昭和30年東京都庁発行の「家庭便利帖」、この手帖という字を使っていること自体「昔、古い」という感を免れない。今は「帳」の字が使われるが「帖」の字は常用漢字(1981年~)に無いためと思われる。
前回はこの小冊子の重要性と昭和30年頃(筆者7歳小学校1年)の日本が戦後復興で国を挙げて努力していた世相をご紹介した。
今日はその続きで、ロックンロールもプレスリーもまだ世に出ていない頃、戦後10年以内の東京の様子をデータを基にご紹介しながら、今との違いを述べてみたい。
実は驚いたことの一つに、戦後10年で既に東京観光バス「はとバス」が存在していた事がある。
料金は300円~2000円(外人コース・飲食代含)
「家庭便利帖」の紹介ではこういった観光コースなどの紹介が載っているが、はとバスに関しては此の数年後(昭和40年・1960年)の資料も手に入れている。
昭和40年の小冊子だが、バスの上にガイドさんを乗せるという「こんな事して良いのかよ?道交法違反じゃネ?」的な表紙でびっくりさせられた。背景は昭和39年東京オリンピックを開催したばかりの国立競技場。
このパンフを見ると、東京の中心部、盛り場などの写真が出ていて今現在の盛り場との差に驚愕する。新宿駅周辺では新宿駅ビル、小田急HALCビルが既に出来ている。しかしバス乗り場の西側(写真では手前)はまだヨドバシ浄水場の広い水場が広がっている。
上が新宿駅周辺、下が渋谷駅周辺。渋谷駅は筆者が通学路(帰りのみ)屋上に五島プラネタリウムの銀色のドームを掲げた東急文化会館、駅ビル東横百貨店を挟んで空中廊下が結んでいた。この基本構造は現在も変わらない。
現在の新宿は都庁はじめ副都心の高層ビルが立ち並び、昭和40年にはまだ無かった駅並行の小田急デパートが取り壊され、新たなビルが出来始めている。(2025年8月19日撮影)
副都心の高層ビル群はかっての真鍋博のイラストにも出てこなかった未来の形が!
更には東口駅前に3D立体液晶動画広告が出来て外人観光客に大人気。
渋谷駅周辺の中心部、今はこのような超高層ビルに埋まってしまっている。大きさがとてつもないので魚眼レンズでもない限り1カットでは収めきれない。右がヒカリエ(元は東急文化会館)、左は渋谷スクランブル・スクエア(元は駅ビル兼東横百貨店)この両サイドを結ぶ空中廊下は改装され場所も移動して残っている。
一方で東京駅周辺は大丸百貨店の宣伝写真に八重洲側から見通して丸の内側まで一望に出来るモノが載っている。
八重洲側の車の数を見ると信じられないような大渋滞。赤や黄色の車は皆タクシー。筆者も東京ー熊本間を何度も寝台特急で往復したので、この駅前タクシーの大渋滞はしっかりと記憶している。
今や東京駅八重洲口側は超高層ビルが乱立し、東京駅は右下隅の白いテント状の建造物。
オリジナルの三階建てに修復なった東京駅丸の内側赤煉瓦駅舎。八重洲側の高層ビル群を見る限り恐ろしい程の変わりようを実感できる。
丸の内側も丸ビル、新丸ビルすべてが建て替わり高層化。赤煉瓦の駅舎も二階建てから創建当時の三階建てに修復建て替わっている。中央郵便局も外側だけ昔のファサード(表側)を残し改装建て替わり、KITTEというネーミングで新しくなっている。
東京という首都が昭和40年=1960年以降60年間で外観からこれだけ変わったのは住んでいても結構驚異だし今後どうなっていくのか想像も難しい。