2015年7月7日火曜日

梅雨の人吉球磨、街道古民家を探る。 This is old houses along the country road of Hitoyoshi-Kuma area in rainy season.

 此処暫くは、いつも東京から通っている熊本県の人吉球磨地方の風物詩をご紹介しようと思う。雰囲気が伝わると嬉しいが、何せ「風景写真の撮り方」を誰にも教わった事がないので、少々自信がない。
 ヤマセミの生態写真の様に「その瞬間」さえ撮れていれば良い・・・のと異なって、本来佇まいだの雰囲気が画面から伝わるように演出してじっくりかけるのが当たり前なのだろう。しかし限られた滞在時間内で時間的余裕も無い「通過途中のスナップ」である為、後から反省するばかりの画像だが、ヤマセミや野鳥の生態観察の途中での「せっかくだから撮っておこう、二度と来られないかも。」のコンセプトでシャッターを切ったものばかりだ。半分以上はキャノンのコンパクトデジカメで撮ったもの。

 もし、人吉球磨エリアに行かれる事があったら是非同じ風景を味わっていただけたらと思う。

水上への広域農免道路、通称フルーティロ-ドを交差して五木方面へ街道を向かう。

まだ田には水を張った状態の6月初旬


納屋だろうか、随分昔に貼られたと思しき辻医院の看板が在った。効果抜群。

これも街道筋に立つ古い木造。住宅を兼ねているのだろうか。

赤い看板がぽつんと目立つしっかりとした造りだ。

南九州ならではのボンタンアメの看板が目を惹く。

こちらは屋根が少し波打ち、いささか危ない状況ではあるものの相当古い納屋、もしくは厩(馬屋)。たぶん農耕馬等を飼っていたものと思われる。貴重な文化遺産かもしれない。





2015年7月6日月曜日

梅雨の合間に数少ないヤマセミとの遭遇。 Encounter with very few crested kingfishers in a rainy season.

 今回は梅雨の合間の晴れマークを狙って予定を組んだ人吉行だったが、最初の3日間は予報どおりだったものの後半のお天気マークが全て傘マークに替わってしまった為、予定を切り上げて3泊だけで帰ってきてしまった。案の定その後は雨続きで判断は間違っていなかった。帰りのチケットは前回同様マイレージの無償分は温存して延期し、当日購入のシニア割引1万3500円で帰京した。前回6月頭の際に、このシステムを教えてくれたカウンターの新人係員が再び担当になったので前回のお礼を述べて、ヤマセミの写真集を進呈した。

 残念ながら今回の滞在中球磨川はまっ茶色で増水しており、支流の流れ込みにもヤマセミの姿は無かった。数少ない透明ポイントで採餌休みのヤマセミを一度撮影できたのみだった。今日の画像はその数少ないチャンスの中から・・・・。

 
遠くの橋の車の存在が人吉らしさを感じさせる。

人吉の朝は早い。通学の学生達の登校から始まる。

上の枝が顔に掛かるのでしゃがんだまま歩いて40mまで接近。



早朝7時前の雨の合間にたった一度出遭えたヤマセミ。今回は珍しく生態観察をする時間もなかった。次回に期待しよう。




2015年7月5日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #118.」 ヴァン ヂャケット倒産時の社内 その2.

5月も終わりに近づき、営業や販売等現業部門の社員を残して、非生産部門の宣伝・販促その他のポジション・部門の社員は退職する事になった。有給休暇が殆ど手付かずで随分残っていたので、筆者が実質毎日出社したのは4月後半までだったと思う。退職は会社都合なので退職金は自己都合退職の倍額が支給された。正確には覚えていないが200万円に少し欠ける額だった様な気がする。当時の自分にしては5ヶ月ほどは働かなくても充分食っていける大きなお金だった。白い封筒に退職金と書かれておりヴァン ヂャケット株式会社とだけ表記があり、VANのロゴ3文字は無かった。
退職金は明細書が入っていたようだ。

 現金が入っていたか、銀行振り込みの明細書だけが入っていたかは定かでない。いずれにせよ金額の大小は問題ではなく、その空しさを噛み締めるタダの封筒だったのを記憶している。それまで通勤に使っていた三鷹・原宿経由⇔表参道間の定期券は人事へ返したかそのまま使えたかの記憶は無い。

