2014年10月18日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #76.」 1972年春休み、英国旅行から戻ると机の上に企業からの郵便物が山積み。

 英国ツアーから1箇月ぶりで自宅に戻ると、机の上に郵便物が二列山積みになっていた。一列は高さ20cmくらいになっていた。ツンと押すと雪崩のように荷崩れを起こしそうだった。雪崩のような荷崩れといえば、その昔銀座・数寄屋橋の西銀座ショッピングセンター2階とソニービルの地下に中古レコード屋の「ハンター」が在って、良く中古盤レコードを買った。
 此処のテレビコマーシャルで、レコードの山が崩れるというのがあった。まさにあのレコードの山のような感じで郵便物が積み上げられていた。
銀座に出ると必ず此処銀座ハンターとイエナ洋書店には立ち寄った。

  その一番上に乗っかっていたのが青山のヴァン・ヂャケットという会社からの郵便物だった。えっ?あのVANが新入社員を募集するってかい?で、大体どうやってVANが私の事を知ったのだ?この理由は未だに判らない。平凡パンチのスキーツアー・読者プレゼントに応募した名簿が流れたのか、VANが名簿会社から横国大卒業予定者の名簿を買ったのか?いずれにせよ会社訪問のお知らせが来たのだった。その後のやり取りは人事担当から電話が掛かってきたのか、葉書で行く旨を連絡したのか良く覚えていない。
 
 話は少しさかのぼるが、英国から帰ってきた頃まさに日本は高度成長の充実期で、大卒男子の青田買いがどんどん進んでいた時代だった。
 
 この1972年当時の若者(筆者も含めて)の「価値観・ステータス・生き様」は2014年・現在の同年代の若者とは相当異なっている。したがって当時の「価値観・ステータス・生き様」を知っていないと、このブログに書いてある事は半分も理解できないと思う。まず一番異なっているのが「着る物=ファッション」に対する価値観・ステータスだ。「団塊世代の優越感」が日本の消費構造を原点で支えた・・・と、このブログで何度も述べてきたように、当時23~4歳前後だった「団塊の世代」の若者たちの頭の中は「身に付けるモノ」に対する執着心で一杯だった。

 女の子にモテたい。→モテる為にはかっこいいファッションで身を包む必要が有る。→身の回りのモノもかっこよい必要が有る。 間違いなくこれが基本的価値観・ステータスの根本にあった。だからこそ舶来品の時計、スポーツカー、ヴァン・ヂャケットの服、高級ブランドの輸入スキー用品、高級輸入酒(ウイスキー、ブランデー、ワイン)に対する物欲・憧れが非常に強かった。この勢い・エネルギーは優越感をくすぐるために競争に勝たねばならなかった為、時と共に相乗効果でどんどん肥大していった。当時のメンズクラブや平凡パンチを見てみればこの辺りは良く判るだろう。この流れがスキーブーム、テニスブーム、サーフィンブームへと繋がっていく。これに乗じた雑誌が平凡出版の「ポパイ」だ。この話はもう少し後になる。

 こういった時代背景の中でのファッション・トップブランドとしてのVAN Kent などを有する青山・ヴァン・ヂャケットへの若者たちの憧れは、ピークに達していた頃と言って良いだろう。そのような状況下、自分の勤めたい企業は一体何処なのか?それまであまり深く考えた事は無かったが、この先の日本社会の常識が30年後どうなっているかだけは、おぼろげながら考えていた。

 これだけ戦後のベビーブームの人間が多ければ、今在る常識のいくつかは変わっているだろうと想像した。まず最初に、一生同じ会社に勤め続けるという常識は無くなるだろう。これはアメリカのTVドラマ「奥様は魔女」を観ていて、旦那のダーリンがいとも簡単に広告代理店を首になったり、昇給や格下げを何度も繰り返す様を見て、そう思ったのだろうと思う。
TVドラマ「奥様は魔女」は典型的なアメリカの広告代理店勤務サラリーマンの話だった。

