2014年4月23日水曜日

野鳥の顔アップ! Zoom up to the Wild bird faces.

 いつも飛翔シーンや、生態観察画像ばかりなので、たまには息抜きに野鳥の顔アップ画像でお楽しみ。さすがに顔のアップを行うと、鳥類の先祖が恐竜である事が判るような気がする。瞬膜を閉じている画像は無いことは無いが、正直あまり気持ちの良い画像ではないので却下した。

 見慣れた野鳥も有れば、海外の野鳥の画像もご紹介。さすが視力の良い野鳥だけに視方によっては非常に鋭い視線かもしれない。
アオバズクの幼鳥、あまり視すぎると夜寝床で夢に出てきて、うなされるらしい。

オーストラリア・パースでのゴシキセイガイインコ、モノクロ時代は撮影に苦労したと思う。

シロハラ、黄色のアイリングが印象的

奈良公園の池でザリガニを呑みこむダイサギ

一昨年熊本市内江津湖に飛来したカリガネのアップ





2014年4月22日火曜日

オナガは武蔵野で神出鬼没! The Azure-winged Magpie(= blue magpie) strikes everywhere at once!

 オナガはカラスの仲間で1980年代に西日本から消えたとWikipediaに出ている。背中は2段階の青味がかった灰色で頭の上半分がほぼ真っ黒、その他は白い為余程条件が良くないと撮影が非常に難しい野鳥。とにかく神出鬼没であるが10羽程度で群れを成すため、その姿に似合わない恐竜を彷彿とさせる鳴き声で群れの移動を確認して待ち受けるしかない。

 カケスやカササギと同じでカラスの仲間だが非常に警戒心が強い。警戒心が緩いのはハシブトカラスやハシボソカラスだけなのだろうか?最近近所のミッション系大学構内に営巣しているようだ。
朝晩は住宅街の上空を飛び回る事もある。

 普段はギャー、ギャーとカケスに似た鳴き声だが、今日は囀りだろうか全然別の野鳥が混じっているかと思う程の可愛い鳴き声で鳴いていた。初めて聴いた鳴き声(囀り)だった。朝から小雨で夕方暗くなり始めたころ撮影できた。画像はその特徴を観て頂く為に多少オーバー目にしている。

主翼を広げた所はエナガに非常に似ている。独特のスタイルで人気がある。浅草の老舗スキヤキ屋の欄間の彫り物にも在るくらいだから明治時代あたりから東京には居たのではないだろうか?

主翼と背中のブルーが少し異なっている。

桜の木の若芽を咥えている。

花が終わった桜の花芯が小さく膨らんだモノを盛んについばむ。

胴体とほぼ同じ長さの尾羽が在る。

じーっと見つめられてしまった。

今日は桜の木に20分ほどまとわりついていた。


2014年4月21日月曜日

野川のカワセミ第2弾!  It's a long time since I met common king fisher at Nogawa river area. Part 2.

 野川に行けば何時でもカワセミには出遭える。その点は熊本市のど真ん中に在る江津湖と非常に環境が似ている。両方ともウォーキング、ジョギングや犬の散歩人と云った人間の数が多いプロムナードに接している。更にはカモ類も多く、時にはタシギなどが来たりする点も似ている環境だと言えるだろう。

 先日、どこかのマスコミで西日本の野鳥のNO.1パラダイスとして江津湖が紹介されていた。それを見ながら、にんまりとした自分が居た。やはり江津湖は熊本県外の人にも高く評価されているのだと思った。

今日の画像は雄のカワセミ

やたら上空を気にしていた。夕方に成ると毎日オオタカが上空を舞うので気に成るのだろう。

野川のカワセミは割に直ぐ足元にダイブするのだが、この日は遠くへのダイブ。

10m程離れた土手際だった。

魚ではない大型の昆虫あるいはヤゴの様な水生生物を捕まえたのだが、向こうから来る野鳥目当てのカメラマンは目の前のカワセミに全然気が付いていない。野川では良く有る風景。






 

2014年4月20日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #34」 1964年都立広尾高校入学の頃ビートルズ-3。

