2014年9月22日月曜日

飛翔中のヤマセミ2羽。 Two Crested kingfishers are flying at Kawabegawa river of Sagara villege.

 川辺川中流域のヤマセミ夫婦の画像をご紹介。先週は川辺川太郎とそのつがい相手の静止画などをご紹介したが、今日はその2羽が飛んでいる画像。なかなかこの2羽は仲が良くてなおかつ元気で有名だった。球磨川本流のつがいの同時にいる場面は、繁殖期に近い時期に架線に留まっているときか、何かで夫婦喧嘩をしているときが多い。しかし少し人の目が届かない川辺川のつがいは大体常に寄り添って行動しているので2羽での撮影が他のエリアより多い。
いつもの定位置でくつろぐ川辺川太郎夫妻。

夫唱婦随というスタイルはヤマセミにもある様子、メスが先導する絵はまだ撮れていない。

きれいな水面にヤマセミの番が写り込んで観察者にとっては至福の一瞬。

前年の姉妹と思われるメスが訪問。雄同士と異なって決して争わず併走して飛ぶ。






2014年9月21日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #69.」 1972年春休み、英国短期留学ホームステイ始末記 その1.

 このアルバイトでためたお金と、阿佐ヶ谷美術学園時代の建築パース画描きのアルバイト代の残りをはたいて、1972年3月4日から1ヶ月間英国短期留学ホームステイの旅に行くことにした。

 申し込んだのはJTB企画の初期のLOOKツアーだった。価格は31日間英国ボーンマスホームステイで33万3千円だった。扱い店は丸の内支店、10年ほど前までは建っていたが今は丸の内ホテルなどの立て替えで何処かに入ってしまっている。当時は中央線が東京駅に入る直前西側のビルの1・2階に入っていた。

 所謂JALパックだのLOOKだのの海外向け団体旅行の走りだったのだろうと思う。英国へ行くのもアンカレッジ経由のBOACだった。BOACなんて航空会社はパフィーの「渚にまつわるエトセトラ」の中の歌詞にしか出てこないほど昔に名前が消滅してしまった航空会社(=現BA英国航空)だが、当時はパンナムと並んで海外旅行の憧れ航空会社だった。
濃紺と白のツートンカラーがBOAC独特のデザインだった。

 で、このツアーに申し込もうと奥沢中学校・広尾高校と連続で1学年後輩の小池隆一に話をしたら「新庄さん!是非一緒に連れて行ってください。」といわれてしまった。どうしようか迷っていたら、母親同伴で川崎から三鷹までわざわざお願いに来られてしまったには驚いた。行く本人より我が両親のほうが恐縮してしまい、さっさと了解してしまう有様で、もうどうしようもなかった。
 
 この小池との英国30日間の旅行が自分に与えた影響は、この先の自分の人生にとって、とてつもなく大きなものになるのだった。
  
この英国旅行は1972年の3月4日から始まった。事前に一度何処かのホテルに集まって、旅行中の注意事項や連絡事項の伝達があった。このあたりは今でも同じかと思う。もちろんこの時点では成田空港など反対派と機動隊が押し合いの真っ最中で、とてもまだ完成していない。スタートは羽田空港の国際線搭乗口からだった。

ところが、出だしからこの英国ツアーは大騒ぎで離日することになってしまった。というのも、2月18日に赤軍派グループが浅間山荘管理人の奥さんを人質に山荘に立て篭もっていたのを、ついに出発の日直前2月28日機動隊突入で解決するとなったのだった。

今まであんなに現場から事件を中継したことは無かったように思う。羽田空港の出発待合室のテレビの前は事後の関連報道で、もう鈴なりの旅行客でごった返していた。事の詳細情報を理解出来ないまま我々は機上の人となってしまった。
浅間山荘事件は過去においても例の無いドラマ型の事件だった。

もちろん当時は冷戦時代でソビエト上空を飛べないため、アラスカのアンカレッジ経由で一旦降りて給油し、改めて北極海上空を飛んでロンドン・ヒースロー空港に到着する事になる。自分にとっても本物の航空機という乗り物は初めてだった。

それまでに乗った事がある飛行機はすべて上のほうで鉄のアームから下がったワイヤーで吊るされていた。もしくは博覧会で展示されていた動かない自衛隊のジェット戦闘機だけだった。

