2016年2月28日日曜日

象の花子に逢いに行って大ショック! I went to meet Hanako of an elephant and received a big shock !

 今日のブログは少し長い話になる。

一昨日、NHK総合で吉祥寺にある井の頭自然文化園にいる象の花子の放送が在った。三鷹市の西の端にある我が家からバスで一本、バスと電車2駅乗り継ぎでも行ける吉祥寺だから、思えば身近な場所だ。現に昨日は自宅まで5.5km歩いて戻った。九州での催事の提案コンペに知り合いの施工会社がプレゼン参加すると言うので吉祥寺まで打ち合わせに出かけた。その帰りに井の頭自然文化園に行ってみたのだ。

井の頭自然文化園正門

井の頭自然文化園パンフと入場券

 実はこの花子には昭和58年頃当時、東京生まれの筆者が父の転勤によって九州の小倉市(今の北九州市小倉北区)に住んでいた際、夏休みに上京し叔父に連れられて逢いに来ていたのだった。生まれて初めて観る象という動物のその大きな姿に驚いたのをその臭いとともに覚えている。真夏だったので象厩舎?の臭いが強烈だったのだろう。
したがって、実に58年ぶりの再会になる訳だ。お互い歳をとったなぁ、と言う感慨と共に良くぞ今まで69歳(推定)になるまでこんな狭いコンクリの中で見世物になりながら生きてきて辛かったろう?という思いも湧いて来た。それは同年輩の人たちが目頭を押さえながらその場を離れ帰って行く姿を多く見かけた現実からも判るような気がした。

野生のアジア象の平均寿命は約60歳程度だという、それに比べれば日本の動物園にいる象は全て62~69歳で長寿だ。しかし長生きすれば幸せと決め付けるのは人間のエゴで、大自然の中で生きてこそ本来の姿だから、今すぐ生まれた東南アジアのタイ国に送り返してやって、自然の中で余生を送らせるべきだ・・・という、特に米英など海外からの一部の声が高まっていると聞く。しかし、この象(花子)を日本に贈ったタイ国のメディアや関係者は「送り返されても日本人のような熱い飼育心や技術を持って居ないタイでは直ぐに死んでしまうだろう、花子は日本に居るからこそ長生きで来ているのだ。」という見解だという。

 このあたりはネット上に沢山投稿が出ているので検索してご覧頂くと良いと思う。しかし現実の象の花子がどういう待遇で生活しているか、どういう状態で子供たちや高齢者に癒しを与えているかの現実を見ないでネット上を飛び交う意見だけ聴いて一部の考えに組するのはおかしいと思う。

 しかし、実は今日のメインはこの象の花子ではないのだ、主役は同じ井の頭自然文化園にいる野鳥たちなのだ。花子の場所を離れて帰途につく時、割りに近くからキツツキ系それもアカゲラかアオゲラ級の大きめドラミングの音が聴こえて来た。「オー、今年は寒いのに既にドラミングか!」と園内の木々を見渡したのだが居ない。また聴こえてきたドラミングの音を頼りに近づいてみると、何とそれは檻の中にいるコゲラが自分用の木で出来た巣箱をつついているのだった。中が空洞の巣箱を叩いているので大きな音だったのだ。これを観て思わずその場にへたり込みそうになってしまった。花子に受けた感動とは別の色々な意味で大きなショックだった。

 いつも野川や隣のミッション系大学構内、下手すれば我が家の庭木に飛んできてジューィ、とジッパーを開ける様な声で鳴くあの身近なコゲラが金網の中で見世物になっているのだ。もう一羽メスと思われる一羽が留まり木でジーッとして動かない。隣のケージを見ると、これまたアオゲラが金網にへばりついて空を見上げている。さらにその隣には年中我が家に飛んできて庭に落ちた餌をついばんでいくヤマガラがジーッとしているではないか?このショックは大きかった。少なくとも浅草の浅草寺境内で歩行人の足の間を平気で抜けていくドバトのほうが自然に生きているような気がする。

 あの60年代後半に観た映画「猿の惑星」のラストで主役のチャールトン・ヘストンが女を後ろに乗せ、馬にまたがって海岸線を進んでいくと、傾いた自由の女神が砂に埋もれていて「何と!此処は地球だったんだ!」と愕然とするシーンのショックにどこか似ている。

 いつもレンズを通して野鳥の自然の生態を撮影していると、どこかで野鳥側の立場でモノを考え視てしまうようになったのだろうか。同時にたとえ子供たちに野鳥を見せる方法としてこれしか考え付かないのだろうかと関係者達の知恵の無さに呆れてしまった。井の頭公園といえば武蔵野の雑木林の東京でも大き目の公園だ。昨日もコゲラやヤマガラ、シジュウカラ、エナガなど飛び回っていた。東京という大都会でも野鳥は思いのほか多いのだ。珍鳥が飛来する上野の不忍池、オオタカが繁殖する明治神宮の御苑では手乗りスズメ、手乗りヤマガラが沢山居る程だ。北海道苫小牧の北大演習林や箱根芦ノ湖湖畔の恩賜公園あたりにも多数手乗りヤマガラが居るのと一緒だ。自然の中で野鳥に接することが出来る。

明治神宮の御苑で手乗りヤマガラ ごく普通に居る。

上野不忍池には手乗りスズメが沢山いる。江戸時代から続くというが良いのか悪いのか。ただ大都会の孤独な高齢者達が多数癒されているのは確かだ。視ていてそれだけは良く判る。

カモ類もユリカモメも寄ってきて鳥類動物園と化している。看板を見ると餌のやりすぎで太って飛べないカモも居ると言うが、それは換羽の為一時的に飛べないのと勘違いしているような気もする。

一方で八ヶ岳山麓ではホテルが冬の餌の少ない時期に限って庭に野鳥フィーダー容器を下げ、木の実・種やキツツキ用の脂身を入れ野鳥にサービスしている。ホテルの客たちは部屋の中からガラス越しに双眼鏡でこれらを観察できるようになっている。


八ヶ岳山麓のホテルの中庭。

 あるいは北海道根室の春国岱ネイチャーセンターですらオオアカゲラやその他の野鳥のフィーダーを設置しガラス越しに来場者に野鳥観察をしやすいような工夫をしている。これすらイカン!と言う頑固者も居ようが、そういう事を言う御仁に限って代案を持たない。クレームを付けるだけで自分の存在感をアピールするのみで問題解決にならない。

春国岱ネーチャーセンターの観察窓の下に設置されたフィーダーに来るオオアカゲラ。

 話を武蔵野の井の頭自然文化園に戻して考えよう。大きな体育館ほどの金網ケージを造り樹木や草地、藪地を造り、猛禽類以外のお互い共存できる小鳥系は全て同居してもらい人間は静かに通路なりよくある野鳥観察の覗き穴から見てもらうと言った方法が取れないのだろうか?ヤマガラやコゲラに立派な牢屋を用意し暗くして何処にいるのか判らないような展示をするよりはるかに良いと思うが・・・。勿論本来は大自然の中でこちらが出かけて観察するのが当たり前、出遭える頻度、出遭える時間等を学ぶのも自然観察・野鳥観察の大切な部分だろうと思う。お金を払えば其処に居る・・・て、江戸時代のろくろ首の見世物ではあるまいに。もう少し知恵を使うべきではないだろうか?すこし関係各所でヒヤリングしてみようと思う。