2014年10月31日金曜日

ヤマセミは二種類の影を残す? Crested kingfisher leave two shadow ?

 野鳥撮影をしていて、撮影中にはまったく気が付かなかったが、家のデスク上でパソコンで画像をじっくり精査していて気が付いた事があった。「影」がその主人公。日本語では「影」とは「影絵」に代表される明るい光によって造られる黒い影が一般的だが、映り込みの画像も影と称することがあある。陰影などという写真工学的な影も存在する。

 英語で言えば前者が「Shadow=影」であり後者が「Reflection=反射」だと思う。ヤマセミの画像をチェックしていて、この二つを同時に撮影できているシーンが希少数出てきた。条件は大変厳しい。水面に映り込んだ反射像が判る程度の水面状態である事と、強い影(Shadow)がはっきりと出るような太陽光が在る条件が整っている事が必須。

 空気が澄んでいる晩秋の夕方が今回画像の撮影時期だった。

鋭く強い夕陽の光は蛍光ホワイトのヤマセミを撮るカメラマン泣かせ。

白トビは我慢していただいて、影のほうに注目願いたい。

翼の形が2種類の影になる面白さ。

川底の様子も影の見え方に関係する。

浅瀬でこれだけ映れば、深場での鏡面のような所ではもっと綺麗な画像が期待できる。




2014年10月30日木曜日

真下から撮ったヤマセミとブッポウソウ! Crested kingfisher and the Broad-billed roller which I took from right under !

 このブログはヤマセミを中心に野鳥に関する生態を観察した結果の画像を掲載しているため、綺麗に撮れた画像や1枚の画像でその野鳥の特徴がほぼ全部判る様な野鳥図鑑的な画像は、掲載していない・・・と言うより撮れないので載せられない。その代わり多少のピンボケだろうが露出オーバー、あるいはアンダーだろうが面白い行動、生態などが撮れた際は恥も外聞も無く掲載している。

 それは、野鳥の一瞬の姿、美しさは肉眼ではなかなか判らないので、シャッタースピードの奇跡で記録し紹介する次第だ。デジスコでぐっと近づいた画像、ブラインドで身を隠し傍に寄った野鳥の動きをアップで撮影するような手法は採用していないので、思いもかけない一瞬を撮影できたりしている。

 今日の画像は真下から撮影した飛翔中のブッポウソウとヤマセミ。それぞれの羽根を広げた瞬間の全体バランスなどを視ることが出来よう。

ヤマセミの雌、初列風切羽の先端部分の構造などが下のブッポウソウと異なる。

無彩色の典型ヤマセミとカラフルなブッポウソウを比べるとこれだけ違う。面白い!
実際は二周りほどヤマセミのほうが大きいが、やはり全体のバランスは似ている。


2014年10月29日水曜日

日本画のような鳶の飛翔。The flight of the black kite such as the Japanese painting.

 きわめて普通に観られるトビだが、撮影するとなると上空でカラスと争っている時や、輪を描いて上空を旋回している時の姿が多い。8年前まで30年間湘南の葉山やハワイのマウイ島でウインドサーフィンを楽しんでいたのだが、風が吹いているか否かをこのトビの飛ぶ姿で遠くから判断したものだ。風が無ければサーマルに乗って相当上空で旋回するし、風が強ければ海岸線ギリギリまで降りて飛んでいる。

 内陸の川沿いでは朝夕の採餌タイムを狙うと、急降下から水面に浮かんできた魚を見事にキャッチする姿を撮影できる。背景の水面が夕方の黄金色の中に丁度降りてきたトビが日本画の金屏風の絵の様に撮れた画像が在った。伊藤若冲や巨匠東山魁夷にでも見せたいシーンだ。
まるで日本画のようなトビの急旋回・急降下

見事に中型の鮎らしき餌をキャッチ!

