2014年10月7日火曜日

台風一過の武蔵野でオナガが群れで高高度を飛翔。 After Taiphoon#18 Phanfone, Azure-winged Magpie flying high level with group.

 台風一過の武蔵野野川流域にコンデジを持って野鳥観察に行った。台風の直後は時々普段観られない野鳥が風で飛ばされ、まぎれ飛んで来ることがあるので少し期待して行った。
 案の定、武蔵野エリアの野川流域では初めて視る野鳥が水浸しの草地グランドに居た。40m程の距離で撮影できたが、野鳥観察の先輩に確認するとコチドリの雌らしい。20分ほど普段は無い水溜りの周りを徘徊していた、たぶんミミズの類を採餌していたのではないだろうか?

コンパクトデジカメでこういう画像が撮れる様になったのだ、技術の進歩は素晴らしい!


普段はサッカーや野球が行われているグラウンドだが2日間続いた大雨で水浸し。

 更に、やたらにうるさい野鳥の集団が樹木に群がっていたので確認に行くと、オナガの集団だった。オナガは隣接するミッション系大学キャンパス構内で5~6羽の群れでほぼ毎朝低空を飛び回っているが、台風直後の群れは大きかった。そのうち北へ50m以上の高高度を飛翔しながら移動した。22羽を視認。オナガとしては珍しい群れだった。
原始的なたたずまいのオナガらしい飛び方だった。コンデジでこのような画像が撮れるとは思わなかった。もちろんピンは甘いが、記録としては充分だろう。

群れの後姿だが22羽確認できた。画面では15羽。

早くも熟れた柿から突いていた。明日も来るだろう。

強烈な夕陽を浴びて白飛びしてしまった。

オナガの白にも蛍光色がある、白飛びしてしまうのはコンデジの限界だろう。


2014年10月6日月曜日

本当にスズメは減っているのか?その2.  Really as for the sparrow is it decreasing? Part2.

 先月、9月25日「本当にスズメは減っているのか?」という内容をアップしたが反響が結構あって驚いている。観て頂いた方々にここで感謝したい、と同時にそれほどスズメの存在に興味をもたれているということを知り嬉しくなった。
 都心では餌がなくなったり、野生の植物が減って果実や種を採餌し難くなってスズメが減ったのでは?と前回述べたが、やはり都心でも公園など緑化されている場所には果実も昆虫も居るので雀は沢山居るようだ。都心は局部集中の気配を感じ始めている。

 今日の画像は上野の不忍池界隈のスズメ事情をお伝えする。この現象は10年前から知ってはいたが、愛好者が増えたと見えて現在では多い時には10名近くが餌をやっている。もちろん野鳥の餌付けは野鳥界の常識としては決して良い事ではないだろうし、餌をやっている人に何か有って来られなくなったらスズメは自力で採餌出来ないから死ぬだろう・・・。と危惧されるかもしれない。しかし、常にこの不忍池の雀は餌さやりの常連さんを待っている訳でもなく、居ない時にはそれぞれ個々に採餌しているのを幾度も確認している。

 しかし不忍池で人がスズメに手渡しで餌を与えているのは、江戸時代からの風物詩らしい。小林一茶の句に「我と来て遊べや親のない雀」にあるとおり、江戸時代から雀は人に一番近い野鳥だったのだ。この不忍池の雀画像を見ると、また事情を良く知らずに目くじらを立て非難する愛鳥家が出てこようが、情報の一部分だけを見て即非難をせずに、江戸の昔から続く伝統文化・風俗がどれだけ人々を和ませているか、現場に来てまず実態を観るべきだろう。

 不忍池にも看板が立っていて、カモ類(カルガモ、マガモ、キンクロハジロ・・・)などに餌を与えないで!とある。しかしスズメやカモメに与えるなとは書いていない。これは観光客がカモ類に餌をやりすぎて太ってしまい飛べなくなるからだと書いてあったが本当だろうか?カモ類は換羽の時期に一時飛べなくなる種があるが、それを見間違えたのではないのか?フォアグラでは有るまいに食べすぎで飛べない漫画のようなカモが本当に居るのだろうか?




普通の人が手に餌を乗せて待っていても20分以上は近寄ってこない。やはり慣れが必要。



一方で唯我独尊、孤高の雀も居る。雀の社会はどうなっているのだろう?