 今と違って高度成長下の時代、退職後の再就職に関しては色々な話が沸いては消えていった。有り難い事にオンワードの宣伝部にどうかという話も頂いた。しかしいきなり今までの競合企業に行く気には成れなかった。一方で近所にあった浜野安宏商品研究所からも「どう?やってみない?」という誘いを受けた。これは非常に興味を引かれたが、数回面談して残念ながらやめた。そんな時ヴァン ヂャケット商品企画セクションの相当上のほうの人の紹介で、あるデベロッパー会社と言うか複合型のファッションビル運営会社の販促担当をやらないかと言う紹介を頂いた。

 約10年前1969年にオープンした玉川高島屋を核とした二子多摩川ショッピングセンター近くに建設される新しいコンセプトのショップ集合体の話だった。まだ建設中のその事務所に約束の日時に行った所、怪しいアジア系を思わせる大柄の責任者らしい人と面談になった。まず自己紹介をしたら、開口一番「やる気があるか?どうなんだ?」と完全に威圧的な上から目線での物言いだった。倒産した会社の社員を拾ってやるんだから選択の余地は無いぞ・・・。と言う雰囲気で、瞬時にNG!だと決断した。

 直ぐに席を立とうとしたが、念のため就業規則・給与条件などを訊いたら、「そんなのは後回しだ、どうなんだ?やるのかやらないのか?話はそれからだ」と繰り返すのみだったので、黙って一礼をして席を立って出てきてしまった。条件も中味も提示しないで勤める気があるか否かだと?正月の福袋じゃあるまいし・・・なめられたモノだ。

 最初からこうでは就職しても半日も持たないだろう。後ろで「オイ君ィ、悪かった!」と大きな声がしたが、二度と振り返らなかった。勿論、紹介してくれた企画の先輩にもその後一度も会わずにそれきりとなった。
 時は流れ、21世紀になって2011年10月、石津謙介社長生誕100年記念の会場でその先輩の姿を見かけたが、話はしなかった。筆者を覚えている訳が無いと思ったのだ。
 
 それから暫くして、同じ大学から同期でVANに入った藤代氏と会って話をした。彼はイトーヨーカ堂の人事等から誘いを受けたようだったが、結局は販促部のSD課(ショップデザイン・施工系)の池田CAPと一緒に施工を中心としたプロダクションを立ち上げるとの事だった。
 池田CAPはVAN時代から多方面に顔が広く、そのセンス・実務力は業界でも広く知れ渡っていた。仕事は最初から沢山舞い込んで来たようだった。倒産前のペースと変わらない忙しさに「人徳」と言うものはこういうものなのだと勉強させられたのを記憶している。彼等はRenomaというブランドの施工・展示関係、オレンジハウス関連、ラルフローレンのインテリア部門の商品開発、展示施工等SHOP系の仕事を休む暇もなく次々にこなしていった。

 こうして暫くはドタバタした日が過ぎていった。

 一応個人のレベルではあるが事務的な事後処理、私物、自分の仕事の記録・資料、ごみの中から拾い集めた重要なデータ、自分が撮影・製作したスライドショウのポジ類をまとめて自分のデスク周りを綺麗に掃除し、最期の挨拶回りをする事にした。


既にこういった販促での仕事は無かった。

倒産直後の販売促進部のオフィス その1.

最後になった自分のデスク。この写真を撮っているカメラバッグがデスクに乗っている。

1ヶ月後には殆ど事務機器とゴミの山に成ってしまう。

 営業セクションは会社更生法申請と前後して誕生した労働組合を巡って社員同士が大きく2つのグループに別れていたようだ。純粋にトラッド・アイビー系のファッションが好きで石津謙介社長を尊敬し、今までのヴァン ヂャケットの再建を願うグループと、政治的・イデオロギー的(例えば70年安保の全共闘的?)観点から会社としての再建を目論むグループのような雰囲気だったような記憶があるが詳しい事は判らない。

