2015年7月12日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #120.」 ヴァン ヂャケット倒産原因推察 その2

 こうしたアメリカ西海岸、或いはコロラド州、ワシントン州辺りのアウトドアブランドが日本へ入ってくると、盛んにバイブル本Made in USAの真似をしたような各出版会社発行のアメリカ・ウエストコースト文化・風俗紹介本が堰を切ったように氾濫した。
 時折りしもThe Eagles,Dobbie Brothers,Van Halen,ToTo,Jackson Brown.Journeyなどが台頭し始め,嫌が上でもアメリカ文化は音楽を含めて西海岸に限る・・・という感じだった。
Eagles

Doobie Brothers

特に東京原宿周辺や大阪のアメリカ村周辺(実はヴァン ヂャケット発祥の地?)はアメリカ合衆国の一部にでもなったような雰囲気になり、直輸入品のアウトドア・スタイルの若者達で一杯になった。 
 その頃の原宿竹下通りも現在の子供用遊園地的状況ではなく、当時の最先端を行く文化風俗の担い手が闊歩するエリアになりつつあったのだ。

 このような状況下で満を持してデビューしたのが平凡出版(現・マガジンハウス)の雑誌ポパイだった。ヴァン ヂャケット宣伝部からは1976年前年に引き続いて週刊読売別冊として発行されたムック本SKI LIFE編集に関わった内坂庸夫氏が編集部にトレードされて入っていた。それまでの途切れ途切れの西海岸情報を週2回のペースで新情報に飢えた日本の若者の元へ届け始めてしまったのだ。しかし、今になって思えば筆者を含め当時のヴァン ヂャケット社員の中で、この動きが如何に自社にとってまずい事になるか、判断できた者は一人もいなかったと言って良い。
雑誌ポパイ創刊号1976年(実際にはプロトタイプ第1号)

実質的月二回レギュラー発行のスタート版

 むしろトラッド・アイビーでマンネリ化していた企画系の社員の頭の中は「シメタ!新しいネタが出来たぞ、これからはこれを造れば売れるに違いない、好機到来だ!」くらいに思ったのではないだろうか?販売促進部内でも勿論この動きは千載一遇の好機到来とばかりに、VAN、Kentではない新機軸の商品群をデビューさせ新しいコンセプトで売ろうとする動きで仕事量は確実に増加したのだった。

 しかし、周りを見渡して、後になって考えれば判ることなのだが、状況はそう甘くなかった。まずは商品生産のサイクル・工程時間が以前のままだったという事。これは何を意味したか、例えばウエストコースト系の商品カウチンセーター、オイルドセーターを考えてみれば一目瞭然だ。まずはカウチンセーター。このセーターはアメリカ北部の原住民ネイティブ(当時はインディアンと表示)が色の異なる野牛や鹿などの動物の毛を色々な毛糸に仕立て、その色の違いを生かしアメリカの動物やシンボルを編みこんだもので、ずっしりと重く非常に暖かいものだった。編みこんだ柄でブリテン島北部アラン諸島の漁師が編みこむアランセーターと同じ各種族・各家族の識別効果を出していたものだ。

 ヴァン ヂャケットの企画・製作部門は躍起になってアメリカ西海岸や北部のカウチンセーター製造会社とタイアップして色々なVAN独自の企画商品を発注したり、或いは柄を取り寄せて中国で編ませたりしたようだ。しかし何せ今までの生産サイクルや仕事の常識・ペースが体に染み付いて居る為。相当時間が経たないと満足な製品が出来上がらなかったのだろう。これに追い討ちを掛けたのが、その類を一点集中でゲリラ的に直輸入販売する専門店と雑誌ポパイだった。

 此処に1977年つまりヴァン ヂャケット倒産半年前のポパイが在る。当時自分で買って未だに持っているものだ。表紙はそのカウチンセーター。この号の28~29ページは阿佐ヶ谷に在ったカウチンセーター直輸入店の在庫の内、絵になるものの写真を沢山掲載したのだ。いわばカタログページのようなものと思っていただければ判りやすいかもしれない。色々な柄があるのを文字で説明するより全部写真に撮って掲載したほうが早いと判断したのだろう。まさに広告の原点だ。
カウチンセーターが表紙のセーター特集、倒産6ヶ月前の号