 

2014年10月5日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #73.」 1972年春休み、英国旅行始末記 その5.帰国の途、ロンドン・パリ数々の体験。

すっかりボーンマスの人間に成り切って、心も姿かたちも英国人に融け込んだつもりではあったが、やはりロンドンへ向かうと成ると普通の日本人観光客にすっかり戻ってしまっていた。
ボーンマスで小池と共に仲良くなったグループがある。背の高い横浜の京急富岡に住む・カラス(犬山洋子さん)、新潟か何処かから出てきたジャイアント・リトルパンダ(名前忘れた)、大森の米屋の娘・カミパン(前川園恵さん)など、これ以降ロンドン・パリ経由でローマから南回りで帰京するまでほぼ一緒に行動した。

ボーンマスで仲良くなったグループはその後行動を共にした。

ロンドンへのバスはビートルズの「Magical Mystery Tour」のバスと同型だった。

 このカミパンという仇名は、既にボーンマスに到着する頃から付いていた。理由は初めての海外旅行で荷物が多くなるので、その頃発売され始めていた紙製のパンツを大量に持ってきていた、との話から小池が付けたもの。穿き心地がどうだったかはまだ訊いていない。カミパンの名前はすぐツアー参加者全員に知れ渡る事となり、語学学校の先生達も授業中彼女を指すときには「ハイ!カミパン」と言っていたようだ。
ひょっとするとそのカミパンも、もう10年も経つと紙パンから紙オムツを穿くようになるのだろうか?

ロンドンに出てみると小雨だった。30日間晴れていたのが帰る間際になって雨だ。ロンドンは雨のほうが風情が在るとか言って、皆満足だった様だった。ロンドンでは2泊した。この間いろいろな所に行ったが、個人的にはビートルズに関連した場所や映画の中に出てきた場所に行ってみたかった。基本は1964年に封切られた「A Hard Day’s Night=ヤアヤアヤア・ビートルズがやってくる!」関連の現場を体験したかったのだ。最近何かと話題になっている団塊の世代のリバプール詣での先駆けと言っていいだろう。

まず最初に行ったのがメリルボーン駅(Marylebone station)だ。ビートルズの最初の映画「A Hard Day’s Night=ヤアヤアヤア・ビートルズがやってくる!」の冒頭に出てくる駅だ。駅のホームに車を入れられる事にとにかく驚いたことを覚えている。同時に4人が木製の連続した電話ボックスに並んで電話を掛ける振りをするシーンの場所を探した。

 もちろん、最後の録音になったアビーロード(発売はLET IT BEが後)アルバムの有名なジャケットの場所、アビーロードに行って4名で同じような格好で横断歩道を歩いたが、せっかく撮った画像は何処かへ行ってしまった。その後JAZZからクラシックまであらゆるジャンルのビートルズ・カヴァー演奏のレコードジャケットがこの真似をしているのも面白い。LPアビー・ロードのジャケットの亜流は何種類出ただろう?

我々4人で真似して歩いた画像が無いのが残念!本物の撮影が夏である事が判る。通りに長く突き出した木の枝や、右の特徴ある建物周りの木々の葉がレコードジャケットだと生い茂っている。

この道路表記は今はもう無いだろう。この頃ですらこのような感じだった。

ビートルズに関する記念の場所はこの当時はこのくらいしか知らなかったので、残念ながら他へは行っていない。現在は焼けてしまったり、取り壊されているものが多く、撮影場所に行くのはなかなか難しいようだ。

もちろん、ビートルズ関連のレコードなどは大量に買い込んだ。今やもう何処へ行っても手に入らないようなカバー・バージョンやごく初期の海賊盤などを買い込んだ。実はお土産のトランクの半分の重さはこのレコード類だったような気がする。日本に帰って羽田空港に着いた途端、トランクの金具も壊れてしまった程だ。当時はまだ塔乗客の荷物を放っていたのだろう。

英国オリジナル・シングル盤の「I want to hold your hand」

ビートルズ以外にも、いわゆるリバプールサウンド関連のレコードは満載のロンドンだけに、23日にポーツマスで観たThe Hollies関連のレコードなども買い入れた。これらのコレクションはいまだに宝物として大切に保管している。いくつかをここに紹介しておこう。
殆どは出来立てのCAMDEN LOCKや安売りスーパーのWOOL WORTHで買い入れたもの。