 このあたりはKent営業部の星・横田哲男氏のNOSTALGIC DIARY=VAN青春日記に詳しいのでそちらを参照願いたい。http://vansite.net/zokuvandiary1.html

 このVAN SITEに連載されているブログの筆者である彼こそ、倒産後のヴァン ヂャケットを再建すべく体を張った同期入社の英雄と言ってよい。子供を二人抱えた生活の為とはいえ、早々に別の再就職先を探さねば成らなかった筆者などは彼に一生頭が上がらない。
 筆者に出来たのは、その後倒産翌年1979年青山三丁目にオープンした店Kent Shop(彼が店長)にディスプレー用の骨董品の手回し蓄音機を提供する程度の事だった。

 こうして完全に退職・退社の全てが終わった日、青山三丁目の本館社長室に石津社長が居られるのを秘書の戸田さんに確認して、お別れの挨拶に伺った。
この日が自分にとって青山のVAN最期の日となった。

 いつもより狭く感じた黒っぽい社長室で石津社長はきちんとした身なりだったが、やはり少し何処かやつれて見えた。
 「おー、君か!長い間お世話になったな、申し訳無い。」石津社長の方から近寄ってきてこう言われたのを記憶している。あわてて「とんでもない、こちらこそ社員の一人として力不足で・・・」と言ったかどうか、そういう感じの言葉を返したと思うが、正直に言うがはっきりとは覚えていない。石津社長の言葉は割りにハッキリと覚えているが、自分が発した言葉に記憶が無いのは一体どうした事だろう?ウワの空だったのだろうか?

 そうして今後の心配など気遣われた後、社長はこう続けた「記念にこの部屋に在る好きなものを持っていきなさい」社長室には大きなメキシコのソンブレロ(鍔広の帽子)飾の剣、大きな英国のタータン柄の由緒を示した地図などなど。どれもが石津社長の永年の交友関係、仕事関係の証であろう貴重なものばかりだった。

 暫く考えて、最期の最期に冗談・ユーモア大好きの石津社長を笑わせてやろうと悪戯を思いついた。で、こういった「この部屋にあるモノであれば何でも良いんですね?」窓の外を向いている石津社長の「あー良いぞ!」と言う言葉が終わるか終わらない瞬間、後ろから石津社長の胴に手を回し持ち上げ・・・られなかったが(あまりの重さに無理だった)「社長を頂いて行きます!」社長は窓のほうを向いたままこう言った「君もか、有難う・・・。」同じ事をやらかしたものが既に居たらしい。VANという会社はそういう会社だったのだ。


 

2015年7月4日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #117.」 ヴァン ヂャケット倒産時の実録社内レポート その1.

 会社の社内放送とテレビの臨時ニュースのどちらが早かったかは覚えていないが、通常の仕事の最中にいきなり自分の会社が会社更生法を申請した事を知った。テレビでは会社更生法の申請という事より「事実上の倒産」という報道表現のほうがはるかに強かった。

 当日の社内は、「売り上げ不振で会社の経営状況が悪いとは思っていたけれど、まさか倒産するなどとは思わなかった・・・。」と言うのが社員の正直な気持ちではなかっただったろうか。
 情報が駆け巡った瞬間から、勿論社員は仕事が手につかず、それぞれのセクションで輪が出来「この先どーする?」の井戸端会議があちこちで始まったように記憶している。外回りの販売系・営業系社員は一番大変だったのではないだろうか?得意先から寝耳に水の倒産情報を聞かされた者なども居たのではないだろうか?販売促進部でも社内ではなく外の喫茶店アゼリア、レオン等を満員にして個人的対策会議を始めたような気がする。

 実は1~2年前から商社丸紅などから経営陣に幾人も進駐軍のように人が派遣され、建て直しなのか、後で考えれば終戦処理だったのか連日会議が開かれ、まるで普通の金融や商社のような話が漏れ聴こえて来て居た。
 またそういう外部からの経営進駐軍との調整会議担当を命じられ、得意顔で訳知りのような行動をする社員が出始めても居た。そういう人間達がデスクワーカーであるにも関わらず、会社更生法の申請ニュースが出た日に、何故か社内に居なかった事も覚えている。
倒産後まだ東京ドームになる前の後楽園球場でアメラグ・ヴァンガーズの試合があった。貸し切りバスで応援に行く途中この丸紅本社前を通った際、車内の社員がバスの窓を開け、コブシをあげ声を上げて抗議をしたのが印象的だった。

