予定だが、新しい生態に遭遇できるのでは無いかと期待している。






前を行くのが雌、従うのは若い雄か?基本的にヤマセミは人間の夫婦と同じで雌雄どちらが強いという事は無く、ペア個々の事情で雌が前だったり雄が前だったりするシーンが撮影できている。






2015年11月18日水曜日

早朝、街中の球磨川でヤマセミに遭遇! I encountered a Crested kingfisher at Kuma-gawa in downtown early in the morning.

 暫くヤマセミから遠ざかっていたが、今回も早朝のl球磨川、勿論人吉市のど真ん中でヤマセミに出遭えている。川魚・鮎漁師の島津富男さんと刺網漁について伺っている時に上流から鳴きながら飛来したヤマセミに気が付き、河原に下りて撮影したもの。

 繊月大橋の直ぐ上流にあって色々な野鳥の羽根休め場としてのワイヤーの架線が無くなってその付近でのヤマセミ観察が出来なくなっ久しい。ヤマセミにとって最高の採餌ポイントでもあったその場がなくなってしまい、彼らは土手からダイブしたり水銀灯の上から、あるいは川沿いのタチヤナギからダイブして採餌しているようだ。

 もちろん、ウナギ塚(=川中に積み上げられた玉石の塚)から飛び上がってホバリングしながらダイブする方法も頻繁に見られるようになっている。






昨日、NHK・BSプレミアムで北海道千歳川でのカワセミを特集した嶋田 忠さん案内の番組(2007年の再放送らしい)があったが、随分北海道と人吉では条件が違うようだ。当然生態や繁殖も違うようだ。

「NHK・BSハイビジョン特集「日本人カメラマン 野生に挑む 嶋田忠 清流のハンター カワセミを追う」

は2007年放送の再放送だという事だ。11月26日(木)の午前1時つまり25日(水)の深夜だが再々放送がある模様。110分=1時間50分なので長い番組だ。




2015年11月17日火曜日

ハクセキレイのフライングキャッチ! White Wagtail got insect by flying catch.

 猛禽類やヤマセミといったなかなか出遭い難い野鳥を観察する一方で、身近な野鳥の生態を記録するのも意外に大変だ。いつもその辺にいるから・・・と、あまり気にしない野鳥だがじっくり観察すると面白い。このブログでは過去においてモズのフライングキャッチ、セッカのフライングキャッチ、スズメのフライングキャッチ、をアップしてきたが、今回はハクセキレイ。

 熊本県人吉界隈では、モズやジョウビタキ、スズメ、カラス、トビなどに加え、球磨川土手で大発生する羽虫系昆虫をベースにセキレイ系、ビンズイ系の野鳥が他の界隈より相当多い所だ。球磨川沿いの温泉旅館には「大量の虫が入り込むので夜間は絶対に窓を開けないでください!」と必ず注意書きがある。在る時など川に面した窓の網戸に小さな穴が開いていて、朝起きたら部屋中虫だらけで大騒ぎをした事がある。

 こういう状態だから、いつでも居る野鳥類は滅多に撮影しない。ちょうど、ハワイのホノルルに住んでいる人が滅多にダイヤモンドヘッドやハイビスカスをバックに撮影しないのと一緒だろう。

 
ホバリング状態からダイブする採餌!






この連続撮影もいちいちコメントは要らないだろう。最後の1枚は連続画像ではなく別のときのフライングキャッチだ。ハクセキレイはホバリングできないと思っていたが、このときは一瞬同じ場所でホバリングしていたようだ。




2015年11月16日月曜日

人吉の台地で秋のセッカに出遭う。 I met Zitting Cisticola at plateau of grassland at Hitoyoshi basin in deep autumn.

 猛禽類が暫く続いたので、対極にある草原のセッカのレポートをしてみたい。セッカは真夏の野鳥だとばっかり思っていた。「ヒッヒッヒッ・・・とホバリングして、ジュンジュンジュンジュンと降りてくるのが目に付く鳴きながら飛ぶ姿は繁殖期のものだった。秋になると繁殖期も終わり飛び鳴きが無くなるので居なくなったと思うが、実は居るのだ。

 真昼間、野鳥の活動が静まり、草原には秋の風が流れるだけの頃。そーっと草原の農道に車を進めると時々そのエンジン音を気にして草むらからセッカが顔を出し草の中でも一番高い穂に留まる。これ以外にもこの時期の草原にはホオジロ、カワラヒワ、ジョウビタキ、モズが飛来する。勿論それらを狙った猛禽類も多い。

