2日前、終戦の日8月15日の正午皇居前広場二重橋前へ行った。80年前の同じ日同じ時間、そこで玉音放送を聴いた多くの日本人(実際皇居前では正午にリアルタイムで玉音放送を聴けたのだろうか?)が何を考え何を思ったのか現場で偲んでみた。
資料を調べたら、各所で玉音放送を聴いた人々が放送後皇居前広場に集まったようで、皇居前広場でラジオの音声を直接聴いた人はあまり多くないのではないだろうかと思う。あの広場に電源はそう多くないだろう?
残念無念と思った人、ホッとした人、いろいろ立場で思いは異なっただろうが真珠湾攻撃から3年8か月にわたる太平洋戦争に一区切りがついたのだ。
あるテレビで英国の人々に日本における終戦の日のインタビューをしているのを見て驚いた。例によってテレビ局のディレクターの意向に沿った編集をしているのかもしれないが、ほとんどの英国人が日本が自国英国や世界と戦ったことを知らなかった。
彼ら英国人にとっての第二次世界大戦は「太平洋戦争」ではなく、ナチスドイツとのヨーロッパでの戦いなのだ。自国の戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスが撃沈された事などまったく知らない様だった。
地球という星は非常に小さいのだが、人間の世界は広いのだと思った。英国人たちはナチスの残虐やユダヤ人収容所のことは学校で学びかすかに覚えているが遠い日本と太平洋での戦いは知らない様だった。
唯一、ロンドン在住の高齢女性に「真珠湾の事は知っているか?」と訊いたら「知っているわ!日本に在るんでしょ?」…だもの。彼女の頭の中では英虞湾なのだ。
こういった世界から視た日本の終戦の日=昭和20年8月15日。それから3年後の12月8日筆者は生まれた。
12月8日といえば、その太平洋戦争が始まった真珠湾攻撃の日。
なおかつ1980年12月8日は筆者が横国大美術・彫塑の安田周三郎教授に呼ばれて、3時間鎌倉の安田邸のこたつで対面したかのビートルズのジョン・レノンの亡くなった日だ。筆者にはこういった奇遇な事象がいくつもある。
その1948年(=昭和23年)12月8日、筆者は東京都中野区大和町で生まれた事になっている。・・・事になっているという理由は最近出て来た「母子手帳」の記述に「出生届」が12月20日になっているからだ。生後12日にもなって届け出る理由は何だったのか?
当時も今も、出生届は生れて14日以内届け出れば良い事になっている。我が両親は自分たちが広島で原爆投下翌日の8月7日に、東京から市内に疎開してた妹夫婦(筆者から見れば叔父・叔母)を捜索して一日中歩き回ったという事を詳しく筆者に説明しなかった。
そんな事だから、筆者が生まれた時の状況なども癖しく説明しなかった。しかし戦後まだ3年の東京都内は復興スピードが速かろうが遅かろうが、まだまだ傷跡・瓦礫はたくさん残っていたろうと察する。
住んでいた十條製紙王子工場の社宅は、京浜東北線沿いの上野台地(概ね2~30m)の上に建っており、社宅の共同風呂からは尾久~荒川~千住のお化け煙筒まで見通せた。
三歳か四歳の時に筆者自家中毒になり、母方の爺様(元陸軍軍医中将・相模原の陸軍第三病院長)のご縁により駐留米軍のジープが持ってきたペニシリンで命を取り留めた。
そういった、波乱万丈の生い立ちの中、当時の乳幼児(=団塊世代の子供達)がどんな状況で生きていたかを最近出て来た「我が母子手帳」の内容から読み取ってみたい。