ロンドンでのモノ漁りもそこそこに、ロンドン・ナショナルギャラリーでゴッホの「ひまわり」「自画像」「糸杉」のいろいろなバリエーションを、テート・ギャラリーでターナーのいろいろな色調の絵を堪能した。夜は映画館で、あのグルノーブル・オリンピックで三冠王だったジャン・クロード・キリーが主演のスキーアクション映画「SNOW JOB]を観た。ボーンマス最初の日に観たあのトルコのポルノ映画より遥かに判り易く、自分でも少しは成長して英語がわかるようになった気分になった。しかし雪の上をかっこよく滑るキリーに言葉は要らないから、そうでもなかったかもしれない。でもそれを言うならポルノなどもっと・・・・・この辺にしておこう。

ジャン・クロード・キリー主演のアクション映画。あまり評価は高くなかった。

ロンドンからパリはガトウィック空港からの空路だった。短いフライトだったが、パリに着いての宿、はレパブリックの大きなホテルだった。今はCROWN PLAZA ホテルとなっているが、その頃は別の名前だったと思う。2005年に行って泊まった時はホリデー・インの名前だった。ずいぶんと経営が替わったようだ。

このパリでは面白いことがあった。当時のフランスではあまり英語をしゃべる人が居なかった。母国語に大変な自信と誇りを持っているフランス人は英語を喋りたがらなかったのだが、世界のビジネスのすう勢とインターネットの普及で英語を話さなければやっていけない時代になった現在、ほとんどのフランス人は英語を喋るが当時は全然環境が違った。

何処へ行って何をするにも、身振り手振りだった。そんな中、ホテルのエレベーターの中で同い年位に見えた金髪の若い女性と一緒に成った。一瞬目が合って、「ハロー!」と言い合った途端「You speak English?」と来たもんだ。日本の英語の授業のようにDo you? もしくは Can you? から始まらなかった。即「A little bit,~」と返したら、もうベラベラしゃべくりまくって何が何だか判らなくなってしまった。そこで、ゆっくりとこちらの状況、英語はまだ練習中でろくに話せないことを説明した。そうしたら、彼女もドイツから母親と観光に来たのだが、何処かへ行ってしまい一人で英語の通じないホテルの中でどうしようも無くて困っていたと言うのだった。そこで、小池たちと合流するまでの間だけという約束で、ホテルの1階のテラスでお茶をしながら英会話をすることになった。国際親善とでも言おうか、いわば生の語学実地訓練だ!
 1972年と2005年に泊まったリパブリック広場にある大きなホテル。1972年頃はリュパブリック・インターコンチネンタル・ホテルと言う名だったと思う。その後2005年頃はホリデー・イン、現在はクラウン・プラザと名前が変わっているようだ。

彼女の家はドイツのバイエルン地方の貴族の系列だという。こちらも350年前江戸時代、麻生藩1万五千石の殿様・つまり日本の貴族が先祖だと言うと、もう話が盛り上がってしまった。 ヨーロッパ人は身分制度の名残が誇りとしてまだ各家族にあるらしく、それなりの身分の人間同士で仲良くなるようだった。ボーンマスでの地元の人たちとの会話とは、ずいぶん違う次元の会話に多少戸惑ったが、ヨーロッパ大陸文化の一端を垣間見た気もした。

1時間ほどして、小池がカラスとジャイアント・リトルパンダとカミパンを連れて合流したが、シンジョウがカフェで金髪の姉ちゃんと真剣なまなざしで話しているのを見て、相当驚いたようだった。こちらが真剣なのは、会話に間違いや誤解があってはいけないと必死だったのだが、小池は勝手に金髪美人を口説くことに真剣だと勘違いしたらしい。暫く4人で遠巻きにして観察していた様だったが、金髪の彼女のほうが自分を見つめる東洋人の8個の異様な眼線に気が付いてしまった。

その後、ちょうど彼女の母親が戻ってきたのを機にドイツ美人とは別れて、我々グループはホテルを後に黄昏のパリの街へ食事に向かったのだった。その日のパリは雨も上がり雲間からすばらしい色の空が見え始めていた。印象派の絵のようなその空の色は、日本では今まで観た事が無い不思議な色をしていた。




2014年10月4日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #72.」 1972年春休み、英国短期留学ホームステイ始末記 その4.果たして英語は身に付いたのか・・。