まず離陸してワクワクしながら待っていたのが機内食だった。珈琲についてくる砂糖や粉末ミルクの袋にまでBOACのロゴが付いていた。映画ももちろん見たし、アンカレッジでのトランジットの際に空港内の待合ビルでいろいろな海外のお土産も見た。何から何まで生まれて初めての事なのですべてが新しい刺激だった。
つい最近出てきた当時のBOAC機内食の砂糖

こうしてBOACのボーイング707型ジェット機は、朝早くまだ暗いロンドン・ヒースロー空港へ着いたのだったが、その日の英国南部は嵐の跡で、ロンドン郊外にはうっすらと雪が積もっていた。 
ボーンマスに向かうバスが途中のサービスエリアで停まった時、テレビのニュースでは昨夜の荒天は死者も出るほどの低気圧嵐だったことを告げていた。
生まれて初めて行った外国は雪だった。1972年3月5日撮影

ボーンマスのKing’s school of Englishにバスが到着したのは昼頃だった。こじんまりとしたレンガ造りの校舎に鉄筋4階建てほどの新しい校舎も隣接し、テニスコートや芝生の広場などもあった。日本とはぜんぜん違う学校という環境が、世界にはいくらでもあるのだということを学んだ。

着いた日は、各人ホームステイする民間の家庭に、それぞれタクシーやボランティアの車が学生たちを運んだ。筆者がホームステイする先の家は、Wimborne roadから横に入るElms road 41番地だった。どんな家なのか少し気にはなっていたのだが、行ってみてこれ以上自分に合った環境などある訳が無いと思える程のすばらしい家だった。
28年たっても変わらないElms road 41番地のホームステイ先 2000年撮影

まずタクシーの運ちゃんが、自分の腕時計は日本のSEIKO製だと自慢し、沢村のファンだと言う。沢村?って誰だ?と思ったらキックボクシングの沢村忠の事だった。東洋人で薄っすらながら髭が生えている筆者と感じがダブったらしい。しかし地球の裏側の英国人がキックボクシングを知っている事の方が驚きだった。

で、家に着くと中から家族全員で出迎えてくれた。そのときテレビではちょうどサッカー中継をやっていて、なおかつラジオからはビートルズの「ノルウェーの森」が流れていた。おまけにティーではなく、珈琲を飲むかと聞かれたので、もうこれ以上の環境は無いと安心して、初めての海外旅行の疲れ・時差ぼけなども有って、あっという間に爆睡に入ってしまったのだった。

翌朝起きて、食卓に皆が着いたとき、覚悟を決めて中学校以来習ったレベルでしかない片言の英語で自己紹介した。「 I am Toshiro Shinjo from Tokyo Japan. I am a student of Yokohama national university. And I am a football player, position is forward right wing.」こんな感じだったは思うが、もうこれだけ言うのが精一杯だった。

しかし、こんなレベルでも通じたらしく最後のFootball player.の所で家族全員がニコニコしながら声を上げて拍手をしてくれたので、一気に場が和んでしまった。

英国人の家族にとってみれば、地球の反対側から来た言葉が通じない東洋の大学生を、どのように扱って良いのか不安だったに違いない。しかし、筆者思うに英国の人々は当時の日本人の認識よりはるかに日本のことを良く知っていて、なおかつ筆者がその彼らの知識以上に自分たちに近い感覚のゲストだったので安心したのだろう。

後日、二人の女の子の母親でこの家の若い主婦が大変安心したという話をしてくれた。他の受け入れ先では数々のトラブルがあったようだ。1週間もすると近くの受け入れ家庭から人が来て、いろいろ質問してきたのでそれが察せられた。

一緒に行った1年下の小池は、すでに結構英語をしゃべれたので、一人でバスにも乗れて自由に動けたのだろう、初日の英語学校のガイダンスに行くのに、わざわざエルムズ通り41番地の家まで誘いに来てくれた。夕方から学校でガイダンス(=説明会)と歓迎パーティがあるというので行かなければいけなかった訳だ。

エルムズ通りはバスが走っていないので、メインのウィンボーン通りまで歩いて出て、其処からダブルデッカー、つまり二階建てバスに乗ってダウンタウンまで行く必要があった。
ボーンマスの二階建てバスは昔も今も黄色 2000年撮影

2000年再訪時のボーンマスWimborne road 

英国は日本と同じ左側通行なので、交通に関する問題・違和感は全然無かった。バス停も普通にあるし名前もついている。「何とか前」などという名前は無いが、横道の道路名が停留所についている場合が多かった。