 連絡担当者達は事前におぼろげながらヴァン ヂャケットの行く末を知っていたのだろうか?或いは上層部に近いと言う素振りをしていた為、いざ倒産になった時に他の社員達から吊るし上げを食うかもしれないと、身を隠したのかもしれない。いつか聴けたら訊いてみたい気もするが、実は商社からの上層部出向社員にそれ程近い訳ではなく、今までヴァン ヂャケットが抱えていた問題・情報を提供していただけの、情報提供者だったような気もする。倒産近い会社の社内では良く在りがちな現象なのかもしれない。

 事実上の倒産という状況になり、自分自身数ヶ月前に広告系会社の転職試験を受けて、最終段階で辞退した事をこの段になって少し反省をした。しかし自分自身こういう日がこれほど早く来るとは思っていなかったので、この状況下では致し方ないと思った。丸紅などからの出向上層部に近いような振りをしていた同僚達、転職の準備を全然していなかった事からしても、彼らも寝耳に水だったのだろう。その後ほとぼりが冷めてそういう情報提供者たちが丸紅関連に再就職した話を1つも聴かないので、本当の所は大して近くは無かったという事なのだろう。便利に使われただけの様だ。

 事実上の倒産、という報道がなされた翌々日、債権者達への説明会が行われる事に成った。場所は赤坂公会堂。クラシックな建物で気に入っていたのだが今はもう建て替わって赤坂区民ホール等になっている。当日は債権者達が石津社長に危害を加えたりしないかと、アメラグ・ヴァンガーズ、アイスホッケー・ヴァンガーズの面々はガードマンとして現場に行くように言われた。しかし説明会は粛々と行われ混乱は無かったと記憶している。
青山通りに面した当時の赤坂公会堂、正面は右側の角だった記憶がある。

 一方では営業関係者が売掛金の回収、商品の回収、事情の説明にあちこちを飛び回っていた。さぞ辛かったろうと推察する。そんな中、我々宣伝・販促関係部署は商品製作・販売には少しも役立たず、予算を使うだけの「金食い虫部署」だという事で、早めに退職することに成った。

 残っている有給休暇を消化し、大体において5月末を目処に非現業部門は一斉に退社する事になった。宣伝部や意匠室のメンバーは我々よりはるかに早く既に出社しなくなっており、それぞれの部屋に行って見ると、引越した直後のような有様で、ゴミの山のようなものが幾つも出来ていた。 皆私物と自分の作品、資料のようなものだけはさっさと持って出たような感じで、使いかけの文具・備品、幾つもあるようなノベルティ・プレミアム、或いはサンプルのようなものは部屋の中央に無造作にまとめられていた。

 具体的に事実上の倒産後は販促部の仕事はなく、倉庫に残品処理の為の商品値札付けのような仕事に行かされたような記憶がある。川口だったり、晴海だったりした。

 筆者はその後6月近くになっても時々青山3丁目の本館に行き、各セクションへ赴き一つ一つ手にとって一緒に仕事をした事を思い出しながら、数回この残骸の山に赴いた。その中で幾つか今になってみれば貴重なものを拾って来ている。意匠室だけではなく計画室・IDの部屋、商品企画室・製作室など。何故かあの入社時に感激したノベルティやプレミアム宝の山、販促の倉庫だけには行かなかった。営業を含めた各セクションの関係者に挨拶というかお別れを言いに回ったが、殆どが事後処理や得意先周りで不在だった。
多分、SCENEのカレンダーポスターの製作過程で当たり(=レイアウト)を取ったと思われるトレーシングペーパー。ポジフィルムを壁に貼ったトレーシングペーパーにスライド投影し制作した。アメリカ中西部の一本道。その後1985年のイーグルスのベスト・アルバムに似たような構図がある。

