2021年1月31日日曜日

球磨川洪水災害から半年、その後への憂い。  Six months after the Kuma River flood disaster, I'm worried about after it.

  あの球磨川大洪水・災害から半年以上が経ったが、根本的な今後への対策、考え方がどうも現実的にスピーディではないようで憂いている。

 どう考えてもダムを造りたい、だからダムさえあれば災害は防げた・・、と主張する国交省と、どう考えても川辺川ダムが在ったとしても災害は防げなかったし、犠牲者は救えなかったとする河川工学・自然災害に関する専門家の考えは一致しない。

  国交省が洪水災害に関して出したコメントはたった1件。川辺川ダムが在ったれば人吉での水量は軽減され・水位は今回災害時より数メートル低かったはずだ・・。それもまだ行方不明者が見つかっていない時点で早々とコメントを出したのだ。不自然だろう?

 本来あるべき姿は河川の安全を守り管理する責任と義務がある国交省の河川管理責任部署があの洪水時の球磨川・川辺川流域全体の雨量水量を気象庁と連携してじっくりデータ分析し総合的に見解を出すべきだろう?

 熊本県の知事も為政者たちも早い段階で此の国交省の発表したコメントのみで「川辺川ダム建設を排除しない治水を考える」と方針を簡単にひっくり返してしまった。これが混乱の引き金になったのは否めない。まるで出来レースのようだった。

 この下に掲載した数日前の地元新聞の記事は非常に公平な報道だと思う。相も変わらずいつ完成するか判らない川辺川ダム推進情報に合わせて、専門家集団の発信する「ダムが在ったとしても犠牲者の命は救えなかった」という強烈な情報を掲載したのだ。快挙だ、拍手を送りたい!

 元滋賀県知事の嘉田由紀子氏は京都大学を出て滋賀県知事をやりながら原発問題、洪水災害問題現場・実地の経験を踏まえた学者でもある。彼女を中心とした専門家ブレーンの分析した「ダムでも犠牲者救えず・・。」の見解に地元熊本県の蒲島知事は論理的に反論できるだろうか?熊本県の市町村の為政者は論理的に反論できるだろうか?更には国交省は「そうではない。」と言えるだけの検証結果を持っているだろうか?

 ダムの形や機能を工夫するだけで今回同等の災害が防げないことを地元メディアはジャーナリストの誇りを持って、もっともっと主張して良いのではないだろうか?地元メディアが行政や国への忖度なしに地元住民を守る先達に成らずしてどうする?

 筆者はこの新聞記事を読んで、珍しく公平な報道だ、地元新聞も頑張っているな!と思った。嘉田元滋賀県知事のこの情報はこのメディアが報道しなければ世に出なかったかもしれない。筆者も知らないままで終わっていた。掲載新聞社に感謝したい。

現状を一番端的に表現している新聞報道。勿論枠内の嘉田氏の記事だ。

 筆者は下流部八代市で昭和時代に二度ほど遭遇した球磨川の氾濫による洪水体験、それと植物を中心とした地球環境に関しての研究経験などから、河川工学の専門家たちの考えに組している事はこのブログで今まで述べてきた通りだ。

 乱暴な言い方かもしれないが、一番わかりやすいのは、今まで球磨川流域に出来てきた集落群、人吉市に始まり球磨郡各町村は、球磨川と言う自然の急流により山を削られた土砂が堆積し形成した土地に発展したものであること。したがって大雨が降れば次から次に同様に山を削った土砂が球磨川・川辺川によって下流域に流れて来て堆積の積み重ねが出来る事は自然の営み上避けられない事であること。なおかつその勢いは人間の力では到底変えられないという事。この根本的な事を忘れていた事を思い出させてくれたのが今回の洪水災害だったのだと思う。

 もっと簡単に表現すれば、砂上の楼閣、波打ち際に粘着性の強い乳剤を混ぜて砂の芸術・砂の城が造られるのをご存じだろう?鹿児島の南さつま市の吹上浜の大会などは相当有名だ。しかし、どんなに乳剤で固めて、子供が乗ったくらいでは崩れない頑丈な作品・城でも波が打ち寄せる場所に造れば大潮の満潮時の波であっという間に平らな砂浜に戻ってしまうのをご存じだろう?あれに似ている。