谷間から上空へ上がると夕日を浴びてハイコントラストに。

更に上空で全身に陽が当り、掴んだ獲物を見せびらかすように真上に飛来。




2014年10月28日火曜日

カワウの群れ! A large flock of great cormorants

 全国でカワウの漁業被害や営巣による汚染・植物破壊が問題に成り始めて随分経つ。人吉でヤマセミの観察を始めて足掛け5年になるが、毎年このカワウの群れに遭遇する。決まって早朝下流から人吉盆地に入ってきて大群で遡上する。

 観察をしていると、朝上流へ向かう時は一固まりになって団子状態で飛んでいくが、夕方川下に戻る際は雁の群れのようにVの字隊列を組んで、幾つものグループに分かれて飛んでいく。朝と夕方で何故こう違うのかは定かではない。腹いっぱい餌を食べて重たくて動きが取れにくいので、夕方帰る際には防衛の意味で隊列を組むのか?野鳥には不思議な生態が一杯ある。

 最近カワウが増えて漁業被害が増大しているが、専門家ではないのでこの傾向と対策に関してはプロの判断評価を待ちたい。単純に餌になる魚の量との関係ばかりではないと思うが・・・。

早朝のカワウの群れ、団子状態で高度20m~40mで川の上流に向かって移動していく。



朝、人吉市中心部を行くカワウの群れ。

夕方、川下に向かう際は朝よりはるかに高い高度7~80mをこのようなV字編隊で帰っていく。

行きと帰りで飛び方が違うようだ。





2014年10月27日月曜日

久しぶりにハヤブサの飛翔! This is the flight of the falcon after a long absence!

 ハヤブサは都会においては、なかなかそう簡単に出遭える野鳥ではない・・・と言うより、気が付きにくい存在と言ったほうが早い。よくテレビで高層のマンションのベランダなどで繁殖・巣立ちする姿がドキュメンタリーとして報道されているが、野鳥に詳しい、よく観察している方の情報で初めて気が付く事が多いようだ。

 大自然の中では、絶壁・岩場に営巣し、周りの環境が整った所での繁殖になるようだがその場所を探し出すのは容易な事ではない。今日の久しぶりの画像はヤマセミを観察していて突然目の前の崖・絶壁からいきなり飛び出てきたハヤブサの画像。逆光ながら背景の崖が迫っている面白い絵になった。



しかし、さすがに猛禽類、太い足をしている。




2014年10月26日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #79.」 配属が決まって、VAN宣伝部・販売促進課に初出勤の日。

 1973年度ヴァン・ヂャケット新入社員研修合宿も最後になって、それぞれが何処に配属になるのか発表される時が近づいた。予め新入社員全員は自己申告で希望する部署を第2希望まで合宿中に申告していた。自分としては宣伝部を希望し、第2希望は書かないで置いた。それぐらいの心意気で無いと、本気ではないと思われるのが嫌だったのだろうと思う。

 新人研修最後の重要セレモニー・期待渦巻く配属発表前の土壇場、大広間での夕食の時間になって人事課から質問が来た。実は宣伝部には宣伝部宣伝課と宣伝部販売促進課というのが在るが、どちらが希望なのか?という問いだった。そりゃー宣伝部宣伝課が目指すセクションだろうとは思ったが、聞き慣れない「販売促進課?」とは一体何だ?何をする所なのかを訊いてみた。

 販売促進課とはVANのファンにとってはシンボル的な、あのVANのロゴの入った紙袋を作ったり、ステッカーやノベルティ・プレミアムを創り出したり、店頭でのキャンペーンを行う部署だとの事。 あるいは新しいSHOPを提案して造ったり、デパートのメンズコーナーを造ったりするのが主な仕事だと言う。
現在もまだ保有している通常ノベルティと呼ばれていたモノの一部。通常ノベルティとは通年で各ショップへ有償で配布していた定番の宣伝物。詳細はVAN公式ポータルサイト=VAN SITEを参照されたい。         VAN SITE= http://vansite.net/vanpremium1.htm 

