2014年10月17日金曜日

羽根を目一杯広げた美しさ!その3. The beauty that a wild bird opened a wing at the full blast ! Part3.

  野鳥が羽根を目一杯広げた美しさのミニ・シリーズ3回目。とりあえずは今回が最終回。撮影された画像を見てゆくと結構沢山あることに驚かされた。この先時間があるときに掘り出し物を探し溜めておこうと思う。飛翔姿を撮影すれば必ずそういった一瞬の美を収録できるはず。
 是非一度、野鳥撮影の合間に飛び立つ野鳥を追い写してみては如何だろう?

 コツは、野鳥が飛び立つ方向を予測すること。野鳥を画面の中央に置かずに、飛び立つ方向の画面を少し空けてファインダーを覗き続けること。いつ被写体が飛び立つかはその野鳥の生態を幾度か観察して「癖」を知っておくことが大切。そうすれば偶然ではない、意図的に動きのある画像が撮れるだろう。勿論三脚に固定するより手持ち撮影をお勧めする。
ヤマセミの雄、普段は観られないオスの特徴が良く判る。

こちらはヤマセミの雌、雄と異なって主翼裏の褐色が良く判る。

春先に愛鳥ファンが心待ちにするヤツガシラ、翼の構造が良く判る。

目一杯羽根を広げると、普段は観られない羽根の色の構造が判る。

超高高度を飛翔する猛禽類、筆者には種の判別は難しい。

非常に身近なコゲラでさえ羽根を広げた画像はほとんどない。

セグロセキレイも主翼は白い。クロツラヘラサギの若鳥に似て翼端が黒いのだ。




2014年10月16日木曜日

羽根を目一杯広げた美しさ!その2. The beauty that a wild bird opened a wing at the full blast ! Part2.

 昨日のブログが意外に好評で嬉しい!調子に乗って少し羽を広げた野鳥の画像を続けてみようと思う。既に1年前に掲載した画像もあるかもしれないが、切り口を変えると別の見え方がするらしい。北海道の方からの問い合わせで初めて気が付いた次第。ブログの画像はアップする側と見る側で随分見方が変わるものだと学ばせていただいた。

 場所によっては視る事が出来ない種も有ったりするので、そういう点でブログが少しでも役立つと嬉しい。基本的に羽根を一杯に広げたままで滑空する野鳥は圧倒的に猛禽類・海鳥が多く、当然大型の翼面積の広い種が多くなる。しかし中型・小型の野鳥でも羽ばたきの合間に滑空する事がある種もいくつか居る。着地の寸前は別にして、上空でこれを行うものとして筆者が良く目撃するのはヤマセミ、鳩の仲間、クサシギ、イソシギなどだろうか。

 これらを気にして野鳥観察を行うと結構面白い生態に出遭える。
チュウヒの類は他の猛禽類よりは羽ばたきを頻繁にするようだ。

翼が上方へV字型に反り気味で飛ぶので判りやすい。

割りに低空を飛び、葦原に塒を取るようだ。

ハイイロチュウヒのオスは非常に人気もある。同じくV字型飛行スタイルだ。

滑空している時はそれほどV字型が強くない。

晴れていると相当白っぽく見える、ハイイロチュウヒのオス。

葦原ぎりぎりを飛ぶ時は遠くからでもすぐに判る。



2014年10月15日水曜日

羽根を目一杯広げた美しさ! The beauty that a wild bird opened a wing at the full blast !

 野鳥と飛行機は飛んでいる時こそ美しい!と事あるごとに述べている。野鳥撮影グループの間では「飛びモノ」と称して特殊視する輩も居るが、何故だか先輩数名に訊いたらそれは自分では撮れないやっかみも感じられる・・・とのことらしい。GITZOなどの高い三脚を持って大砲レンズを並べて目指す野鳥が「出る!」のを待つのも一つのスタイルだろうが、手持ち可能な500mmレベルのレンズで野鳥の生態を観察しつつ足で稼いで「生態の瞬間を切り取る」のも面白いものだ。

 今日の画像は、野鳥が目一杯羽根を広げた時の美しさ。真横からだったり、真下からだったりするが、その美しさを観て頂けるとうれしい。
こちらに迫るアオサギ

かなり上空を飛ぶダイサギ

これも上空を飛ぶコウノトリ

ヤマセミだって羽根を目一杯広げて滑空する事もある

今年もそろそろ始まったかヒヨドリの渡り、戦闘機のゼロ戦をイメージしてしまった。




2014年10月14日火曜日

自費出版の勧め。 Recommendation of self-publication.