1972年の英国短期ホームステイ留学ツアーは、自分にとっての初めての外国だった。当時は海外旅行に関してまだ外貨持ち出し制限というのがあって、3000ドルがその上限だった。当時は1ドル360円時代だから約100万円が限度と言うわけだ。英国の場合1ポンド=864円だから、16万円ほどを持って出ているのが記録されている。ちなみに当時のサラリーマンの平均年収は13万円程度。我が家も裕福な家庭ではなかったし、旅行費用はほとんど自費だったので、両親からの餞別は3~4万円だったように記憶している。とうとう親に小遣いをせびった事が一度も無かったが、はたして親としてはどうだったのだろう、少しは甘えて欲しかったのだろうか?
記憶では1ポンド=1000円程度だと思っていたが、860円くらいだったらしい。

 自分でパスポートを申請して取りにいったが、当時も今も有楽町の交通センター以外で交付された事がない。ほぼ45年の間同じ場所と言うのも凄いことだと思う。幾分手続きは簡素化され、スムーズに成ってはいるものの、やはり面倒くさいのは昔も今も変わらない。写真だけは最近は自分で撮影している。
最初のパスポートから4冊は5年間有効だったが、USAのビザが4年更新だったので合冊。現在までに8冊のパスポートが残っている。

 余計な話だが、前回2011年の渡欧時のユーロやポンドが20万円分以上残っていたが、ここ数日の円安で少しだけ儲かったようで、少し気が大きくなっている。こんなことで一喜一憂している己は他愛も無いものだ。

話を英国を去る頃の話に戻そう。3月5日早朝にロンドンに着いた日は前日の大嵐(=低気圧通過)による風と雪で死者まで出ているのに、それ以降ロンドンを出る3月31日までなんと英国はずーっと晴天が続いたのだ。相当久しぶりの晴天続きで英国としては記録的な事であったらしい。それ以来自分が何かアウトドア・イベントに参加したり、運営側としてプロデュースをする時の晴天率は恐ろしい程高いのだ。
滞在中、ボーンマスは晴れっぱなしだった。

時には交通事故の瞬間を撮影したこともあった。旅行ツアー参加者が車にはねられ入院した事もあった。同じ左側通行の国だったが交通ルールは日本のように事故の際、いい加減な両成敗ではなかった。横断歩道ではないところを横切って、はねられた観光客側が100%の責任で、はねた車の過失はゼロだった。善悪がはっきりとしていた。道路にいきなり飛び出すものは、鹿も人間も一緒だそうだ。はねた方としては不可抗力ということだろう。

たとえば1985年から1994年まで10年間続いたウインドサーフィンのフロム・エー・カップ(リクルート・フロム・エー主催)の合計レース日数は26日間だったが、雨天・強風などで中止になった事は1日しかない。実施率97%という超高確率のアウトドア・スポーツイベントだった。
1985年から10年間続いた「フロム・エー・カップ}一般参加型のウインドサーフィン大会。

小・中・高の遠足・運動会も中止や延期は一度も経験無い。小学校は4箇所、中学校は2箇所も転校して通っているにもかかわらずだ。実質的にいわゆる「晴れ男」なのだろう。これはあくまで科学的には何の根拠もなく、まったくの偶然に違いないのだが、あまりの晴天効率の良さにヤマセミ撮影にもこれが良い方向で影響することを願いたいものだ。

また話が飛んでしまった。話を英国に戻そう。

ボーンマスを去る日が近づくにつれ、ホームステイ先の近所の人々の誘いが増えた。週末はスケートリンクへ行こう、ゲームをやろう・・・など盛んに誘ってくれた。英語もそこそこ慣れて、レベルは低いままだろうが、気がつくと知らぬ間にごく普通にやり取りしている自分が居た。筆者の英語力の変化に一番驚いていたのが一緒に行った小池隆一だった。

文法はもちろん良く判らない、だから日本の英語のテストを受ければ前と変わらない成績しか取れないだろう。しかしオウム返しで学んだ日常会話の会話は必要に迫られて覚えてしまったわけだから、しっかりと身に付いたのだろう。北九州の小倉から熊本の八代に転向した頃、花壇の穴を掘る説明で担任の先生に「ぎゃんして、こぎゃんして、きゃー掘るとたい!」と言われて、頭が真っ白になった経験が、遠い英国の地で生きた訳だ。いつの間にかボーンマス訛というか地元の言い回しで、ホームステイ先の家族と普通にしゃべっている姿を見て、相当驚いたらしい。
近所の寄り集まり所でも、語学学校でも珍しい東洋人は「お喋り会」に参加させられた。