The Eagles LP 1985年リリース


中西部風のライブハウスをモチーフにしたパターン。ついには陽の目を見なかったが・・・。

 そうこうしている内に、倒産からさほど経っていない再建に向かって社員が何が出来るか模索中の5月25日。雑誌ポパイ6月10日号がまるで随分前から準備していたかのように、早くも「VANが先生だった」と言う特集号を発行した。このときはさすがに少々ムカついた。
倒産後1ヶ月少し5月25日に発売された雑誌ポパイ6月10日号

 記事自体はVANのノベルティ・プレミアムを並べ、数人のVANがらみの芸能人に行ったであろうインタビュー記事で、急いで編集したのだろう内容は決して深いものではなかったが、その期を見る商売根性?ジャーナリズム根性に少し嫌なものを感じてしまった。
1977年4月10日号レギュラー発行の実質創刊号。いみじくも表紙はヴァン ヂャケット意匠室の本森氏のメジャー・デビューイラストで飾られた。

 何故ならば、ヴァン ヂャケット倒産の幾つかの原因のひとつにこの1977年4月レギュラー創刊の月二回発行の雑誌ポパイと言う情報メディアが影響しているのは紛れもない事実だからだ。日本の文化風俗を変えてしまったという意味からすると、この雑誌が持つ役割は非常に大きかった。

2015年7月3日金曜日

人吉の鷺山に接近! The Colony of the heron at Hitoyoshi.

 6月15日付けのこのブログで人吉のサギに関してレポートしたら、いまどきサギ山があるのは珍しいと連絡を受けた。その昔は関東の野田にサギ山が複数あって糞害、樹木の集団枯れ木化で問題になっていたが今は無いようだ。

 しかし人吉市のサギ山は筆者が通うようになった2010年からずーっと存在する。いつも行くたびに「あー、今年も繁殖中だな皆さん」と軽く観ていただけだったが、昨年からアマサギの採餌シーン等を観察するにつれこのサギ山コロニーが気になるようになった。

 サギ系が何処で繁殖するか等はあまり気にしなかったが、このサギ山で繁殖する種としない種があるらしいと聴いて、撮影に向かった。人吉でお世話になっている方の家の二階から正面に見えるこのサギ山だが1000mm超望遠で撮影するにしても晴れていれば大気の陽炎で画面が揺らいでしまう。もう少し近づきたいと高い場所を探して、今回やっと少し近づけたので前回より近い画像を撮影できた。

 サギ山では、アオサギ、ダイサギ、コサギ、アマサギ、ゴイサギが営巣中で、チュウサギが混じっているか否かは判別できない。それぞれ同種で固まっているのかと思いきや、バラバラなのには驚いた。しかし真昼間から都市中心部の上空を色々なサギが舞う所は全国的に観てもそう多くは無いだろう。特に夜行性のゴイサギが数羽でビル街の上空を飛ぶのも珍しい事かもしれない。

 正確にはカウントしていない為、責任を持っては言えないが、撮れた画像を見る限り250羽以上のサギ類が居る様だ。ひょっとすると国内でも最大級かもしれない。

遠くから見ると、明らかに5月末に撮影した時よりサギの数が増えて見える。殆どの雛がかえったためではないだろうかと推察している。前回の倍以上に見える。

ダイサギなのかアマサギなのか・・・。

ところどころ灰青色のアオサギの姿が見える。しかし圧倒的にアマサギ、コサギ、ダイサギが多いようだ。

一部葉の無い枯れ木に沢山巣を架けているアマサギ、もしくはコサギのコロニー。


此処からは人吉球磨エリアで目に付いた花のご紹介。

もう終わり掛けだが合歓の木も沢山咲いていた。八代の水無し川上流部は満開状態だ。

真っ赤なカンナは見事に川辺川流域に沢山生えている。

ヒメヒオウギスイセン(姫檜扇水仙)も今が盛りと咲き誇っている。

ヒメヒオウギスイセン(姫檜扇水仙)





2015年7月2日木曜日

もうすぐ巣立つツバメの雛たち。Fledglings of a swallow leaving the nest soon.