 自費出版とは、売ることによってお金を稼ぐことを第1儀的な目的にせず、自分が発信したい情報・内容・演出を紙媒体としての「本」に作り上げ刊行するもの。中味(絵・写真・文章など)の制作からデザイン・レイアウト・印刷入稿までをすべて自分で行うスタイルから、写真や絵、文章執筆だけ行い、後は外注する場合など色々なケースがある。

 バックに出版社、本屋が付き、リスクを有る程度負う場合(殆どがこのケース)と、筆者のようにすべて自己資金でリスクをすべて負う場合など色々なケースが存在する。昨年に続き今年も日本自費出版文化大賞の入選を頂いたので表彰式に出席してきた。昨年は一人で出席したが、今年はデジタル入稿原稿を作成してくれている30年来の親友・染谷氏と一緒に出席した。理由は、自費出版の各受賞作品の装丁等、色々な本の完成度をプロの目で見てもらう為。

 今年は昨年と違い、第1次選考、第2次選考を残念ながら通らなかった出展作品も同時に展示されていた。つまりは応募作品600点以上が展示されて居た訳だ。行ってみて正直身震いがした。
 受賞を逃した作品にも沢山凄い「良い本」があって、自分の出展作が何故受賞出来たのだろうと「奇跡」に近い感覚を覚えたのだ。潤沢な資金力がある訳ではないので、正直装丁は出品作の中でも一番簡単なシンプルなもので出版を続けている。

 印刷会社や出版社が「日本自費出版文化大賞」のスポンサーで、日本の紙媒体=本の出版文化を発展促進させようという意図の元、17回を重ねた「公募」なので、中味は勿論、印刷や装丁のチェック・採点も非常に厳しいと思われるが、我が作品良く入選できたものだと思う。これも協力いただいた熊本県の愛鳥家の皆さまの御蔭様と感謝に耐えない。

 此処15年、情報発信はインターネットの普及で大きく様変わりし始めている。更に5年ほど前からはスマホやiPadなどの情報端末を使ったFacebook、Twitter、Line などハリウッド映画にもなったSNS(=Social Networking Service)の普及で動く情報源と情報発信の簡素効率化も進み、手の込んだじっくりとした準備段階を経た内容の深い情報発信が激減しているという。大学生の中には「本」を全然読まずに社会人に成る者すら出始めているという。

 これが時代の流れというものだろうか?映画「アイ・ロボット」のような時代がすぐこの先に待っているのかもしれないが、いつまでも情報発信の多様化を見事にこなせる人間で居たいと常日頃思っている。  自分でもこうやって日々更新するブログや、撮りだめたヤマセミその他の野鳥の生態画像を、アーカイブとしてWEBサイトに纏めているが、紙媒体としての「写真集・本」の自費出版も今後積極的に進めていく所存。

 良く言われている、人間本を書こうと思えばかならず1冊は「自叙伝」を書ける・・・。文章だけではなく、育つ過程での自分の写真、あるいは時代背景を表すフリー画像を付け加えることで誰もが読める「物語」になる。私が週末にアップしている「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」もこの典型と言って良い。これをごらんの皆様も是非一度、生きている間に1冊本を出されては如何だろう?普段撮り溜めた写真を纏めて本にしても良いし、人生のある時期だけを区切って集中的に自叙伝を書いてみても良いのでは無いだろうか?自分の集めた大切なものだけを撮影して年齢と共に羅列しただけの写真集も面白いだろう。とにかく具体的に行動してみることだ、本を造るのは意外に安いのだ。 参照= http://www.yamasemi.org/02_gallery_book/book_gallery_01.html 

会場には立ち見の人が出るほどの盛況だった。

昨年同様入選を頂いた。

グラフィック部門で2年連続というのは非常に珍しいそうだ。

NPO日本自費出版ネットワーク主宰の中山千夏さん。同い年で偶然熊本県出身だそうだ。

全部ではなかったが、第1次、2次審査通過作品も展示された。

業界の方々がずいぶん熱心にチェックされていた。当日持参した3冊のヤマセミの写真集も会場で業界関係の方に是非にと言われ、あっという間に配り終わってしまった。




2014年10月13日月曜日

跳ねる魚に反応するヤマセミ! A crested kingfisher in response to a jumping fish!