 今は野鳥の撮影に山に入った時、鳴き声を真似して、アオゲラやアカショウビンを呼び寄せられる事もあるが、それに比べれば英語など、相手が同じ人間だもの、身振り手振り、顔の表情もあればお互いの意思は通じ合うと思う。話はまた横道に逸れるが、日本と言う国は明治の昔からこういう日常会話のやり取りより、ペーパーテストの成績で英語能力を測ろうとしたのが大失敗だったのではないかと思う。慶応義塾大学の英語の試験にアメリカからの留学生が合格点をもらえなかった(実話)と言うのも何処か可笑しな話だ。通詞あがりの福沢諭吉の始めた学校ですらこれだもの。

今は、ただ垂れ流しの英語を聴くだけで覚えるという教材もあるようだが、正直言って相手が居なければ英語は身に付かない。英語を早く覚えたければボーイフレンドでもガールフレンドでも良いから、英語圏の友達を作るのが早道だ。日本人の英語が上達しない理由の半分以上は、単なる外人コンプレックス、外人に接する事に対する慣れが無いだけの話。日本国内に居てはこういった環境は少ないので難しいのだろう。その点、強制的にボーンマスのホームステイ先に放り込まれてみれば、一番近い日本人=小池のホームステイ先はバス停で6つも離れているし、生活の場の周りは全員生粋の英国人だ。

いわば筆者はロビンソン・クルーソーに拾われたフライデーみたいなもの。食事をするにも、トイレに行くにも英語をしゃべらねば生きていけない環境。この状態に入りさえすれば誰でも英語は自ずからしゃべれる様になる。
昔のロビンソン・クルーソーの本 Googleフリー画像より

最近は日本国内で帰国子女たちが大きな顔をして、バスの中で声高に英語で会話しているが、親の転勤の関係でそういう環境に居ただけの話、誰でも同じ環境になればしゃべれるようになる。別に帰国子女達は頭が良い訳でも才能がある訳でもないので、偉くもなんとも無いのだ。

こうして、ボーンマスからロンドンへ移動するためのバスが出る語学学校まで迎えのタクシーに乗ろうとしたら、なんと18名の近所の見送りがエルムズ通り41番地に集まってしまった。全員とハグをして別れたが、結局ウインボーン通りまでホームステイ先の二人娘、アニタとニコラが追いかけて来てしまった。その後二度と会うことはなかったが、元気で居れば今年で52~3歳になっている筈だ。
右がアニタ、左がニコラ。どうやら北欧系の英国人家族らしかった。

 語学学校でのバスの出発時はもう大変!現地で恋仲になったのだろうか、金髪の男の子の胸に顔を埋めて泣いている女の子や、バスの中と外でただジーッと見詰め合っているだけの二人など、誰が見ても語学以外の事柄も沢山学んだのだという事がすっかり判ってしまうのだった。金髪の男の子の胸に顔を埋めていた女の子も気が済んだのだろう、どんなに可愛い子だろうと少し期待したが、こちらに顔を向けた瞬間「あー、相手が俺じゃなくって良かった」と思ってしまった。


2014年10月3日金曜日

ヤマセミを順光で普通に撮ると白が飛ぶ!Shoot the crested Kingfisher in direct sunlight and make sure exposure resulting in overload.

 昨日は逆光でのヤマセミ撮影の難しさを説明したが、今日は順光での難しさを説明したい。曇りの日が一番良いと述べたが、曇りの日でさえヤマセミの白はハレーションを起こしてしまう。それだけ蛍光色が強いのだろう。特に雄の羽根の裏の白さは特別だと思う。

 ヤマセミを撮り始めた頃は、跳んでいる姿を画面の中央に持ってくることと、ピントを合わせることで精一杯だったので、露出に関しては気にしなかった・・・・というより手が回らなかったというのが本当のところだった。少し慣れてくるとパソコンで見ると白トビを起こしている画像ばかりであることに気がついて肩を落としたものだ。

 結局、2絞り以上落として、普通だと「冗談だろう?」と言われかねないほどの露出で撮ってやっとヤマセミの画像がちゃんと撮れたのを昨日のように覚えている。上位機種になって個人のカスタムセッティングを幾つも設定して臨んでいるが、一長一短の場合が多く、臨機応変でその場の状況に合わせて機能を活用している。