 今年は雨が多く鹿児島程ではないが、熊本県南部も例年以上に雨の日が多い。河川も濁って増水しっぱなしで、アユ釣り解禁6月1日以降、何日も釣れるような状況ではないようだ。このような状況だから地元でヤマセミを観察されている方々の情報も口をそろえたように「最近は殆どヤマセミの姿を視ませんねー」なのだ。

 一方で、ツバメたちの繁殖は人間世界にすっかり入り込んでいるためか、今年も順調なようだ。 八代から人吉に向かう高速九州道のあるSAで観た風景。錦町の道の駅のトイレにも沢山営巣していたツバメだが、高速道路のサービスエリアのトイレにも4つの巣が架かっていた。勿論男子トイレだけしか見ていないが・・・。

 一番目立った所に在る巣が、男子トイレの室内の蛍光灯の上の隅。蛍光灯からは30cmも離れていない。非常に明るい所だ。雛たちが目をやられてしまうのでは無いかと思うほどの近さ。したがって条件的には撮影しないの?と言わんばかりの環境だ。用を足す男たちもなかなか気が付かないのか目もくれずに出入りしているが、時々車からカメラを持ってきて撮影している人が居た。

 よーく見ると、巣から2mほど下の壁際の棚に誰かが置いたツバメの置物が置いてある・・・と思ったら、上の巣から落下した雛の一羽だった。とにかくじーっと動かないので人間達は全然気が付かない。こちらも上の巣のツバメと親の給餌の周期を図っていて5分以上経ってからそれが生きているツバメの雛と認識できたほど判らなかった。

 
もう完全に体が大きすぎて今にも皆で落ちそうな気配。あと数日で巣立つだろう。

親の気配を感ずると一斉にお約束のこのポーズだ。

ストロボを炊くような事はしないのでどうしてもコンパクト・デジカメではブレてしまう。

落ちて間もないと見えるが、親はどうするだろう?過去の例からすると多分ちゃんと給餌をすると思われる。

上の隅がツバメの巣。下の棚に居るのが落ちたヒナ。雛の横に張り紙があったので、雛に手を触れたり、持っていったりしないように注意書きだろうと思ったら、冬タイヤのお勧めだった。残念!


 

2015年7月1日水曜日

梅雨の大雨・風物詩。 This is a Japanese local sight scene watched at time of rainy season.

 例年の3倍の雨量を記録した6月の南九州だが、それなりに普段あまり見られない風物詩に出遭えるチャンスが在った。雨もまたそれなりに「良し!」だと思う。連日の大雨で河川の増水汚濁は致し方ないが、2010年からの丸5年間で人吉を訪問した全日程合計の晴天率が90%以上だったので梅雨の時期の雨は逆に言えば当たり前の事。野鳥の繁殖の時期に梅雨が当たるというのは良い面も悪い面も色々あるのだろう。

 野鳥達にとっては餌になる生き物などが大量に発生する時期だから繁殖しやすいのだろうし、必要な真水を得るにはどこでも可能だし、一斉に繁殖するので種族間の争いも無いのだろう。株主総会を特異日に一斉に行うのと一緒か?一方で大雨によるがけ崩れや巣の水没・流出などで繁殖失敗も起きたりするのだろう。

 そんな中、いくつかの面白い風物詩をスナップ撮影出来たのでご紹介。

増水で球磨川も本流での釣りはずいぶん長い事で来ていないようだ。

しかしさすが地元の釣り師!普段は入りもしない支流の増水部分で見事に釣り上げていた。

一方、本流の増水部分、何故かプロらしき漁師さんが作業中?

観察していると、大きな保網で岸ギリギリを何度も魚を掬い上げていた。

訊いたら「濁りすくい」という漁で大雨の時期独特の漁だそうだ。増水汚濁の際は魚は川の中心部より流れが弱い岸の堤防沿いや入り江に集まるので其処を網でさらうと色々獲れるらしい。クーラー一杯獲れていた。アユなどではなくカジカやドンコ、カマツカ、ナマズの類が多い様だった。

夕方晴れた日の太陽は色々な姿を見せてくれた。沈む直前赤い帯が縦に見えた。

こちらは望遠で撮影したもの。太陽の周りに赤いリングが出来ていた、レンズのせいか?