 






それぞれの画像にコメント・注釈は無い。下から3枚目の画像の尾羽がオーストラリアに居るファンテイルに似ていると思うくらいだろうか?このブログをアップしながら窓の外ではジョウビタキ独特の鳴き声が聴こえている。





2015年11月15日日曜日

人吉猛禽類シリーズ その6.人吉盆地の最奥でハイイロチュウヒの幼鳥に遭遇. I encountered a young northern harrier at the deep inside in Hitoyoshi basin.

 今回の生まれて初めて1日に8種類の猛禽類に出遭うという猛禽類特異日、ご紹介の5番目はハイイロチュウヒの幼鳥。その大きさ、虹彩の色がブドウ色(茶褐色っぽい)である事から雌の幼鳥と考えられる。最初に「ん?」と思ったのは、盆地最深部で2時間もハヤブサを観察した後帰途につき、ほんの少し走った時草地の上ギリギリ、を飛ぶ大きな猛禽類を見かけたのだった。トビやノスリであれば見慣れているので判るが、妙な飛び方をするなーと思ったとき主翼の裏側に見事な鷹班と尾羽の横縞が見えたとき「違う!」と思ったのだった。

 その日は後姿しか見えなかったのだが、翌日「柳の下のドジョウ」を狙って午後同じ場所まで車を走らせたところ、出遭えたのだった。その猛禽類というより猫のような独特の風貌、小さな顔は一度観たら忘れられない個性の強いものだった。草むらに2度ほどダイブして暫く出てこなかったのは採餌に成功したのだろうか?見失ったと思ったのが全然違う所で再発見して、「おっ!2羽いるのか?」と思った程だったが1羽だった。忍法葉隠れの術を使うらしい。まさかとは思うが、ひょっとすると草むらの地面を歩いたり走ったりするのかもしれない。

 阿蘇の外輪山や北関東の渡良瀬遊水地で観察したハイイロチュウヒと同じものに、人吉盆地の奥で遭遇できたのは本当に幸運だった。

藪の上を低く見え隠れしながら飛ぶスタイルはコミミズクに似ていた。

最初は正直コミミズクかとも思った程だった。

しかし、丸太をすっぱり切ったような顔をしているコミミズクとは違う顔だった。

何度も同じ場所を往復する姿を観て採餌だな?と思った。

そうこうしていると、カラスにちょっかいを出されて休耕地の上に出てきた。

やはり高くは飛ばず低く飛んでいく。

夕陽を浴びつつこちらの存在には当然気が付いているが、気にしていないようだった。

猫のような顔で首をかしげているが、「何だろうあいつは?」とでも思っているのか?

その後も直ぐ傍を悠々と通り過ぎていった。衝撃の10分間だった。この冬居付いてくれると嬉しいが、どうだろう?









2015年11月14日土曜日

  「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #15.」ウインドサーフィンと筆者の最初の出遭い。その4.

 とにかく、ボード、セイル、ウエットスーツに触って実際に乗ってみるのは、この1980年沖縄・名護の海中公園で開催された第7回全日本選手権大会の運営・プロデュースを行った際が最初だった。それまでの約半年間はもう大変な勢いで事前準備を行い、ウインドサーフィン関係の業界人の人達(ほとんどが海辺のウインドサーフィンショップやウインドサーフィンスクールの人々だった)との名刺交換の日々だった。
時代は前後するが、ウインドサーフィン業界の名刺はやはりユニークなものが多かった。    
  
 広告代理店に移って良かった、これこそ自分に一番適した職業だ!やっと出逢えた我が天職!「転職で天職に出逢う!」などと思わず冗談も出るような時期だったのだろう。
 世の中こんなに調子良くって良いのだろうか?いつか反動が来るに違いない・・・と常に目に見えぬ恐怖に脅かされ始めるのもこの頃からだった。 

 さすがに新しいスポーツというだけに、実際にこのウインドサーフィンに乗れて、なおかつそれに関わる事で何がしかの生業としている若い人達が中心でこのスポーツを纏め上げていた。そういう若い人達が普及活動を行っていたので、広告代理店勤務の筆者は自分自身この業界に入ってみると、既に結構年配者の部類に入っていた。その後アジア大会でも正式種目になり日本代表として優勝した湘南葉山フリートの故・石渡常原(いしわたつねもと)君など、まだ拓殖大学の学生だったりする頃だ。
1980年沖縄プレワールドで拓大チーム代表・故石渡常原(いしわたつねもと)選手