で、エルムズ・ロードの停留所でバス待ちをしている時に、小池が突然こう言った。「新庄さん、つまらないパーティに行くより映画館に入って実践英語を学びましょうよ!」何でそんなことを言うのか聴いたら、黙って後ろを指差すではないか。その方向を見て驚いた、バス停の後ろが映画館だったのだ。

もちろん異存はないし、何をやっているのかわからなかったが裸っぽい女の人がポスターに出ていたので、別の意味でも勉強になると思い、ぜんぜん躊躇しないで館内に入った。

少し小便くさい所など日本の田舎の名画座といった感じで、妙に懐かしさも覚えたのだった。通路の一番前にスポットライトが当たり、ピンク色のヒラヒラの付いた衣装の女性が、駅弁売りのような格好で飲み物とスナックを持って客席を回った。

やはり日本とは違うなー、と喜んで二人してその女性が来るのを待ったのだが、傍へ来たその女性は我が母よりはるかに年をとった婆さんだった。あまりのショックで何も買わずに目も合わさなかった。
英国の地方の映画館イメージ Google画像

映画が始まってすぐ、二人ともものすごく今回の映画鑑賞の試みを反省した。上映されたのは紛れも無いポルノだったのだ。しかもトルコ制作の映画で、裸の女優がしゃべる言葉はトルコ語だったから何を言っているのかチンプンカンプン。

だから当然テロップで流れる字幕はすべて英語だった。当時はまだ英語がそれほど理解出来た訳でもないので、画面は見たいは、言っている事も知りたいが字幕は早すぎて追えないはで、まったく訳が判らない映画に成ってしまった。こうして英国滞在旅行は、最初からとんでもないスタートを切る羽目になった。


2014年9月20日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #68.」 横浜国大サッカー部・アルバイト奮戦記!

 横浜国大サッカー部は神奈川県の国体代表権を取るなどして、国公立大学としてはわりに強いほうだった。ヨコハマといえば幕末・明治維新の頃から世界に名の知れた貿易港だったためか、海外の商人・軍人・外交官が多数居留しており、フットボールチームも沢山あった。我がサッカー部がこれら外人達のチームと試合をしたのも数多くあるが、試合を申し込まれて印象のある戦いが2回程ある。ひとつは山手に本拠地を持つYC&AC(=Yokohama Country & Athletic Clubという英国をベースにした本格的なスポーツクラブとの試合。
 もうひとつが、横浜ミッション・シーメンズクラブ(=現The Mission to Seafarersという世界中を航海する各国船員たちの福利厚生施設で、やはり英国の組織がベースだった。
 これらから試合の申し込みが来たのが1971年頃だったと思う。
YC&AC https://ycac.jp/wp/historyjp/   YC&ACホームページから

昔のYC&AC YC&ACホームページから

 YC&ACはフランスのプロリーグの現役の選手もいて、非常に強かった。山手に大きな立派な芝生のグランドを保有していて、其処で行った試合だったが確か1:2で負けたと思う。なんとこのYC&ACは横浜国大入学試験会場、横浜光陵高校のほんの数百メートル先に在った。その試合後クラブハウスでペナントの交換を行い、大きなヤカンに入ったミルクティーでティーパーティが行われたことを覚えている。この経験が翌年1972年春に英国ボーンマスBournemouth(南部イングランド)にホームステイで40日間短期留学旅行する事に繋がる。

 そのボーンマスの陸軍サッカーチームと筆者が通った語学学校の学生チーム(世界各国からの学生混成チーム)で試合を行い、筆者が3点入れてハットトリックで勝利した際も、1年前のYC&ACでのティーパーティとまったく同じだったので驚いたのを覚えている。英国という国の伝統・習慣のすばらしさを、この時強く感じたのだった。
サッカーの試合後はティーパーティがお約束だった。

 一方、ミッション・シーメンズクラブとの試合は前半1:0でかろうじて勝っていたが、後半相手がバテてしまい最終的には11対1で勝利した。この試合で筆者は7点を入れ生涯での一試合最高得点記録になった。自分で点を沢山入れてという意味でも非常に印象深い2試合だった。

 こうしてサッカー部での実績を積んだのだが、その歴代サッカー部が毎年アルバイトを送り込んでいる酒屋さんが横浜西久保商店街に在った。徳島屋という名の大店で、店売り・配達・店頭飲酒提供の3種類の酒屋免許資格を保有する老舗だった。横浜国大サッカー部は伝統的にここのお店から毎年アルバイトを要請され送り込んでいたのだった。まじめな先輩が多く、お店のお金を持ち逃げするなどという事件は一度も起こさなかったのだろう。1971年の春、筆者とゴールキーパーの武井君にそのバイトの口が回ってきた。その夏のお中元の時期の繁忙期からが仕事だった。

