2015年7月4日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #117.」 ヴァン ヂャケット倒産時の実録社内レポート その1.

 会社の社内放送とテレビの臨時ニュースのどちらが早かったかは覚えていないが、通常の仕事の最中にいきなり自分の会社が会社更生法を申請した事を知った。テレビでは会社更生法の申請という事より「事実上の倒産」という報道表現のほうがはるかに強かった。

 当日の社内は、「売り上げ不振で会社の経営状況が悪いとは思っていたけれど、まさか倒産するなどとは思わなかった・・・。」と言うのが社員の正直な気持ちではなかっただったろうか。
 情報が駆け巡った瞬間から、勿論社員は仕事が手につかず、それぞれのセクションで輪が出来「この先どーする?」の井戸端会議があちこちで始まったように記憶している。外回りの販売系・営業系社員は一番大変だったのではないだろうか?得意先から寝耳に水の倒産情報を聞かされた者なども居たのではないだろうか?販売促進部でも社内ではなく外の喫茶店アゼリア、レオン等を満員にして個人的対策会議を始めたような気がする。

 実は1~2年前から商社丸紅などから経営陣に幾人も進駐軍のように人が派遣され、建て直しなのか、後で考えれば終戦処理だったのか連日会議が開かれ、まるで普通の金融や商社のような話が漏れ聴こえて来て居た。
 またそういう外部からの経営進駐軍との調整会議担当を命じられ、得意顔で訳知りのような行動をする社員が出始めても居た。そういう人間達がデスクワーカーであるにも関わらず、会社更生法の申請ニュースが出た日に、何故か社内に居なかった事も覚えている。
倒産後まだ東京ドームになる前の後楽園球場でアメラグ・ヴァンガーズの試合があった。貸し切りバスで応援に行く途中この丸紅本社前を通った際、車内の社員がバスの窓を開け、コブシをあげ声を上げて抗議をしたのが印象的だった。

 連絡担当者達は事前におぼろげながらヴァン ヂャケットの行く末を知っていたのだろうか?或いは上層部に近いと言う素振りをしていた為、いざ倒産になった時に他の社員達から吊るし上げを食うかもしれないと、身を隠したのかもしれない。いつか聴けたら訊いてみたい気もするが、実は商社からの上層部出向社員にそれ程近い訳ではなく、今までヴァン ヂャケットが抱えていた問題・情報を提供していただけの、情報提供者だったような気もする。倒産近い会社の社内では良く在りがちな現象なのかもしれない。

 事実上の倒産という状況になり、自分自身数ヶ月前に広告系会社の転職試験を受けて、最終段階で辞退した事をこの段になって少し反省をした。しかし自分自身こういう日がこれほど早く来るとは思っていなかったので、この状況下では致し方ないと思った。丸紅などからの出向上層部に近いような振りをしていた同僚達、転職の準備を全然していなかった事からしても、彼らも寝耳に水だったのだろう。その後ほとぼりが冷めてそういう情報提供者たちが丸紅関連に再就職した話を1つも聴かないので、本当の所は大して近くは無かったという事なのだろう。便利に使われただけの様だ。

 事実上の倒産、という報道がなされた翌々日、債権者達への説明会が行われる事に成った。場所は赤坂公会堂。クラシックな建物で気に入っていたのだが今はもう建て替わって赤坂区民ホール等になっている。当日は債権者達が石津社長に危害を加えたりしないかと、アメラグ・ヴァンガーズ、アイスホッケー・ヴァンガーズの面々はガードマンとして現場に行くように言われた。しかし説明会は粛々と行われ混乱は無かったと記憶している。
青山通りに面した当時の赤坂公会堂、正面は右側の角だった記憶がある。

 一方では営業関係者が売掛金の回収、商品の回収、事情の説明にあちこちを飛び回っていた。さぞ辛かったろうと推察する。そんな中、我々宣伝・販促関係部署は商品製作・販売には少しも役立たず、予算を使うだけの「金食い虫部署」だという事で、早めに退職することに成った。

 残っている有給休暇を消化し、大体において5月末を目処に非現業部門は一斉に退社する事になった。宣伝部や意匠室のメンバーは我々よりはるかに早く既に出社しなくなっており、それぞれの部屋に行って見ると、引越した直後のような有様で、ゴミの山のようなものが幾つも出来ていた。 皆私物と自分の作品、資料のようなものだけはさっさと持って出たような感じで、使いかけの文具・備品、幾つもあるようなノベルティ・プレミアム、或いはサンプルのようなものは部屋の中央に無造作にまとめられていた。

 具体的に事実上の倒産後は販促部の仕事はなく、倉庫に残品処理の為の商品値札付けのような仕事に行かされたような記憶がある。川口だったり、晴海だったりした。

 筆者はその後6月近くになっても時々青山3丁目の本館に行き、各セクションへ赴き一つ一つ手にとって一緒に仕事をした事を思い出しながら、数回この残骸の山に赴いた。その中で幾つか今になってみれば貴重なものを拾って来ている。意匠室だけではなく計画室・IDの部屋、商品企画室・製作室など。何故かあの入社時に感激したノベルティやプレミアム宝の山、販促の倉庫だけには行かなかった。営業を含めた各セクションの関係者に挨拶というかお別れを言いに回ったが、殆どが事後処理や得意先周りで不在だった。
多分、SCENEのカレンダーポスターの製作過程で当たり(=レイアウト)を取ったと思われるトレーシングペーパー。ポジフィルムを壁に貼ったトレーシングペーパーにスライド投影し制作した。アメリカ中西部の一本道。その後1985年のイーグルスのベスト・アルバムに似たような構図がある。

The Eagles LP 1985年リリース


中西部風のライブハウスをモチーフにしたパターン。ついには陽の目を見なかったが・・・。

 そうこうしている内に、倒産からさほど経っていない再建に向かって社員が何が出来るか模索中の5月25日。雑誌ポパイ6月10日号がまるで随分前から準備していたかのように、早くも「VANが先生だった」と言う特集号を発行した。このときはさすがに少々ムカついた。
倒産後1ヶ月少し5月25日に発売された雑誌ポパイ6月10日号

 記事自体はVANのノベルティ・プレミアムを並べ、数人のVANがらみの芸能人に行ったであろうインタビュー記事で、急いで編集したのだろう内容は決して深いものではなかったが、その期を見る商売根性?ジャーナリズム根性に少し嫌なものを感じてしまった。
1977年4月10日号レギュラー発行の実質創刊号。いみじくも表紙はヴァン ヂャケット意匠室の本森氏のメジャー・デビューイラストで飾られた。

 何故ならば、ヴァン ヂャケット倒産の幾つかの原因のひとつにこの1977年4月レギュラー創刊の月二回発行の雑誌ポパイと言う情報メディアが影響しているのは紛れもない事実だからだ。日本の文化風俗を変えてしまったという意味からすると、この雑誌が持つ役割は非常に大きかった。