平日の月曜日にこの人出!土日は一体どうなってしまうのだろう?
外国からの観光客の多さは眼を見張るほどだった。
今年は和服の女性は昨年より少ない気がした、寒いからだろうか?
何処までも桜のトンネルが続く、上野恩賜公園だった。
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その後11時30分過ぎ、筆者にとって二度と迎えられない新元号決定の世紀の瞬間を新橋駅西口広場の雑踏の中で過ごしてみようと、上野駅から新橋駅へ向かった。
今や筆者も団塊世代のど真ん中70歳だ。昭和23年から昭和・平成と過ごしてきて今回3つ目の元号を迎えようとしている。もうこの先二度とこういう瞬間は味わえまいと思い、大東京に居るメリットを生かして首都東京の大群衆の中で、こういう瞬間を迎えるのも良いだろうと新橋駅西口へ向かった。
メディアへの記者発表がもたついたお陰で、発表の瞬間大群衆の中に居る事が出来た。新橋駅西口と言えば、我が父親たちが昭和30年代前半街頭テレビで力道山の試合や大相撲の優勝決定戦を観た場所だろう。
それ以降、何かイベントがある都度、新聞各社が「号外」をバラまく場所として有名な所だ。世の中の大きな変換時にメディア・マスコミが街頭インタビューしてきた事でも有名な場所だ。しかし、今やそういうメディア・マスコミの街頭インタビューが全て「仕込んだヤラセ」だという事が一般にバレてしまっているので、誰も本当だとは思っていまい。
しかし、新橋西口広場はもの凄い人で埋まっていて、「その瞬間」をそういう場所で迎えようとする人があまりに多い事を知ってびっくりした。
来た人全員が、いつもの新聞社の「号外」を待っているのかと思いきや、実は時代は進んでいて紙メディアの「号外」を求める人は実はほんの一部だという事を目の当たりにして、時代が進んだ事を実感したのだった。何か事が起きれば瞬時に情報端末で状況を把握、共有できる時代。もはや印刷媒体の情報特急便「号外」は「記念品・お土産」に成ってしまったのだ。
ネットでは「号外」に殺到する人々と出ていたが、実際の現場は違う。特にこの上の画像はPADで再生する液晶画面を見入る人々、スマホで撮影しようとする人々をマスコミのカメラが写している場面なのだ。現場にいたから良く判る。「号外」が新橋駅前に届く1時間も前の光景だ。
「号外」に殺到する人は中年以上のコレクターばかりで、若い人々があきれ顔でそれら混乱を遠巻きにスマホで写していたのが印象的だった。
12時半頃、「号外」を持った新聞社の人がタクシーで到着すると同時に、欲しがっている人が殺到し大混乱になった。怒号が飛び交い、紙を奪い合う醜い争いが目の前で展開されたが、広場の人達全員が押し寄せた訳ではなく、ほんの4~50名が血眼に成っているだけだった。むしろその風景を収録しようとするメディアのカメラマンがレンズを向けて騒ぎを煽っているようだった。
広場では、発表と同時にTVをPADなどで受信し録画した数名が、それを幾度も再生して広場に居る人達に見せ、スマホで多くの人がそれをまた撮るという新しい情報拡散の現場を観る事が出来た。もう決定的瞬間から1時間遅れの紙媒体「号外」の役目は時代的に終わったのだと思った。今や「号外」は、単に持っている優越感だけの為の紙切れ、記念品に成ったようだ。
しかし、あれだけ群衆が密集して危険な状態の新橋西口に「号外」をバラまこうとする新聞社の危機感の無さ、それを放って置く西口の交番の警察官たち。何かあったら・・・とは思わないのだろうか?
実際「号外」に殺到して将棋倒し的なうねりを数度感じたが、危機回避への動きは全く見られなかった。
筆者はこうした余韻に包まれた新橋を後にして、次は渋谷駅ハチ公前広場へ行ったが、広場の満開の桜の元、民放TVがさっそく街頭インタビューなどを収録していた。
しかし、受け手の女性もしっかりと局が手配・仕込んだ人で、何度もリハーサルを繰り返していた。何かむなしい元号発表の都心の風景だった。