2020年8月21日金曜日

今回の豪雨災害人吉市の復興は人吉市単独で考えても無理だと思う。It would be impossible reborn alone Hitoyoshi city from this heavy rain disaster.

   今回の豪雨水害で水没した人吉市中神地区でかって撮影した昨日のアマサギの投稿へ数人の方から連絡を頂いた。皆さん此処や大柿地区にアマサギが頻繁に飛来していたことをご存じの様だ。やはり水没した大柿地区のニンニク畑付近でも、春先の田起こしの時期、耕運機の後ろを付いて回るアマサギの群れを幾度も撮影した覚えがある。

 本題に入ろう。

 今回の球磨川豪雨災害からの復興プランを「よそ者の素人だが人吉市中心に球磨川流域の事を常に心配している元広告代理店の団塊爺」として考えたので、このブログで数回にわたり投稿してみたいと思う。

 川辺川ダムさえあったれば今回の豪雨災害を防げたか・・も検討材料に入れる再検討会議が始まるとの新聞報道があったが、今回豪雨災害の水量データ、専門家、学者の分析判断はまだしっかりと出ていないのではないか?

 その専門家のデータ分析結果・判断がまだ出ていない段階で治水の素人=政治家が集まって治水再検討会議を開くことに非常な違和感を感ずるのだが如何だろう。

 早くも「川辺川ダムがあった場合も考慮して」・・という無知な政治家達が始めようとする会議を、順番が逆だろうと諫めもせず何も考えずにそのまま報道する新聞の無能さを感ずる。ダムを是が非でも造らせたいとの意図的な匂いを横眼で視ながら、次のステップをさっさと進めようと思う。


今日はその第1回目。

第1回目のテーマは

 「今回の災害を機に、人吉球磨エリアの『強みと泣き所』を正確に把握認識する事」

 何をするにあたっても、まず己を良く知り、強みと弱みを忖度やエコ贔屓なく知り、理解する事が一番大切だという事。クラウゼビッツの『戦争論』にもあった「己の戦力と敵の戦力を知らずして戦いを挑むのは愚の骨頂」。地域で成り立つにはその地域全域でのマーケティング戦争に勝たねばならないのだから。

 普段、日常生活が問題なく進んでいる時にこういう事を言い出せば「わざわざ平穏無事に暮らしているに事を荒立てるな、せからしか!」と言われてしまうだろう。しかし、こういう一大事の直後は「何とかせんばならん!」となるだろう。実際に歯が痛くならなければ歯医者に行こうと思わないのと一緒だ。

 今回の大災害を、行動するにわざわざ窮地を演出したり「きっかけ、チャンス」を導き出す必要が無い千載一遇のチャンスととらえて、次世代の人吉・球磨の人々の為に行動すべき時だと思う。

 筆者には具体的な実例がいくつもある。一番身近なのが2003年の八代市だ。この年九州新幹線の新八代ー鹿児島中央間が部分開通した。この2年前、八代二中時代のクラスメートから頼まれて、同い年だが八代一中出身の山際洋徳氏に引き合わされ、八代市の地域活性化にを支援する事に成ったのだ。

 当時山際洋徳氏は八代市の名物商政観光課長、筆者は東京の大手広告代理店プロデューサー。たまたま「2006年世界女性スポーツ会議くまもと」の企画運営実施の準備で頻繁に東京から熊本へ出張していた頃だ。同時に2007年全国育樹祭(阿蘇みんなの森で実施・担当)のプレゼン準備などでも訪熊(県庁や熊日広告社)を繰り返していた頃。

 時の八代市長中島隆利氏は広い視野をお持ちだった。山際洋徳氏に連れられて最初にお会いした際「外からの眼で公平に八代市を丸裸にして欲しい」と言われたものだ。
 外からの眼と言われても、今は東京で生活している筆者だが小学校は八代市立太田郷小学校の卒業生だし、隣の二中で一年間は過ごしている。父親が十条製紙勤務だった関係上八代市において筆者は全くの「よそ者」ではない。

 で、九州新幹線が全然開通した際に八代市がどうなるのか、どうすれば新幹線が通る恩恵を得られるだろうか?その為には事前に何をしておけばいいのか?という大命題を頂いたのだ。
 これは個人的にいつも考えていた事だったし、駅前ミック珈琲店の出水マスターともお店に行く都度、年中話し合って議論していた事だったので意外とスムーズに色々な事が走り出した。

 結果として、まず日本中の国民(=八代市にとっての観光客)から「八代市」はどう見られているのだろう?どのように認識されているのだろう?怖いけれどありのままを知る事が大事ではないか?という提案に勇気をもって賛同して頂いたことからすべては始まったのだった。

 すぐさま対面アンケート調査を東京・大阪・広島・北九州・福岡で実施した。それぞれ繁華街だが地元の人が多い場所を選んだ。例えば大阪で言えば御堂筋や心斎橋付近は観光客も多いだろうと天神橋商店街の両サイドの出入り口で行った。