 この酒屋でのアルバイトでは色々な事を学んだ。それらが何かというと、いわゆる商店の若旦那たちの価値観・常識、日常の楽しみ、ファッションだった。具体的にいえば恐ろしく高額な現金賭けマージャン、競馬、トルコ風呂のお姉さんたちの日常生活、化粧品会社の独身女子社員たちの危ない生活、横須賀マンボズボン、吉田町裏の川沿いの中古衣料屋、伊勢崎町界隈のVANショップ、年の瀬の売掛金回収作業だった。

 もちろん酒屋での基本的作業、一升箱(一升瓶10本入りの木箱)の担ぎ方、まだビンの時代のコカコーラ30本入り木箱2つを両手に持つ持ち方。日本酒の銘柄暗記、お中元・歳暮の箱物の包装の仕方。藍染の前掛けを半分に切って二つのポケットを造り、片方に現金つり銭を、もう片方に伝票を・・・。2ヶ月もたてば横国大サッカー部員のアルバイト二人は西久保商店街で一人前の配達人になっていた。

 生まれつきお酒は一滴も飲めないのに、お酒の銘柄とラベルだけはあっという間に覚えた。日本盛、松竹梅、剣菱、富貴、白鹿、白雪、黄桜、富久娘、富翁、澤之鶴、白鶴、加茂鶴、大関、月桂冠などで、越の寒梅、雪中梅、八海山、出羽桜など越後・東北の酒は置いていなかった。西久保界隈の横浜市民の好みが決まっていたのかもしれない。

 此処で学んだのは、「酒屋で潰れた所はまずない」という事だった。どういう事かというと、景気が良い時には高い酒と高いつまみが売れ、景気が悪いときには安い酒が量多く売れるというのだ。どう転んでも人間お酒に逃げるので、酒屋は潰れないという。
酒屋の倉庫、ストックルーム。昔は木枠の一升箱を横にして積んであった。
 
 この酒屋に勤めている頃、配達の軽トラックの助手席に乗って毎朝聴いていた曲がWe've only just begun(日本名・愛のプレリュード)という曲。
 1970年に出てきていたカーペンターズでRainy days and Mondays Superstar が大ヒット中だった。
 高校時代まで盛んに全米トップ100をチェックしていた筆者も、大学に通った4年間は音楽など聞いている暇はほとんどなかった。サッカーの練習とアルバイトと東京三鷹と横浜の往復4時間で毎日がほとんど潰れていた。

 考えてみれば、三鷹の自宅から横浜南太田の清水丘キャンパスまで、中央線、東海道線もしくは横須賀線、京浜急行を乗り継いで片道2時間掛かる通学だった。往復で4時間掛かるわけだ。これを週で換算すれば6日間で24時間。つまり一週間のうち実質丸1日分の時間は通学に費やしていたわけで、年間約50日、4年間ではなんと200日は通学の電車の中って訳。時間にケチになるのは当たり前だ。今のような無駄が嫌いな爺さんになった原点はこの時にあった。

 したがって、こういう環境下ではバイトやサッカーの練習から戻って寝る前の1時間、FM東海(=今の東京FM?)で城達也のジェットストリームを聴くのが関の山だった。この頃の音楽といえば、今のように携帯端末スマホ・iPodなど無いから自分で作った真空管アンプでJBLD130を鳴らすのが唯一の音楽との接点だった。
 
 おのずからビートルズ系英国ロック系から、マントバーニーやビリーヴォーンなどのオーケストラ系イージーリスニングに移行していった。そんな中きれいな女性ボーカルのカーペンターズは、酒屋の配達とは少し相容れない雰囲気ではあったが、西久保商店街に街頭スピーカーから流れる美空ひばりや、可愛い子ちゃんアイドルの曲よりは自分に合っていた。

 この頃世の中は成田空港反対運動の闘争がマスコミを賑わしていた。そんなある日、西久保商店街が大騒ぎになる事件が起きた。
 1971年9月16日成田闘争鎮圧に召集され現地で部署に着任していた神奈川県警の若い警察官が、反対派の集団襲撃リンチで3名撲殺されたのだった。