 こんな事も有った。仲の良い者同士で土日には勉強室、あるいは図書館に行って勉強をしていたのだが、中野の駅の南側に今も在る公立図書館にその頃良く通っていた。混んでいると入れるまでいつまでも並ぶのだが、友達同士いれば色々な話をするので並ぶのはさほど苦にはならない。並んでいて尿意を催すとトイレは図書館のを利用するのだが、トイレの中は音が反響して唄うと一見うまく聴こえる。銭湯で歌を唄うと上手く聴こえるのとほぼ同じ理屈だろう。そこで宮田と一緒に連れションをしにトイレに入り、用を足しながらどちらともなくビートルズのプリーズプリーズミーの出だしをハモって唄った。

 それで、♪Come on come on come on come on please please me oh yeh like I please you! ♪と1番を唄ったところでタイミング良く後ろの個室から「ウルセー!」という大きなオヤジの声がした。いくら踏ん張っても出るモノが出なかったと見える。というか、下手くそなハモりを聴かされて下腹に力が入らなかったのではないだろうか?

 https://www.youtube.com/watch?v=h43nuGSd1m4 初期録音 YouTube
 ※サビの後ジョンが歌詞を間違えていないバージョン=最初の日本盤LPミート・ザ・ビートルスに入っているバージョン。

 バイトのお金が3万円を超えた辺りでそろそろエレキも買えそうなので、渋谷の消防署斜め前に在ったヤマハのお店に行った。1964年という年は実は色々な音楽スタイルが登場していて、ギター一つをとっても大きく3タイプに分かれていた。まずは昔からある普通のアコースティック・ギター、フォーク・ギター。これはピーター・ポール・アンド・マリー、ブラザース・フォー、などギター音を鉄絃ギターマイクを通して電気増幅しない最近で言えば[アンプラグド=Unplugged」のスタイル用。ギブソン、マーチン、ヤマハなどが有名だった。
米国マーチンのアコースティック・ギター フォークやカントリー用。


次がベンチャーズやアストロノウツと云った歌無しの楽器演奏だけの「インストルメンタル=Instrumental」 スタイル用の音響版の無いソリッドエレキギター、モズライトやフェンダーと云った海外のメーカー品。日本ではテスコ、グレコ、グヤトーンなどのコピーメーカーが在った。
ベンチャーズや加山雄三が好んで使ったモズライト。筆者も50歳を過ぎて手に入れた。


そうして此の双方をミックスしたビートルズの様なエレキを抱えて唄う「ボーカルバンド=Vocal Band」スタイル。セミアコースティック・エレキギターと呼ばれるリッケンバッカーやグレッチと云ったビートルズが初期に使っていた憧れのブランドがこのジャンルに在った。しかし当時の日本におけるコピー版セミアコースティック・ギターにはネックの部分に鉄芯が入っていなくて、毎回絃を緩めなきゃネックがすぐに絃の側に反ってしまい碌に使い物に成らなかった。

このリッケンバッカーやグレッチは当時はもちろん見る事も買う事も出来なかったが、50歳を超えた頃お金を貯めてやっと本物を手に入れる事が出来た。しかし、そういった超有名ブランドギターも最近は日本で生産しているモノもあるとかで時代の変化を感じざるを得ない。
初期のジョージ・ハリソンが使用したGretsch Tenessee Rose と Rickenbacker360/12

上の写真と全く同じ2台を50歳過ぎてから苦労して手に入れた。ただRickenbaker360は12弦ではなく使用頻度の高い6弦のモデル(希少品)を手に入れた。



その後数十年が経って自分が50歳を超える頃、パフィーと言う女性二人組のデュオがデビューした。どうもどこかで聴いたことが有る旋律の「アジアの純真」と言う曲でのデビューだった。直ぐにピンと来たこの曲はElectric Light orchestraの「Don’t bring me down」にそっくりだった。10年ほど経ってそのパフィー自身がこの「Don’t bring me down」をカバーしてCDに入れ込んでいるのを発見して確信した。