 ヤマセミが警戒心や注意力が非常に高いことは、野鳥に興味をお持ちの方々は誰もが知っていることだと思う。勿論実際にヤマセミを探してみて、幸運にも目視できて暫く観察していても本当にそうか否かを目の当たりに出来るケースはなかなか無いと思われる。

 今年撮影した画像を精査していて、2カットの静止画をペラペラ漫画のように交互に動かすことでヤマセミの反応の速さを理解できるシーンがあったのでご紹介。

 川辺川での撮影だが、画面左の水面で魚が跳ねる・・・と言うか水面の羽虫を採餌したのか?たぶんパシャッという感じで水面で反転したのだろう。これを右の岩の上で見ていたヤマセミの反射的な瞬間反応が見事だ。2つの画面をパソコンのキーボードの左右の矢印を交互に動かすことで見比べていただくと微妙な動きが判ろうとおもう。採餌する気はないのだろうが、思わず体が反応してしまっているのが面白い。

左の水面に注目

ポチャッと音がしたか否か不明だが、右のヤマセミが思わず反応する。

 今日は台風19号が日本列島を通過中だ、日ごろお世話になっている人吉市エリアに避難勧告が出ていると聞く。自分も小学生・中学生時代に台風直撃を経験したことがあるが、東京で体験する台風とは、台風そのものの破壊力が全然違う。無事に台風が通過することを祈るばかり。特に人吉エリアの方々にはお見舞い申し上げたい。


今日は少しでも台風を忘れる意味で先日武蔵野の野川流域で撮影したコスモス画像をお届け。













2014年10月12日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #75.」 1971年9月のある日、目の前にジョン・レノンがドテラを着て座って居た。

 ちょうど英国ホームステイ短期留学半年少し前の1971年9月半ば、サッカーの試合と秋期合宿で訪れていた藤沢の善行スポーツセンター事務所に電話が掛かってきた。呼ばれて出てみると、甲高い声の安田周三郎教授だった。思わず「先生!単位駄目?落第?」と訊いてしまった。
 しかし安田さんはそれには全然答えようとはせず、「きみぃ、今すぐアトリエまでこられる?」、今居るところは藤沢の善行だから鎌倉の教授のアトリエまではそう遠くないし、行けない事は無いのだが、しかし又何で?考える暇も無く「きみぃ、ジョン君が来ているんだが、ヨーコが用事で居ないんだよ!困っているんだが来てくれない?」という事だった。

 すぐにこう答えた。「ジョン君?って、先生僕に外人の知人は居ないんですが、誰でしょう?」 これに対して「ジョン君だよ、ほらあのビートルズのジョン君だよ!」と言う。
 一体何を言っているんだこの人は?と思いつつ「先生、大丈夫ですか?良く判らないのですが何故ビートルズのジョン・レノンが其処に居るんですか?」と重ねて訊いた。

 横国の最初の授業でこのシルクホテル(1969年当時)に設置された安田教授のこの彫像を「湯上りの女?」と訊いて「キミィ!失礼じゃないか!」と怒られてしまった。

 ちょうど大学入学時に設置された意味でも安田教授とは縁が深い。ハイカラな教授だった。車はポルシェ・カルマンギアもしくはワーゲンののワゴンか定かでは無かったがめったに見たことがない車。色は明るい空色だった。

 「僕は、着る洋服の色に合わせて車の色を決めるんだよ!」とかキザな事を言っていた記憶がある人だ。

 要は、ジョン・レノンが小野ヨーコさんと日本に来た最初の頃で、小野ヨーコさんの親戚で叔父に当る安田周三郎教授のアトリエに来て居たらしい。

 ジョン・レノンはその昔リバプール美術大学に行っていたし、小野ヨーコさんも忙しい芸術家だったから彫刻家の安田先生のアトリエに来て居たというのが真相らしい。

 しかし、当時小野ヨーコさんの存在自体をあまりよく知らない筆者は、一体何が起こっているのかまるで理解できなかった。
 大体ビートルが解散したと言うショッキングなニュースを聞いて、まだ間もなかった頃の話だから脳みその中が大混乱を起こしていた。

 これが本当の事だと理解するまでに更に10分以上掛かったと記憶している。何か胸の中から胃液のようなものが逆流してくるような、生唾が出てくるような、妙な生理反応を感じたのを覚えている。

