モノクロ映画「ヘッドライト」で器用にバケット(=フランスパン)の堅い所(皮?)を切り取るジャン・ギャバンを覚えている団塊世代は多いのではないだろうか?初めて見たフランスパンの食べ方でショックだった。
ユトリロやシスレー、ピサロに限らずパリの街や郊外を描いた画家は多い。あのモネだって水連ばかり描いていたわけではなく、サン・ラザール駅など街並みも描いている。
パリと言えば昭和の時代から、日本人に有名なモンマルトルの丘に建つサクレクール寺院もユトリロなどが好んで描いた。彼などはいわば巴里観光局御用達のPR画家と言って良いのではないだろうか。
そういった昭和時代に日本人の頭の中に定着した巴里の風景・佇まいだが、過去20回以上訪れた時代の変化が最近相当速くなっている気がする。
自分の資料を基に思い起こせば、
最初は1973年、英国短期留学の帰り3泊した巴里。その後1982年(パリ・ボートショウ)、1982年~83年に2回(プジョー自転車の仕事)、1985~86年×2回(ファッション関連)、1989年(ドイツISPO)、1990(ドイツISPO)、1994年(リレハンメル・オリンピック)、1995年、1996年、1997年(FIS国際スキー連盟会議)、1996年リエンツ(オーストリア)第1回FISスノボ世界選手権大会、1999年×2回(ドイツ・ベブリンゲン)室内自転車世界選手権大会、
21世紀になって2002年(英国ミーティング時)、2005年(エデンプロジェクト)2010年ファンボロー国際航空宇宙展、2011年パリ、ル・ブールジェ国際航空宇宙展の、なんと計20回以上も訪れているのだ。
このブログを投稿するまで、これほど筆者自身パリを訪れているとは思いもよらなかった。驚いた!
もちろん仕事の合間にエッフェル塔や凱旋門も登ったが、しげしげとパリの街を眺めたことはなかった。いつも昭和時代に脳裏に刷り込まれていたモンマルトルの丘のサクレクール寺院ばかりが目に入っていたように思う。
初期の1973年頃は英語などほとんど喋らないのがフランス人だった。それが二度目の1982年頃、パリの街でフランス人と逢うと英語で普通に話しているのに気が付き相当驚いたものだ。
そんなパリの街だが2011年と今回、コンデジで撮影した街は昭和時代、1980年代までのそれとは相当変わっていた。いわば、ジャン・ギャバンやカトリーヌ・ドヌーブ、あるいはシルビィ・バルタンの巴里が、リュック・ベッソンやジャン・レノ、レア・セドゥ、マリアン・コティアールのパリになった感じだろうか?
街並みも、日本の女性が大好きなブランド・ショップは相変わらずだが・・。高い所からモンマルトルの丘を観て後ろを振り返ってみれば、世界のビジネスの拠点として摩天楼・高層ビル群が出来ている事に気が付いた。