パフィーの第2弾ヒット曲「これが私の生きる道」はビートルズの曲6~8曲の特徴をミックスしてできた曲だったと相当高い確率で確信している。なおかつ彼女たちの曲で「Mother」と言う曲が在るが、これのプロモーション・ビデオを観て驚いた、二人が抱えているエレキこそビートルズが初期に使っていたギターではないか!これで読めた、あのパフィーを世に出したプロデュース軍団はビートルズ大好きオジさん達なのだと。作曲作詞担当が井上揚水や奥田民男と聞いてさもありなんと思った次第。彼ら二人は芸能界でも有名なビートルズマニアなのだ。井上揚水の「夢の中へ」はビートルズのLP・HELP!に入っている "I've Just Seen A Face"=邦題・夢の人 とコード進行がほぼ同じ。
Puffyの右のジャケットの2台のギターがGretsch と Rickenbakerでビートルズ初期と一緒。

 つまり高校時代は本物のビートルズ台頭期にリアルタイムで感化され、バンド活動を始め、40年後にそのビートルズの匂いを持った日本の女性デュオの影響でバンドを再び始めたという訳だ。グリコの宣伝じゃないが一粒で二度美味しかったと云う事か?

自分のエレキギターに話を戻そう。

 勿論渋谷のヤマハにはヤマハ製のギターが売り場の半分を占めていて、その他メーカーのモノはあまり多くなかった。その頃から御茶ノ水界隈がギター屋さんのメッカと知っていれば御茶ノ水に行ったのだが、何せ広尾高校に近い渋谷で買おうとしたのが失敗だったようだ。もちろん買い込んだ日本製の安物のコピー、セミアコのネックは直ぐに反ってしまった。結局あまり弾くのに影響が無い太い方の絃4本でベースギターの替わりに使うしかなかった。

 したがって自然に自分がベースギターを担当する事に成った。歌を唄いながら楽器を弾くのはコードを弾きながら歌えるリズムギターが一番簡単なのだが、ある程度メロディラインを弾きながら歌うベースは多少練習が必要だった。特にAll my lovingの様にメロディ・旋律のあるベースは幾度も繰り返しての練習が必要だった。 
ベースギターのピッキング、つまり弾き方は映画の中でのポール・マッカートニーの様に親指で弾くのが当たり前と思っていたからそのまま真似た。ローリング・ストーンズのビル・ワイマンもベースギターを立てて抱えて弾いていたが親指用のピックを使って弾いていた。しかし後にウッドベースの様に人差し指でベースを縦方向に持って弾くひき方が正統派だという声を聴いてそんなのも有りかと思った。しかし50歳を超えて再びベンチャーズの曲をやろうと集まったメンバーの中にヤマハの音楽教室できちんと学んだメンバーが居て、どんな曲でも人差し指で正統派の弾き方をしている者がいたが、ベンチャーズの曲の様にピックで弾く速いテンポには全く付いて行けず、まるで向いていなかったのを覚えている。
このバンドのギター編成に関しては50歳過ぎのバンド時代色々な事件が起きたが、それは後に回すとしてこの高校生の頃は宮田信雄中心に統制のとれたバンドだった・・・2年生の時は。楽譜が読めてギターコードが判っている人間は彼しかいなかったのでは無いだろうか?

ちなみに初期のビートルズは楽譜を読めなかったと聞く。だからこそ音楽プロデューサーのジョージ・マーチンが第5番目のビートルズ・メンバーだと言われたのだろう。これまた余談だが実はこの事が同じく楽譜を読めない自分にとってビートルズ狂いになった最大の理由かも知れない。八代に居た中学1年生の頃、妹が習っていると云う事で1年ほどピアノを習わされたことが有った。しかし楽譜など全然見ようとせず毎回先生に怒られてばかりだった。 
しかし、楽譜の読み方を覚えられないものはしょうがない、というより耳から入った先生の模範演奏で曲を覚え、自分で弾いてみれば大体弾けたから楽譜を観るまでもなかったという乱暴な話が実際の所だったのだ。これは50歳を超えて始めたベンチャーズ・バンドのリードギターを担当した時も楽譜など一度も視た事が無いし、散々レコードで聴いて覚えているベンチャーズの曲そのままに弾いただけだった。この話は又後に。
George Martin は5人目のビートルズと言われ彼らの曲を譜面に落とした。