 急に気温が下がった9月の長雨は辛いのだが、藤沢・善行からスポーツセンターの自転車を借りてサッカースパイクにジャージの上下、上から半透明の雨合羽を羽織って全力でペダルを漕いだ。田舎の高校生がクラブの集合時間に遅れそうになって先輩に怒られるのを覚悟で走っている・・・そんな感じに見えたに違いない。

 安田さんのアトリエと言うかお住まいは鎌倉にあった。横浜国立大学の附属小学校の傍だった、と言うより鶴岡八幡宮の傍と言ったほうが判り易い。善行からは藤沢駅の北側を抜け、深沢から佐助のトンネルを抜けて西側から雪ノ下に入った。以前二度ほどお邪魔していたので場所はすぐに判ったが、初めての人ではまず判らないだろう。

 玄関から呼び鈴を押すと先生が出てきて「すぐにシャワーを浴びなさい」と言ってくれた。その頃シャワーなどを備えた風呂場はそうそう無い時代だったが、先生のお宅はいろいろな物が洋風だった。

 雨でグズグズのジャージとスパイクを脱いで、シャワーを浴びて出された浴衣に着替えた。で、洋風なのに炬燵のある部屋に通されたら、その炬燵に揉み上げからひげが繋がり、鼻が高くて薄い外人が着物と言うか、ドテラを来て座っていた。それがジョン・レノンだった。

 「ハロー!」と声を掛けてくれたのはジョンのほうだった。安田さんが何か横で一生懸命筆者とジョン双方に向かって説明というか話しかけていたが、何を言っていたのかまったく記憶が無い。筆者はただ黙ってじーっとジョンの目を見ていた。同時に一体何をどうすれば良いんだ?ということだけで頭の中が一杯になっていた。

大体外人と差しで向かい合うなんて、ベトナム帰休兵と新宿の押し寿司屋「箱寿司」で相席になって以来のことだった。この時の米兵はほんの数日前までベトコンと対峙し、いつ殺られるか恐怖と戦っていた直後だったのだろう、人間の眼をしていなかった。猛禽類や動物園の猛獣の眼に近かった。
それでも片言の英語で30分ほど付き合っていろいろな話をした。学生だと言うと何が得意だと訊くから、Geography (地理・地学)だとジオグラフィーと言ったら怪訝な顔をされた。で、スペルを書いたら「オー、ジャイオグラフィー」と言われてしまった。その後その帰休兵がどうなったか知らない、又戦場に戻って死んでしまったか、母国へ戻って今アメリカの団塊世代群になっているかも知れない。この経験は自分にとってベトナム戦争が一番近かった瞬間だろう。

話が飛んでしまった。ジョンに戻ろう。

安田さんが、筆者よりははるかに流暢な英語で話をしたので、ジョンも少し筆者のことが判ったのだろう。自分の教えている学生だとか、サッカー部だとか高校の時にビートルズのコピーバンドをやって文化祭で非常に受けた話だの、ギターアンプを真空管で自作した話をしたらしい。だんだん笑顔が出てくるようになった。

ここでアイディアが閃いた。ジョンはリバプール美術大学で学んだと聞いた。であれば絵を描くのは嫌いじゃなかろう。では色々なモノを絵に描いてお互いの国の概念を比べ合おうと思ったのだ。
後で考えるとこれは大成功だった。安田さんに模造紙のような大きな紙は無いかと訊くと、こう返ってきた。「きみぃ!僕はアーティストだよ?作品を包む大きな紙ぐらいいくらでも持っているよ。」真っ白ではなく茶色だったけれど、とにかく大きい紙は在った。

そこで、まず「ジョン!イギリスじゃ「ウンコ」はどう描くの?日本じゃこうやって描くんだよ。」ととぐろを巻いた「ウンコ」を描いた。これを視たジョン・レノンの目の輝きは忘れられない。この先の事は詳しく触れない。

1969年から1973年までの4年間、横浜国大在学中、筆者は武蔵野の三鷹から横浜の南太田まで毎日電車を乗り継いで往復していた。勿論、授業にまじめに出ていたからではない。1969年は美術家の自主授業を始めた責任感から、1970年以降は体育会サッカー部でレギュラーポジションを他の部員に奪われないためだった。