この号が出た翌日阿佐ヶ谷のお店からカウチンセーターが全部消えた。

 で、東京阿佐ヶ谷の町外れの小さなお店のカウチンセーターがポパイ誌に見開きで載った翌日、全てこの商品たち(100着)はポパイ片手の消費者達にアッと言う間に完売してしまったと言う。それまで日本の若者をリードしてきたヴァン ヂャケットはこの瞬間、まったく新しい情報・市場の動き、消費者の動向に乗り遅れたのだ。

 それまではお抱えファッション情報雑誌婦人画報社のメンズクラブに頼り、自社の生産納期に合わせてメンズクラブに情報を出してさえいれば、店頭で製品の納品タイミングと見事にリンクして確実に売れたわけだ。それが週2度の発行の雑誌ポパイがアメリカの最新情報、商品トレンド、入荷情報、販売情報を報ずる様になったおかげで、完全にヴァン ヂャケットのモノ造りは消費者ニーズに間に合わない、即さない、今で言えばガラパゴス状態に陥ってしまったと言って良い。
長い間日本の若者ファッションシーンをリードしてきた婦人画報社「メンズクラブ」

 もう一つ重要な事がある。ヴァン ヂャケットは’60年代に台頭したオリジナリティ溢れる非常にユニークな企業であり、VANの3文字で若者にイメージを植えつけた一大カリスマブランドだった。したがってVANの真似をすれば売れるんじゃないかという追いかけマネブランドが雨後の筍のように発生した。JUN、Edwards、Tacなど誰が見ても柳の下のドジョウを追いかけたと判る状況だった。つまりヴァン ヂャケットは常に業界の先頭を走る手本であり、リーダーだったのだ。それは品質・デザイン・色・売り方全てにおいて他の追従を許さなかった。
オリジナルのVANイメージ


完全にVANの柳の下のドジョウを狙ったJUNブランド

 しかしアメリカ西海岸風俗文化から来る新商品群に関してそうは行かなかった。ヴァン ヂャケットは初めて本物を真似する側・追いかける側に回ったのだ。考えてみればこれは初めての経験だった。常識や商品知識を今まで作り上げる立場にいたヴァン ヂャケットが、西海岸アウトドアブランドのメーカーの言うノウハウに「ハイそうですか、不勉強ですみません!」と頭を下げなければいけなかったのだ。ゴア・テックス、60/40等の新素材、グースダウン(=羽毛)とフェザー(羽根)って何が違うの?など商品に関してヴァン ヂャケットは教わる立場になってしまったのだ。

 トラッド・アイビー路線もアウトドアウエア―路線も、共にファッション・ディテールに関するウンチク、ルール、伝統的解釈「ねばならない」という機能規約みたいなものが存在する、数少ないジャンルなのだ。しかしトラッドアイビーの類は歴史上こうだった、昔はこうだったが殆ど。例えばトレンチコートに付いている肩の小さなベルトが重たい銃を担ぐときに銃がずり落ちないように銃のベルトを肩に留めるためのモノだとか、Dリングは本来手榴弾を下げる為のモノ・・・など今必要な機能ではなかったりする。

 しかし一方のアウトドア・に関する機能規約はそうではなかった。例えばダウンベストの背中のほうが少し長いのは腎臓を寒さから守る為にそうなっていて、これをキドニーウオーマーーと呼んでいる・・・など。ベルクロ、つまりマジックテープを多用するのは、登山やハードな条件下で緊急時にぶ厚い手袋をいちいち着脱しないで、ポケットのフラップやマウンテンパーカの前を開けられる様に採用されている・・・等、今必要な命に関わる為の機能だった。
ベルクロ(=マジックテープ)がボタンの替わりに付いていた。

 勿論、1960年初期においては、ヴァン ヂャケットの製品群はアメリカ東部エスタブリッシュメント御用達のBrooks Brothers, Paul Stuartなどのコピー版だし、あのTake Ivyというトラッド・アイビー文化のバイブル写真集に出ている学生たちのキャンパスウエアを真似て商品化したのだから、76年頃大挙押し寄せたアメリカ西海岸のアウトドアウエアー群とそう大した違いはないのだろう。しかし、同じアメリカ伝来の商品群を売るにしてもメディアの情報伝達の頻度とスピードが全然違う時代に突入していたのだ。一言で言えば、商品情報の伝わるスピードにモノ造りのスピードが全然間に合わなくなったと言う事なのだろう。その最先鋒が雑誌ポパイだったのだ。