大切に保管してきたVANの紙袋。一世を風靡したみゆき族の必須アイテムだった。

 えーっ?そういう事をする部署が宣伝部だと思っていたのだが違うの? では一体宣伝課とは何をするところなのだ?と訊いてみると、雑誌メンズクラブに自社製品を貸し出したり、モデルに着せるコーディネートをしたりするのが主な仕事だと言う。ほとんど実際にオンエアーを観たことは無かったがテレビのコマーシャル、いわゆるCMだとかポスターだとかの制作もすると言う。さあ、困った。どちらも魅力的な仕事内容だし、VANらしさ、VANのイメージ造りに直結する領域なのだから、いずれも捨て難い部署で迷ってしまった。
 初期のメンズクラブ、正統派のトラディショナリストとして故三笠宮寛仁親王殿下も掲載されている、後に殿下に大変お世話になった自分にとって大変貴重な記念号。この頃は毎号VANのロゴだけの裏表紙だった。

 此処で我ながら未だに感心しているのだが、とっさに「では、それぞれの部署の年間予算は幾らでしょうか?」と訊いたのだった。それを聞いた時の人事・三間さんのニヤリとした顔は今でも忘れない。驚いた事に販売促進課の予算は宣伝課の予算の5倍ほども在ったのだ、桁も違っていた。理由は特に店舗デザイン・施工・デパートコーナー改装・拡張、内見会実施、店頭キャンペーン、販促物ノベルティ・プレミアムのデザイン・製作など多岐に渡る・・という事だった。もうこれで心は決まった。「迷わず販売促進課を希望します!」
当時の日本橋高島屋のVANコーナー。典型的なアイビー・トラッドコーナーだった。

  最終的に部署が発表されたのは百名以上がごった返すワイワイ状態の会場だった。営業関係から順次発表され、宣伝部販促課や宣伝課は最後のほうだった。先に横国同窓の藤代は人事、近藤はIDに配属が決まった。宣伝部の宣伝課に配属されたのは長髪で真っ黒な顔をした武蔵大学から来た内坂と名乗る人物だった。いかにも人とのコミュニケーションが第一の営業、あるいは人事・経理といったお堅い部署向きの人種でない事はその風体を見て一目で判った。その代わり何処となく普通の人種にはない「独特の何か」が在るような雰囲気をかもし出していた。この配属発表を終えて、すべての研修が終わり、最後に辞令が人事部長の滝川さんから各人に渡されその晩は仲間同士でのヨモヤマ話でなかなか寝付けなかった。翌日は東海道線に乗って各自バラバラに東京に戻った。
まずは世の習いで見習い採用からだった。これは硬い会社もそうでない会社も一緒だった。

 
 それから数日して、初めて販売促進部に出社する当日も青山近辺は快晴だった。青山三丁目の角に立つ白い本館ビルの3階の販売促進部へ早めに行くと部屋で少し待たされた。長方形の角が斜めに切り取られたような変形の部屋の一番青山通り側、つまり東側のコーナーに大きな机が在り、デスクの上に木の塊で出来た名前ブロックが置いてあった。真鍮だか金属のエッチングで出来たその名前板には、KIM QWARBEYと彫られてあった。
国道246・青山通りと外苑西通りの交差点北青山3丁目がVAN本社ビルだった。

 さすが、今をときめくヴァン・ヂャケット、販売促進課の親玉は外国人なのだ!と思った。と、同時にいきなり英語で話しかけられたらどうしようと、頭の中ですぐにQ&Aではないが、想定挨拶のシミュレーションを始めていた。暫くすると、オールバックに近い髪の毛の目付きの鋭い小柄の人が入って来た。部屋の皆が「ヘッドおはようございます!」と挨拶をしたので、てっきりこの人がKIMさんだと思った。しかし小柄ながら大股で部屋を横切っていく彼は、KIM QWARBEYと彫られた名盤の前をズンズン通り過ぎて、青山通りから左に曲がり国立競技場のほうへいく道沿いの窓を背にしたデスクにどっかりと座った。暫くこちらの様子には目もくれず、10分くらいデスク上の書類に目を通した後、すっと立ってこちらへ近づき手を差し伸べて「君が新庄君?課長の若林です」と握手した。
 思わず緊張して力いっぱい握り返したら「ウソだろう?握力試験じゃないんだから、参ったなー」と言われてしまった。背後で販売促進課の座っている課員の皆が肩をすくめる様が一発で判った。