この間毎日往復4時間通学に費やしていた。つまり1日4時間×週6日=24時間=1日、1年51週間で計51日間、4年間で51日×4年=204日間通学に費やしていた訳だ。まだ世の中にはウォークマンのような携帯型音楽端末は生まれていないので、今のようにiPodにMonsterCableのBeatsイヤホンを付けて、流行のビージーズやギルバート・オサリバン、Ground Funk、C・C・Rなどを聴く訳には行かなかった。

何が言いたいのかと言うと、この大学4年間はそれまで青春時代の頭の中の半分を満たしていた「音楽・ヒット曲」が入って来ていないのだ。
通学に時間を取られてしまい、往復の電車内は慢性の睡眠不足でほぼ寝ている状態だったから、音楽に割く余裕が無かったのだ。

せいぜい聴けたのが就寝前のFM東海・ジェットストリームくらいなものだった。したがって解散前後のビートルズの動向、音楽、各4人のニュース等はほぼまったく知らなかったし、興味も無かった。だからこそチラッ、チラッとメディアが騒いでいたジョン・レノンの反戦メッセージ「話題の行動」と、魔法使いのように寄り添う小野ヨーコさんの存在も詳しく理解している暇は無かった。

自分にとってのビートルズは、あくまで1963年の1月頃初めて聴いて脳天を殴られた「Please Please Me」であり、リッケンバッカーやグレッチのセミアコ・ギターだった。
LP・アルバムで言えばHELPくらいまでが夢中になった時代で、その後の名を成してからの「綺麗な楽曲」の時代以降はのめり込んで聴いていた訳ではなかった。勿論他のミュージシャンよりは多く聴いてはいたのだが・・・。

だから後年になって、初期の未発売曲が海賊盤で売られ始めた頃は、狂ったように買い漁った。
そんな訳だから、メディアに詳しく載ったジョン・レノンの行動や発信や、ビートルズ事情通の解説文などに書かれている内容などは、まったくと言ってよいほど知らなかったし今もあまり良く知らない。
ただ、映画の中、レコードの中から自分が得たビートルズのジョン・レノンの生が目の前に居て、時々片言の英語で喋る程度で、ただ二人で黙々と色々なモノを絵に描く筆記用具の紙を滑る音がするだけだった。

勿論、ジョンの性格も癖も習慣も知らないので深くは話せない。大体こちらの英語はまだ英国留学以前のことだったし、喋ったつもりでも「陽上る、助け来ない、お前死ぬ・・・。」といったローン・レンジャーに出てくるトントのようなレベルに近かったので、深い話も出来なかった。

したがって、知ったような事をこのブログで書ける訳も無い。詳しい描写も自分なりのジョン・レノン像などもたった数時間のミーティングだけではとても書けない。
ウンコの絵に始まり、鶏・豚・牛、サラリーマン、船、電車、車、侍、ちょん髷、刀、日常の色々なモノを描きまくったが、宗教的なものは一切描かなかった。しかし神社の鳥居や鎌倉の大仏のようなものは結構描き合った。

ひとつだけ神社の鳥居ゲートは何故赤いのだ?そして何故両端が反っているのだ?と訊かれたが判らないので答えられなかった。たぶん鶴岡八幡宮の赤い鳥居を見てそう訊いたのかもしれない。ただ九段の靖国神社の大きな鳥居は赤くないし、両端は反っていないと答えたら、今度観に行くとは言っていた。本当に行ったかどうかは知らない。

 我が家の二階への階段の上には、1980年からずっとニューズウィークのジョン・レノン追悼特集の号のポスターが飾ってある。この先も飾っておく。

散々、色々な絵を描いた後、雨も上がったので合宿所に戻らねば成らないと、安田さんのアトリエを去る事になった。で、玄関まで出てきたジョンに是非又この週末に来いと言われ、有頂天になって「オーライ」と答えた。週末の連絡を安田さんからもらう約束をして善行まで又上り坂を自転車で戻ったのだった。西の空には雨上がりの青い空が見えていた。

これが、ジョン・レノンに遭遇した一部始終だが、詳しい描写や背景や解説・説明はこれ以上できない。これ以上の記憶が無いのだ。後になって考えれば、一緒に描いた大きな紙をもらって来ればよかったと思ったが、その時点ではまったくそういう発想は無かった。何故ならば、又今週末来いと言われて勿論また逢えると思っているし、また同じ絵の続きをしようと思っていたのでその紙を持って帰る考えはまったく沸かなかったのだ。
ずーっと後年、大宮にジョン・レノン・ミュージアムにひょっとして展示してあるかな?と観に行ったが無かった。