 このアンケート調査の結果、八代市役所の方々は相当なショックを受けることになる。何故なら地元で全国区で名が通っているとばかり思っていた「我が郷土の名物・名産」が殆ど認知されていないことを知るのだ。
 今まで全国で知られているだろうと自慢していた全国花火大会が大した知名度もなく、アユや生産高日本一のトマトへのイメージがゼロ!という結果に腰を抜かしたという。更には水俣などと混同され「公害」のイメージがあるなど夢にも思わなかったらしい。このあたりはまた別の機会に詳細を・・。

 実は、このアンケート結果にはもう一つ別にとても怖い結果が在ったのだ。それは東京・大阪・広島・北九州・福岡の5都市で対面式の本格的な街頭アンケートを行った結果、「八代市」と紙に大きく書いて読んでもらったところ「やつしろし」と読めた人の割合が異様に低かったのだ。どこのエリアにおいても30%前後しか正確に読めず、残りの60%以上ほとんどが「やしろし」と読んだのだった。八代亜紀さんのイメージなのだろう。

 決して寒河江市(さがえ)だの姶良市(あいら)といった難読の市名ではないが、地元でないとまず判らないのかもしれない。
 考えてみれば、関東では天草を「テングサ」と読む人が多い。平成の大合併でできた茨城県の我が本籍地も「行方市」と書いて「なめがたし」と読むが、そう読む人は少ない。「ゆくえし」と読んでしまうのが普通らしい。

 人吉・球磨、あるいは人吉市単独でこういったインターネトを介してではなく、街中で実地のリサーチを行えば、思いがけないというか信じたくないような結果が出るかもしれない。しかしそれを怖がらず乗り越えれば「人吉市」が実際観光客など全国の人々からどう見られているのか、どう捉えられているのかが判る意味で非常に貴重な財産データに成ろう。この結果は一旅館の営業戦略・PR戦略にも大きな影響・効果を上げる事は間違いないと思われる。

 話を戻して、これら八代市の調査で出てきた事実は当時の八代市長・中島隆利さんも相当ショックだったようで、これは市にとっても由々しき事なれば、新聞へのアンケート結果公表はしばらく見合わせようという事になった。
 全国各地における自分の市の名前の認知度があまりに低いという事は、市のPR活動不足の逆証明になってしまうからだろう。

 この事により「市のPR活動に力を入れなければこの先大変な事になる」という事を、当時の商政観光課のスタッフ全員が実感したのだろうと推察する。1,300名のアンケートデータ原本がそのまま手元にあったので、広告代理店と言えば疑われがちな「嘘」や「やらせ」が一つもない事は課の全員が認識していた。

 実はこの件のさわりは過去において数年前一度人吉市のトップの方々にも説明した経緯がある。当時はまだ人吉一大事の頃ではないのでもうすっかり忘れ去られていると思うが、今回の「一大事」人吉・球磨の立ち位置とその潜在能力を知る意味で判り易いマーケティング調査から始められては如何だろうか?

 一般的にマーケティングと言えば専門的に聞こえようが、難しい理論やデスクワーク・統計ではなく生の市場調査と現状把握さえしっかりと自分たちでやれば怖いものは何もない。 マーケティング会社・経済研究所などという肩書のグループに丸投げ外注しても実際に地域活性化など成功したためしがない。現実はそう甘くはないし最低でも3~5年のタームは必要だ。
 自分の足と目で現場を見て自分の「所」がどういった強みと泣き所を抱えているか知って初めて「打って出る案」が出来ると信じている。案が出来るまで早くて1年、準備・周知徹底(PR)で1年、実働実売準備で1年。どんなに早くても3年という時間はかかる。本当は5年は必要だろう。役所で言えば5年間同じ部署で選任できるようなシステムが無いため、いつまで経ってもこういった長いスパンの計画が成り立たないのだ。

 しかし八代市の場合ある意味それが功を奏して、現在に至っている部分もあると言われた。あの県内一の工業都市で観光資源が見当たらない八代市ですら何らかの変化を出来たのだから、観光資源豊富(住んでいる人には判っていない部分が多いが)な人吉・球磨エリアは大きな潜在能力を秘めていると筆者は前々から思っている。

 先日、秋葉原の全国物産SHOP「ちゃばら」という所を調べてみた。
平日の昼でも人は結構入っている。


 秋葉原のJR高架のガード下だが全国の物産コーナーが在って、ブロックごとに分かれているが熊本県南コーナーは在るものの演出が不十分すぎてただ商品を並べてあるだけ。それに比べて四国高地の四万十町は四万十川ブランドが確立されており圧倒的な存在感を示していた。これは明日のこのブログで詳細画像レポートするが、高知県の一町村に熊本県南エリアが完全に負けている現状は筆者もほぞを噛む思いだった。