 結局そういうウインドサーフィン創生期における中心的人物達は、海岸沿いにマリンショップ、ウインドサーフィンショップ、あるいは普及する事により必要になってきたウインドサーフィンの艇庫経営者だった。鎌倉のファーイースト、逗子のココナツボーイ、葉山のYT&M,三浦海岸のドルフィン・アサノなどなど。

 それが1983年を過ぎて暫くするとファンボードと呼ばれる短くて浮力の無いウインドサーフィンボードが出始めた。これは軽くて小さいので浮力が無く、セイルアップできない為ある程度熟練したライダーしか楽しめなかった。こうしてエキスパートの領域が増えて行くにつれ、ウインド用具の中古市場が形成され業界として秒刻みで裾野がどんどん広がる時代に突入していった。このあたりの急速な発展は月単位でのスピードで道具も業界もが変るという非常にホットな時期だった。

 繰り返すが、この頃からショートボードの急速的発展でウインドサーフィンの裾野が広がり、ハワイ中心に強風下でジャンプと波乗りを楽しむWave ride & Jumpといった一つのジャンルが確立されていく。そのきっかけは1981年のウインドサーファークラス世界選手権大会=沖縄ワールドだ。究極的にはハワイのマウイ島と共にアメリカ本土オレゴン州フッドリバーを中心としたウインドサーフィン用具の開発と実験場となるコロンビアゴージがその発展のメッカとなる。

 今はどうだか判らないが、一時は大して大きな町でもない(人口6,600人)にウインドサーフィン関連のメーカー・ファクトリー、レンタルショップ、販売ショップが乱立していた。初期のヒロイン、ロンダ・スミスなどもこの街に移り住んでいた。
Hood River Windsurfing Shopのユニフォーム・ロゴ(ポロシャツ)

 一方ではヨットの三角形レースをベースにしたコースレーシング競技がロサンゼルスオリンピックに種目採用された事で確立され、同時にショートボードでのスラローム・コースレーシングなどに多極分化していった。このあたりはウインドサーフィン業界のサイトなり、各メーカーの歴史コーナー詳しいのは勿論だが、あくまで全体を見渡した概要でしかないと思う。このブログではごくごくその中での1パートに過ぎないのだが、それなりに具体的なウインドサーフィンに関するヒストリーと面白話を筆者の体験と関わったビジネス・イベント、国内外のウインド仲間との出来事を中心に綴ってみたいと思う。

 物質的な資料としては1980年からのイベントに関わる製作物、ハワイ・マウイ島などでの国際的なウインドサーフィン大会に関する画像、製作物(ポスター、Tシャツなど)更には1983年から広告代理店の社員として自分が手がけた、あるいは関わった数々のウインド関係のデータ(画像や資料)をベースに展開してみたいと思う。決してウインドサーフィン界のど真ん中にいた訳ではないのだが、自分で乗って、造って、演出したウインドサーフィン文化のホンの一面を残せたら嬉しい。

自分が参加、演出、プロデュースした歴代ウインドサーフィン関連のイベント製作物など。

 ご存知の通り、ヤマセミを中心とした野鳥のサイトやブログを主宰しながらの展開なので、非常に不定期で読む方にとってはイラつくような進捗状況だが是非ご容赦願いたい。暫くこのウインド関係の取材を続ける為、この「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝」はまたまた3週間以上お休みを頂く。創生期の関係者ヒヤリング、現場訪問などを兼ねて2週間ほど東京を離れる為、次回の掲載・更新はひょっとすると来年2016年の1月になってしまうと思う。重ねてご容赦願いたい。
 その代わり、でもね、多分、きっと・・・といった大瀧詠一作曲の「探偵物語」の歌詞のように自信のない内容ではなく、断定的に証拠画像等を駆使した更新が出来る事をお約束する。大いに期待していただいて良いと思う。当時雑誌オリーブにウインド関連の記事を毎号連載させて頂いた際のポリシー「ウインドサーフィン専門誌のクオリティを越えた一般紙」のノリで一生懸命更新したいと思っている。