それっきり安田さんからも連絡が無く、少しして大学の教室で「あー、ヨーコ達は帰ったよ。あの時は有難う、ジョン君はあの後いつまでもあの話をしてた。」と聞かされて、とても良い気分になった。

その後、1977年頃日本へは結構長く来たりして東京や軽井沢に滞在していたようだが、二度と会えなかった。

この経験が凄い事だったのだと思うようになったのは、1980年にラジオから流れてくるFEN(米軍の英語放送)の朝7時の定時のニュースでジョンがニューヨークで撃たれて死んだ事を知った時だった。
翌日の英字新聞を購入してとってある。

 その英語のFENニュースが耳に入ってきたのは、口に朝のトーストを咥えてキッチンで立って窓の外の畑の景色を観ている時だった。短いフレーズだった。「John Lennon dead」の部分だけ鋭く耳に入ってきて、一瞬、えっ?と思った。

「耳を疑う」と言う言葉はこの時の為に有ると思った。その後のアナウンサーの英語は大体理解できた。本当の事だと理解するにつれてトーストを咥えたまま立ちすくみ、自然と涙が溢れて来たのを忘れられない。その日、生まれて初めて病気ではない理由で会社を休んだ。その日12月8日は筆者の誕生日だった。

2014年10月11日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #74.」 1972年春休み、英国旅行始末記 その6.帰国の羽田税関で身体検査。

 ロンドンからパリへ空路で入り、パリ・東駅からスイス・ジュネーヴへ入った。ジュネーヴには1996年FIS(国際スキー連盟)のフランス・アヌシーでの年次会議で立ち寄ったが、街並みは殆ど変わっていなかった。ただ走っている車が様変わりしているだけだった。その後アルプスを越えてイタリアのローマまで列車の旅だった。イタリアに入ってからの列車の車掌が小うるさくて、あれやこれや判らないイタリア語でまくし立てるので、穴の開いた日本の50円玉硬貨を上げたら、いきなりにっこり!「世の中全てこれ金次第!」が世界共通の格言である事を身をもって覚えた。
ローマへの列車の車掌、穴の開いた50円玉で大喜び、サービスが変わった。

 それ以外の話は誰もが書ける単なる旅行中の日記のようになるので省こう。途中経過の画像だけ掲載してお茶を濁そうと思う。英国でも帰国途中の各国でも数々の撮影をしている。この頃から写真撮影に関してはやはり惹かれる何かがあったのだろう。しかしまさか40年後に野鳥の生態観察撮影をして、写真集を自費出版するとはまったく想像だにしていない。
ロンドンの2階建てバスの車庫で撮影。

1972年雨のロンドン英国のイメージ撮り。

雨のリージェント・ストリート、まだBOACのオフィスがある。

ポーツマスまで観に行ったHOLLIESのチラシポスター。

誰も居ないルーブルの片隅で、疲れて寄りかかった石造の腰の部分に見覚えがあったので、前に回って見上げたらミロのビーナスだった。1964年に上野の美術館に来た時の大騒ぎが、ウソのようなたたずまいだった。
モナリザが掛かっている部屋で模写中の人。ルーブル美術館・・と言うか海外の美術館は当時から撮影OKだった。日本は何故未だに禁止なのだ?そういう点で後進国だと思う。

ジュネーブのレマン湖で。この40年後再び来るとはこの時思わなかった。

バチカンのサン・ピエトロ時院内で。別に神のお告げは何も無かった。

いよいよローマを後に、という事はヨーロッパを後にするローマの空港で生まれて初めてエスプレッソという珈琲をスタンドで飲んだ。びっくり仰天・有頂天!飯田久彦の歌ったルイジアナ・ママの歌詞じゃあないが、まあ驚いたの何の!美味しいじゃない?こんな飲み物が世界に有ったなんて!立て続けに2杯飲んでしまった。おかげでこの後、暫く離陸した機内でドバイまでの間眠れなかったのは言うまでもない。
 この素晴らしいエスプレッソを次に飲めたのは、翌年青山のVAN宣伝部に入社して99Hallのエスプレッソ・カフェのカウンターだった。この青山VAN99HAllという石津謙介社長のプロデュース作品の傑作中の傑作は、当時はもとよりその後の日本における文化風俗に多大な影響を与えた情報発信BOXだった。この辺りの話はもうすぐだからお待ち願いたい。VANのお客様だった方々には堪らない面白いネタで埋め尽くそうと思っている。乞うご期待!
港区北青山三丁目5-6のVan99Hall