 100年に一度の大洪水が、砂浜の大潮の満潮と考えれば良いのだ。人吉市中心部にしろ球磨郡の各町村の集落にしろ、100年に一度の大洪水は必ず来るし、今回と同等の災害は起こるのだ。決して川辺川ダムが在っても、他に河道を掘削して人工的に掘り下げても自然の土砂堆積スピード・雨季の大雨による増水は簡単にその努力をゼロにしてしまう。

 元々球磨川が氾濫した場合のハザードマップで水深3~5mのエリアに当たる所は、この先もそれなりの深さの洪水に見舞われるという事だろう?

 もともとそういう土地なのだから、そこに住むというからにはそれを覚悟し、理解し、リスクと考えて自己防衛するのが本来の姿ではないだろうか。国や自治体に治水の責任が在るのだから住民を守れ、洪水を何とかしろと言うのは、余りに勝手な考え方のように思う。

 繰り返すが昭和42年の水害で被害を受けた最上川流域の人々は自衛策で土地のかさ上げ、移住、その他で球磨川流域と同じ去年の大洪水から命と財産を守ったと聞く。自然相手に人間の力など微々たるものだ。ダムや堤防建設で、本来氾濫するのが自然の摂理のエリアに家を建てて住んでいる者を守れる訳がない。

 活火山の火口原に住んでいる者、裾野に住んで居る者、ポンペイの遺跡を考えれば自然の力を人間の力で何とか出来ないことくらい判ろう?

 未だ確実なデータが取れていない流水型ダムの効力も判っていない現在、それさえあればと推進・要請する町村の為政者たちの短絡的な意見の流れを憂いている。そんなものでは防げる訳がないと思っている人々も、自分の意見を堂々と主張できない地方独特の村社会の空気が在るような気がしてならない。

 天災・洪水はそんなに単純な人造物で防げる訳が無いという事を何故為政者・政治家は勉強して住民に説明しないのだろう?コロナ感染症の勢いを止めるのは大変だ‥と主張する専門家・医師たちの意見を充分に聞かないで経済を回そうと逆に感染を広めてしまっている政府や東京都と何処かでイメージがダブって仕方がない。

10年の間に昨年同様の洪水が無いという保証はどこにもない。来たらどうするのだ?

 その後の新聞報道を見るにつけ、また今年の梅雨時末期の大雨洪水を目の前にして何年掛かるか判らない川辺川ダム推進の話や、何年掛かるか判りもしない川床掘削のプランなど、「今そこにある危機」への具体策を考えない空気に憂いは増すばかり。

 現状を維持したまま防災を国や自治体に頼る・・と言う事が如何に危険な事か、地元にお住いの方々はこの危機を判っているのだろうか?

 昔のとんち問題にあっただろう?牧場の草を牛が食べ尽くすのには何年かかるでしょう?と言う問いだ。ご存じの通り正解は「何年かかっても食べ尽くせない」だ。1年かけて半分食べ終わっても、残りの半分を食べている間に前の半分の草が又生えてきてしまうから・・。

 河道掘削、川床掘り下げも一緒だ。掘っても掘ってもまた上流から土砂が運ばれ堆積してしまう。ダムなどあっても本流ではなくダムの下流の支流部からどんどん土砂が運ばれてくる。国交省にそれを止めるだけの財力もパワーもある訳がない。こういうのをイタチごっこと言うのでは?

 折しも昨日以前注文していた「人吉球磨の昭和」というぶ厚い写真集が届いた。

版権の問題で中身はご披露できないが、色々な方々の提供された画像が詰まっている。

 筆者も尊敬する人吉切っての知識人・前田一洋氏監修の保存版写真集だ。勿論数年以上かかって写真・画像を集められ時間をかけて完成した限定製作貴重本だ。
たまたま完成直前に人吉球磨エリアが大災害となり、発行には複雑な思いもされたろうが出して頂いて貴重な資料となっている。

 国交省なり熊本県の為政者、人吉球磨の為政者たちはこれらの貴重な資料を読み返して、沢山住んでおられる筆者の友人知人、お世話に成った方々の為にも、自分たちの成すべき役割・果たすべき責任を再確認して欲しい。