 話をジョージ・マーチンに戻そう。
  彼はビートルズに出遭った1962年頃は英国EMIのプロデューサーだったが、1965年に独立してビートルズ中心の音楽活動を開始した。彼自身は編曲者・作曲者・指揮者としても実力が有り、ジョージ・マーチン楽団としてビートルズを中心とした数多くのカバー曲LPを発表している。一時期夢中になってレコードを集めまくったが、特に最近になって高く評価され始めた彼の管弦楽団の曲はCDでは幾つか発売されているが、レコードで持っている者は意外に少ないらしい。
George MartinのLPは5枚ほど手に入れた。いまやすべてが貴重盤だ。


このジョージ・マーチンは最終的に英国皇室からサーの称号を与えられ、ビートルズと共に準貴族の一員になった訳だ。

2014年4月19日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #33」 1964年都立広尾高校入学の頃ビートルズ-2。

 高校が中学校と大きく違う所は勿論通学時の靴が革靴になっただけでは無い。こういった生活環境その他の話はこの先おいおいゆっくりするとして、まずはBEATLES関連のムーブメントが自分にどのような影響を与えたかと云う辺りから詳しく行ってみたい。

 4月に入学するとほぼ同時に日本でもBeatlesの爆発的なブームが始まった。国内のメディアではラジオのヒットパレードで上位にどんどんビートルズの曲がランクインしていった。銀座の森永キャンディ・ストア提供DJ高崎一郎による「キャンデー・ベスト・ヒットパレード」や小島正雄の「9500万人のポピュラーリクエスト」、その他ラジオ関西がキー局だったらしい「電話リクエスト」も東京で文化放送か何処かの曲が流していて番組スタジオのアナウンサーの声の後ろで沢山電話の着信音が鳴っていたのを覚えている。まだテレホンカードも無く街頭の電話ボックスがあちこちに在った時代だから、夕方に成ると放送局にリクエストを掛ける若者で街角の電話ボックス前には順番待ちの人の列が出来た事だろう。今では考えられない光景だったと思う。

 4月に入ったと同時にこれらのリクエストによる洋楽ポップスのランキング番組の内容はビートルズの出現に影響を受けて大きく様変わりしようとしていた。コニー・フランシス、リッキー・ネルソン、ニール・セダカといったポップ・シンガーからフォー・シーズンス、ロネッツ、シフォンズ、エクサイターズなどボーカル・グループにシフトし始めていたのと同時に、「アパッチ」で有名な英国クリフ・リチャードのバックバンド、シャドウズ、アメリカのベンチャーズ、アストロノウツなど楽器だけで演奏するインストルメンタル・バンドが台頭して来ていた。その中で一躍赤丸急上昇したのがビートルズを中心とした英国のボーカル・グループだった。その変わった髪型マッシュルームカット、今まで視た事が無かったセミアコースティック・エレキギターなど「見た目」「カッコよさ」からもアピール力は満点だった。2~3年遅れて始まる日本のグループサウンドと呼ばれた一群が、殆どがこれらリバプール・サウンドの真似から始まっている事は承知の通りだ。
1962年頃まではソロ・シンガーがヒットパレードの中心だった。