 コンデジの液晶を見ながらの撮影ではまずヤマセミの飛翔姿は撮れないだろう。デジタル一眼の入門機種で良いから手持ちで回数をこなすことをお勧めしたい。失敗を重ねる事こそ上達への一番の先生だろうと思う。
まだ背面だから助かっているが、逆だったらまず白トビを起こすだろう。


羽根の切っ先が水面に付くのはぜんぜん意に介さないようだ。


日陰でこの白さだ、手前の直射日光の部分に飛び込んだら白がトブだろうと思う。

こうして曇っていても首の白は飛びやすいので要注意。



2014年10月2日木曜日

逆光でヤマセミを撮影すると・・・。 When taking a picture of the crested kingfisher by the backlight.

 ヤマセミは谷深い山奥で撮影する場合が多いとは思うが、球磨川流域、川辺川流域では川幅が広いところでの撮影が多いため直射日光の下での撮影チャンスが多い。氷川の立神峡などでは切り立った岸壁に挟まれて直射日光は入らないが、熊本県南に在ってはむしろ特異なケースになると思う。正直、2010年以来ヤマセミを撮影してきて明るめの曇天の日が一番撮影はし易い。もちろん雨が降るより、晴れている方が有り難いのだが直射日光の鋭い日は意外に撮影が難しいのだ。

 理由はヤマセミのその白さにある。何度もこのブログで述べて来た事だが、自然界の色には多かれ少なかれ蛍光色が入っている。植物の綺麗な花びら・額などには最も多く含まれていると言って間違いない。白系の野鳥の白い羽根にももちろん含まれている。だから絵に描いた自然物が色の面で本物にかなわないのは、これが理由であると思って良い。これは自分が美術畑出身で何度も油絵や水彩画を描いてきてそう感ずる。絵そのものが下手であると言うのはもちろん別の理由だが。(汗)

 結論から述べよう。ヤマセミを撮影する時は、オートのマークで撮影しない方が良い結果を得られる。筆者は経験値を頭に入れながらつまりマニュアルで順光時にはアンダー目、逆光時にはオーバー目で撮影している。絞り優先でも、シャッタースピード優先でもなくマニュアルで撮っている。留まっているヤマセミを撮る場合はこの限りではないが、ヤマセミの次の行動を予測するのは数年観察しないと難しいのではないだろうか?

 高いハイエンドのカメラであればあるほど、詳細な設定が可能だがヤマセミの動き・撮影条件などの急変に対応出来るほど筆者は頭が良くない。したがって、どうしてもマニュアルで光と行動を見て即応する癖が付いてしまった。以前いくつかのパターンに分けてカスタム設定をしたが、事実上対応できなかった。

 他の野鳥同様に早朝が撮影のビッグチャンスであるヤマセミは、この生息領域の水辺という条件が更なる難題として加わる。単なる逆光状況に加えて、水面の反射光、波による直射日光の照り返しなどで太陽に向かって撮らねば成らない場合は非常に苦労する。特に早朝太陽が低い位置にある場合などは特に難しく撮影者泣かせとなる。したがって撮影の場所決めは事前の調査が不可欠と成る、さっと行って、さっと撮るわけには行かないのだ。逆光でさざ波が立つ中、ごま塩・斑模様のヤマセミを撮影するのは超難しい!今後の精進でいつかモノにしてみたい。






明日の順光パターン例と比べて頂けると嬉しい。

2014年10月1日水曜日

時にはトビだって本気でカラスに向かう。 Even a black kite sometimes faces the crow seriously.

 カラスがトビを追いかけている場面に良く出くわす。トビが餌を保持している場合と繁殖期にカラスのテリトリーに入ったトビを集団で追い回す場合が多いと思われる。

 しかし、ごく偶にだが本当にトビが腹を立てたり切れた場合は猛禽類の本性を現す事がある。八ヶ岳ではトビが纏わり付くカラスに腹を立て、空中で捕獲したまま草原に消えた場面を撮影した。カラスが二度と舞い上がらなかったところを観ると、何がしかのダメージを受けたのだろう。

 今日の画像も、トビがカラスを追いかけ3度ほど空中で接触している。カラスは必死に逆方向へ逃げているが樹林帯へ逃げ込んで出てこなかった。







 先日のヤマセミを威嚇したカラスといい、何かにつけ攻撃的なカラスに天敵は居ないのだろうか?とにかくいろいろ観察をしていてこれほど問題を起こす野鳥も珍しい。