 「本部長のところに挨拶に行こう!」と連れ立って部屋を出て、このとき同じ階だったのか、はたまた6階に在ったのか記憶があいまいなのだが宣伝取締役・本部長室に赴いた。部屋は凄く狭かった。宣伝課からは例の真っ黒な顔をしていた内坂庸夫がタータンチェックのブラックウォッチを穿いて入ってきた。本部長は鈴木玲三郎という、陽に焼けたまるでモデルのような端正な顔立ちの人で、その言葉遣い・イントネーションですぐに関西出身だと判った。ネイビーのサイドベンツの6つ釦Wジャケットを着て、クレリック・シャツに比較的幅広のネクタイを着用。共生地のポケットチーフをするなど相当な着こなしをされていた。IVY・トラディショナルというより、どちらかと言うとコンチネンタルっぽいスタイルだったような気もした。非常に難しいとは思ったが、自分もいつか同じレベルの着こなしをしてみたいと思った。とにかくカッコよかった。

当時を思い出した限りのイメージで描いてみた入社日の本社宣伝部のレイアウト。
 
雁首をそろえた新入社員二人に本部長は決して甘い言葉は掛けてくれなかったが、外から見る宣伝販促と実際は驚くほど違うから、頑張って早く一人前の戦力になるようにと言われた。隣に立っている内坂に対しては「本当は別の奴が宣伝課に決まっていたのだが、生意気な事を言うのでお前が何処まで出来るか試しに入れたのだからな・・。」と、それまでの間に相当な色々紆余曲折が在るような口ぶりだったので、少なくともお互い今日初めて出遭ったのではない事が察せられた。こちらはまったく初めてなので、販促課にしろ宣伝課にしろ、宣伝部に配属されるという事の大変さの一部を垣間見たような気がした。
 

 本部長挨拶が終わって、販促課の部屋に戻ったら例のKIMさんの席に立派なヒゲを生やした割に長髪っぽい人が座っていた。若林部長の席に戻るとそのKIM QWARBEYさんが立ち上がって寄ってきたが、何と天井に頭が着くのでは?と思うほど背が高い人だった。おまけに踵の高いウエスタンブーツを履いているので、傍まで来るとまさに真上を見上げるような大男だった。で、「おー君が新庄君か、いろいろ噂は聞いているよ。」といきなり言われてしまった。自己紹介をしたら「僕は軽部、か・る・べ・・・と言います、君の直接上司だからよろしくね。」 これが自分のその後の人生に、非常に大きな影響を与えた人物との出会いの瞬間だった。

2014年10月25日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #78.」 VAN入社までのプロセスは勿論すべて初めての経験だった.

 まさかのその日のうちの採用内定通知電報に驚かされ、あわてて本当か?と思うまもなく翌日電話が掛かって来た青山ヴァン・ヂャケットの人事課。大学受験に成功した時より、はるかに嬉しかったのを記憶している。とにかく事が進むのがスピーディだった。余計な事を考えたり、別の選択肢を考える余裕を与えない人事担当者からのアプローチの速さだった。これが石津謙介社長の指示なのか、人事担当の普通の業務スタイルだったのかは勿論判らないが、のんびりとした学生にとっては大変刺激的な事だった。