1963年辺りからPOPグループが急激に増えてくる。

特に女性POPグループは現在でもコレクターズ・アイテムに成るほどの人気だった。

1964年のビートルズ出現をきっかけにリバプールサウンドが急速に台頭して来た。
※以上全て自分のコレクション

 日本の雑誌などもこぞってビートルズや英国リバプール・サウンドと称してこれらを一纏めにして特集し、今や英国出身のバンドでなければ・・・とでもいう勢いで報道した。我々高校生もこぞってラジオを聴き、レコードを買って、これらの雑誌を読み漁ったのを覚えている。その様な中でビートルズの特集、彼らのモットー、生活信条等を紹介した記事などが有り、あらゆる面で真似をしようとした者は私以外にも沢山居たのではないだろうか?その中で今でも変わらずその通りにしている事が幾つかある。たとえば「自分の事は自分で行う」、「自分たちの演奏する曲はなるべく自分たちで造る」「楽器のチューニングは必ず自分で行う・・・」などだ。
 大切な事は決して他人任せにせず自分で行い、自分で確認する・・・一見当たり前の様なことだが高校入学時にこれを親や先生に教わったのではなくビートルズたちの生活信条を真似る事で覚えたのは大きかった。

 銀座の洋書専門店イエナでビートルズ関連の雑誌や単行本を買い漁ったのもごく自然な成り行きだったし、神田の古本屋街の厳喜堂ブックブラザーにビートルズ関連の古本を捜しに行ったのも懐かしい。そんな中に明らかに日本のビートルズ特集本がパクッた内容のオリジナルが在ったので買い求めた。画像で紹介しよう。
オレゴン州のポートランドで1998年購入

当時の復刻版英国のNew Musical Express紙

Beatles紹介特集にあった個人個人の特集。日本の雑誌が翻訳して掲載していた。

 日本のファンはアッという間にファンクラブを造り、星加ルミ子編集長が引っ張る雑誌「ミュージックライフ」がその後1965年からビートルズ解散まで詳細にビートルズニュースを流し続けた。前回最後に記したとおり、曲も聴いて夢中になると同時に1964年7月に封切られた最初のセミ・ドキュメンタリー映画「ビートルズがやってくるヤア・ヤア・ヤア」の出現で「動く・唄う・ビートルズ」に映像でノックアウトされ「これは、ワシらもバンドをやらにゃいかん、いつやるの?今でしょ!」とワクワクする期待で頭の中が一杯になってしまった。
ごく初期の映画ポスター

海外の映画パンフレット

 この辺りは1歳年下だが香川県出身で同じく高校生時代にバンドに夢中になった、作家芦原すなおの1991年直木賞小説「青春デンデケデケデケ」でも「神の啓示をうけた」と有るように、電気的ショックに近いモノだった。香川でバンドを始めた芦原すなおと大きく異なる点はその演奏曲目だった。我々のバンドには日本の青春歌謡曲三田明の「美しい十代」の類だけは一曲も無かった。
 
 もちろん当初はメンバーを集めるのと自分達の楽器演奏スキルのあまりのレベルの低さと本物のビートルズとの差に幾度も挫折しそうにも成った。しかし、芦原すなおの小説にも出てくるギターの天才白井君の様な救世主が広尾高校にも居た、同じクラスで名前を宮田信雄と言った。彼は軽音楽クラブに所属しフォークソングやジャズ系のギターを天才的に上手く弾いていた。更には沖縄から来ていた宮城宥はギターが上手だった。ドラムは楽器付で少し気難し屋の加藤博が居た。気が付くとメンバーはそんなに苦労しなくてもクラスの中に居た訳だ。

 後は楽器だ。ビートルズが使っている本物などその当時の日本では誰も生で観た事が無かったし、もちろん売っても居なかったろう。とにかくエレキを手に入れなきゃ話に成らない。其処で夏休みにアルバイトをしてエレキを買う事にした。南麻布の「芝造園」と云う所のアルバイト土方をやった。理由は肉体労働でキツイが他のバイトの2.5倍の日当を貰えたからだった。郊外の金持ちの庭づくりや皇居の中の草取りなどをやらされた。金持ちの庭づくりは車に乗って東急田園都市線の沿線に行った。溝の口を越えてまだ火の見櫓が立っている川崎街道をどんどん西に進み、宮崎台だの宮前平など駅の周りがまだ造成中の何もない中を銀色の四角い電車が走る沿線だった。
 