カフェ・エスプレッソで99円でエスプレッソが飲めた。超洒落たスタンドだった。

 ドバイまではアリタリヤ航空の便だったが、ドバイで日航のジャンボヨーロッパ南回り線就航第1号機に機乗した。その後、タイのバンコクでトランジットして香港までフライト。そこで再びリアエンジンの旅客機に乗り換えて羽田に到着した。
 香港ではまだ古い国際空港だったので街中を高度を下げて着陸した。その際、窓からアパートの各家々が皆見えた。着陸して気が付いたら翼の先に洗濯物のブラジャーが引っかかっていたと思えるほどのものすごい場所だった。

 で、羽田の空港で税関審査になったときに事件は起こった。

何処からですか?と聞く税関職員に「ヨーロッパ」と答え、パスポートを渡したと同時に開けたトランクを物色していたもう一人の係員が「これはまずいなー」と取り上げたのがロンドンの泥棒市で買い求めたアラブ風の飾りナイフだった。勿論外側の湾曲したフォルムと飾りの金属が面白いので買ったに過ぎず、中身は切れないただの10cmほどの金属の板が入っているだけの代物で、いわゆる映画でアリババや盗賊団などが腰に下げているようなアレだ。何度も言うが、何も切れない。
法的に刃渡りうんぬんを言うのなら、機内からくすねてきたBOACの機内食用の食器セットのステンレスナイフのほうが遥かに長いと思うが、そちらに関してはお咎めなど一切無かった。
 審査員が「大学生?」と訊くので「横浜国大」と言った途端手を上げて大きな声で「別室審査!」と言われてしまった。「なんだなんだ?」と言うまもなく荷物ごと別室へ連れて行かれ、パンツ1枚にされ4名の係官が全てのモノを調べ始めた。 もう飾り物のナイフの件などどうでも良い感じだった。「横浜国大生」と言うだけで調べられている感じだった。

 後で知ったのだが、ドーバー海峡で15歳の女子とボートごと流されている頃、日本国内では赤軍派と京浜安保共闘なる過激派の内ゲバで大量殺人があり、その中心的人間に横浜国大生がいたと云う事から官憲から横浜国大生は目の敵にされていたようだった。そうとは知らず気楽な観光客はノーテンキに海外から帰ってきた訳だ。

 1時間ほど事情を訊かれ、すぐに返してくれたが、税関から出て外で待っていた小池以下数名は、一時本気で筆者が渡英前何らかの過激派に関係有ったのではないか?実はこの短期留学ツアーに参加したのも、何かやらかして追われたので高飛びをして国外に身を隠したのではないかなど、勝手に想像キノコを膨らませていたようだ。
税関は今でも通る時トラウマがよみがえるので嫌いだ。

 最後に面倒くさい別室取調べなどというオマケが付いてしまったが、人生初の33日間海外渡航はこうして無事に終わり、南回りのせいか、その後仕事などで何度も行ったヨーロッパ帰りほどの時差ぼけも無いまま、翌日には大学のサッカー部の春休み合宿へ合流するのだった。
 サッカー合宿の場所は藤沢・善行の神奈川県・藤沢スポーツセンターだった。Googleマップで視ると現在も相当大きなスポーツ施設として神奈川県体育センターという名になっている。
 この1972年の春先日本は雨模様が多かった。この合宿の時も晴天はほとんど無く、曇天の連続だった。既にフォワードのレギュラーは新しい3年生以下に譲って、半分リタイヤしたようなものだから合宿3日目辺りで既に余裕しゃくしゃくで居た。4日目辺りだったろうか、小雨のグラウンドに居た時事務室からグラウンドのラウドスピーカーを通じて辺り一帯に鳴り響く声で「横浜国立大学サッカー部のシンジョーさん!至急事務室においでください。安田教授から電話です!」という呼び出しが流れた。

 一体なんだろう?とりあえず事務所まで駆けて行った。彫塑の単位くれないのかな?とちょうど1年前の1月同じような状況で安田さんのアトリエに急いだ日を思い出しながら事務室に走った。1年ほど前のやはり小雨の日、生涯で最高の出逢いがこの安田教授のアトリエであったのだ。