 改めて入社筆記試験を受けて頂く・・という事で、本来の筆記試験を受けたのだが、それが表参道の青山会館で大人数で受けたのか、はたまた再度ヴァン・ヂャケット本館で他の内定者10名程度と一緒に受けたのか、記憶が定かではないのは何故だろう?ただ、いくつかの選択肢があったと思われる設問の一つに、石津社長との面談時に話に出た「白という色について」というテーマがあったので驚いたのを覚えている。何故、このあたりの記憶が定かではないのか?それは既に本人がヴァン・ヂャケット以外への就職を、これっぽっちも考えていなかったからだろうと思う。
1972年当時のヴァン ヂャケット会社案内

  この入社試験を無事に終了して、いよいよ新入社員・全員による入社セレモニーだの泊りがけの研修合宿があった。残念ながら入社式の場所や内容は覚えていない。もともとセレモニーが大嫌いなのだ。研修合宿は割に海に近い近代的な施設だったと思う。部屋割りも覚えていなければ、食事の内容、風景などの記憶も無い。たぶんうわの空だったのだろうすべてが。そんな中で大広間に全員が集まり数名でグループを作らされ、何か共同で新しいビジネスの提案を行えと言う課題・発表の研修があった。たぶんその頃の日本の企業で普通に行われていた新入社員研修の定番カリキュラムの一つだったのだろう。
入社当時の研修合宿なのか定かではないが、こういう感じの雰囲気だった。

  グループはなんとなく新入社員通し番号で近かった者達で作られた。意図的ではなかったが結果として席が近かった国立大学出身者で固まったようだった。横浜国大からは後に人事部に配属された藤代幸至、九州大学から来た大路などが居たと思う。同じ大学の藤代は別としても、何故大路を覚えているかと言うと、日本人離れしたそのハーフのような容貌が、あの「アローン・アゲイン」の大ヒットで有名になったギルバート・オサリバンに非常に良く似ていたから。

 そこで、どういうテーマでまとめようか、ブレーンストーミングが始まった。当時の日本においてはメディアの注目を集め続けていた天下のヴァン・ヂャケットだもの、其処の関係者を感心させるには生半可な提案では「フン!お前らこんな程度か?」といわれる事必定・・・。集まった数名は、なんとかVANの人事課をはじめ関係者達をうならせてみたいと思っていた。

 話は少しさかのぼって、あの素早い電報という、超アナログ的伝達方法で内定通知を送ってよこしたヴァン・ヂャケットの事を色々調べてみた。ちなみに我が家にはそれ以降「電報」と言うものは今に至るまで一度も来た事が無い、あれが我が家にとって最後の電報だった。

入る事が決まったとなれば、自分が進む会社の事をきちんと詳しく知っておきたいと思ったのだろう、しかし普通は会社を受ける前にやる事だったろうか?帝国探偵社に居る先輩、会社四季報、これも知り合いが居た矢野経済研究所。ありとあらゆるルートで無償の調査データを調べた。勿論石津謙介社長に関する文献・記事なども調べてみた。何とあの国会図書館へ行ったのもこの事が理由で、生まれて最初だった。三角形で複雑な構造の日比谷図書館にも行った。

しかし驚いた事に、いくら調べてもなかなか企業としてのデータが、きちんと出てこなかった。オンワード樫山やレナウン、三陽商会、ワールドなどはあったがヴァン・ヂャケットと言う名に関するデータはあまり詳しいのが出ていなかった。一方で石津謙介というカテゴリーでは出展文献が雑誌中心に相当数あり、その考え方、提唱している事などを勉強するのはさほど難しい事ではなかった。
当時のVAN社内の様子 会社案内より

で、二日ほど通って調査して思ったのは、「石津謙介社長は前代未聞のユニークさを尊ぶ演出家」という事だった。その背景には常に受け手を意識し、「目論んだ効果を上げるには、どのような方法を採り、いつどのように展開すればよいか・・。」を心得た非常に計算高い演出家だと理解した。いわゆるファッション専門用語にもなったT・P・Oという服装に関する「お約束事=いつ、何処で、どういう状況かを考えて着る物を選ぶ・・」に通ずる事を根本のコンセプトに持っていたのだと思った。
1972年当時のヴァン ヂャケットの主要ブランド 