 余談だが、最近40年振り以上にこのエリアに行ってみて、そのあまりの変貌ぶりに「浦島太郎」の話が良く判るような気がした。頭を使わなくても良い土方(ドカチンとも言った)の仕事は結構単純だった。親方中心で絶対服従のチーム生活は広尾高校のバレーボール部の延長と思えば何の苦も感じなかったし、要は全てお金の為に我慢すれば済む話だから皆勤賞モノで仕事に励んだ。

 皇居にも頻繁に出かけて造園の仕事をしたが、一度とんでもない経験をさせて頂いた。ある日6名ほどで地道の草取りをしていて親方が「おい!仕事止めて並べ」と云うので麦わら帽をかぶったまま軍手のまま木陰に並んだ。其処に帽子をかぶって軍手をした人が近寄ってきて「何をしているの?」と訊いたのだ。なんとその方は昭和天皇陛下だった。思わず「はいっ、雑草を取っています!」と答えてしまった。その瞬間、優しそうな目でこちらを視てこうおっしゃった。「あのね、植物にはどのようなものでも全て名前が有るの、雑草と云う植物は有りません。」 昭和天皇が生物学者であったことをその瞬間思いだして「しまったー!」とは思ったが、何だか強いオーラが出ている雲の上のお方の前では余裕など全くなかった。

 5年ほど前、小倉の大通りで遠くから新聞社が配った紙の日の丸を振って天皇陛下の車の行列をお迎えした事しかなかったので、緊張しまくりだったのは今でも覚えている。天皇陛下が去られたあと親方から怒られたが、「しかし、オメー良く言葉が出たな?オイラなんか驚いて固まっちまったよ。」と言っていた。 帰りにいつも「敷島」という吸い口を潰して喫わなきゃいけない太めの煙草を貰えたのが誇らしげだった。しかし、ただ一度も美味しいと思ったことは無かった。

2014年4月18日金曜日

久しぶりに野川でカワセミ! It's a long time since I met common king fisher at Nogawa river area.

 2月末の大雪以来の野川エリアでの探鳥。夕方の野川自然観察園では野の花が咲き誇って見頃だったが野鳥類は入れ替わりの時期なのか、あまり眼に入らなかった。今日は新しいカメラに慣れるための修練の日なので被写体は別に何でもよかったのだが、やはりヤマセミを正確に画面の中央に入れるためにはカワセミで練習しなければと、お出ましを待ち受けた。

 案の定、いつもの場所にほぼいつもの時間にご登場。繁殖活動がどうなっているのか全く分からないが、最初は雄が採餌、次に雌が現れてやはり採餌。狭い野川の流域をやく300m行き来していた。野川のカワセミはジョギングや犬の散歩の人々に慣れているため、10m程の距離でやっと場所を替えるという程度の反応。周りの歩行者も撮影者がヤマセミにレンズを向けているのが判ると立ち止まって観るかそーっと遠回りをして去って行くようだ。

陽が長くなったとは言え、太陽が森の向こうに沈んで暗くなっていた。

雄はこの時少し長めのダイブだった。

採餌は失敗したようだが、しばらく小石の上に佇んでいた。

雄が居なくなってものの5分も経たずに雌が現れた。抱卵を交代したのだろうか?

頭上にヒヨドリが留まった。渡りをしないヒヨドリなのか、これから渡るのか?





2014年4月17日木曜日

4月第1週の川辺川ヤマセミつがい。 A pair of crested kingfisher at Kawabegawa-river side on the first week of this April.

 新しいカメラ・ボディのテストで撮影した川辺川のつがいをご紹介。このつがいはいつもこちらの存在を認識してくれている個体なので、警戒心も殆ど無く自由奔放な動きが見てとれる。この時は樹上で雄からの求愛給餌を受け取った後雌が水浴びをし、雄も水浴びをした直後の様子。

 なかなか雰囲気が撮れていて気に入っている。この後庭で飛び去り20m以上の高さの森を越えて何処かへ飛んで行った。
雌は先に水浴びを終了して後方の岩の上でお休み中。

先に移動し始めたのは雌。



直ぐ後を雄が追いかけ、この後急上昇して樹木の上に消えて行った。

日なたと日影の明度差が極端なので撮り難い。