奥日光へ探鳥行の帰り、東北道の羽生SAで小休止した。1年前にも立ち寄って小江戸風のユニークな演出とそのコンセプトに感心して気に成っていたのだ。
ちょうど1年前同じく日光へ探鳥に出た帰りに知って、そのユニークさが気に成って調べたのだが、1942年福岡県出身の工藤忠継氏が八幡製鉄退社後千葉県佐倉に立ち上げた、ニューミレニアムネットワークという会社の総合企画によるものだと知った。
そこで売っている商品と演出・陳列方法など、長居できないSAの客にとって判りやすい点が気に入ったので頭に入って居たのだろう。
それが今年2月、日本橋の高島屋新館をオープン直後視察に行って驚いた!殆ど似たようなネーミング、パッケージングの商品が同じような演出陳列で売られていたのだ。
その驚いたというのが、この「鬼平江戸処」をモチーフにした羽生サービスエリアで売られているものと、鳴り物入りでデビューした日本橋高島屋の新館で売られている商品群の狙いがほぼ同じだと推察される事、更には売られ方がほぼ同じだという事だ。
ネーミングやパッケージ意匠に凝ったつもりなのだろうが、果たして自宅のキッチンの他の食材や調味料と一緒に並べた場合、紛れて瞬時にそれが何か判断できるだろうか?
買った本人ならまだしも、同居している家族は気が付いた段階で「これなぁーにー?」になってしまうこと請け合い。朱色のカンカンの味の素や、赤いキャップの食卓塩、キッコーマン独特の醤油さし(最近は減塩だの濃厚だのデザインの種類は増えたが)など一目瞭然の老舗ブランド・デザインの調味料群。各家庭独自の粉類入れや乾燥容器。おいてある場所も家族の誰もが認識しているキッチンの人間工学的配置。
これらの仲間に入れるだろうか?と訝しがらずにはいられない遊びネーミングやパッケージングの山。これらを積み上げられた売り場は一見綺麗でユニークに見えるかもしれないが、果たして買って帰った消費者の使用者としての空間を考えてネーミングやデザインが成されているだろうか?買ってくれればいいのだろうか?
商品の中身からして、今までの既存商品に対する優位性や新しい理念が開発されているだろうか?ネーミングやパッケージがそれらと共通理念・コンセプトの下に意匠企画されただろうか?見てくれとネーミングだけで他との差別化が出来ると思っているのではないだろうか?
筆者はどうしてもこれらの商品群を視てそうとしか思えなかった。その昔、どこかの馬鹿が「○○へ行ってきました」などという土産物のネーミングを始めた為に、どれも中身は同じなのに包装だけ、場所の名だけ変えた品の無い独自性のない土産物で行楽地が大ヒンシュクを買った事があった。これに似ている様な気がしてならない。筆者の経験値から同じ匂いを感じた次第。
独自性を追求したのかもしれないが判り難過ぎて、商品理解・選択に時間がかかり過ぎ実はあまり売れていないようだ。
筆者は1973年~1978年倒産するまでの間、青山のアパレル業界、石津謙介社長の株式会社ヴァン ヂャケットの宣伝部⇒販売促進部に勤務していた。それまでのVAN、VANMINI VANBOYS Kent他の既存ブランドに加え、新しいブランドの立ち上げ、開発・業界デビュー、PRに携わった。
1973年入社当時のヴァン ヂャケットの主要ブランド
特にSCENE、Niblick 、Orenge House、Green Houseなどの新しい領域へのブランド立ち上げに関しては、所属していたマーケティング・販売促進部でのブランドデビュー作業に参加。これらコンセプト造りから内見会開催までの一連作業が今でも頭と体にこびりついている。
新しいブランドの立ち上げ・デビュー、新商品群コンセプトメーキング、それら商品群の販売チャネルと販売演出・展開コンセプト立案などは非常に勉強になった。これらの立ち上げは事前に2年以上の準備と競合研究を行い水面下の活動が相当長かった。
若かったせいもあろうが、連日連夜遅くまで青山のオフィスで、「あーでもないこーでもない」といった作業当時が懐かしい。
最近の広告代理店やプロダクションが提案するイージーな差別化案(ネーミングだとか演出方法だけ少しいじった)ブランディング等という軽いモノではない事だけは確かだった。自社の存亡がかかるブランドの立ち上げは、無責任な広告代理店がイージーな外注で処理するような刹那的なモノとはレベルが全然違う。専門分野のモノづくりのプロ集団(企業内プロジェクト)と、広く浅く何でもやります的な広告代理店スタッフでは基本的な次元が違う。
これは余談だが、1978年、繊維構造不況のど真ん中で経営不振に陥っていた
ヴァン ヂャケットは、必死の思いで社の再建方法策を大手広告代理店H堂に依頼した。費用は当時1,300万円だった。で、2か月後に行われたH堂の提案プレゼンテーションは「VANさん大丈夫ですよ!ダーバンやマッケンジーの様にTVコマーシャルをやれば間違いなく・・・」だった。
VANが会社更生法を申請し事実上倒産したのは、そのH堂の提案1か月後4月6日だった。
今と違って、パソコンも無ければワープロさえない1975年頃のブランド立ち上げ作業は殆どが手作業。スタッフに作画力・写真撮影技術・文章力などのスキルが無ければ行えなかった。
商品企画そのものから他社製品の徹底分析、販売チャネルの正確な数値まで一覧表マトリクスにして新しい自社のブランドの立ち位置と5年後までのシミュレーション、売り上げの推移予想とそれぞれのケースへの対処法まで準備した。今から45年前の話だ。
当時はパソコンの存在する現在の様なデスク上だけでの想定で、肝心な所を外注・アウトソーシングしてしまう事はしなかった。モノ造りの企業の勤務体験の無い広告代理店のディレクターが、外注先から上がって来る「依頼成果」を判断・評価など出来る訳がないと思うのだが、現在はそれが普通だと聞いて「だからこうなるのだ!」と納得した。
逆に言えば、当時パソコンが普及しネット通販が在ったらヴァン ヂャケットは現在のユニクロなど比較に成らないバケモノの様な会社になっていただろう。
要は何を言いたいかというと、最高級イメージの日本橋界隈の伝統的百貨店の高島屋と高速のSA(サービスエリア)で同じ様な商品が同じような陳列で、同じ様な売り文句で売られている事に強烈な疑問を感じたのだ。
羽生SAで商品を視た客は面白いとは思うだろうが、利口な消費者は商品のラベルで製造会社を視ればほとんどが東京都製造なので「何もココで買う事はない、東京でも売ってるな」と判断し「爆買い」はしないだろう。
一方、日本橋高島屋新館でこれらの商品を視た客は、都心のこんな一等地でこの客単価でモノを売る裏には何かあるのではないだろうか?と思うだろう。現に売り場で女性たちの「何でこんなの此処で売るワケェ?」の声を随分聴いた。
最近の女性たちは非常に賢い。どんなネーミングで、どんな可愛い容器で付加価値を付けて売ろうが「要はお塩でしょ?お米でしょ?騙されません!」と衝動買いはなかなかしない時代になっているのだ。それだけ生活は厳しくなっている。
同じ店内にスーパーの成城石井が入っていて似たような商品を売っている。フロアセグメントその他がメチャクチャな感じだった。遅かれ早かれ大改装せざるを得ないだろう。
昔の高級イメージが崩壊してしまった銀座が今やUNIQLOやMUJIやH&M、ZARAの街になってしまったのと違って、日本橋エリアはある程度の老舗ステータスを保ったエリア・ブランド確立をして欲しい所だが如何だろう?