これらの事前知識を身に付けて研修合宿に臨んでいたので、テーマを絞り込む段階で皆の意見が出揃ったところで初めて自分の暖めていた内容を提案してみた・・・と言いつつも、あくまでその場で頭に浮かんだいい加減なデッチ上げだったのだが・・・。その提案の中味は、何か新しいモノを造って売り出す、何かを仕入れて販売する・・と言う企業っぽいモノではなく、まったく新しい都市型生活者のための「生き方提案」だった。

 自分は東京で生まれて、小学校1年生の1学期だけ東京の小学校に通い、1年生の2学期から北九州の小倉市(今の北九州市)の学校に転校した事はこのブログでも初期の頃に書いた。それ以来4ヶ所の小学校を転々としサーカスの子供のような状況ながら、田舎でしか得られない子供時代の色々な経験をつんで育った。コンクリートの校庭や横丁の路地で育った都会の子供達には無い大自然の教えを身に着けていた。

 そういった背景の中で大学の教育学部の教育実習の時に、中学校の子供達を教えながら、自分の子供にはこういう教育だけでは駄目だと思った事を思い出しながら、考えた新しい将来の生活スタイルの一つがこのアイディアだった。「子供を育てる家は山と川が傍にある田舎に持ち、金曜の夜から月曜の朝までは其処で過ごし、ウイークデイ、月曜の夜から木曜の夜までは会社に近い都心のワンルームマンションで過ごす・・・。」これが週末3晩の濃縮家庭生活の提案だった。

 月曜から木曜までは都心で仕事に専念し、週末3日間は田舎で家庭と子供に徹する・・。」われながら理想のバランスの取れた生き様だと思った。新入社員の同じグループの皆も口々に「なるほどそれは新しいし面白い!」と賛成してくれた。ちょうど世の中的にも愛知県のライオンズホテル名古屋がシングルルームをマンションとして販売を始めた頃で、メディアの間でもワンルームマンションに話題が集まりタイミングもよかった。

 お父さんは仕事に専念し、どんなに残業があろうが家のことを気にせず、ウイークデイはトコトン働いてお金を稼ぐ、自分自身もどんどん仕事をマスターし、人脈を広げる。無駄な満員電車の通勤往復はしないので、それに要する往復3時間はストレッチなどスポーツジムで体を鍛える・・・。もう、絵に描いたような理想の生活パターンだと思った。

 週末3日間に私生活を濃縮する、コンク(濃縮)ジュースのような考え方だったので「スリー・コンク・ライフスタイル」と銘打って提案をした。背の高いハンサムな大路がギルバート・オサリバンに似ていたので、企業名を「ギルバート商会」と名付け社長を大路に決めた。

 発表は皆でパートを決めて行い、会場内でもそれなりの高い評価を得たようだった。別にグループ発表に優劣の表彰は無かったと思うが、VANの関係者や他の新入社員に対して、充分印象付ける事は出来たように思う。
 その後研修合宿の打ち上げで最後に人事に指名された数名が、壇上に並び自己紹介をしたような気がする。その中で4大卒の女性の一人が「デートのお誘いなど個人的なご質問に関しては、後で個別に対応させていただきます・・・」と発言し、会場からピュ-ピュー口笛が鳴ったのを記憶している。数年後、本当にその女性にお誘いをして写真のモデルになってもらった事があった。

VAN AG(小物)のジーンズ生地の傘の撮影 1975年頃 モデルは同期入社の女性

 その後随分経って、我が家でこの「スリー・コンク・ライフスタイル」の話を食卓でした事があった。どう思うかカミさんに聞いたら「有り得ない!」の鋭い一言で終わりだった。