2014年4月9日水曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #30」 1963年の高校受験と卒業記念デート。

こういった大きなテレビを賑わした事件、カルチャーショックだらけの毎日、八代とはえらく違う環境にも直ぐとけ込み、友達も例によって沢山出来て高校受験に向かってとりあえず勉強もした。
繰り返すが奥沢中学校は東京においての進学校なので数学や英語と云った主要科目の中でもクラスの中でのトップとビリの差が付きやすい科目に関しては、試験をしてその科目の時だけ特別編成クラスで授業を行った。特に主要科目に関しては確実にクラス分けがなされた。

 八代から転校して来た時、概ね真ん中程度に入れれば良い方だと思っていたが、意外にも当初は上位の成績だった。転校して2年生の1学期最初の中間試験ではたしか学年で7番だったような気がする、その次が13番。

 これが奥中で20位以内に入った最後で、後は坂を転げ落ちるように順位が下がった。でもビリにまでは落ちないで進学校と云われた奥中でも「中の上30番」辺りには留まっていたようだ。
 高校受験時の内申書を一通余計にもらって後で中を視たら4と5ばかりで3は一つもなかったから自分で思っていたよりは上の層に近い所に居たのかもしれない。
 しかし受験という事で、きっと先生が水増ししたに違いない。

 そろそろ進学志望高校を決める3年の2学期に佐藤清と云うちょっと変わった担任に志望高校を新宿高校から一段下の青山・都立大のレベルに下げたら?と言われた。
 其れならそのクラスの学校のビリで居るより、更にもう1段下げた処のトップクラスで居たほうが余裕が在って良いのでは?と先生には反対されたが自主的にもう1段下げた。

 ガリ勉ばかりが集まるレベルの高い高校で大学受験しかやらないより、いろいろ遊べる高校の方が将来的に人間の幅が出来る、と尻を押してくれた我が父の目論見は有る面成功したと言って良いだろう。 

 一方で、十条製紙勤務中の実感だったのだろうか、昨今は国公立大学出身者より慶應義塾の学閥パワーが製造業の世界では幅を利かせて来ているので、慶應義塾も受けておけと言う。
 結局都立広尾高校と慶應義塾高校の2校を受験する事にした。受験日は都立の方が先で、その発表後に慶應の入試が在った様な気がする。

 都立の試験は2日間行われ、初日が主要5科目、2日目が専門4教科だったと思うが違うかもしれない。当日は雪が舞うとんでもなく寒い日だった。校庭側の席で試験を受けたのだが真冬の乾燥した校庭を雪が粉のように渦を巻きながら飛びかう様子を見ていた。
入試本番のイメージ Yahooフリー画像

 で、帰宅後新聞に出る正解と照らし合わせて自分の成績を割出し、合格ラインか否か中学校に報告に行くのだが、理科のカウントを視て真っ青になった。
 何を勘違いしたか一番自信のあった理科が70点有るか無いかのひどい状態だったのだ。しかし専門科目は全て満点、数学、英語、国語、社会もほぼ90点以上だった為、900点満点で840点前後だった。

 内申書は別としてこの時の有名校都立日比谷高校の最低点が810点だったそうだから、充分試験だけなら合格ラインには達していたと云う事だ。
 入学した広尾高校で関係者にその後クラス分けの方法を訊いたところ、広尾高校志望者の中ではかなり上限に近い得点で受かっていた事が判明した。
合格発表のイメージ Yahooフリー画像

 この発表を観に行った時の事はあまり良く覚えていない。多分その後の慶應義塾高校の入試の準備で忙しかったのだろう。
 都立の受験とは問題の質や癖がかなり違うので難しいと定評だったから、不安が一杯だった。
 東横線日吉駅からダラダラした坂を上って受験教室に入り試験を受けた。