 そのうち若い1人だか2人だかが徳島屋酒店のすぐ裏のアパートの住人だったため、近隣の人々が大騒ぎになった。すでに全共闘の大学闘争は全国的には終了していたが、各セクトの残党がまだ立て看板を立てアジっていた頃だった。

 しかしこの件が有ってから、西久保商店界隈では相鉄線西横浜駅前でアジビラを配るなどしていた左翼学生を、街の若手が取り囲み袋叩きにする事件が時々起きた。「地元意識、地元の団結力」の強さを知ったのもこの事以来だった。
成田で警官3名殉職 報道時の新聞 Google画像

 この徳島屋は本名を漆原といって由緒ある商家だったそうだ。ご両親の元、ヨッチャンという筆者と同じ団塊世代の若旦那とその2歳下の妹、4歳下の弟の5人家族で、まったく我が家と同じ構成だった。

 配達はまだ車の免許を持っていない筆者と徳島屋のお父さんが組んで行った。方向感覚に優れ、いったん通った道は忘れないという性格が幸いして、配達の手順・道順を配達伝票に書くのはいつも筆者の役目だった。

 横浜は丘が多く、なおかつ丘の上に建てた家まで各家が勝手に手造りで階段を造るものだから、でたらめなものが多かった。段差は不ぞろい、ステップは後ろ下がりだったりして、危ないことこの上なかった。

 雪が降った日など滑ってしまい、どうしようもなかった。したがって年老いたお父さんには、この階段を上らせる訳に行かず車で待っていてもらい、崖を駆け上がるのはいつも筆者の役目だった。重たい配達品を持って不ぞろいの階段を駆け上がるのは、意外に良い鍛錬となったようで、それが理由なのか否か65歳の今に至るまで腰痛は一切ない。

 この酒屋では、年の暮れの配達と集金作業が非常に記憶に残っている。各家庭に年越し商品を配達しながら売掛金を集金しつつ、NHK紅白歌合戦の贔屓の歌手を見せてもらうのだ。

 その頃贔屓は南沙織だったので、紅白出番のときには配達先の玄関先から覗かせてもらった。二度ほど見せてもらったが、どの家でも「国大サッカー部のお兄さん」と、顔見知りになっていたので歓迎された。

 中には年越しそばを是非食えと上がって行くように勧められたが「業務中ですので・・」と涙を呑んで断って先を急いだ。

 年末年の瀬の忙しさはさほどでも無かったが、お中元の暑い時期は大変だった。昼食も徳島屋の茶の間に上がって食べる時間が無いので、藍染前掛けも外さず立ったまま店のすぐ裏でご飯をかき込むことが多かった。

 酷い時など茶碗のご飯に三ツ矢サイダーをシュワーッと掛けて食べたりもした。そのときはおいしいと思ったのだが、後年やってみたらとても食べられたしろ物ではなかった。何でそのときおいしく感じたのか未だに判らない。

 この配達中びっくりすることがあった。いつものように筆者が黄色い木枠のコーラを2ケース肩に担いでで立ち上がろうとした途端、「バン!」と大きな音と共に道路にひっくり返ってしまった。皆が驚いて駆け寄って来た。いったい何が起きたのかと思ったら、Gパンの縫い目がひざから下全部裂けてしまっていた。筆者は小さい時から父親のDNAでふくらはぎが恐ろしいほど太く、エラが張っているのだ。サッカーで鍛えた足は余計それが太くなっていたのだろう。細身のジーンズの縫い目が裂けてしまうなど考えもしなかった。裂けた途端バランスが狂って道路にひっくり返ったのだった。

 これ以来細身のブルージーンズを履かなくなったのは当然だった。だから今でもブルージーンズは少し太めのバナナリパブリックの物一本しか持っていない。
 

2014年9月19日金曜日

慣れるとすぐ傍を飛ぶヤマセミ! Crested kingfisher will fly a close to you, after getting friendship.