 同時に退職金という制度は無くなるだろう、老後のために自分で貯蓄はしておかないと困るはずだ・・という事も考えた。もう一つは一生同じ相手と添い遂げるのではなく、生涯2度以上の結婚が当たり前になるのではないか・・・。という事だった。
 これらも海外のTVドラマを観ていて学んだ事だろうと思う。したがって、大学を出て就職した先に一生涯勤務すると言う事は想像しなかった。大きな有名な会社に入って、その会社の名声の傘の下で「完全サラリーマン」をやって行くつもりはまるで無かった。大学3年と4年の間の春休みの間、自分を取り巻く就職情報やお誘いは個人的に既に色々なものが在った。

まず、母方親戚の菊池稔という伯父が当時長いこと人気企業のトップを独走していた「東京海上火災」の社長をしていた。日本バスケットボール連盟の会長も勤めていたこの伯父に「是非ウチを受けなさい」と母を通じて言われていた。同時に我が父からも直接「よかったら十条製紙を受けないか?」とも言われていた。祖母からは次の大日坂幼稚園の園長に決まっている方の息子さんが、GKインダストリアル・デザイン研究所の首脳なのでどうだ?と勧められていた。又一方では横浜国大の山手にある附属中学校の美術の先生が自分はアニメ動画作家になりたいので、後を引き受けてくれないか?という有り難い話まで頂いていた。

東京海上火災も十条製紙も美術専攻で学んだ事が何の役にも立たない先なので、返答はしなかった。学校の先生は真っ平ごめんだった。理由ははっきりとしている。毎年教え子たちは卒業して世の中に出て行く・・・それなのに自分はいつまでも渡り廊下のスノコ板を、バンバン音を立てながら渡るような学校に居残っているのか?これが嫌だった。

 しかし、最終的にはこれらのどれも受けるつもりも、話を訊きに行くつもりもなかった。理由ははっきりしている。誰かの紹介で受けて入ったら、嫌になってやめる際に辞め難いというのが最大の理由だ。自分が勤める会社くらい自分の一存で決めて自分で進みたかった。
そういう意味からすると青山のヴァン・ヂャケットは何処の紹介も無く、自分自身にダイレクトに会社訪問の案内が来た企業だった。しかも英国から戻った時、自分のデスクの上に積まれた郵便物の一番上に乗っかっていたのが、VAN会社訪問への案内状だったのも、きっと何かの運命だろう。

 それから何をしたか?勿論、いきなり会社訪問の当日青山のヴァン・ヂャケットへ行くような事はしない。青山通りなどそれまで歩いた事もなかった。飲食・ショッピングの中心は横浜駅界隈・ダイヤモンド地下街・東口のスカイビル、横浜元町・伊勢崎町界隈が当然メインだった。後は銀座界隈、新宿東口エリアだった。したがって地の利が無いので原宿から表参道への並木道、そのまま青山通りを北上して青山三丁目までいろいろな店などを観ながら1往復したのだった。
既にベルコモンズが建っている1978年頃の青山3丁目

 案内状を見ながら青山三丁目の角の白いビルを確認し1階のテイジン・メンズショップ(だったと思う)を外から見て通り過ぎた。その後仕事で気楽に何度も入るこの重々しいメンズショップには当時はまだ客の身分で、非常に入りにくかった。後にベル・コモンズが建つ道路の反対側は空き地になっていた。そのベル・コモンズももうすぐ取り壊されるという、時代の流れを感ずる事だ。

 昔から、親から譲り受けた性格なのだろうか、約束の時間に遅れる事をものすごく嫌うし恥だと思っている。これは今も変わらない。他の人にそれを義務付けはしないが、時間にルーズな人間はどうしても完成度の低い奴・・・と一段下に見てしまう。だから余計自分に対しては、この点に関してだけ今でも非常に厳しい。

 こうやって、初めて青山通り界隈を歩いてみると、3丁目の角だけではなく色々なところにVANの看板が目立って付いていた。3丁目から国立競技場のほうへいくと丸太の砦のような一角があり、それだけでも十分人目を惹くのに、其処へVANの制服を着た女性が出入りしていて、一種異様な雰囲気だった。一方で表参道のほうへ進むと東急のスーパー、東光ストアだったかの上に横長のVANのロゴと何か横文字が並んでいたと思う。要は企業が急成長したため、一箇所にまとまって入れないのだろうと勝手に想像して、妙な期待を膨らませるのだった。

 こうして、過去のメンズクラブを読み返したり、事前の事前現場調査などを行って、いよいよ会社訪問の当日は快晴だった。やはり自分が関わるイベント日はきちんと晴れるのだった。