 何と鉛筆ではなく万年筆で書かねばならない。ボールペンではなく万年筆必須だ。 国語だったか数学だったか表に書ききれず、しょうがないから、「裏へ続く」と書いて裏側に長々と解答を描いた覚えがある。インクで答案用紙の一部に穴が開いた事もあった。

 そうこうして意外に難しくなかった試験を終了したのだが、数日して慶應義塾から「寄付金のお知らせ」と云うのが来た。
 後で調べたらそれの金額「何口」申し込むと合格ライン上の人間たちの当落が決まるらしいと云う事だったようだ。

 幼稚園の園長をやっていた我が祖母が不審に思い同じ教育者として「どう云う事なのか?」と校長に電話して問いただしたらしい。

 其れが必須ではない事や合格後入学辞退したら不要である事も確認して結構多額な「口数」で返信したら発表の日に合格となっていた。

 しかしそう裕福でもない我が家でもあるし、合格はしたものの、何より慶応義塾高校は男女共学ではないという事が、色気づいた中学3年生にとっては人生の一大事だった。

 それが二者択一の一番重要な項目だったので、当然のように都立広尾高校に進学する事に決めた。
 山の手線の内側に在り何と通学路が盛り場渋谷を通り!なおかつ女学校に囲まれたバラ色の環境《東京女学館、実践女子大、聖心女子大など》の高校に行くのが良いか、神奈川の田舎の高校に行くのと、どちらがこの後の人生に役立つか?誰も私の決断を間違いだったとは思わないと思う。
広尾高校の周りは女学校が多かったが決して事前に調査して受験した訳ではない、念の為。

入学1年前の1963年の広尾高校空撮画像 Goo昔のマップより。

1977年の広尾高校界隈、北側の道路が拡張して渋谷橋を抜けて恵比寿駅前まで繋がっている。

 随分後になって大学受験の頃に我が両親は「あの時、都立高校を選んだ判断は実に親孝行だった、今でも感謝している」と云った事が有る。それなら慶應受験を勧めたのは一体何だったのだ?と訊くと「まさか受かるとは思わなかった」だそうだ。この答えを聞いたこの時、少し両親と距離が出来たと感じたのは否めない。

 進む高校が決まって後は卒業するだけになったので、前から付き合っているような、いないような関係ではあったが、隣のクラスの数学が得意で同じ生物部所属の女子と卒業記念デートをした。

 彼女の誕生日にはニールセダカのLPを奮発してプレゼントした。中学卒業の頃のデートなので、いわば荒井由美の「卒業写真」や「最後の春休み」の歌詞に出ている様な雰囲気(あくまでユーミンの歌詞は女性側の内容だが)の頃だ。

 日比谷の映画館でエルビス・プレスリー主演の「アカプルコの海」を観て明治神宮を手繋ぎで散歩した。食事は記憶にないが、たしか日比谷のパーラーで珈琲とプリンを食べたのを覚えている。
昔からプリンには目がない!

エルビス、何本目の映画だか知らないが、相手役は前年1962年初代ボンドガールを演じたウルスラ・アンドレス(当時はアーシュラ・アンドレスと表記)


しかし其れが何故か最初で最後のデートになった。理由は非常に単純明快、熱が冷めたのだ。
広尾高校に入った瞬間から高校の新世界が面白くてすっかり彼女の事を忘れてしまい、あっという間に連絡が疎遠になってしまった。

今と違って携帯電話は無いしメールも無い、しかし、かえってその方が問い合わせも来ないし、時間を置いていろいろ判断できて良かった。
招待状が来て用賀の方に有る昔は女子高だった彼女の都立高校の秋の文化祭に行った時が最期だったと思う。

あれほど魅力的に見えた彼女が普通の存在に見えてしまった気持ちの落差に自分で驚いたのも良く覚えている。どちらからともなく別れる事に成ったが、どうやってお互いがその結論を自覚したかの記憶は無い。まだまだ自分的には女の子に夢中になるより遥かに他の事に対する興味の方が強かった時代なのだろう。