 昨日のヤマセミは撮影者に慣れた岩とまりの画像だったが、今日は撮影者に慣れた後、すぐ傍を飛翔した画像。500mm以上の長いレンズでこのような接近飛翔画像は撮り難いだろう。勿論三脚など使用できない。ほんの2~3間、出没するエリアで黙って観察を続け、面と向かって長い時間目をあわさずに居るとだんだん警戒心を解いてくるのがわかる。

 川魚漁師さんや鮎釣りの太公望の脇を抜けていくヤマセミを視ていて、「習慣性」に対するヒントを得たような気がした。漁師さんも釣り人もヤマセミを正対視する事はまずない。ところがレンズを構えている撮影者は最初から慌ててヤマセミに正対してしまいがちだ。なおかつ大口径の大砲のようなレンズを向ければ、鏡面に反射する空などが日陰に居る事の多いヤマセミに直当たってしまうわけで、気にするなというほうが無理な話。だから最初はレンズのキャップをつけるか、迷彩ヤッケなどを掛けて置く方が賢明だろう。あくまでこれは自分の経験値からの考えだが・・・。
飛翔の行き先も判っているし今何をしようとしているのかが判っていれば撮影は楽だ。

採餌後、水浴びしていつもの木陰に戻る最中の川辺川太郎。

流れのワリに穏やかな岩場附近を行く川辺川太郎。

週明けにはヤマセミ2羽以上同時の画像を予定している。

2014年9月18日木曜日

久しぶりにヤマセミ1羽シーン! After a long time introduction of the image of Crested kingfisher.

 昨日の飛翔シーンに続き、今日のヤマセミは正面顔と高速飛翔の接近撮影。ハイド(=ブラインド)に隠れて長いレンズでヤマセミの生態を観察しつつ撮影する場合と、2~3日かけてヤマセミの前に姿をさらし、相手に慣れさせて警戒心を取り払った後割りに短めのレンズで撮影する場合と2パターンで撮影しているのだが、今日の画像は主に後者のパターンで撮影したもの。

 接近しているので、いつもよりは臨場感があるが、何処かで撮影者を意識している事は間違いない。それだけに盗み撮りではなく、「気」を感じての撮影となっている。今日の個体こそ、あの枝回しのパフォーマンスを見せてくれた愛嬌者のヤマセミそのものなのだ。詳細報告は続編の写真集に掲載予定。
観察者の間で「川辺川太郎」と愛称を付けられている雄雄しいオスのヤマセミ。

「太郎」の奥方だが残念な事に今年春、抱卵中青大将の餌食になってしまった。

「川辺川太郎」もう通算50日以上顔を合わせている「お馴染み」

今は亡き太郎の嫁。川霧が濃い日だった。

「川辺川太郎」の後姿。




2014年9月17日水曜日

久しぶりにヤマセミ飛翔シーン! Crested kingfisher is flying on the Kawabegawa river at suburb of Hitoyoshi.

 人吉郊外の川辺川を飛び交うヤマセミの画像を久しぶりにアップ。今年は例年に比べて雨の日が多く量も多かったので川の水も混濁した日が多かったのだと察する。川が濁っている場合はそれなりのヤマセミの採餌場があって、余程良く観察していないと雨の日はヤマセミに出遭い難い。

 夏は換羽の時期でもあるため、羽抜けの画像が多いのだが、ヤマセミ自身は一向に気にする事も不便そうに見えることもなく飛び回っている。今日の画像はまず1羽での飛翔シーン。
冠羽を立てたまま飛翔する場合は興奮しているときが多い。

今年誕生の若鳥の場合も冠羽を立てる場合がある。

こちらは成鳥だろう。

意味もなく急に向きを変えることはないので、正面に何かが見えたのだろう。

逆方向への急旋回。やはり6~7年水質全国一の記録更新中の川辺川、水は綺麗だ。


2014年9月16日火曜日

ゴイサギの獲物を横取りに向かうアオサギ! Grey heron toward the intercept prey of Black-crowned night heron !

 基本的にゴイサギは夕方から活動を開始する夜行性の野鳥だが、熊本市内の江津湖や人吉市界隈では日中見かけることも多い。特に人吉駅北側のサギ山コロニーではダイサギ、アマサギ、コサギに混じってこのゴイサギも営巣しているようだ。八代の日奈久温泉の漁港釣り船だまりには夕方になると不気味なほどゴイサギが集まってくる。

 今日の画像は球磨川支流でドンコもしくはカジカのようなトロ場にいる底魚をゲットした。ひょっとすると毒針を持つギギかも知れない。採餌してしばらくは扱い難いらしくもたもたしていたが、身に迫った危険を感じて咥えて飛び去ったが、レンズのフレームの中にそれを追いかけるアオサギの姿が映りこんでいた。
ゴイサギの体長から考えるとギギかも知れない。

アオサギの気配を感じて、慌てて逃げの態勢のゴイサギ。

必死に逃げるゴイサギ。尾びれの様子からやはりギギっぽい。

この後の顛末は無事ゴイサギの逃げ切り勝ち。葦原に逃げ込んだようだ。